ピコ通信/第70号
発行日2004年6月22日
発行化学物質問題市民研究会
e-mailsyasuma@tc4.so-net.ne.jp
URLhttp://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/

目次

  1. 印刷工場からの悪臭による健康被害責任裁定申請事件 公害等調整委員会で調停が成立!
    化学物質市民問題研究会代表 藤原寿和
  2. 第7回化学物質過敏症患者会/シロアリ駆除剤中毒・化学物質過敏症・シックハウスと裁判
  3. 床用ワックスに入っている有機リン化合物の毒性について
    青山 美子(前橋市・青山医院医師)
  4. 海外情報/有毒な農薬のカクテルがアメリカ人の血液中に
    −農薬行動ネットワークの調査報告書−
  5. 5月31日は世界禁煙デー/禁煙報道を見る
  6. 化学物質問題の動き(04.04.22〜04.06.20)
  7. お知らせ/編集後記


印刷工場からの悪臭による健康被害責任裁定申請事件
公害等調整委員会で調停が成立!

化学物質問題市民研究会代表 藤原寿和

 本誌59号で紹介しましたが、埼玉県越谷市の平方地区ミニ工業団地に東京の足立区から移転して操業をはじめたグラビア印刷工場・大日本パックェージ梶i以下P社と略す)を相手取って、工場から排出されるトルエン等の有機溶剤によって健康被害を受けた周辺住民24人が、会社側に対して総額4,800万円の損害賠償を求める責任裁定を国の公害等調整委員会に求めていた事件(以下「事件」と略す)で、この4月20日、同委員会が提案した調停案を住民側及び会社側が受け入れ、調停が成立しました。この時点で、責任裁定申請については取り下げとされ、この事件は終結しました。
 足掛け3年に及ぶ住民の反対運動に当初から関わりをもたせていただき、また、昨年9月の公害等調整委員会への責任裁定申請事件には申請人側の代理人をお引き受けして一緒に取り組んできた者として、難しい事件だっただけに調停が成立したことに、責任の一端を果たすことができたのではと安堵しています。
昨今、全国各地の印刷工場周辺で、同じような健康被害の発生が起きているようですので、今回解決をみたこの問題への取り組みが、今後の参考になるのではないかと思い、以下に紹介したいと思います。

■住民をだましての工場進出
 P社は、当地区への進出に際し、越谷市環境条例に基づいた「環境配慮報告書」を提出しています。それによると、「当工場は、セロファン、各種プラスチックフィルム等の印刷を行うもので、大気汚染を生む工場ではありません」「インクの臭い等は、フレッシュエアーと混ぜて処理致しますので、工場外に臭い等は漏れません」「グラビア印刷機に使用するインキは水性インキ対応型のためインキ臭はほとんど出ません」などと記載しています。また、地域住民への説明会や越谷市主催の公聴会などでも同じ説明を繰り返していました。
 しかし、住民が調べてみると、実際には水性インキの使用とは真っ赤なウソで、各種の有機溶剤(トルエン、酢酸エチル、メチルエチルケトン他)を大量に使用する計画であることが判明し、このことが住民の工場側への不信感を募らせる原因となりました。

■越谷市の重大な過失
今回の事件では、住民らはP社の他に、越谷市も責任裁定を求める対象にしてきました。それは、以下の理由からです。
 かつて地域内に工業団地の建設計画が持ち上がった際に、白紙撤回を求める住民運動が起き、結果として当時の市長との間で「当工業団地周辺の生活環境を充分配慮した環境保全に努める」との回答書を取り付けることで工業団地建設を承諾した経緯があること。地域住民は、工業団地内にある飼料工場による悪臭公害に悩まされてきたこと。今回のP社工場の進出に際し、「越谷市開発指導要綱」を厳格に適用すれば、そもそもP社の工場建設は不可能であったこと。さらには、工場の操業開始後に発生した有機溶剤による周辺大気の汚染や悪臭公害及びそれらに起因した健康被害の発生に対し、市が行政責任を全うしていないことなど。

