レイチェル・ニュース #789
2004年4月15日
予防原則に対する批判に答えて−その1
ピーター・モンターギュ
Rachel's Environment & Health News
#789 -- Answering Critiques of Precaution, Part 1, April 15, 2004
by Peter Montague
http://www.rachel.org/?q=en/node/6464

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/
掲載日:2004年4月26日
このページへのリンク:
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_04/rehw_789.html

(2004年4月15日発行)
ピーター・モンターギュ( Peter Montague )

 予防原則(precautionary principle)は環境と健康についての意思決定を行うための新しい方法である。予防的取組み(precautionary approach)の目的は50年経っても後悔することのない決定を、今、することである。
 予防的取組みが知られるようになるにつれ、新しい考え方に対して常のことであるが、それは研究され、批判もされるようになってきた。
 ここに、予防的取組みに対するよくある批判を示し、その批判に対する我々のいくつかの回答を提示する。当然のことながら、我々の回答だけがその批判に対する唯一の回答というわけではない。

 話を進める前に、我々は予防的取組みが意思決定における旧来のやり方とどのように違うかをはっきりさせる必要がある。(私は、それを旧来のやり方と呼ぶが、その理由はそれが世界の多くの場所で新しい予防的取組みに置き替えられているからである。しかし、アメリカのほとんどの分野ではいまだにこの旧来のやり方が使われている。)

 意思決定における旧来のやり方は、どのような行為に関しても (例えば、ガソリンにMTBEを添加すること、地中に放射性廃棄物を埋めること、又は森林に新しい伐採材搬出道路を作ることなど) ”リスク評価” を実施できるということを前提にしていることである。このリスク評価によりその行為から生じる危害の見込みと大きさを知り、その行為に関して限界を設定することで、その行為が ”許容できる” 程度を超えることを防ぐとしている。まれにしか起こらない又は不明な危害の場合には、旧来のやり方は、これらの隠された危険性について、不愉快で深く傷つけられるがしかし受け入れ難い程に高価又は苦痛ではないということを我々が知るようになるということを、前提としている。  旧来のやり方は、人々と企業は、第三者が危害が起きているということを証明できるまで、そのためには冗長な議論が始まり結論にいたるまでに10年を超える年月と数百万ドル(数億円)の金がかかるが、 (それが合法的である限り) やりたいことを何でもする権利があるという前提に立っている。このシステムでは、代替の行為が検討されるためには、その前に危害が起こるかまたは危害が起こることが証明されなくてはならない。鉛添加塗料、加鉛ガソリン、そしてアスベスト等による甚大な危害が思い起こされる。

 結論として、旧来のやり方は、まず、 ”どの程度の危害なら許容できるか” 又は、 ”どの程度の危害なら何とかなるのか” を問い、次に、危害をそれらの範囲内に収めるために行為に制限を加えようとする。そして危害の立証責任は危害を受ける側に置かれる、すなわち、代替案が検討されるためには、その前に危害を受ける側は危害を受けるているということを証明することを求められる。  予防原則はそれらとは異なるやり方で意思決定を行う。人はもっと危害を防ぐことに目を向ける。
 様々な形で予防原則は国際条約や協定の中で広く採用されており[1]、アメリカ政府によってすら、環境と開発に関する1992年のリオ宣言に署名することで、公式に採用されている。[2]  (残念ながらアメリカはまだその約束を実行していない。)

批判 #1:予防原則についての記述は様々にあり、意味がない。

回答 #1:
 予防原則の全ての記述の中に、3つの共通の要素がある。
  1. もし、然るべき疑いが存在するなら (If we have reasonable suspicion of harm)
  2. 科学的な不確実性が存在しても (accompanied by scientific uncertainty, then )
  3. 我々は全て危害を防ぐ行為を起こす義務がある (we all have a duty to take action to prevent harm)
 予防原則は我々がどのような行為をとるべきか示すものではない。それは何かを禁止したり止めたり、あるいは規制することを我々に示すものではない。しかし、我々の目的は危害を防ぐことにあるという前提の下に、役に立つかもしれない行為について我々は一致を求めて議論を展開する。[3]:
  • 目標を設定する。
  • 危害が最も少ない取組みが望ましいという期待の下に、この目標を達成するための全ての合理的な代替案を検証する。
  • 立証責任は、新たな行為又は技術の提案者に移行する。彼らは彼らの提案する行為の予想される結果についての情報を生成し、その行為が実施されたならその結果について監視し、報告し、生じた危害に対し支払いをすることに合意し、必要応じてその修復に責任をとるという義務がある。
  • その決定によって影響を受ける人々がその決定に参画できるようにしなくてはならない。
このように、予防原則は現実の世界で人々が使用できるよう科学的に十分に定義されている。

