ピコ通信/第150号
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エピジェネティクス毒性学入門−下
"Tox21"研究所 澁谷 徹 5 Skinner論文の衝撃 2005年に、Skinner ら(ワシントン州立大学)はScience 誌に衝撃的な論文を発表しました(5)。彼らは発生14日齢のラットの雄胎児に、経胎盤的に抗アンドロゲン作用を有する農薬、Vinclozolin (ビンクロゾリン;VIN) を投与し、以後4世代にわたって、無処理雌ラットとの交配によって得られた雄ラットの生殖能力を調べました。VINを処理された生殖細胞は、性分化をはじめる時期の始原生殖細胞 (PGC) 期にあたります。PGCとは、胎児期に発生中に出現し、出生後、雄・雌において、すべての生殖細胞の基幹細胞となる細胞群です。 その結果、4世代にわたって、雄ラットの生殖能の低下が認められ、その原因はVINの経胎盤投与による、各世代における雄生殖細胞の精子形成関連遺伝子のプロモーター領域のメチル化という「環境エピゲノム異常」であることを証明しました。つまり、彼らの実験では、ある世代におけるVINによって誘発された生殖細胞のメチル化が、4世代にわたって伝達されたことになります。彼らはまた、ラットにおける種々の疾患の発生頻度を、ヒトの発生頻度と比較し、ヒトの種々の疾患の起因が胎生期にあり、それらが経世代的に伝達される可能性を示唆しました(6)。 しかし、Skinnerらの実験結果については、投与された化学物質の用量が通常の使用量に比べてはるかに高いこと、さらに用量群の数も少なく、ヒトに対する影響については、用量作用反応に立脚した考察などが必要であると考えられます。また、彼らの実験結果の再現性については、系統の異なったマウスやラットでは、これらの現象を確認できなかったとの反論もあります。最近、日本でもSkinnerらの実験条件を忠実に再現した追試が行われ、2世代まで調べましたが、VIN投与による生殖能に関しての影響はなかったとの報告もなされています。さらにSkinnerらが発表論文の一部を取り下げたこともあり、Skinnerらの研究結果については、その再現性について疑義が残されているようです。 しかし、Skinner論文の評価はどうであれ、さまざまな化学物質の「環境エピゲノム異常」による経世代影響については、ヒトの未来世代を考える上で非常に大きな問題と考えられます。人類は、これまでに長い世代にわたって、化学物質の合成や原子力エネルギーの開発によって、人工の化学物質あるいは放射性物質を使用し、それらの恩恵によってこの地球上での繁栄を謳歌してきました。Skinnerらの論文は、それらを無批判に使用することについて、非常に大きな警鐘となるものであることは間違いありません。 6 経世代影響 上に述べたように、化学物質の始原生殖細胞への経胎盤投与によって、世代を超えて生殖細胞に「環境エピゲノム異常」が伝達されたというSkinnerらの論文は、衝撃的なものでした。私もその中の一人でした。 私はこれまで、強力なエチル化剤であるN-Ethyl-N-nitrosourea (ENU) によって、マウスの始原生殖細胞(PGC)に高頻度に突然変異が誘発されることを研究してきました。そして、マウス特定座位試験 (SLT) やトランスジェニックマウス(注)であるMutaMouseを用いて、PGCにおける突然変異の誘発を世界で最初に報告しました (7)。それまでは、突然変異として固定されなかった化学物質や放射線によるDNA塩基の修飾は、次世代の生殖細胞形成期に完全に消去されるものと考えられていました。私はENUのPGCにおける突然変異の誘発は確認しましたが、その当時は「環境エピゲノム異常」についてまでは考えてはいませんでした。 私はまた、別のマウス系統を用いてENUによる雄PGC細胞における、遺伝子内組み換えに関する実験を行い、それらが突然変異と比較して格段に高い頻度で誘発されることを確認しました。私はENUについての総説を Mutation Research誌に書きましたが、ENUはDNAに塩基置換を効率よく誘発することのみが知られていました。しかし、ENUがクロマチンの再構成に影響を及ぼし、遺伝子内組み換えを誘発するという、いわゆる「環境エピゲノム異常」を誘発することまでは考えられませんでした。 それまで、経胎盤投与によって次世代の体細胞が何らかの影響を受けることは、生殖・発生毒性学では自明のことでした。