ケミカル・センシティビティ・ネットワーク(CSN) 2009年11月
化学物質過敏症患者アンジェリカ
最後の数ヶ月の生活


情報源:CSN Environmental Medicine Matters
The last few months of the life of Angelika S.
who was chemically sensitive
Authors: Wolfgang and Mona B., Silvia, CSN - Chemical Sensitivity Network November 2009
http://www.csn-deutschland.de/blog/en/
the-last-few-months-of-the-life-of-angelika-s-who-was-chemically-sensitive/


訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
Translated by Takeshi Yasuma
Citizens Against Chemicals Pollution (CACP)
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/
掲載日:2009年11月20日
このページへのリンク:
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/sick_school/cs_kaigai/Germany/CSN_Angelika.html


 化学物質過敏症−MCSは、ドイツでは病気として、また身体的障害として認められています。この病気は器質性の病気(organic disease)としてICD-10 のT78.4に記載されています。MCSの人は、適切な医療を受け、他の障害者と同じように公平に扱われ、配慮された職場を得、支援を受けることができると、人は思うでしょう。ところが悲しいことに、これらの全てはドイツでは十分ではないのです。MCSの人々は医療の配慮や宿泊施設から置き去りにされています。もし、彼らの家族が面倒を見ることができなければ、彼らは途方にくれます。重症の患者にとって、この悲しい受け入れることのできない状況は、実際にある次のような場合と同様に悲惨な結末になる可能性があります。

アンジェリカの最後の数ヶ月の生活

 6ヶ月前、アンジェリカはまだ、何とか過ごすことができました。彼女は家族とともに、ドイツのある町の郊外に住んでいました。彼女は動物が好きで、小さな動物用ホテルを持っていました。彼女はまた、他の人々にも丁寧に対応していました。

 私はいとこを通じて彼女を知るようになりました。いとこはしばしば彼女を訪問し、4ヶ月前にアンジェリカも、私自身とよく似た奇妙な症状を持っているとことがわかりました。突然、彼女は布製品柔軟仕上げ剤に耐えられなくなり、家族のシャワージェル、消臭剤、そしてその後はもっと多くのものが彼女を病気にしました。私のいとこは彼女に私のことを伝え、私たちは最初は手紙で連絡をとり合いました。彼女は化学物質過敏症に関する情報を探しており、私は彼女にそれを送っていました。その頃、彼女はもはや家具や床材にも耐えることができず、台所の床で毛布にくるまって寝ているということを私は聞きました。それから全てが信じられないほど速く悪くなっていきました。



 ほとんど毎日、私のいとこは彼女が新たに耐えることができなくなったものについて私に報告するために電話をしてきました。8月は暑いので、彼女は中庭で耐えることのできる材料でできたふとんマット(futon mat)の上でだけ、寝ることができました。しかし、それさえもできなくなりました・・・。

 環境医師に電話すると、休暇などのため彼女は数週間待たなくてはならないであろうと告げられました。そこで私も電話で彼女に連絡してみました。彼女は5分から7分くらいしか話をすることができませんでした。彼女はさらに電磁界過敏症になってしまったのです。

 そこで私は彼女に近所の自然な場所にドラブするよう助言しました。彼女は夫とともに毎朝7時から8時の間、そのようにしました。彼女は大分よくなりました。しかし、突然、それは起きたのです。呼吸困難・・・心臓動悸・・・手足の筋緊張(muscle tonus)(訳注1)減少・・・。全てが悪い方向に逆戻りしました。

 彼女はもはや電話を使うことができないので、私は代わりに彼女の夫と話をしました。彼は9月に彼女を彼のクラブの使われていないキャンプ場に連れて行き、彼らは車の中で・・・小さな車2台、彼女の車と彼の車の中で寝ました。彼の車は彼の仕事の化学物質で汚染されていたからです。昼間は彼は25km離れた職場まで車で行き、彼女は一人でそこに残っていました。夕方、再び25kmを運転して戻り、彼女のために肉などの料理をしました。車の中で夜をすごすのは・・・関節に悪いのです。