批判 #2:予防は必要ない。現状の規制はよく機能しており、それを変える必要はない。

回答 #2:
 ”旧来のやり方”のために、我々が現在支払っており、問題解決のために闘っている多くの事例がある。例えば、漁業資源の枯渇;放射能からの危害;ベンゼン、アスベスト、PCB (ポリクロリネーテドビフェニール) への曝露;地球のオゾン層破壊;人工ホルモン、ジエチルスチルベストロール (DES) への曝露;抗菌剤や成長促進剤の使い過ぎ;ガソリン中の鉛及びその代替品としてのMTBE;船底の防汚塗料中のトリブチルスズ;五大湖における化学物質汚染、などである。
 このリストは、まだまだ続く−サケの汚染と枯渇、水道水中の多くの低レベル化学物質;歴史上の絶滅率の100から1000倍の種の喪失:アメリカ西部を含む世界各地での水不足;ぜん息、糖尿病、神経系障害、小児がんの増加、等など。[4]

批判 #3:予防的取組みはゼロリスクの達成を求めていが、それは実現不可能である。

回答 #3:
 予防原則の主張者は、現代の技術は常にリスクを伴っており、ゼロリスクは実現できないことを理解している。予防の目標はより少ないリスクであり、ゼロリスクではない。
 しかし、予防的取組みはリスクに対し新しい方法で対応する。上述したように、 ”旧来のやり方” は ”どの程度の危害なら許容できるか How much harm is acceptable?” と問うが、予防的取組みでは ”どのくらいの危害を避けることができるか How much harm is avoidable?” と問う。
 予防原則は、我々が非常に価値あると考えるものが脅威に曝され、予防的及び保護的行為を必要とする時に、その脅威を避けるために又はその脅威が危害として現実のものとならないようにするために、必要となる。[5]
 予防原則は、危害が拡大し、深刻で、不可逆的となるかもしれない時に、特に必要となる。予防はまた、容易に避けることができるどのような危害についても有効である。結論として、 ”後悔するより安全を Better safe than sorry.” であり、 ”早めのひとかがりが9人を救う A stitch in time saves nine.” である。

批判 #4:予防原則は非科学的である。

回答 #4:
 予防原則は全ての入手可能な科学に対応してそれらを使用する。非科学的なものはない。
 ”旧来のやり方” との主要な違いは科学的不確実性に対する対応の違いである。旧来のやり方は、科学が危害を証明するまでは科学的不確実性を青(安全)信号と見なす。
 予防原則は科学的不確実性を黄(注意)信号、ある場合には赤(危険)信号と見なす。予防原則は、科学的不確実性はそれ自身が懸念されるべき理由となると考える。科学的不確実性が危害の合理的な疑いと結びついた時に、予防的行為が正当化される。
 ビルから煙が渦巻いて出ている時に、我々はその煙の原因を100%理解するまでその状況をただ調べるだけなのか? あるいは、我々は直ちに消防署に電話し(防止的(preventive)行為)、一方で状況をもっと調べるであろうか?
 ある批判家たちは、予防的取組みが科学的不確実性に注意を払うということのために非科学的であると感じているように見える。しかし科学は常に、分かっていることと分からないこととを注意深く区別し、不確実性は科学の通常の一部であるということに注意を払っている。
 市民として、不確実性に注意を払うことは常識である。もし我々が行っていることが確かでないならば、注意深く進めなくてはならない。

