ピコ通信/第150号
発行日2011年2月23日
発行化学物質問題市民研究会
e-mailsyasuma@tc4.so-net.ne.jp
URLhttp://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/

目次

  1. 2011年1月 千葉市幕張 水銀に関する第2回政府間交渉会議(INC2)および関連会議 参加報告 (より詳細な情報
  2. 12月4日 化学物質問題市民研究会主催 NGO国際水銀シンポジウム(下)
    途上国における小規模金採鉱 フィリピンの事例 リチャード・グティエレスさん(比)

  3. エピジェネティクス毒性学入門−下/"Tox21"研究所  澁谷 徹さん
  4. 海外情報:NRDC の手紙 2011年2月16日
    多種化学物質への複合曝露リスク評価に関する
    WHO、OECD、ILSI/HESI ワークショップへの深刻な懸念
  5. 海外情報:C&EN ニュース2011年1月5日
    母親から子どもに伝わる汚染物質
  6. お知らせ・編集後記


12月4日 化学物質問題市民研究会主催 NGO国際水銀シンポジウム
水俣病と世界の水銀問題 水俣から学び、強い水銀条約とする−下


途上国における小規模金採鉱
フィリピンの事例
リチャード・グティエレスさん(比)
(Ban Toxicsバン・トクシックス代表)


■はじめに
 ASGM=小規模金採鉱の水銀使用についてお話します。フィリピンでもミナマタ問題がつくられつつあるということと、それには私たちが共同で対応していかなければならないということをお話したいと思います。
 最初に小規模金採鉱の問題がいかに複雑であるか、理解していただきたいと思います。水銀の話をする時に金(きん)の話をしなければならないということは皮肉です。これは技術的問題というより、根本は貧困問題です。貧困であることで問題は複雑になります。

■小規模金採鉱問題は貧困問題
 これまでBan ToxicsとしてASGM小規模金鉱についてどのような活動をしてきたか。まず高木市民科学基金の支援で、ASGMについて調査をしました。環境・天然資源省の小規模金採鉱のための国家戦略計画策定にも協力しました。小規模金採鉱に関する意識向上を図るために、国際機関やほかのNGOとも協働しています。
 この問題は貧困問題です。フィリピン人の100人中33人が貧困層です。2,700万人が月収150ドルすなわち1万2千円以下の収入で、家族5人生活しています。貧困層のほとんどは田舎に住み、農業、漁業に従事していて、6人以上の大家族です。貧困家庭の3分の2では、世帯主が小学校以下の学歴です。彼らは財産を持っていないので融資を受けることができず、主な収入源は非公式な分野の活動からです。貧困世帯の大部分は慢性的な貧困状態にあります。
 皮肉なことに、最貧の10州のうち5州に豊富な金の鉱床があります。この資源は災いでもあります。金生産量のうち小規模な採掘で2万6千kg、大規模が1万kgです。小規模採鉱は2人から3人、せいぜい10人くらいで手か、簡易な機械で採掘しています。フィリピンの金鉱床は50億トン以上と推定されています。これは専門家から世界全体の供給量よりも多いと言われていますが、フィリピン政府は50億トンと言っています。
 世界の金産出国のトップ10に入っており、40州以上で金鉱床が確認されています。小規模金採鉱には1万8千人の女性、子どもを含む30万人以上の労働者が従事していて、200万人以上が家計をそれに頼っています。
 小規模金採鉱は、伝統的な、ゴールドラッシュの時代の採鉱です。法的には採掘権を認められていないので、非公式な労働者ということになります。国内最大の水銀発生源となっています。採鉱者の体内水銀濃度はWHO制限値の50倍くらいになります。

■合金アガルガムを加熱して
写真提供: Ban Tocsics!

