ピコ通信/第149号
発行日2011年1月21日
発行化学物質問題市民研究会
e-mailsyasuma@tc4.so-net.ne.jp
URLhttp://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/

目次

  1. 12月4日 化学物質問題市民研究会主催 NGO国際水銀シンポジウム 水俣病と世界の水銀問題 水俣から学び、強い水銀条約とする−中
  2. エピジェネティクス毒性学入門−上/"Tox21"研究所  澁谷 徹さん
  3. 調べてみよう家庭用品(41)インフルエンザ対策
  4. 海外情報:EHN 2011年1月3日 水銀は魚油の脳への有益を相殺することを研究が確認
  5. 海外情報:ChemSec 2010年12月21日 デンマーク 子ども用製品中の内分泌かく乱物質パラベンを禁止
  6. お知らせ・編集後記


12月4日 化学物質問題市民研究会主催
NGO国際水銀シンポジウム
水俣病と世界の水銀問題
水俣から学び、強い水銀条約とする−中

水俣病被害者の闘いと今後の課題
谷 洋一さん(NPO法人 水俣病協働センター理事)

(文責 化学物質問題市民研究会)

■被害者にとって"解決"はない

 1970年から水俣の問題にかかわり、もう40年という長い時が過ぎています。この間、第一次訴訟支援の活動や、アジアと水俣を結ぶ会を作って、アジアの様々な産業公害問題、ベトナムの枯葉剤の問題、インドのボパール事件にもかかわりをもちながら、水俣病の支援を続けてきています。現在、NPO法人で、被害者の在宅支援や胎児性、小児性の方々の支援をしたり、水俣被害者互助会、今日お見えになっている佐藤さんたち、第2世代の訴訟の支援をしたりしています。 水俣事件は、公式確認から54年以上の長い経過がありますが、問題が解決しているというよりも、問題だらけという現状です。不知火海沿岸住民の中で、今5万人近く症状を訴える方がいます。半数以上が亡くなっているという現状を考えると、10万人以上にいろいろな影響があっただろうと考えられます。
 水俣病については、いつも"解決"という言葉が先行していますが、被害者にとって解決はないわけです。ずっと病気に苦しみながら生きていかなればなりません、その意味で解決という言葉、特に"最終的"、"全面 解決"という言葉は、使うこと自体が被害者に対する冒涜であり、被害者の気持ちを逆なでする言葉だと、私は思っています。2004年に、関西訴訟の最高裁判決で国の責任は認められましたが、本当の意味で責任をとるとはどうことかが、ひじょうに大きな課題だろうと思っています。

■電力と化学産業というパターン

 水俣病事件を遡ると、100年以上前にチッソの工場ができた背景には、鹿児島県の大口という町に曾木の発電所を建設し、そこで発電して化学産業を興していったということがあります。チッソの工場は1908年にできて、水俣の町が発展してきたという歴史がありました。その後、日本窒素は朝鮮半島などに工場を造っていくわけですが、その最大のものは興安工場といわれているもので、労働者4万5千人です。
 ここも水俣と同じパターンで、朝鮮水電という会社をつくり、ダムを造ってこの工場を造りました。電力と化学産業という構図が、北朝鮮で再現されました。この建設過程で、土地収用、ダム建設における朝鮮や中国の労働者たちの大きな犠牲、虐殺に近いような形で殺された人たちもたくさんいました。そのような歴史の上に日本の近代国家建設、植民地主義というものが行われた歴史があります。
 その過程で、"労働者を牛馬と思ってこき使え"という労務政策をとってきたという歴史があるといわれています。まさにそのことが、水俣病を引き起こす大きな思想的裏付けとなる、労働者を差別的に扱ってきた歴史があったと思います。

■水俣病顕在化の前に長い汚染の歴史

 水俣病事件は、不知火海というひじょうに温暖で豊かな海、南北70キロ、東西15キロの内海、そこにアセトアルデヒド工場が造られて水銀が流されたのが1932年のことです。それから36年間、この工場からの水銀流出は続きました。そして原田先生の調べでも、1937年頃には高濃度の水銀汚染が、臍帯(へその緒)の水銀調査でみつかっています。水俣病は公式確認が1956年ですが、その前に汚染があったと考えられます。
 とくに1952年ころから水銀汚染が顕在化し、魚や猫や鳥などが死んでいく。あるいは急性劇症の患者が発見される。その4年後になってようやく患者が公式に発見される。ですから、こういう環境汚染が、顕在化するまでのプロセスがひじょうに長くあったわけで、そのことはきちっと考えなければならないことだと思います。

