今だに彼の心を読み取ってくれていないのだと彼は理解したのである。 彼は、何回かこの田北に、それを解るように云っているのであるが、生活環境のせいであろうかだめである。 幸にしてこの田北には子供がいない。もし子供がいたら、子供の気持など読み取ることができず、間違いなく不良化していたであろう。このような状態であるから、この負け犬である田北のもとには話に行く者も少なく、ごく限られた人間だけになっていた。
田北はひとがら人柄もよく真面目な人物である。 本人は好意のつもりでやっているのだが、結果的には相手の意欲を挫いたり、相手の心を傷付けてしまっているのであると彼は時間がたつにつれ思うようになった。 意欲を挫いたり、心を傷付けられるのであるから近づかない方がよいと彼は思っていたが、田北を信用して彼の本心を言わなかったことを彼はよかったと思った。それをしてしまったら、彼は本当に永久に傷付けられただろうと思ったりした。 その田北の昇進が遅れている理由は、自分は管理の専門家であると自負しているのであるが、面子を重ずるタイプで、自分の面子が漬れそうになると、相手かまわず、攻撃してしまうので、話はまとまらない。
彼は、久しく少年の日の老婆の皺がれた手に長く握られていたスターキングと、それを受け取ったときの暖かみを思い出すことが少なくなっていた。 あのことこそ彼の人生の幻の佳境であった。
 彼の母の人生はどうであったであろうかと思っていた。 彼の結論としては、辛酸であったのではないか。であるなら彼は母を佳境に導いてやらなくてはならないと思うのである。人生は佳境があれば辛酸もあろう、また佳境となろう。この繰返しであるように彼には思えてならなかった。 大きな辛酸の後には、きっと大きな佳境がやってくるのである。(第15章終わり) 第16章へ
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