 採鉱方法は、地表、地下、水中などがあります。60センチ四方の穴を掘り、そこに水をためて、コンプレッサーを使って汚泥を吸い上げます。ロッドミル、ボールミルで鉱石を粉砕し、より細かい粒子にします。重力濃縮法や樋流し法、あるいは西部劇で出てくるパンニング(鍋)法があります。
 アマルガム法(右写真)は、水銀10〜25gを使って金1gを産出します。鍋の中の金と水銀の合金アガルガムを加熱して、水銀を蒸発させます。水銀が大気に放出されるというひじょうに危険な方法です。ホウ砂法では、ロッドミルの中に水銀を注入します。水銀をたくさん入れた方が金がたくさん採れると信じられていますが、専門家にいわせれば、金の量と水銀の量とは関係ありません。無駄な水銀が流出するとともに、大気にも放出されます。
 シアンを使うことも一般化してきています。より多くの金を抽出しようということで、カーボンインリーチ法では、シアン化溶液と水銀、鉱石を入れて撹拌します。シアンによって不純物が溶けて金が残ります。

写真提供: Ban Tocsics!
■輸入水銀が雑貨屋で安く手に入る
 このような金の塊ができます。男性が手にしているのは5千ドル相当の金です。普通は家族で仕事をしていても1ドル50セントの収入にしかなりません。その中で5千ドルの収入が得られることはひじょうに魅力的です。貧困層がなんとか現金を手に入れたいということで金採鉱は増えています。
 国内の水銀の取引は、国内の鉱山は閉鎖されているので、ほとんど輸入です。合法的には歯科アマルガム利用などとして入っていますが、大半は闇市場を通じて手に入れています。アメリカ、EU、アルジェリア、キルギスタンなどから入ってきています。
 アメリカ、EUは2013年までに輸出を禁止し、アルジェリアはすでに採掘活動を中止し、キルギスタンも終了します。すると供給源も変わってくるでしょう。水銀の取引はアジア全体でも変化が起きています。価格はkg当たり45〜220ドルです。地元の小売店でグラムあたり8から16円で入手できます。歯科医院からも供給されています。
 政府の推定する水銀放出量は2008年に年間70トンです。デンマークの専門家が、小規模採鉱で年5トン放出されていると推定しています。北部ミンダナオの小規模採鉱では2001年に140トン放出されたという数字もあります。かなりの量が放出されていることがわかります。
 水銀汚染はどの程度広がっているのか、水俣では30年以上にわたり75〜150トンの水銀を水俣湾に放出しました。フィリピンでは30年以上にわたり、年間30トン以上の放出が続いています。フィリピンは、水銀による健康と環境の危機のただなかにあります。抜本的な対策が取られなければ、水俣のような事態になると思います。
 水銀は安くて手に入りやすいものです。お菓子、飲料水などが売られている普通の店で、このようにビニール袋に入れられて売られています(右写真)。安く手に入るので、未成年者も採鉱に参加し、日々のお金を手に入れることができます。シアンを使って、廃鉱石からさらに金を回収する動きが増えています。水銀とシアンの組み合わせで、より容易に有機水銀に転換します。住民は、水銀の有害性と代替方法に対する理解が欠けているために、このような状況が続いています。

■魚、水質、子どもや住民が高濃度レベル
 水銀とその影響に関するフィリピンの研究についてお話します。ダバオ湾では、子どもたちのIQが下がっていることが分かります。特に弱いのは、胎児と新生児です。パラワンの閉鎖された水銀鉱山近くの住民と地域社会の健康と環境リスクの調査が行われています。
 魚類4種が、魚における総水銀およびメチル水銀の基準レベルを超えています。魚類2種はメチル水銀の基準レベルを超えています。曝露地域の子どもと赤ちゃんは高いメチル水銀レベルだということが分かりました。
 UNIDO(国連工業開発機構)による別の調査では。ティワルド、モンカヨ、コンポステラ渓谷の地域、主要な河川の水銀レベルは、飲料水および水生生物保護のための水質基準を超えています。河川の底質および浮遊沈殿物の水銀濃度は水生生物保護のための基準を超えています。ディワルワルの採鉱労働者および影響を受けた村人は水銀中毒の深刻な症状を抱えています。体内の濃度がひじょうに高く、サポートを受けています。
 アポコン、タグムにおいては、学童の水銀レベルがひじょうに高いことが分かりました。これは無機とメチル水銀の同時曝露のためです。魚類3種でWHOの淡水魚中の水銀濃度基準を超えています。このデータを皆様に提示しているのは、どの研究でも同じ結果になっているということを示すためです。
 多くの魚種が水銀の影響を受けている、学童の水銀濃度が高くなっている、このような事実から、フィリピン政府に注意喚起を呼びかけたいと思っています。

