ピコ通信/第171号
発行日2012年11月22日
発行化学物質問題市民研究会
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ピコ通信/第171号(発行日 2012年11月22日)
福島で行われつつある「エートス」の狙いが分かる
「エトス・プロジェクト」の実態/フェルネックスの証言 (上)
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 福島では、いま国際原子力ロビー(原子力推進連合体)によって「エートス」プロジェクトが進められつつあります。(エートスとは、「いつもの場所」を意味し、転じて習慣・特性などを意味する古代ギリシア語。)福島での実行団体である「福島のエートス」(ETHOS IN FUKUSIMA)は、会則の目的に「本会は、ベラルーシでチェルノブイリ事故以降行われたエートスプログラムを参考としながら、住民が主体となって地域に密着した生活と環境を回復させていく実用的放射線防護文化(以下エートス)の構築を目指す」とあります。
 一見すると、良いことを目指しているようにも取れますが、そこには、原発事故の被害を最大限小さく見せること、さらには無かったことにすること、移住はさせないこと等々、恐ろしい意図が隠されていることが、チェルノブイリ事故後に実施されたベラルーシの「エトス・プロジェクト」の実態から分かるのです。
プロジェクトをつぶさに見てきたミッシェル・フェルネックスさん(仏・バーゼル大学医学部名誉教授)が、 10年前に発表したプロジェクトの実態を糾弾する記事をフランス在住のジャーナリスト、コリン・コバヤシさんの最新の訳で2回にわたり紹介します。コリン・コバヤシさんからは本年11月20日現在の最新の訳文と、その掲載許可をいただいています。日本では「エートス」と呼ばれていますが、訳文中では「エトス」と表記されています。
(文責 化学物質問題市民研究会)


【クリラッド機関紙 『トレ・デュニオン』22号から】
原子力ロビーが犠牲者に襲いかかる時
「鍵となる嘘」
あるいは、いかにチェルノブイリに刻まれた記憶を消し去るのか

ミッシェル・フェルネックス(バーゼル大学医学部名誉教授) 2002年2月22日


 保健衛生の分野で、誤った結論を導き出す科学的作業をアングロ・サクソン系の著者は「キー・ライズ」という。つまり「鍵となる嘘」である。こうした研究は、タバコ産業ロビーによって研究資金をたっぷり与えられており、そのおかげで、当局、とりわけ世界保健機関のタバコ喫煙への闘いに対して、タバコ産業のロビーが数十年の間、抵抗することができたのである。
 2001年に経験した出来事は、もう一つのロビー、タバコ産業ロビーより相当強力で、チェルノブイリの痕跡を消し去ろうとする原子力ロビーのやり方を再考させずにはおかない。国あるいは保健衛生部局(米国ならFDA)の介入から原子力産業を陰で守る刊行物を出版するために、このロビーは、健康問題にストップをかけなければならないのだ。
 原子力ロビーは、とりわけ、専門家に言わせると避けることができないであろう来たる原子力事故に備えるために、ガイドラインを作ることを目指している。事故が起こった時に、まず優先してすることは、経費の節約である。これは、放射線の低線量被曝は有毒性がないとする教義が不可侵と考えていることを意味するのである。
 2001年以来のいくつかのベラルーシの事例は、この目的のためにロビーが行なおうとしていることを明らかにする。それは、NGOの形体を持った組織によって表現され、大学などの学際的研究グループの仲介(「エトス・プロジェクト」、「チェルノブイリの交差点」)を経て、現場で介入することになる。

事故が起こると、まず優先されるのは、経費削減である

 農学、社会学、技術、物理学などのエトス・プロジェクトにまとめられた教員や博士課程の学生たちは、汚染地域で働いた。ロビーが彼らに課した役割は、そしてそれについて彼らは恐らく無意識だったことは、すでにそこで機能していた住民のための放射線防護の機構の排除である。実際、この国の放射能汚染の重大性について、また住民の健康に対する影響について注意を喚起する政策は、原子力ロビーにとって、許容できないことなのだ。