■チッソと国が総ぐるみで被害者切捨て

 公式確認後も、チッソは自分たちが出した水銀による汚染をまったく否定してきました。そして厚生省は、熊本県の担当者や、研究者が、食品衛生法で水俣湾の魚を捕らないこと、食べないこと、流通させないことが被害の拡大防止になるのだということを、何度も要請しましたが、水俣湾のすべての魚が有毒化しているという証拠がないということで、却下しました。そのことが、水俣病被害をより広げる結果となりました。
 その後も、アセトアルデヒドの排水を水俣湾の南側から北側へ移転したことが、また大きな被害の拡大を生みます。その拡大によって漁民らの抗議行動が続きます。厚生省は水銀の影響があると食品衛生部会を開きますが、1959年に調査を打ち切ります。
 チッソと国家が総ぐるみになって、地域の産業、日本の化学産業を守るために水俣病被害者を切り捨てていった経過が、この50年代の後半の歴史です。

■人間の尊厳をかけた闘いが50年続く

 被害者たちはようやくこの時に声をあげて、工場の前に座り込みをして、チッソに要求を始めました。しかしチッソは、県知事のあっせんで、死者30万円、大人10万円、子供3万円(いずれも年)の見舞金を示したに過ぎません。被害者は孤立無援の闘いの中で、このあっせんを呑まなければならなかったのです。当然、チッソは加害責任を認めておりません。
 その後も被害者の闘いは続きます。水俣病事件は被害者が声を上げ、被害補償を要求する闘いの歴史ではあります。ただ、被害者が求めたことはお金だとは私は思っていません。まさに人間としての権利、人間としての尊厳をかけた闘いが、50年にわたって続いてきていると思っています。
 そのことに協力した、原田先生を始め、さまざまな研究者、医者、弁護士、支援の人たちが動くことで、水俣病事件は解明され、社会の大きな問題となってきたという歴史があります。もし被害者がこの時黙ってしまい、そのことを隠し、逃げてしまったら、水俣病事件は私たちの知らない事件として、不知火海の沿岸に起きた、おかしな奇病の事件として葬り去られた可能性があると、一言付け加えておきたいと思います。

■1968年国はチッソが原因企業と認める

 1962年になってようやく、胎児性水俣病が認定されました。1965年、第二次水俣病が新潟で発生します。全国に広がっていたであろう水銀汚染が水俣から大きく拡大し、1968年になって政府が水俣病の原因がチッソにあり、原因企業であることを確認することになります。
 そのことを受けて、被害者たちは再度立ちあがり、一次訴訟を提訴、水俣病ではないかと思われた人たちが認定申請、棄却後行政不服審査請求によって認定を勝ち取るという時代が、1971年ころのことです。
 そして、私もそのころ支援に入って行ったわけですが、チッソの正門の前で1年9カ月にわたる座り込みを行います。被害者の闘いは、基本的には訴訟をすること、あるいは工場の前に座り込むこと、そういう闘いによって一歩ずつ社会の関心を広げ、自分たちの要求を実現する闘いへと広がります。1973年になって初めて判決が勝ち取られ、水俣の事件がチッソによる公害事件であることが明確になりました。
 同時に、第三次水俣病事件や、水銀パニックという事件が発生します。日本だけでアセトアルデヒド7工場、苛性ソーダを含む水銀を使う工場が50くらい全国にありましたが、その周りでも水銀汚染が起こっていたということがはっきりしました。

■認定基準は「医学的根拠なし」

 被害者数の変遷ですが、1959年にはわずか79人が水俣病と認定されました。1969年には111人、この中には胎児性水俣病の方も17人います。1973年の末頃、約600人が水俣病と認められました。同時に数千人が次々と認定申請をして、認定を求める闘いが続いていきます。11,000人が切り捨てられる中で訴訟をし、10,353人が93年に政治解決ということになります。政治解決というのは、水俣病としては認められないが、なんらかの感覚障害のある人たちを影響があるかもしれない人たちとして、一時金269万を払うということです。その時、国の責任は認めないということが前提となります。
 そしてようやく、2004年関西訴訟によって、37名だけが国の責任を認められました。そして今、3万6千人くらいの人たちが申し立てをしています。
 企業責任は確定しましたが、その後、行政責任をめぐる問題、それから未認定患者の裁判の問題が次々と続きます。国側は1997年に水俣病の判断条件というのを作りますが、結局は根拠のない線引きであることが2010年の7月の大阪地裁判決で、「医学的根拠なし」と裁判所から切り捨てられました。線引きの医学的根拠はどこにもありません。2004年にようやく最高裁判決によって、行政責任は確定しましたが、この認定基準の問題について国は手をつけず、まだまだ先延ばしを図っているというのが現状です。