■シアン化物汚染や暴力、未成年者労働
 小規模金採鉱による影響は、まず水域と海洋生物への水銀とシアン化物による汚染が深刻です。ほかにも、さらに掘り下げるために坑道を支えるために、木が伐採されます。これらを現状に復旧させる努力はされていません。土壌浸食が洪水をもたらし、土壌の生産性も喪失しています。野放しの移民が起きていて、地域の食料、水の供給に支障をきたしています。
 ゴールドラッシュにより、土地所有争いが起きています。大規模な金採鉱事業者と小規模な金採鉱者との間に争いが起きています。大規模事業者が採掘権を政府から獲得しているので、小規模金採鉱はほとんどが非合法に行われています。資金的に不十分なため、法的な採掘権を得ることができないのです。そのため大規模な採掘の周りで小規模な採鉱が行われることなります。大規模事業者は権利を小規模採鉱により浸食されるとして、紛争の解決は警備員などを使った暴力的なものになります。
 暴力が多発し、酔っ払いのような不道徳な行為も増大します。十分な医療もなく、健康への懸念があります。大半が資源のあるところに次々と移る移動労働者で、違法労働者です。十分な健康と安全のサービスを得ることができません。十分な機材ももたず山の中で坑道を掘って採掘します。搾取の問題もよく見られることです。労賃が安いので、事業者は大人より未成年者を雇う傾向があります。未成年者に対する社会的保障はありません。未成年者や家族への水銀中毒が深刻になっています。

■法的な整備、制度面での課題
小規模金採鉱者は、法的、制度的な問題にも直面しています。フィリピンの法律は時代遅れで、国民に十分な保護を与えないものです。制度を変えようにも資金的な負担が必要です。特定の地域を区切って、小規模金採鉱者用に設定することが求められています。資源のある場所はむしろ大規模な事業者に認可が下り、小規模採鉱者は排除されるという構図が繰り返されています。 するとますます小規模採鉱者が、違法に大規模事業者の区域に入って行くことになります。法的な整備、制度面での課題があります。環境資源庁に水銀の使用量や保有量がどれくらいあるのか聞いても、具体的な回答はないでしょう。なぜならそのような情報がそろっていないからです。

■世界の水銀供給の流れを止めること
 勧告についてお話します。
 まず、水銀の世界の供給の流れを止めること。そのためには、水銀の一次採鉱をやめること、それにより小規模金採鉱者はほかの道へ歩むよりほか選択肢がなくなります。そうすることにより彼らを守れます。また、水銀の供給にかかわるところでは、アメリカ、EUが輸出をやめるので、日本がそれに追随することを我々は求めています。
 輸出すると、その用途に関しては輸出国が管理することはできません。日本の水銀が何に利用されているか、フィリピン国内では水銀の容器には輸出国は書いてありません。
 水銀を使用しない適切な金遊離技術を調査するための研究を行うこと。技術と金採鉱がうまく合致することが必要です。十分な資金を提供し、適切な機器を提供する。労働者を公式な団体に組織化することで、搾取を減らすことができます。非合法の労働者であることで、調査もむずかしくなります。
 一貫した国の政策を策定すること、地域における採鉱規制委員会を強化すること、採鉱者、その家族、影響を受ける地域社会に、水銀の有害性の意識向上を図ること。彼らは水銀の有害性について知らないのです。

(文責:化学物質問題市民研究会)