チェルノブイリの真実をねじ曲げること、あるいは、故意の言い落としによる嘘

 エトス・プロジェクトで行なわれた研究は、ストリン地区のいくつかの村々に限定される。原子力事故と長期に放射性核種で汚染された地方の管理について、得られたデータで、本を書くことは可能だろう。この本は、欧州連合から資金を得て出版されるほど、特権的なものとなるだろう。
このような出版物を読んで、読者は、子供たちの健康悪化や若死の増加に気づかないわけにはいかないだろう。それは、この地区が最も多量の放射性降下物に見舞われた地方と同じほどの人口の激減を示すからだ。
 二つの行事で、エトス・クラブのメンバーを知ることになった。一つはパリ第七大学が催したもので、2001年4月26日(チェルノブイリ記念日)に、もう一つは、同年、11月15〜16日、ベラルーシ南西部のストリンで、民間団体CEPNによって、雇用された大学人たちが、政府と行政責任者たち、また国際組織や国、とりわけ欧州連合の代表者たちに対して行って来た作業の成果を発表した。
 パリ第七大学が4月26日、プレス資料でCEPNを紹介した。この組織の正式名は、「原子力分野における防護評価の研究センター」という名で、1901年の法律に基づいた非政府組織NGOであり、NPO(非営利市民団体=アソシアシオン)である。フランス電力公社(EDF)、原子力庁(CEA)、それにラ・アーグの再処理工場を管理しているコジェマ社(Cogema社。訳注:現在は発展再編された原子力産業複合企業体アレバAreva社となっている)によって、創設された民間団体だ。原子力ロビーのこの組織は、チェルノブイリによって汚染された地域に派遣されているいくつかの研究グループ、とりわけエトスのグループの連携を調整している。
 「エトス」の創始者の一人は、現場へのチームの介入を示唆しつつ、学際的なチームが介入した地域での継続的調査がないことを悔いていた。これらのプログラムの医学的構成要素が弱いという説明しがたい欠点を嘆いてみせた。

放射線防護チームの作業に終止符を打つのを「援助する」こと

 2001年に完了することが予定されていた計画で、ストリン地区に介入しながら、「エトス」の責任者たちは、ベラルーシのチェルノブイリ問題省に、ワシーリ・B・ネステレンコ教授に率いられたベルラド放射線防護独立研究所に取って代わるよう依頼したのである。「エトス」の責任者たちは、この研究所の測定データを、数年前から使っていたのだ。
2 001年1月25日にヴァレリー・シュヴチュークが署名したチェルノブイリ問題省のベルラド研究所所長宛の手紙は、ストリン地区の一連の村々の管理は、「エトス2」のために、彼らの依頼によってベルラド研究所から取り上げるという通告であった。
 ベルラド研究所が食糧や牛乳の放射能を測定するために養成した人材を使った「エトス」は、時折、仕事が倍になってもこれらの技術者達に、残業手当を支払うべきだとは考えなかった。「エトス」が、地域放射線防護センター(編集注:後述)に測定データを記録するために導入したコンピュータは、今、国の行政に移管されている。こうして、ネステレンコが設置した組織は、次第に、消滅しつつある。発展のための技術援助の正反対である。
 事実、数年前から、国と民間財団の援助を受けていたこれらの放射線防護の小さな組織(地域放射線防護センター)のおかげで、ベルラド研究所は、住民に食糧と牛乳の放射能測定を無料で提供していたのだ。ベルラドが養成したこの仕事をしていた職員達は、放射線防護について、住民家族にアドバイスを与えていたのである。
 その他、ホール・ボディーカウンターを設置してあるベルラドの移動式研究所は、年に二回、人工放射性核種、とりわけ学校の子どもに蓄積していたセシウムCs137の量を計っていた。子どもたちの中で最も汚染のひどい子どもたちに対しては、間欠的に施されるペクチン剤の療養を行なっていた。ペクチン剤はりんごをベースにした補完剤で、臓器にあるセシウムの排除を促進させる。
 1991年に創設されて以来、政府からの財政援助を受け、ベルラド研究所に管理された370の地域放射線防護センター(CLCR)がベラルーシの最も汚染のひどい町や村に設置され、関係官庁は、ネステレンコの公表する測定結果を定期的に受け取っていた。1996年からは、これらの報告は、季刊の報告書となった。
 しかし、同じ年から、CEPNの様々な刊行物の共同著者、チェルノブイリの政府委員会の副会長I.V. ロルヴィッチは、CLCRの数を現在ある83に減らし、そのうち、56だけが政府の財政支援を受けるようにしてしまった。他の27はドイツのNGOの支援を受けている。ベルラドの測定報告21号は現在、印刷中だ。これが最後になるだろう。というのもアメリカの財団からの6,000ドルが刊行物を出すことを可能にしてきたのだが、それが打ち切られたのだ。