■水俣病・今後の課題

 まずは、被害の全容解明ということです。不知火海の南部地区の住民20万人が濃厚な汚染を受けました。1932年から68年ころは、ひじょうに大きな汚染を受けていた可能性があります。不知火海全体の住民の数はだいたい50万人くらいいます。ところが魚が売買されていた範囲というのは、200万から300万の母集団を考えた方がいい。その他かまぼこなどに加工されたもの、京都のハモにも不知火海からたくさんいっています。そういう被害の全体像の解明が必要でしょう。
 同時に医学的な解明として、汚染のメカニズムが明らかにされる必要があります。ニュージーランドやデンマークの研究の中で、胎児や小児についてはひじょうに敏感な影響があるという報告が、ここ10数年に次々と出てきています。環境ホルモン作用も、メチル水銀の影響を考えなければならないでしょう。病像論と医学の問題も、認定制度に規定された水俣病研究から、被害の全容を把握する医学が必要だと思っています。
 さらに、水銀条約でも考えてほしいことですが、加害があって初めて被害が生じます。その加害の究明こそが、水俣病の大きな鍵になります。法廷でも出てきていますが、まだまだ加害者側からの情報開示や、その時どうであったか、その作業はまだ行われていません。これは国や県でも同じです。
 そしてそのことが、水俣病事件の教訓を伝える一番大きなポイントであると思います。被害者側からの証言はもちろんたくさんあります。しかし加害者側からの証言は、限られた訴訟の中でわずかに出てきている。あるいはマスコミの方によるインタビューの中で出てきているにすぎません。

■水俣病の社会的問題

 水俣病事件は不知火海の一地域で起きた事件で、企業城下町で起きた事件です。被害者たちは地域社会の発展を阻害する者として、扱われた時期があります。あるいは奇病とか伝染病ということでの差別もあります。地域社会での被害者の立場というものは大変なものがあります。そして、訴訟問題でチッソという会社の存続が危うくなる。そういう状況の中で、改めて水俣病事件を検証する必要があるだろう思います。
 唯一市民の中で立ちあがった水俣病市民会議、そして加害企業で働く労働者たちが、自分たちは人間として恥だということを宣言して、患者のために闘おうとしたことがひじょうに大きかったと思います。
 日本の公害行政は、結局は自らの加害責任をあいまいにする、被害者の線引きをごまかしてしまう歴史があります。水俣病は終わったとか、水俣病を紛争と捉える考え方、被害者側がなにか文句を言っているのを終わらせたいと考える人たちが、そういう政治解決で終わらせようとしています。被害者側は終わることはできません。
 しかし、「水俣病は終わった」が何度も繰り返されてきた歴史でもあります。そして、それに対して立ち上がった人たちはきわめて少数でしかありません。多数派はどうしても大きな流れの中に巻き込まれてしまう。でも、水俣では少数の人が立ちあがることで歴史を動かしてきました。

■水俣の新たなまちづくり

 今水俣では、水俣病で疲弊した地域を新たな環境モデル都市として蘇らせるという動きがあります。でもこれは、根本的にまちがっています。水俣病で水俣は疲弊していません。水俣病によって疲弊したのではなくて、チッソの工場の従業員が5000人から今は500人くらい、地域産業がなくなったから疲弊したわけです。水俣病がなくてもチッソは1970年代に、撤退して千葉県の五井、水島などに工場を移そうとしていました。ですから水俣が疲弊したのは、あくまでもチッソの工場の移転によって、どんどん疲弊していったわけです。
 水俣病によって被害者が多くの補償を勝ち取ったことで、総額3000億円程度のいろいろな公共支援が行われているという意味では、まちづくりの根本的な認識がちがっているのではないかと思います。
 水俣では、被害者と市民が対立したという構造はありません。1950年代には、被害者は水俣の中で無視されてきました。対立ではなく無視です。そのことによって、被害者たちは、訴訟をすることになったのだと思います。今は地域で5万人の申請者がいることから、地域全体でいえば被害者は多数派になりつつあります。劇的転換がおこっています。ただ残念ながら、自分たちが被害者であることを公然と語る人はひじょうに少ないです。手帳をもらっても、医療機関で出せない人もいる現状です。
 重度の小児や胎児性の被害者にとってはこれから介助者が高齢化していったり、ひじょうに大きな不安をもちながら暮らしています。その中でほんとうに暮らしやすい地域をどうやったら作っていけるのかが、大きな課題になっています。未だに就職や結婚の差別もあるでしょう。あるいは医療や生活の不安は、水俣だけではなくて、日本の地方都市、医療機関がどんどん閉鎖されていくような、ひじょうに大変な状況があることも付け加えなればなりません。