上に述べた私のPGCの研究は、"Mouse Spot Test"という、胎児期処理による色素原細胞(melanoblasts) の体細胞突然変異の研究から始まりました。その実験で、生まれた雄マウスの生殖能がENUの用量に依存して低下することを偶然に発見しました。そして、Russell ら(オークリッジ国立研究所) による ENUによる精祖細胞〔オスの出生後出現し、精子の根幹となる細胞〕における高頻度の突然変異誘発の論文(PNAS: 1979年)を参考にして、PGC期のSLTを実施したのでした。 7 内分泌撹乱化学物質〔環境ホルモン〕 このSkinnerの論文以前に、内分泌異常物質を中心とした化学物質によってヒトあるいは実験動物に「経世代影響」を確認したという論文が散見されています。「経世代影響」とは、一度何らかの処理を受けた親(雌および雄)世代での影響が、胎児期の生殖細胞を経由して、その子孫に伝えられることをいいます。よく混同されるのですが、次世代における奇形の誘発などは、胎児期の体細胞で起きた現象を観察していますので、「経世代影響」とは呼びません。このことは図3で確認してください。 ヒトでの「経世代影響」についての有名な結果として、アメリカで長期間にわたって流産防止剤として用いられた合成エストロジェンDiethylstilbesterol ( ジエチルスチルベストロール DES )の例が知られています。これを服用した妊婦の子孫に、女児では生殖器のがん、男子では妊性の低下が認められました。経世代影響については、その次の子の世代までその影響が認められたとの報告があります。 動物実験でも、マウスやハムスターを用いてこれらの結果が証明され、DESはごく低用量でも、動物実験でも明確な「経世代影響」が認められました。DESは不幸にも、ヒトにおいて悪影響が認められた最初の例となりました。これらの研究を中心となって行ってきたNewbold〔アメリカ環境衛生研究所〕は研究の当初からこれらのDESの作用が「環境エピゲノム異常」によることを示唆してきました(9)。 BisphenolA ( ビスフェノールA BPA )をはじめとする、その他の内分泌撹乱化学物質の影響については、現在も広範な研究が行われていますが、「経世代影響」についてははっきりとした結果がまとまっていない段階です。内分泌異常物質については、当初は大きな国民的な関心が持たれてきましたが、ヒトへの影響は当初考えられていたよりは小さいことが判明されつつあります。 しかし、内分泌撹乱化学物質に関する広範な研究から、これらの作用のある部分は、エピジェネティクの異常すなわち「環境エピゲノム異常」に基づくことが示されました。毒性学においても、「環境エピゲノム異常」は新しい概念として考慮されつつあります、今後多くの化学物質について、「環境エピゲノム異常」という概念によって毒性現象が解明される可能性が示されたことは、環境ホルモン研究による大きな成果であったと考えられます。 8 栄養および育児環境 ヒトにおいても、発生中に親から経胎盤的に受けた化学物質や、栄養成分の過不足などによって、胎児期の厳密にプログラムされた遺伝子発現が異常に発現されること、すなわち「環境エピゲノム異常」が臨床栄養学の分野でも知られはじめています。 最近では、個体の発生中および哺乳期における母親の行動さえもが、子の遺伝子発現に影響を与え、成・老年期になってから「環境エピゲノム異常」として、種々の疾患として発現されることが報告されています。 この点については多くの成人病の素因が、受精時、胎生期に形成され、成長期あるいは老年期を通して「環境エピゲノム異常」として維持され、種々の疾患が形成されるという「成人病胎児期発症説」を J.P.Barker ( サザンプトン大学 )が1986年以来提唱しています(9)。これには新生児における低栄養状態が、老後の心臓の冠動脈疾患の素因になるというイギリスでの疫学データが基礎になっています。 現在では、この考え方はさらに発展し、「健康と疾病の素因は受精時期から乳幼児期に決定されるという "Developmental Origins of Health and Diseases ( DOHaD )"という概念となり、これは 21世紀最大の臨床医学のテーマとさえ言われています。これらの現象の原因の多くの部分を占めるものが、「環境エピゲノム異常」であることは疑いがありません。 現在、臨床医学では、糖尿病、高血圧、心臓疾患、精神神経疾患さらに種々の行動異常などの多くの疾患の原因が、 DOHaD で説明可能とされつつあります。