 そこで彼女の夫は再び環境医師に電話をかけ、彼らの家の中に彼女のためのクリーンルームを作るための助言を得ました。彼は部屋にタイルを張り、彼女をそこに入れました。彼は床をはがし、部屋にタイルを張り安全なチョーク・ペイントで壁を塗りました。アンジェリカはまだ昼間はキャンプ場にひとりでいました。だんだん寒くなり始めました・・・。ピュアネイチャー社から買った2台の空気清浄機と酸素供給機を設置することで、彼女は新たな安全な部屋に戻ることを試みました。その間中、彼女の夫は仕事を休まなくてはならず、状況がますます悪くなりました。彼らは彼が仕事を失うのではないかと心配しなくてはなりませんでした。

 彼女が家に戻ったときは、私のいとこはもう彼女を訪問することができなくなっていました。また、家族の誰も彼女に会うことができなくなっていました。彼女の息子が来たときに、彼女は逃げ出さなくてはならず、彼女が愛する孫達にも会うことができませんでした。

 私は、現在、長年の多種化学物質過敏症を患っていますが、私もそのような状況になる可能性があり、そのような家族との断絶が何を意味するか知っています。精神的に苦しみ・・・涙が流れ・・・時にはうつになり・・・ほとんど絶望的になり、そして実際、何が起きるのか分からない・・・そして全てが悪くなリます。

 しかし、アンジェリカは素早く学び、彼女を病気にする何事をも回避しようと試みました。彼女は有機食品を食べ、全てを変えました。しかし、家庭から全ての臭いがなくなるまでに時間がかかります。

 彼女を落ち着かせ情報提供するなど、私はできるだけのことをして彼女を支えました。そして、予約していた環境医師がやってきました。彼は、彼女は完全な多種化学物質過敏症に罹っており、6週間、毎日、(ビタミン)B1とB6を加えたB12注射を打つ治療だけを勧めました。彼女はその治療を始めましたが、全てが悪くなりました。

 アンジェリカは、たったの6ヶ月で多種化学物質過敏症の末期状態になりました。彼女はまだそのように悪くないとき−それは今年の9月ですが、私は彼女に私のところに来てその治療をするよう勧めましたが、彼女は家のタイルの部屋で治療することを望みました。

 先週の土曜日に、彼女の夫は私に電話してきて、彼らは毎晩、森や墓場に車で行かなくてはならないと私に告げました。そうしないと、彼女は呼吸ができなかったのです。暑い夏の期間、町の空気はアンジェリカには耐えられなかったのです。毎晩、彼女は心臓の動悸、呼吸困難、その他多くの症状がが起こりました。私は私の所にくるよう勧め、彼らは10月25日(土曜日)9時にやってきました。

アンジェリカの生活 最後の日々

 彼女はマスクを付け酸素吸入をしながら全く衰弱した状態で到着しました。私たちは彼女をベランダに横たえさせました。

 私にとっては、彼女の衣類は彼女の環境により全く汚染していました。私は離れていなくてはなりませんでした。そして彼女は衣類を着替えたいと望みました。私は彼女に私の衣類のいくつかを提供しましたが、彼女はそれらに耐えることが出来ませんでした。私にはよく耐えられる無香性の安全な粉石けんを使用していたのですが・・・。

 彼女を家に入れるのに、私たちは夕方、彼女にシャワーをさせなくてはなりませんでした。私は夫の古いジュヨギン・グパンツと綿のセーターを見つけ出してきました。それらは長い間、洗濯していませんでした。ソックスも・・・。

 しかし、彼女はどこで寝ればよいのでしょうか? 彼女は木材にもはや耐えることが出来ず、天然木材家具もだめでした。それが古いか古くないかは問題ではありませんでした。彼女は、私たちが用意した部屋の中の非常に古いクローゼットにも耐えることが出来ませんでした。彼女は長い間、洗ったことのないリネンを床にに敷いて、長い間屋根裏にぶら下がっていた毛布で寝ることを望みました。

 森に面した窓は一晩中、一日中、開けていました・・・。

 私たちはドイツの広い森林地帯フォゲルスブルグに住んでおり、彼女はきれいな空気で少し元気になりました。しかし、先週の月曜日は、じめじめし、霧がかかり、天気が悪い日でした。

