それは、円形の筒状に石を積み重ね、その筒の内面に螺旋の石の階段が続いている。この石積の筒には、窓がどこにもない。従って、裸電球がそこかしこで灯されている。 この石積みの階段の壁のいたるところに、ところ狭しと落書きがされている。殆んどがマジックペンで書かれている。 どこでも落書きはされるのだなあと彼は思いながらその落書きの内容を見ると、種々様々の文字で書かれていた。まさに国際的な落書といえるなと彼は思った。
彼の目に映ったものは自分の名前を書いたものも多いが、「クラッシュ(崩れろ)」と英語で書いたものが特に多いように彼には思えた。これは、何を意味するのか、このような感情がここを訪れる英語を使う人々にあるのか、彼にはこのような感情は湧かなかった。 幸にして日本語の落書きは下から上までどこにもなかった。ここに来る日本人が少ないのかと彼は思った。
このドームの鐘撞き堂まで二百米の高さがあろうか、鐘撞き堂は広さ二十米四方の展望台になっている。この展望台となっている鐘撞き堂の一角に救急患者用のベッドが設けられてある。 このドームは東京タワーのようにエレベータなどなく、すべて石の階段である。そのため心臓発作を起す人もいるのでここに準備しているのだろう。まさにドイツ人的な発想だと思った。 またはボーイスカウトの「備えよ常に」の思想に由来するものであろうかと彼は考えをめぐらしていた。
この鐘撞き堂からはドームの周りの石の飾りの間からライン川の穏やかな流れが見える。そればかりか川岸に点在する古城と鉄橋と、これらをやさしく包むように緑がいつしか彼を絵画の世界に引っ張り込んでしまっていた。 しばらく彼はここに佇んでいた。様々の想いがこみ上げてくるのを感じていた。彼自身がここにいることが不思議でならなかった。人間の生涯とは全く予測できないことが起るものである。
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