<B>■責任裁定を求める困難さ
 この種の事件では、被害を受ける住民側の対抗手段として、操業差し止めや損害賠償を求める裁判があります。今回の事件では、住民らは公害等調整委員会に事前に相談をした結果、担当者のアドバイスもあり、公害紛争処理法に基づく公害等調整委員会への申し立ての道を選択しました。
 この公害等の紛争を解決する制度には、調停、あっせん、仲裁、裁定の手続があります。今回は、その中で、「責任裁定」という手続を選択しました。これは公害に係る被害についての損害賠償責任の有無と賠償額についての判断を求める手続です。裁定制度には、この「責任裁定」の他に、「原因裁定」といって、被害と加害行為との間の因果関係に関する法律的判断のみを求める手続があります(杉並病事件)。
 住民らがこの「責任裁定」を選択した理由には、工場の操業に伴って現に健康被害が発生し、医療費等の負担が生じていること、また、当事者間の互譲に基づく合意により紛争を解決する手段である「調停」では、会社や市側のこれまでの住民対応や姿勢から無理であると判断したこと、「裁定」であれば、第三者機関である裁定委員会が証拠調べ等により収集した証拠資料を基に事実関係を確定し、法律的判断を下すことにより紛争の解決を図る手段であり、調停に比べて公権的な要素が強い手続であることなどからです。
 しかし、実際に裁定委員会による審理の手続が開始されてみれば、被害の立証責任は訴えを起こした住民らの側に求められること、証拠調べのための職権による工場側資料の収集、公害被害の実態調査、専門家への尋問など、住民側からの要望のほとんどが採用されないという、極めて困難な状況に直面しました。
 そうした限界がある裁定手続ではありましたが、裁定委員会による申請人住民らの立ち会いの下での現場実査(工場内施設及び周辺地域の状況)、被害住民の訴えの聴取、委員会が勝手に選んだ「専門家」ではありますが、学者による調査(前向きな調査結果は得られず)などが行われたこと、当初から訴えの対象にはならないと「門前払い」を主張してきた越谷市を最後まで当事者として引っ張り続けたこと、などの面で一定の成果もありました。

■職権による「調停」への移行  裁定手続を進める中で、ほぼ住民側の立証や主張も出尽くし、このままでは住民側が求めるような損害賠償を認める裁定を出せる見通しが立たないという段階になって、裁定委員会からの提案により「調停」手続への移行が双方に対して打診され、具体的な「調停条項」及び「協定書」の内容についての検討が行われるようになりました。そして、今年4月20日に開催された第1回調停期日において、「公調委平成16年(調)第1号越谷市における印刷工場からの悪臭による健康被害職権調停事件」の調停が成立しました(調停条項及び協定書の主要な項目は後掲)。この調停成立の結果、責任裁定申請については取り下げられたものとみなされ、本事件は終結しました。
 住民らが求めた1人当たり200万円の損害賠償金の支払いは認められなかったものの、協定書の締結と解決金の名目で会社側からある金額の支払いがされることになったことは、一つの大きな成果でした。おそらく、住民らが申し立てに及ばなければ、行政による強制力を伴った公害防止策の実施も、名目はともあれ、解決金の支払いもないまま、泣き寝入りを余儀なくされていたのではないかと思います。

■運動の継続と経験を行かす道へ
 責任裁定の申し立てを行ってから終結まで、あっという間の1年9ヶ月でした。先日、お骨折りをいただいた弁護士にも同席していただき、勝利の美酒に酔いしれる機会がありました。その席で、常に運動の中心になってリードしてこられた女性たちの「結構楽しかったよね」との一言を聞いて、「なんてたくましく素晴らしき女性たちかな」との思いを強くしました。私にとっては、見知らぬ地での素晴らしい人たちとの出会いができて、心から感謝の念に耐えません。
 地元の住民にとっては、まだ運動は終わったわけではありません。工場進出に反対して建てた看板は、調停条項に従って撤去されましたが、工場からは依然としてトルエン臭の排気ガスが出ています。果たして、工場側が調停条項や協定書を誠意をもって履行するかどうか、今後とも監視をしていかなければなりません。
 しかし、調停のおかげで、工場側の対応は以前とは違って、誠意が見られるようになったとのことです。また、この事件のことが新聞等で報じられてから、同じような被害にあって苦しんでおられる地域の住民の方からの問い合わせや訪問があるとのことです。3年間の貴重な経験を生かし、ぜひともその人たちの力になっていただき、一日も早く、安心して暮らせる日々が取り戻せるようになることを祈っています。