これらの詳細については、最近「医学のあゆみ」で「胎生期環境と生活習慣病」という特集号が出版され、この分野における日本におけるすぐれた研究成果が集められていますので、ご参照下さい(10)。 9 これからの毒性学 最近、E.Menegola (ミラノ大学)らによって、Valproic acid (バルプロ酸)、 Trichostantin A (トリコスタチンA) 、Boric acid(ホウ酸)、MS-275、Sodium Butyrate(酪酸ナトリウム)、さらに Sodium Salicylate(サリチル酸ナトリウム)などよく知られている催奇形性の発現機構が、胎児の体節細胞や心臓原基における ヒストン(注1)の脱アセチル化酵素を阻害することによる高アセチル化によることが示されました (11)。すなわち、さまざまな形態異常の誘発などの催奇形性も「環境エピゲノム異常」によることが示されつつあります。 現在では、化学物質による催奇形性、心奇形、行動奇形など、これまでは「生殖毒性試験」として実施されてきた、多くの毒性も「環境エピゲノム異常」によって誘発されているという点についての解明が進められています。また、これらの試験においては「陰性データ:negative data」を含めて膨大な実験結果がありますので、これらを「環境エピゲノム異常」の立場から再検討することも重要であると考えられます。 日本の生殖・発生毒性学の分野では、すでに長尾哲二・藤川和男(近畿大学)による、「雄処理による経世代奇形の伝達」に関するすぐれた研究業績があります(13)。彼らのデータでは既知の変異原性物質によって、雄由来の経世代奇形が突然変異と同様の時期特異性(注)をもって誘発され、その頻度は誘発突然変異率に比べて、二桁程度も高いものでした。この現象も「環境エピゲノム異常」によるものと解釈すれば納得でき、現在その解明が進められています。 これらの結果に関連しては、野村大成(大阪大学)の先駆的な成果があります(14)。彼は放射線やウレタンによるマウスの「高発がん性の遺伝」を詳細に解析しました。その結果、それまで得られていた突然変異の誘発と、生殖細胞の時期特異性が一致するとともに、それらの頻度は、やはり二桁程度高いものでした。これらの現象も、現在では「環境エピゲノム異常」によると考えれば説明可能だと考えられます。これらについての「環境エピゲノミクス」によるメカニズムの解析が望まれています。 これらの研究成果は、「毒性学」全体にも大きな影響を与えることは間違いありません。ヒトおよび実験動物においても、生殖細胞形成、受精から発生過程、さらに幼児期での化学物質の曝露や育児状態などが「環境エピゲノム異常」によって、その後の成体の健康状態に大きな影響を与える可能性が示唆されつつあるのです。「発がん試験」においては、胎児期投与による「経胎盤発がん実験」が成体を用いるよりも感度が高い例が知られています。また「免疫毒性試験」においても、胎児期に投与した動物での感受性が高い例が知られています。 生殖細胞形成期、胎児期および新生児期における「環境エピゲノミクス」の問題は、これからの 「毒性学」 において、これまで以上に重要な問題となる可能性があります。 10 おわりに これまで述べてきたように、化学物質による遺伝子発現の異常:「環境エピゲノム異常」を「毒性学」の基盤となる「基盤毒性」としてとらえ、「毒性学」全般に、これまで以上に発生・生殖毒性の手法や考え方を導入することが必要であると考えられます。そして、「毒性学」は、胎児期の始原生殖細胞(PGC)への投与を基盤とする、新しいエピジェネティク毒性学(PGC-based Epigenetic Toxicology)として再構築し直すことが緊急の課題であると考えられます(図3)。 また、生殖・発生毒性学の研究分野において、多くの化学物質についての、催奇形性や行動奇形に関する膨大な蓄積されたデータを、「環境エピゲノム異常」の観点から再検討することも重要なことです。今後、「環境エピゲノミクス異常」という概念によって、前臨床試験としての「毒性試験」、ヒトを用いた「臨床試験」、さらには「臨床医学」までをも、強固に連携された研究分野として包括できる大きな可能性があります。 「環境エピゲノミクス」を基盤とする「エピジェネティクス毒性学」は、成人・老人における臨床医学や小児などの精神・神経や行動などの社会行動学の分野にまでも大きな影響を与え、将来の世代にわたるヒトの健康・福祉に大きな役割を果たすことが期待されています。 最後に、「迷惑な進化」(原題 "Survival of the Sickest、 S.Moalem著、矢野真千子訳)の最後の文章を転記させていただきます。