  ■チッソの分社化に反対し続ける

 2009年に水俣病特措法(注)が成立しました。この中で、今ある被害補償の問題について、チッソを分社化させて補償費用を捻出するというプランが急速に浮上しています。これは1998年ころからチッソが目指していたものです。水俣病を背負っていると、事業をするにもなかなかうまくいかないと、水俣病と切り離した事業会社を作り分社化により補償を捻出して、水俣病問題に幕引きをはかるために作られた法律です。私たちはこの問題に関しては、基本的に社会正義に反する行為であるし、加害企業が責任を免れるようなことがあってはならないということで、反対し続けています。
 市民集会を水俣で開いたり、佐藤さんたちがやっている裁判、2001年に提訴して、胎児期世代の病状のことや、国や県の責任について、国家賠償請求を起こしています。あるいは、溝口さんという死亡した未認定患者の裁判、関西訴訟の原告で、裁判では損害賠償を勝ち取りましたが、水俣病として認定するようにとの、原告団長の川上さんが起こした裁判も続いています。今年7月に、申請棄却処分の取り消し訴訟については棄却には医学的根拠なしということで、勝訴の判決がありました。このようにまだ裁判は続いています。

  ■加害責任の検証と、被害の全容解明を

 患者団体は、チッソ、熊本県、環境省との交渉を繰り返し、粘り強く活動を続けています。闘いだけではありません。例えば佐藤さんたちは、水俣の教訓を生かして農薬を使わないミカンを作ろうと、1970年代から佐藤さんのお父さんが始めた仕事を、もう40年近く引き継いでやっています。私たちも胎児性の人たちと一緒に花見をしたり、日常的な支援をしながら交流を続けています。被害者たちの闘いが国連を通じて世界に広がり、中国では水銀の工場の一斉調査が行われて、いくつかの工場の水銀汚染の問題が明らかになったということもあります。そういう交流も続けられています。
 被害者の闘いは50年たった今も続いています。水俣病事件はまだまだ未解明な部分があまりにも多すぎるような気がします。この水銀条約の問題も、加害の責任をきちっと追及する、私もアジアのたくさんの水銀汚染の現場を訪問しましたし、水銀汚染が現在進行しているフィリピンのミンダナオなども数回訪問しています。そういう中で、加害責任の検証と、被害の全容解明がきちっと実行されるような条約が結ばれること、そのことが問題解決の道だろうと思います。皆さんのご協力で、そういうことがなされればいいと思います。

注 水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法



水俣病被害者の報告
佐藤秀樹さん(水俣病被害者互助会会長)

(文責 化学物質問題市民研究会)

■中学卒業まで家族が患者であることを知らなかった

 私は、熊本県水俣市茂道(もどう)というところで生まれました。私の地域は漁村地帯で、ほとんどが漁師で生活をしていました。私の父、母、おばあちゃんが認定患者で、私の兄弟5人のうち姉2人と弟が95年の解決策といわれたもので医療手帳をもらっています。私だけが認められなかったということです。母が一番症状がひどく、私が覚えているのは、昭和35年くらいにからだが悪くなって、杖をついて歩く、そういう中で炊事などしていた。水俣病というのは人にどれだけの影響を与えたか、ほんとうに恐ろしいということを痛感しています。
 母は最初は水俣病と認められていなかったので、水俣病というのはどういう症状があって、どういうものか全然知らなかったわけです。というのは、私の育った地域は山に囲まれたリアス式の海岸で、魚を捕って暮らすだけで、車の道もない、町に行くにも舟で行ったり、電車で行くにもひと山越えて電車に乗らなければならないという、新聞もない、テレビもない所だったからです。
 私は中学を卒業して大阪に出たのですが、父が認定患者の補償についてチッソに対する座り込みをしていると聞いて、家族が水俣病患者であるということをその時初めて知りました。父が座り込みをしている時には、私は大阪のお菓子屋に勤めていましたが、仕事に向いていないということで、田舎に帰ってミカンをつくることにしました。帰っても、水俣病の症状については分からなかったわけです。