※12/4シンポジウムの資料をおわけします。A4版79ページ。500円+送料80円=580円 事務局までお申し込み下さい。



エピジェネティクス毒性学入門−下
"Tox21"研究所  澁谷 徹

5 Skinner論文の衝撃

 2005年に、Skinner ら(ワシントン州立大学)はScience 誌に衝撃的な論文を発表しました(5)。彼らは発生14日齢のラットの雄胎児に、経胎盤的に抗アンドロゲン作用を有する農薬、Vinclozolin (ビンクロゾリン;VIN) を投与し、以後4世代にわたって、無処理雌ラットとの交配によって得られた雄ラットの生殖能力を調べました。VINを処理された生殖細胞は、性分化をはじめる時期の始原生殖細胞 (PGC) 期にあたります。PGCとは、胎児期に発生中に出現し、出生後、雄・雌において、すべての生殖細胞の基幹細胞となる細胞群です。
 その結果、4世代にわたって、雄ラットの生殖能の低下が認められ、その原因はVINの経胎盤投与による、各世代における雄生殖細胞の精子形成関連遺伝子のプロモーター領域のメチル化という「環境エピゲノム異常」であることを証明しました。つまり、彼らの実験では、ある世代におけるVINによって誘発された生殖細胞のメチル化が、4世代にわたって伝達されたことになります。彼らはまた、ラットにおける種々の疾患の発生頻度を、ヒトの発生頻度と比較し、ヒトの種々の疾患の起因が胎生期にあり、それらが経世代的に伝達される可能性を示唆しました(6)。
 しかし、Skinnerらの実験結果については、投与された化学物質の用量が通常の使用量に比べてはるかに高いこと、さらに用量群の数も少なく、ヒトに対する影響については、用量作用反応に立脚した考察などが必要であると考えられます。また、彼らの実験結果の再現性については、系統の異なったマウスやラットでは、これらの現象を確認できなかったとの反論もあります。最近、日本でもSkinnerらの実験条件を忠実に再現した追試が行われ、2世代まで調べましたが、VIN投与による生殖能に関しての影響はなかったとの報告もなされています。さらにSkinnerらが発表論文の一部を取り下げたこともあり、Skinnerらの研究結果については、その再現性について疑義が残されているようです。
 しかし、Skinner論文の評価はどうであれ、さまざまな化学物質の「環境エピゲノム異常」による経世代影響については、ヒトの未来世代を考える上で非常に大きな問題と考えられます。人類は、これまでに長い世代にわたって、化学物質の合成や原子力エネルギーの開発によって、人工の化学物質あるいは放射性物質を使用し、それらの恩恵によってこの地球上での繁栄を謳歌してきました。Skinnerらの論文は、それらを無批判に使用することについて、非常に大きな警鐘となるものであることは間違いありません。

6 経世代影響

 上に述べたように、化学物質の始原生殖細胞への経胎盤投与によって、世代を超えて生殖細胞に「環境エピゲノム異常」が伝達されたというSkinnerらの論文は、衝撃的なものでした。私もその中の一人でした。
 私はこれまで、強力なエチル化剤であるN-Ethyl-N-nitrosourea (ENU) によって、マウスの始原生殖細胞(PGC)に高頻度に突然変異が誘発されることを研究してきました。そして、マウス特定座位試験 (SLT) やトランスジェニックマウス(注)であるMutaMouseを用いて、PGCにおける突然変異の誘発を世界で最初に報告しました (7)。それまでは、突然変異として固定されなかった化学物質や放射線によるDNA塩基の修飾は、次世代の生殖細胞形成期に完全に消去されるものと考えられていました。私はENUのPGCにおける突然変異の誘発は確認しましたが、その当時は「環境エピゲノム異常」についてまでは考えてはいませんでした。
 私はまた、別のマウス系統を用いてENUによる雄PGC細胞における、遺伝子内組み換えに関する実験を行い、それらが突然変異と比較して格段に高い頻度で誘発されることを確認しました。私はENUについての総説を Mutation Research誌に書きましたが、ENUはDNAに塩基置換を効率よく誘発することのみが知られていました。しかし、ENUがクロマチンの再構成に影響を及ぼし、遺伝子内組み換えを誘発するという、いわゆる「環境エピゲノム異常」を誘発することまでは考えられませんでした。