 彼女はここにいれば少しは回復するかもしれないという彼女の希望は消え去りましたが、彼女はここでがんばることを望みました。彼女は戻ることを望まなかったのです・・・。


 彼女はベランダに横たわるか座っていました・・・。私は彼女のために料理をし、飲み水をたくさん与え・・・、彼女の心を安らかにするために、彼女を助けることが出来る全てのことを私はしました。私は彼女にCSN(ケミカル・センシティビティ・ネットワーク)のことや、反応する物質を避け、それらを遮断することにより回復した患者のことを話しました。毎日、私たちは新鮮な空気を得るために散歩に出かけました。そのときまでは彼女はまだ1時間は歩くことが出来ました。火曜日、彼女はゆっくりですが歩くことが出来ましたが、一台の車が排気ガスを出してそばを通り過ぎ、それがマスクをつけていたにも関わらず、彼女に影響を与えました。

 それから、彼女は私がしているような世話をする人がいなければ生きていくことも、そのように長い間隔絶していることも出来ないと言いました。そして、状態はますます悪くなりました。彼女は、特に夜間の湿った空気に耐えることが出来ないために、もはやここにとどまることができるという希望をなくしました。彼女はもはや食べることも飲むことも拒絶しました。彼女は絶望に陥り、彼女の粘膜は彼女の家にいたときと同じように赤みをおび腫れていました。

彼女は去らなくてはならない。しかしどこに行けばよいのか?

 私たちは多くの可能性を検討しました。スイス、北海、・・・周囲にそれほど森のないキャンプ場跡地へ戻る・・・、アルミニウム遮蔽をする、・・・でもどのように暖めるか、・・・など。

 水曜日、午後3時、私のいとこの息子が彼女の車よりは安全で大きな車を持ってきました。彼女の夫と私たちは、さようならと言いました。

 彼らはどこに行けばよいのか知っていませんでした。彼らは何をすればよいのか知っていませんでした。そこで彼らは最初に彼女のタイルの部屋に行き、それから近くの自然な場所に行きました。

 彼女は車内の温度が5度Cになっても耐えていました。そしてその後、彼らから何も連絡がありませんでした。

 木曜日の午後、彼女の夫は仕事と食糧品の買い物に行かなくてはなりませんでしたが、彼女は自殺していたのです! 私はそのことを金曜日の夕方まで知りませんでした。それが彼女の夫の意思だったからです。

 私たちは、この愛すべき人・・・ひとりの人間について深い悲しみに陥りました。もし彼女のようなケースでドイツに避難施設があれば、彼女はまだ生きていたでしょう。もし、アメリカのダラスにある環境健康センターにあるようなクリーンルームを持った診療所がひとつでもあれば・・・。もし、化学物質過敏症であると早くに診断することができた医師がいたなら・・・。もし、なぜこのようなことが起きているのか知らない親類からの支援があれば・・・。

 この環境病についての無知と不寛容は止めなくてはなりません。これらはマーチン・ポール教授(訳注2)のような科学者やその他の人々によって述べられている病気なのです。これらの病気は確かに存在するということはよく知られていることなのです。

 私は7月以来、二人の自殺を見ています。

  • 二人の大切な人間は果てしない絶望のために、何をすればよいか分からなかったのです。
  • 二人の人間は家族の負担を感じていたのです。
  • 二人の人間は彼らの命を必死で生きたのです。

 私たちはアンジェリカを悼み、またひどい多種化学物質過敏症を持った人を助けることが出来なかったことにショックを受けています。

 親類の方々の苦しみが和らぎますよう、そしてその苦しみは永遠ではないという希望を見つけますよう、神に祈ります。

 このようなことは永久にあってはならないことです・・・。

 このような苦痛はいつかなくなることを、そしていつか失った全てのものを回復しますよう・・・。

著者:Authors: Wolfgang and Mona B., Silvia, CSN - Chemical Sensitivity Network November 2009

各国語版

訳注1:筋緊張
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

訳注2:マーチン・ポール博士
ポール博士のプレスリリース 2009年10月 多種化学物質過敏症の発症 有害化学物質への暴露により引き起こされる疾病



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