■環境省、大気汚染防止法の改正へ
 政府は、浮遊粒子状物質(SPM)や光化学オキシダントの原因物質の一つである揮発性有機化合物(VOC)の工場・事業場からの排出を抑制するため、今国会で「大気汚染防止法」の一部を改正しました。この法規制対象施設の一つに、印刷施設及び印刷後の乾燥・焼付施設が加えられましたが、本事件のようなトルエン等の有機溶剤によるシックハウス症候群や化学物質過敏症などの健康被害の発生をなくすための規制にはなっていません。抜本改正が望まれます。(了)


【調停条項】(抜粋)
  1. 申請人らと被申請人会社は、平方地区ミニ工業団地対策協議会と被申請人会社が別紙のとおりの協定を締結することに合意し、被申請人越谷市は、その協定締結に協力する。
  2. 被申請人会社は、既設排出口に代わる気体排出施設として地上高16メートルの煙突を設置する。
  3. 被申請人会社は、排出口から排出される気体について、毎年2回以上、悪臭防止法第12条所定の要件を備える者に臭気指数及び使用する特定悪臭物質の濃度の測定・分析を委託し、その結果の報告を受けた後すみやかにその写しを被申請人越谷市に提出するとともに、申請人らに開示する。
  4. 被申請人会社は、毎年6月30日までに、前年4月1日から当年3月31日までの間に本社工場において使用した次の各物質毎の使用量及び大気への排出量を書面で被申請人越谷市に報告するとともに、申請人らに開示する。
    (1) PRTR法に基づき届出義務を負う化学物質
    (2) 埼玉県生活環境保全条例に基づき届出義務を 負う特定化学物質
    (3) 悪臭防止法第2条第1項所定の特定悪臭物質
  5. 被申請人会社は、近隣住民から苦情申し出を受けたときは、その情報を工場長に集約した上、その当日における機器稼働状況や気象状況のデータとともに蓄積し、発生源対策を進めるための基礎資料として社内において活用するものとする。
  6. 被申請人会社は、化学物質の排出抑制を進めるため、インキ自体を含めた各種技術の研究開発動向を注視し、その成果を積極的に導入するよう努めるとともに、その経過を申請人らに年1回説明するものとする。
  7. 被申請人越谷市は、地域環境の保全及び創造を図るべく情報を把握し、適宜対応するものとする。
  8. 関係各当事者は、地域環境の保全及び創造を図る上での相互の信頼関係の重要性を十分認識し、円満な関係維持に努めるものとする。
【協定書】 甲 大日本パックェージ株式会社
乙 平方地区ミニ工業団地対策協議会
第1条 甲・乙両者は、本協定の定める事項について、相互に信義を重んじ、誠実にこれを履行するものとする。
第2条 甲は、本社工場施設及び作業工程から発生する臭気、騒音及び振動等について特段の注意をはかり、公害の未然防止に努める。近隣住民に悪臭、騒音、振動及び健康被害等の問題が生じた場合には、直ちに解決のための対策を講じるものとする。 第3条 (省略)
第4条 甲は、本社工場の拡張増改築工事や施設の変更その他の設備の変更をする場合は、建築基準法等関係法令を遵守し、甲にその必要が生じた時は、あらかじめ乙側に通知し、乙との間で話し合うものとする。
第5条 甲は、本社工場を第三者に譲渡等する時はあらかじめ乙側に通知するものとする。
第6条 甲は、関係車両(通勤車両を含む)の交通安全に努めるとともに、駐車(路上駐車はしないこと)、通行に際しては近隣住民の日常生活に支障を来さないよう特段の配慮を行うものとする。
第7条 甲は、今後とも、化学物質の排出抑制を進めるため、インキ自体を含めた各種技術の研究開発動向を注視し、その成果を積極的に導入して改善に努めるものとする。
第8条 その他この協定に定めのない事項について新たな問題が生じた場合には、速やかに甲、乙、協議の上、誠意をもって解決対処するものとする。

お願い:
印刷工場からの悪臭や有害ガスによる健康被害に困っておられる方は、藤原宛ぜひご連絡ください。
PHS:070-5460-0568
FAX:047-373-4006
E-mail:QZG07170@nifty.com


床用ワックスに入っている有機リン化合物の毒性について
青山 美子(前橋市・青山医院医師)