 繰り返しになりますが、化学物質のPGCへの経胎盤投与によって、世代を超えて生殖細胞に「環境エピゲノム異常」が伝達されたというSkinnerらの論文は、この分野の研究者には衝撃的なものでした。
 それまで、経胎盤投与によって次世代の体細胞が何らかの影響を受けることは、生殖・発生毒性学では自明のことでした。上に述べた私のPGCの研究は、"Mouse Spot Test"という、胎児期処理による色素原細胞(melanoblasts) の体細胞突然変異の研究から始まりました。その実験で、生まれた雄マウスの生殖能がENUの用量に依存して低下することを偶然に発見しました。そして、Russell ら(オークリッジ国立研究所) による ENUによる精祖細胞〔オスの出生後出現し、精子の根幹となる細胞〕における高頻度の突然変異誘発の論文(PNAS: 1979年)を参考にして、PGC期のSLTを実施したのでした。

7 内分泌撹乱化学物質〔環境ホルモン〕

 このSkinnerの論文以前に、内分泌異常物質を中心とした化学物質によってヒトあるいは実験動物に「経世代影響」を確認したという論文が散見されています。「経世代影響」とは、一度何らかの処理を受けた親(雌および雄)世代での影響が、胎児期の生殖細胞を経由して、その子孫に伝えられることをいいます。よく混同されるのですが、次世代における奇形の誘発などは、胎児期の体細胞で起きた現象を観察していますので、「経世代影響」とは呼びません。このことは図3で確認してください。
 ヒトでの「経世代影響」についての有名な結果として、アメリカで長期間にわたって流産防止剤として用いられた合成エストロジェンDiethylstilbesterol ( ジエチルスチルベストロール DES )の例が知られています。これを服用した妊婦の子孫に、女児では生殖器のがん、男子では妊性の低下が認められました。経世代影響については、その次の子の世代までその影響が認められたとの報告があります。
 動物実験でも、マウスやハムスターを用いてこれらの結果が証明され、DESはごく低用量でも、動物実験でも明確な「経世代影響」が認められました。DESは不幸にも、ヒトにおいて悪影響が認められた最初の例となりました。これらの研究を中心となって行ってきたNewbold〔アメリカ環境衛生研究所〕は研究の当初からこれらのDESの作用が「環境エピゲノム異常」によることを示唆してきました(9)。
 BisphenolA ( ビスフェノールA BPA )をはじめとする、その他の内分泌撹乱化学物質の影響については、現在も広範な研究が行われていますが、「経世代影響」についてははっきりとした結果がまとまっていない段階です。内分泌異常物質については、当初は大きな国民的な関心が持たれてきましたが、ヒトへの影響は当初考えられていたよりは小さいことが判明されつつあります。
 しかし、内分泌撹乱化学物質に関する広範な研究から、これらの作用のある部分は、エピジェネティクの異常すなわち「環境エピゲノム異常」に基づくことが示されました。毒性学においても、「環境エピゲノム異常」は新しい概念として考慮されつつあります、今後多くの化学物質について、「環境エピゲノム異常」という概念によって毒性現象が解明される可能性が示されたことは、環境ホルモン研究による大きな成果であったと考えられます。

8 栄養および育児環境

 ヒトにおいても、発生中に親から経胎盤的に受けた化学物質や、栄養成分の過不足などによって、胎児期の厳密にプログラムされた遺伝子発現が異常に発現されること、すなわち「環境エピゲノム異常」が臨床栄養学の分野でも知られはじめています。
 最近では、個体の発生中および哺乳期における母親の行動さえもが、子の遺伝子発現に影響を与え、成・老年期になってから「環境エピゲノム異常」として、種々の疾患として発現されることが報告されています。
 この点については多くの成人病の素因が、受精時、胎生期に形成され、成長期あるいは老年期を通して「環境エピゲノム異常」として維持され、種々の疾患が形成されるという「成人病胎児期発症説」を J.P.Barker ( サザンプトン大学 )が1986年以来提唱しています(9)。これには新生児における低栄養状態が、老後の心臓の冠動脈疾患の素因になるというイギリスでの疫学データが基礎になっています。
 現在では、この考え方はさらに発展し、「健康と疾病の素因は受精時期から乳幼児期に決定されるという "Developmental Origins of Health and Diseases ( DOHaD )"という概念となり、これは 21世紀最大の臨床医学のテーマとさえ言われています。これらの現象の原因の多くの部分を占めるものが、「環境エピゲノム異常」であることは疑いがありません。
 現在、臨床医学では、糖尿病、高血圧、心臓疾患、精神神経疾患さらに種々の行動異常などの多くの疾患の原因が、 DOHaD で説明可能とされつつあります。これらの詳細については、最近「医学のあゆみ」で「胎生期環境と生活習慣病」という特集号が出版され、この分野における日本におけるすぐれた研究成果が集められていますので、ご参照下さい(10)。