「エピゲネティクスはひょっとすると、人間の健康管理の概念をまったく新しいものに書き換えてしまうかも知れないのだ。DNAは運命だが、修正可能な運命だ。」 参考文献 5. Anway. M.D.. Cupp. A.S.. Uzumcu. M. and Skinner. M.C.: Epigenetic transgenerational actions of endocrine disruptors and male fertility. Science. 308. 1466-1469. 2005 6. Jirtle.R.L. and Skinner. M.K.: Environmental epigenomics and disease susceptibility. Nature Rev. Genet., 8, 253-262, 2007 7. Shibuya. T.. Murota. T.. Horiya. N.. Matsuda. H.. Hara. T.: The induction of recessive mutations in mouse primordial germ cells with N-ethyl-N-nitorsourea. Mutat. Res. 290. 273-280. 1993. 8. Newbold, R. R.: Lessons learned from perinatal exposure to diethylstilbesterol, Toxicol. Appl. Pharm., 199, 142-150, 2004. 9. Barker.D.J, Osmond.C.: Infant mortality, childhood nutrition, and ischaemic heart disease. Lancet, 1, 1077-1081, 1986. 10. 「胎生期環境と生活習慣病」福岡秀興編集,医学のあゆみ,235〔8〕,2010,医歯薬出版,東京 11. DiRenzo, F., Broccia, M.L., Giavini, E, and Menegola, E.: Relationship between embryonic histonic hyperacetylation ans axial skeletal defects in mouse exposed to the three HDAC inhibitors apicidin, MS-275 and sodium butylate. Toxicol. Sci., 98, 582-588, 2007 12. Szyf. M.: The dynamic epigenome and its implications in toxicology. Toxicol. Sci..100, 7-23, 2007 13. Nagao, T.: Characteristics of male-mediated teratogenesis. In Male-mediated Developmental Toxicity. Mattison, D.R. and Olshan, A.F. edis.359-370, Plenum Press, New York, 1994 14. Nomura, T.: Parental exposure to X rays and chemicals induces heritable tumors and anomalies in mice. Nature, 296, 575-577, 1982 注1 トランスジェニックマウス: 発生工学によって希望する遺伝子を導入されたマウスで、生物学や基礎医学の研究分野で繁用されている。このマウスによって特定の遺伝子の働きを調べることが可能となった。 注2 ヒストン: DNAを規則正しく巻きつけているタンパク質で多くの種類がある。それぞれの遺伝子の発現は主にDNAのメチル化とヒストンのさまざまな化学的修飾によって制御されている。 注3 発生時期特異性: 生殖細胞である卵や精子は、その発生段階でさまざまな細胞学的な変化を遂げつつ形成され、それぞれの段階を発生時期という。放射線や化学物質による突然変異などの誘発されやすさは異なっており、これを発生時期特異性と呼んでいる。 筆者紹介 澁谷徹 〔"Tox21"研究所主宰;t.shibuya.tox21@zpost.plala.or.jp 〕 なお、前回のメールアドレスは間違っていました。上記のものが正しいアドレスです。 |