 床用ワックスに含まれる有機リン化合物が、シックスクールやシックオフィスの原因のひとつとして問題となっている。ワックス業界は、床用ワックスに含まれる有機リン化合物がTBEP(tributoxyethylphosphate)であることを公表し、その毒性について1989年に掲載された論文(Txcology and Hndustrial Health)の一部を引用しで安全としているが、この論文に記載されているTBEPの毒性に関する情報を正確に伝えていない。
 この論文では、TBEPにより、アセチルコリンエステラーゼやブチリルコリンエステラーゼが、NTE という酵素よりもより阻害されやすいことが報告されている。
 アセチルコリンエステラーゼは、神経伝達物質として重要であるアセチルコリンの代謝を担っている酵素であり、この酵素が阻害されることにより、典型的な有機リンの毒性が発現することが知られている。
 米国の研究者により1999年に発表された論文によれば、ブチリルコリンエステラーゼ(血清中のコリンエステラーゼまたは擬似コリンエステラーゼとも呼ばれる)は、大きなエステル結合などを持つ化学物質の代謝を担っている重要な酵素であり、特に麻酔時に筋弛緩剤として用いられるサクシニルコリン(succinylcholine)やミバクリウム(mivacurium)の代謝を担っており、ブチリルコリンエステラーゼが有機リンにより阻害されることが報告された。
 TBEPなどの有機リン化合物に曝露した場合、ブチリルコリンエステラーゼの酵素の機能が阻害されると考えられる。加えて、手術などでこれらの筋弛緩剤が使用された場合、筋弛緩剤の代射が遅れ、呼攻麻痺などが起こる可能性が指摘されている。
 また、アスピリンの代謝ができずに毒性が出る可能性についても指摘されている。
 以上の科学論文からの情報は、TBEPの使用が原困と考えられるシックスクールなどの患者の慢性有機リン中毒の臨床例と良く一致している。したがって、TBEPなどの有機リン化合物は、床用ワックスの成分として使用を避けるべきであると考えられる。


参考
平成16年5月6日
日本フロアーポリッシュ工業会 会長松本靖彦

水性フロアーポリッシュポリマータイプに使用されている有機リン酸エステル化合物(TBEP)の安全性について

1.はじめに
 最近、有機リン酸エステル化合物の神経毒性がテレビや雑誌で報道されています。
 これらの報道では、神経毒性が必須である農薬や殺虫剤用有機リン酸エステル化合物と、フロアーポリッシュで可塑剤などの目的で使用されているリン酸トリブトキシエチル(以下TBEP と略す)が同様の化合物であるかのように一部で取り扱われています。 元来、TBEP はフロアーポリッシュで30 年以上の使用実績があり、現在も広く使用されています。その使用数量は、日本で約500t/年、欧米ではその約10 倍の量が使用されていると推定されます。
 なお、TBEP は古くから用いられている化学物質で、毒性情報等のデータも多く、化学物質としての性質も明らかになっています。

2. TBEP のリスク評価
 わが国では、既存化学物質の毒性試験が1990 年代から行われています。厚生労働省の化学物質毒性データベースによりますと、TBEP は細胞遺伝学的影響を示す Ames 試験及び染色体異常試験において、陰性を示すことが明らかになっています。
 同様に、28 日間反復経口投与毒性試験においては、その無影響量(NOEL)が100mg/Kg/日、急性毒性試験においてはLD50(ラット経口、半数致死量)が3000mg/Kg と報告されています。TBEPは難分解性の化合物ですが低濃縮性で、蓄積性は低いと判断されています。これらの数値から、TBEP の毒性は安全な領域と考えられます。
 また、WHO のICPS(World Health Organization 2002)Environmental Health Criteria 218 でも、TBEP は人及び環境に与える影響は小さいと報告されています。

3. TBEP の神経毒性作用に関して
 TBEP の神経毒性に関するデータは、既に数多く報告されています。
 Toxicology and Industrial Health Vol. 6 No.314, 1989 の中でArrington らは、TBEP の遅発性神経毒性についてニワトリを用いた単回経口投与(5000mg/Kg; ニワトリにおけるLD50 値)試験を実施し、脳中の神経毒エステラーゼ活性の減少が全く見られなかったことにより、TBEP の遅発性神経毒性のリスクはないと報告しています。

4. 結論
 これらのデータに基づき当工業会は、TBEP の毒性は低く神経毒性を誘発しない化合物であり安全性が高いと評価しています。


化学物質問題市民研究会
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