9 これからの毒性学

 最近、E.Menegola (ミラノ大学)らによって、Valproic acid (バルプロ酸)、 Trichostantin A (トリコスタチンA) 、Boric acid(ホウ酸)、MS-275、Sodium Butyrate(酪酸ナトリウム)、さらに Sodium Salicylate(サリチル酸ナトリウム)などよく知られている催奇形性の発現機構が、胎児の体節細胞や心臓原基における ヒストン(注1)の脱アセチル化酵素を阻害することによる高アセチル化によることが示されました (11)。すなわち、さまざまな形態異常の誘発などの催奇形性も「環境エピゲノム異常」によることが示されつつあります。
 現在では、化学物質による催奇形性、心奇形、行動奇形など、これまでは「生殖毒性試験」として実施されてきた、多くの毒性も「環境エピゲノム異常」によって誘発されているという点についての解明が進められています。また、これらの試験においては「陰性データ:negative data」を含めて膨大な実験結果がありますので、これらを「環境エピゲノム異常」の立場から再検討することも重要であると考えられます。
 日本の生殖・発生毒性学の分野では、すでに長尾哲二・藤川和男(近畿大学)による、「雄処理による経世代奇形の伝達」に関するすぐれた研究業績があります(13)。彼らのデータでは既知の変異原性物質によって、雄由来の経世代奇形が突然変異と同様の時期特異性(注)をもって誘発され、その頻度は誘発突然変異率に比べて、二桁程度も高いものでした。この現象も「環境エピゲノム異常」によるものと解釈すれば納得でき、現在その解明が進められています。
 これらの結果に関連しては、野村大成(大阪大学)の先駆的な成果があります(14)。彼は放射線やウレタンによるマウスの「高発がん性の遺伝」を詳細に解析しました。その結果、それまで得られていた突然変異の誘発と、生殖細胞の時期特異性が一致するとともに、それらの頻度は、やはり二桁程度高いものでした。これらの現象も、現在では「環境エピゲノム異常」によると考えれば説明可能だと考えられます。これらについての「環境エピゲノミクス」によるメカニズムの解析が望まれています。
 これらの研究成果は、「毒性学」全体にも大きな影響を与えることは間違いありません。ヒトおよび実験動物においても、生殖細胞形成、受精から発生過程、さらに幼児期での化学物質の曝露や育児状態などが「環境エピゲノム異常」によって、その後の成体の健康状態に大きな影響を与える可能性が示唆されつつあるのです。「発がん試験」においては、胎児期投与による「経胎盤発がん実験」が成体を用いるよりも感度が高い例が知られています。また「免疫毒性試験」においても、胎児期に投与した動物での感受性が高い例が知られています。 生殖細胞形成期、胎児期および新生児期における「環境エピゲノミクス」の問題は、これからの 「毒性学」 において、これまで以上に重要な問題となる可能性があります。

