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※バインダーにはさんでおいた介護のメモ書きや、新聞記事で見つけた介護記事、また、ただ今介護に奔走してらっしゃる鬼さんなどのメールなどを紹介しています。介護するほうも、介護されるほうも笑顔で向き合えるとよいですよね(渡辺京子)。
2006.9.27 お義父さんと小川芋銭(うせん)
秩父のお義母さんの介護ですが、いつ、何があっても、対処ができるように、と、9月になってから、泊りがけの介護を始めました。

泊りがけの介護はお義母さんにも喜んでもらえる上、朝と夜の全額自己負担(1時間で確か6000円)の介護費の削減にもなるので、一石二鳥ですしね(^=^)。

そこで、いつでも泊まれるようにと、秩父の家の大掃除を始めたところ、芸術家であるお義父さんの部屋にはあふれんばかりの書や掛け軸、絵画、壺などが氾濫しており、さぁ大変(^^;)。

掛け軸は掛け軸、絵画は絵画というように、分類後、中身を箱にしまったり、とどうにか大雑把な片付けが終了したところなんです。

その時、いつもお義父さんが自慢していた水墨画を発見(・_・)。背をまるめた旅人が雪景色の峠に足跡を残して旅をする、という水墨画なのですが、その背をまるめた後ろ姿がなんともひょうきんで暖かく、何度もお義父さんが自慢していたこともあり、鮮明に記憶に残ってました(^^)。

では、ちょっとその水墨画の作者、小川芋銭(うせん/本名:茂吉)について、ここで紹介したいと思います。

芋銭は慶応4年に赤坂で生誕。慶応4年と言っても、わからないので、ネットで調べてみると、1868年で、後に明治元年となる年だとか。

茂吉は11歳で卒業後、小間物店に丁稚奉公し、朝早くから夜遅くまで働かされ、その様子を見かねた親戚に引き取られます。

優しい叔母に「茂吉、今日からおばさん達、お前の世話をするよ。自分の家のつもりで、いくらでもわがままを言っていいからね」、と優しい言葉をかけられ、ひさしぶりに触れる肉親の暖かさに、ワッと泣き出す茂吉。その後、優しい叔母と叔父のもと、茂吉は大好きな絵画を勉強し、ひたすら4年間寝るのも惜しんで、絵画に打ち込んだそうです。

しかし、叔父叔母にいつまでも世話になっている訳にも行かず、小間物屋に戻った茂吉は、また過酷な労働の日々に戻ります。でも、絵を描くことを諦めきれず、こっそりと絵を書いていては、怒鳴られつつも、絵のことは忘れられなかったそうです。

そんな茂吉に突然の転機が訪れます。絵の先生が新聞社の仕事を紹介してくれたのです。記事と一緒に掲載されるスケッチ画の作者として、災害等の生生しいスケッチ画で頭角を現し、月給は少ないものの、茂吉は大好きな絵を描いていられる幸せな日々を過ごしました。

雅号の「芋銭(うせん)」は「世の中、金はなくてもよい。自分には芋を買うだけの銭さえあれば十分」という想いから付けられた雅号だそうです。

その後、横山大観の後押しもあり、院展にも出品するほどの画家になります。

こうやって、「芋銭」について、ネットで調べて、どうしてお義父さんがあれほどまでに芋銭を気に入っていたか、やっと理由がわかった気がしました。芋銭とお義父さんの絵に対する想いや境遇の共通点があったからなのでしょう。
嬉しそうに芋銭の作品を自慢していたお義父さんの姿が目に浮かびます(^^)。

●子供の頃から、絵が好きで好きでたまらなかったこと。
●生活のために、奉公へ出て、苦労したこと。
●どんなに過酷な状況下でも、絵に対する情熱を失わなかったこと。
●芋銭は画家として、お義父さんは書道家として、道を究めたこと。

お義父さんと芋銭との共通点を知り、またひとつお義父さんに近づいた気がします。
1枚の絵が、お義父さんへの距離を縮めただなんて、ちょっと素敵!、と一人悦に入っているわたしです(^−^)。

介護する側の人間も、介護される側の人たちから学ぶことはいっぱいあるんですよね(^^)。

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