■外見からは見えない症状

 水俣病被害者というものは、劇症の人たちだけが表に出て、人に見えない手の痺れとか、こむら返りとかの症状は、水俣病だとは思われないわけです。私は小さい時からそういう症状があったのですが、まさかそれが水俣病の症状だとは思わなかったわけです。年をとるにつれて、こむら返り、肩こり、頭痛とか、このごろは首の後ろの張り、頭の重さも出てきている。たまに力が抜けるということもあります。
 1995年の前に申請したのですが、棄却になりました。1995年の解決といわれた時も申請したのですが、棄却されました。現在、関西の訴訟で国の責任が問われている時にまた申請しています。
 水俣病というのは、劇症の人たちだけが中心で、眼に見えない、苦しんでいるけれどもわからない、そういう人たちに国、県はなにも対策をとっていない。ほんとうに水俣病で苦しんでいる人、水銀に侵された人を国は隠そうとしています。国は水俣病は公害の原点である、これを国際的に発信するといつも言われる。ですが、被害者を切り捨て患者と認めない人たちが、ほんとうに「水俣を教訓に」と言えるのか、といつも思います。

■加害者が被害者を"救済する"のはおかしい

 2004年最高裁判決で国、県は加害者と認められたにもかかわらず、認定基準を変えようとしません。2010年7月に大阪地裁で「認定基準に医学的根拠はない」という判決があったにもかかわらず、やはり控訴して患者を切り捨てている。今度の特措法で救済策と言われ、和解協議だと言われますが、被害者を患者と認めない中で、加害者が被害者を救済する、という言いかたをすることはあってはならないと思います。加害者は被害者に対して賠償をする、そして責任をとるということが必要です。加害者が救済という言葉を使うこと自体がおかしいと思います。
 今度は、チッソを分社化してチッソを助ける法案を作った。ほんとうに水俣病を教訓にするなら、被害に遭った人たちをきちっと患者と認めて、補償を払って、チッソをそのまま残して、水銀の恐ろしさを伝えていくのが国のすることではないかと私は思っています。そうしない限り、水俣病の怖さを世界に伝えていくことはできないと思います。
 私たちがなぜ裁判をしたか。国、県は加害者としての責任を認めないで、チッソだけにかぶせて早く幕引きをしたい。自分たちがチッソを分社化してなくしてしまえば、国の責任もなくなるわけです。加害企業をなくして、水俣病を終わらせたいがために、こういう法案を作ったとしか思えない。
 私たち被害者はこういうことを絶対許してならないと思うし、公害の問題をずっと伝えていかないと同じ事がまた繰り返されるのではないかと思います。私たちはそういうことがないように、水俣病の恐ろしさをずっと伝えていかなければいけないと思います。


※12/4シンポジウムの資料をおわけします。A4版79ページ。500円+送料80円=580円 事務局までお申し込み下さい。


エピジェネティクス毒性学入門−上
"Tox21"研究所  澁谷 徹

1 はじめに

 毒性学(Toxicology)の目的は、新規あるいは既存の化学物質、薬品、食品、環境化学物質および天然の化学物質などの毒作用を、最新の科学知識や技術を駆使して評価し、ヒトやさまざまな生物種へのリスクを回避あるいは軽減させることです。
 ヒトは哺乳動物の一員に過ぎませんが、その優れた頭脳や技術を用いて、無数といってもよい化学物質や原子力エネルギーを開発し、それらの利便性を享受してきました。しかし、ヒトもまた地球上の多様な生物種の一つに過ぎません。そのため、これらヒトの開発してきた化学物質などからの有害な作用(毒性)をこうむり、さまざまな重篤な被害を経験してきました。そして、そのたびに毒性学の内容が改訂されてきた歴史がありました。
 38億年ともいわれる連綿と続いてきた生命の進化によって創生された、ヒトを含むさまざまな生物種の存在と健康を未来の世代にわたって保全することは、毒性学の重要な任務です。もちろん、「毒性学」の概念や用いられる技術などは、科学の進歩に伴って改革されなければなりません。最近の「遺伝子の構造と発現」についての著しい研究の進歩・発展は、毒性学の根源的な改革を迫っています。小論では、遺伝子発現の調節機構としてのエピジェネティクス研究の最近の進歩を、毒性学の立場からどのように考えてゆくのかについてまとめてみました。