10 おわりに

 これまで述べてきたように、化学物質による遺伝子発現の異常:「環境エピゲノム異常」を「毒性学」の基盤となる「基盤毒性」としてとらえ、「毒性学」全般に、これまで以上に発生・生殖毒性の手法や考え方を導入することが必要であると考えられます。そして、「毒性学」は、胎児期の始原生殖細胞(PGC)への投与を基盤とする、新しいエピジェネティク毒性学(PGC-based Epigenetic Toxicology)として再構築し直すことが緊急の課題であると考えられます(図3)。
 また、生殖・発生毒性学の研究分野において、多くの化学物質についての、催奇形性や行動奇形に関する膨大な蓄積されたデータを、「環境エピゲノム異常」の観点から再検討することも重要なことです。今後、「環境エピゲノミクス異常」という概念によって、前臨床試験としての「毒性試験」、ヒトを用いた「臨床試験」、さらには「臨床医学」までをも、強固に連携された研究分野として包括できる大きな可能性があります。
 「環境エピゲノミクス」を基盤とする「エピジェネティクス毒性学」は、成人・老人における臨床医学や小児などの精神・神経や行動などの社会行動学の分野にまでも大きな影響を与え、将来の世代にわたるヒトの健康・福祉に大きな役割を果たすことが期待されています。
 最後に、「迷惑な進化」(原題 "Survival of the Sickest、 S.Moalem著、矢野真千子訳)の最後の文章を転記させていただきます。「エピゲネティクスはひょっとすると、人間の健康管理の概念をまったく新しいものに書き換えてしまうかも知れないのだ。DNAは運命だが、修正可能な運命だ。」

参考文献

5. Anway. M.D.. Cupp. A.S.. Uzumcu. M. and Skinner. M.C.: Epigenetic transgenerational actions of endocrine disruptors and male fertility. Science. 308. 1466-1469. 2005

6. Jirtle.R.L. and Skinner. M.K.: Environmental epigenomics and disease susceptibility. Nature Rev. Genet., 8, 253-262, 2007

7. Shibuya. T.. Murota. T.. Horiya. N.. Matsuda. H.. Hara. T.: The induction of recessive mutations in mouse primordial germ cells with N-ethyl-N-nitorsourea. Mutat. Res. 290. 273-280. 1993.

8. Newbold, R. R.: Lessons learned from perinatal exposure to diethylstilbesterol, Toxicol. Appl. Pharm., 199, 142-150, 2004.

9. Barker.D.J, Osmond.C.: Infant mortality, childhood nutrition, and ischaemic heart disease. Lancet, 1, 1077-1081, 1986.

10. 「胎生期環境と生活習慣病」福岡秀興編集,医学のあゆみ,235〔8〕,2010,医歯薬出版,東京

11. DiRenzo, F., Broccia, M.L., Giavini, E, and Menegola, E.: Relationship between embryonic histonic hyperacetylation ans axial skeletal defects in mouse exposed to the three HDAC inhibitors apicidin, MS-275 and sodium butylate. Toxicol. Sci., 98, 582-588, 2007

12. Szyf. M.: The dynamic epigenome and its implications in toxicology. Toxicol. Sci..100, 7-23, 2007

13. Nagao, T.: Characteristics of male-mediated teratogenesis. In Male-mediated Developmental Toxicity. Mattison, D.R. and Olshan, A.F. edis.359-370, Plenum Press, New York, 1994

14. Nomura, T.: Parental exposure to X rays and chemicals induces heritable tumors and anomalies in mice. Nature, 296, 575-577, 1982


注1 トランスジェニックマウス: 発生工学によって希望する遺伝子を導入されたマウスで、生物学や基礎医学の研究分野で繁用されている。このマウスによって特定の遺伝子の働きを調べることが可能となった。

注2 ヒストン: DNAを規則正しく巻きつけているタンパク質で多くの種類がある。それぞれの遺伝子の発現は主にDNAのメチル化とヒストンのさまざまな化学的修飾によって制御されている。

注3 発生時期特異性: 生殖細胞である卵や精子は、その発生段階でさまざまな細胞学的な変化を遂げつつ形成され、それぞれの段階を発生時期という。放射線や化学物質による突然変異などの誘発されやすさは異なっており、これを発生時期特異性と呼んでいる。

筆者紹介  澁谷徹 〔"Tox21"研究所主宰;t.shibuya.tox21@zpost.plala.or.jp 〕
なお、前回のメールアドレスは間違っていました。上記のものが正しいアドレスです。


化学物質問題市民研究会
トップページに戻る