開発援助の逆

 貧しい国を援助しようとするとき、基本原則の一つは、一時的であっても、現存する構造を他のものにおき替えることなしに、むしろ、それを強化することである。こうして、外国チームが帰った後、現場には、よく教育され、設備も得て意欲のある人材が、必要な継続作業をすることになる。
 パリ第七大学で、そしてその後の電話で、「エトス」の責任者たちは、彼らがやろうとしたことは、ネステレンコのチームを排除することではなかったと、私に表明した。そして、将来、ベルラド研究所は、すでに立案されていた未来のヨーロッパ・プロジェクト「エトス3」に包括されると言うのである。ネステレンコは、「エトス2」のプログラムの成果が発表されるストリンの国際セミナーに招待されるであろう、と言うのだ。
 この時期、ネステレンコを「エトス3」プロジェクトに組み入れるという「エトス」の責任者たちの約束は誠実なものに見えた。フランスの大学人にしてみれば、ベラルーシのNGOを、2002年1月26日に企画書提出予定の彼らのプロジェクトの中に組み込むことは、欧州連合から大きな予算を獲得するためにも、有効だと思えたのだ。このプロジェクトのなかに、ベルラドが場を獲得するとネステレンコへ公式に通告されることになっていた。口頭による励ましを受けて、彼は、放射性降下物によって非常に汚染された村々の子どもたちを支援するための具体的なプロジェクトを提出した。
 しかしながら、秋になると、2001年11月にストリンで予定されているセミナーの予告プログラムには、約束されていたようには、ネステレンコの名前は掲載されなかった。
 私が介入した後、この「忘却」は修正された。しかし、セミナーに続く11月20日にミンスクで行われた会合にも、またそれに続く2002年3月6日の会合にも彼は招待されなかった。

ベルラド研究所を現場から追い出すこと?

 2002年1月13日、つまり2001年に告示された欧州プロジェクトの計画書の申請日(2002年1月26日)の数日前、ネステレンコはエトスから連絡を受け、今から5日以内、1月18日までに返事をするように要請された。それは、ベルラドの移動式放射線測定チームの欧州プロジェクトへの編入ではまったくなく、放射能防護のマニュアルのひとつの章の執筆参加への要請だった。課題だったベラルーシ南部の子どもたちの放射線防護への援助計画には一言もなく、エトスへネステレンコ教授がこの問題について提出した実施要領にも触れられていなかった。失望したにもかかわらず、ネステレンコは、この依頼について、期限内に前向きな返事をしたのである。
 2002年1月25日、エトスのために仕事をしている「ムタディス・コンサルタント」事務所は、今後の計画についてヴァンサン・ヴァレールの署名付き手紙を送付し、4月11日にパリで、宛先人達を「エトス」クラブの会合へ召集した。ネステレンコ教授は、ここでもまたもや、2001年ストリンのセミナーに言及しているこの手紙の宛先人とはならなかった。私が驚いたので、ムタディス事務所は私に、ネステレンコはパリの4月11日の会合に招待されるだろうと、返答して来た。そして、確かに、後になって招待状は送られたのだった。

(次号につづく)
※「真実はどこに?―WHOとIAEA 放射能汚染を巡って」の視聴をお薦めします。
 http://www.youtube.com/watch?v=oryOrsOy6LI 2004年 約51分
 WHOとIAEA(国際原子力機関)が開催した、2001年キエフ国際会議の模様を捉えた、とても貴重なドキュメンタリー映画です。フェルネックスさん、ネステレンコさん、その他、チェルノブイリの子どもたちを救うために長年闘ってきた方々がIAEA, WHO と激論する会議の様子や、放射線被害に苦しむ子どもたちの話を追っています。(DVDもあります。問い合わせ先:echoechanges@wanadoo.fr)



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