2 エピジェネティクス

 最近、生物学において、「エピジェネティクス」(Epigenetics)という現象が大きな注目を浴びています(1)。マスコミや科学雑誌などでも「エピジェネティクス」という言葉はよく見受けられるようになり、この「ピコ通信」でも時々取り上げられています。
 最初に「エピジェネティクス」という概念を提唱したのは、発生学者のC.H. Waddington(エジンバラ大学)です。彼は1942年に、動物の個体発生を、当時はまだその実態が不明であった「遺伝子」の統合的な発現の制御によるものと考えました。そこで、当時発生学を支配していた概念であった、"Epigenesis" (後生学)と"Genetics" (遺伝学)とを組み合わせて、 "Epigenetics"(エピジェネティクス)という新しい術語を提唱しました。彼は、「エピジェネティクス」を、「遺伝子と遺伝子産物(環境)との相互作用によって、生物にある表現型をもたらす現象」であると記述しています(2)。
 「エピジェネティクス」とは、遺伝子の構造的な変化 (突然変異) を伴わない発現調節を総称したものです。そしてそれは、DNA塩基、特にシトシンがメチル基で修飾されるメチル化(編集注)や巨大な分子であるDNAを巧妙に折りたたんでいるヒストンのアセチル化やメチル化などのさまざまな化学的な修飾、さらにそれらの結果として、DNAとヒストンなどのタンパク質からなるクロマチン・染色体の構造的な変化などによって、遺伝子が発現調節を受ける生命現象であると定義されています。


 DNAのメチル化、ヒストン修飾およびクロマチン・染色体の変形は、おたがいに関連しあっているものと考えられています。これらの詳細については図1 を参照してください。
 「エピジェネティクス」は、個体発生や成体の生命の維持に大きな役割を果たしていることが、分子生物学的手法によって解明されつつあります。「エピジェネティクス」は生命機能を維持するための、多くの遺伝子発現を高度に調節しうる重要なメカニズムで、これは多細胞生物における最も重要な現象だといっても過言ではありません。「エピジェネティクス」は、最近の転写RNA発現 ("トランスクリプトーム") および翻訳タンパク質合成"プロテオーム")などの膨大なデータの蓄積に伴い、その重要性が認識されつつあります。
 遺伝子からタンパク質合成までの種々の現象は、密接に関連しあっています。遺伝子の活性は、上にも述べたようにDNA塩基のメチル化やヒストンのさまざまな修飾、更にクロマチンの変形などによって、染色体上に活性な部位(ユークロマチン)と不活性な部位(ヘテロクロマチン)とに局在することによって、高度に調節されています。また、最近関心が高まりつつある、ミクロRNAもこれらに関連して作用していることも知られつつあります。このように「エピジェネティクス」は、遺伝子発現を高度に調節しており、生命にとっては根幹的で重要な現象です。
 「エピジェネティクス」は、地球上の生物が多細胞生物に進化した際に、個体の発生過程での細胞分化を果たすために獲得した重要な性質と考えられています。また、ウィルス感染において挿入されるレトロトランスポゾンなどを不活化させるための巧妙な防御機構とも考えられます。しかし、生物にとって未知な外因性の物質の侵入に対しては、「エピジェネティクス」は過剰に反応し、これから述べるような「環境エピゲノム撹乱」を引き起こす可能性が考えられます。

3 環境エピゲノム撹乱

 近年、多くの外因性物質によって、「エピジェネティクス」が撹乱されて、遺伝子の最終的な働きである、たんぱく質合成が影響を受けることが知られつつあります。これらの現象を総称して「環境エピゲノム撹乱:Environmental Epigentics」と呼んでいます(3)。エピゲノムとは、生物個体が持っている遺伝情報の全体(これをゲノムといいます)がメチル基などでさまざまな修飾を受けている状況をいいます。現在、種々の環境化学物質、薬品および食品などによって、「環境エピゲノム撹乱」が容易に誘発されるデータが蓄積されつつあります。「環境エピゲノム撹乱」はたんぱく質合成の観点からは、それらの低下や停止を招くことになりますので、突然変異と同様な効果を生物個体に与えることになります。
 これからの「毒性学」は、それらの化学物質による「環境エピゲノム撹乱」を基盤として、それらによる生物影響を研究する科学として発展して行かなければならないと考えられます。また、個体発生の過程においては「エピジェネティクス」は、成体におけるよりも多くの遺伝子によって複雑に制御されていることは明らかです。そのため、発生中の種々の細胞は、種々の化学物質によって、成体の細胞よりもより重篤な「環境エピゲノム撹乱」による毒性的影響を受ける可能性があります。
 また、「エピジェネティクス」は細胞分裂を経過しても維持されますので、体細胞と同様に生殖細胞においても、「環境エピゲノム撹乱」の影響を受ける可能性があり、それによって世代を超えたさまざまな影響(経世代影響)が誘発されることも考えられます。

4 発がん性

 化学物質の発がん性の予測には、これまではAmes試験に代表される変異原性試験(遺伝毒性試験)が用いられてきました。しかし、それらの試験結果による、化学物質の発がん性についての予測率は低下しています。近年、種々のがん細胞において、DNAのメチル化や種々のヒストン修飾が認められる例が知られてきました。すなわち、発がん過程においても、さまざまな環境因子による「環境エピゲノム撹乱」が深く関係していることが明らかとなってきました。
 現在までの知見では、環境因子による発がん過程には、変異原性とエピ変異原性とが関連しあって作用しているものと考えられています(4)。エピ変異原性とは、細胞に「環境エピゲノム撹乱」を誘発する能力のことです。すなわち、これまで化学物質による発がん性を考える場合に、変異原性という1次元的なスケールでのみ考えてきました。しかし、多くの化学物質は変異原性とエピ変異原性との両方の性質をあわせ持っているものと考えられます。


 これらの2つの化学的性質を前もって調べ、2次元平面にプロットすれば、それぞれの化学物質のがん原性についての予測が、これまでよりも高い精度で可能になってくるものと考えられます。発がん過程においては、これらに付随して、それぞれの細胞・組織・個体が置かれているさまざまな生物学的要因が関与しているものと考えられます。それを概念化したものが図2(次ページ)の立方体です。
 残念ながら、エピ変異原性を簡便に調べるためのAmes試験のような試験系はまだ開発の段階にありますが、DNAのメチル化やヒストンのさまざまな修飾を直接分析することは可能です。また、変異原性とエピ変異原性とが関連しあって、それらが発現される例も多く知られる様になってきました。特に化学物質によるDNA損傷の修復過程において、両者は密接に関連していることが解明されつつあります。
 さらに毒性学全般においても、化学物質によるさまざまな毒性現象を、変異原性とエピ変異原性とを基盤として解析してゆくことがこれからは重要となってくるものと考えられます。毒性学におけるこの新しい考え方を「エピジェネティクス毒性学」といい、これによってこれからの毒性学は大きく変革することが考えられます。 (つづく)


注 メチル化:さまざまな基質にメチル基CH3- が置換または結合することを意味する。遺伝子発現を抑制または活性化させる

参考文献
  1. 佐々木裕之:エピジェネティクス入門,2006,岩波書店,東京
  2. Waddington, C. H.: Canalization of development and the inheritance of acquired characters. Nature, 150, 314-315. 1942
  3. Watson, R. and Goodman, J. I.: Epigenetics and DNA methylation come of age in Toxicology. Toxicol. Sci., 67, 11-16, 2002
  4. Jones. P.A. and Baylin. S.B.: The epigenomics of cancer. Cell, 128: 683-692. 2007
筆者プロフィール
1973年 〔財〕食品薬品安全センター入所
1974年 農学博士〔名古屋大学〕
2003年 〔財〕食品薬品安全センター定年退職
この間、一貫して化学物質および医薬品などの遺伝毒性試験・研究に従事した。また、化学物質によるマウス始原生殖細胞の突然変異の誘発を世界に先駆けて実証した。
2005年 "Tox21"研究所設立・主宰
現在、「さまざまな環境因子によるエピジェネティクス異常」についての文献的研究を行い、「環境エピゲノミクス」の確立を目指している。
メールアドレス:t.shibuya.tox21@zpost.plala.or.jp


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