批判 #5:予防原則は進歩を止める。もし1890年代に予防を我々の指針として採用していたなら、自動車を開発することはできなかったであろう。

回答 #5:
 1890年代、人々は馬に替えてもっとよい輸送手段を必要としていた。もし1890〜1900年に予防的取組みが採られていたなら、その当時可能であった代替手段が検討されていたであろう。例えば、汽車、乗合馬車、電気トロリー車、ケーブルカー、電気自動車、蒸気自動車、そして内燃機関によるガソリン自動車などである。
 残念ながら、1900年には少数の人々だけが決定に参画して、彼らは内燃機関によるガソリン自動車の開発を選択し、後に競合するトロリー車と汽車を買収して破壊することとした。今日、我々はこれらの決定の結果 (地球温暖化、高速道路と車で溢れた都市、大気汚染による年間6万人の死者と交通事故による年間4万人の死者、など) と苦闘している。
 1900年、人々は輸送の新しい形態を必要としていたが、当時の意思決定において予防原則は採用されておらず、それらは退けられた。
 予防的取組みは、(もしその時採用されていたなら)、少なくとも各代替案のリスクと便益について人々に開かれた検討を求めたであろうし、最も危害の少ないものを選んでいたであろう。
 そのようなプロセスをとれば、我々全てが輸送手段として馬を使用し続けるということはなかったであろうが、今、高価で有害であることが証明されているために、その代替に取り組んでいる今日の輸送手段(自動車)ではない別の輸送手段を開発していたかもしれない。

批判 #6:予防原則は革新の息の根を止め、雇用を悪化する。(批判#5と似ている)

回答 #6:
 とんでもない。予防原則は、環境と人間の健康への危害を最小にしつつ我々の必要を満たす新たな方法を探すことにより、すでに技術的革新に刺激を与えている。
 多くの現代技術は生物との折り合いが悪く、自然から学んだ我々の原則に基づいたより新しい技術で置き換える必要がある。予防は”グリーン・ケミストリー”、”グリーン・エンジニアリング”、”グリーン・デザイン”に対する動機を与える。
 我々は輸送手段を必要とする。しかし、恐らく最良の答えはガソリンを大量に消費する自動車ではないであろう。我々はエネルギーを必要とする。しかし、恐らく最良の答えはもっと多くの石炭を燃やしたり、原子力発電所でもっと多くの手に負えない放射性廃棄物を生成することではないであろう。我々は食糧を必要とする。しかし、化学肥料、農薬に頼りすぎた農場や遺伝子組み換え穀物は、非常に高価につくので最良の答えではないであろう。
 人間が必要を求めることに変わりはなく、それらは一つの方法により、又は他の方法で満たされるであろう。問題は、我々が必要性を満たすときに、地球に危害を与え、我々の子どもたちの将来を損ねることがないかどうか、又は、自然と調和を保って生きていく方法を見つけることができるかどうか、ということである。
 企業家が自然と折り合いのよい先端技術を開発することは、企業家自身のために、そして他者に対して素晴らしい機会を見出した(作り出した)ことになる。
 輸送業、製造業、農業、そしてエネルギー・システムは全て、自然を征服するということではなく、自然と協調するということに基づいて、徹底的に再構築する必要がある。雇用機会の創出は明らかに多大なものであろう。[6]
[続く] ピーター・モンターギュ

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[1] 予防という言葉は現在、多くの国際条約や協定で採用されている。例えば、北海宣言(1987年)、オゾン層議定書(1987年)、第2回世界気候会議大臣宣言(1990年)、欧州連合を作りだしたマーストリッヒ条約(1994年)、国連海洋法(2001年)、生物安全性に関するカルタヘナ議定書(2000年)などがその一例である。

[2] 環境と開発に関するリオ宣言(1992年):宣言の原則15では次のように述べている。 ”環境を守るために、予防的取組み(precautionary approach)は、広く国家によってその能力に応じて適用されなくてはならない。深刻な又は不可逆的な損傷を与える恐れがある場合には、十分な科学的確実性がないことを、環境の劣化を防ぐためのコスト効果のある措置を遅らせる理由に使用してはならない。”
 コスト効果とは最も安いコストを意味する。下記ウェブサイトで入手可能である。
http://www.rachel.org/library/getfile.cfm?ID=377

[3] Carolyn Raffensperger and Joel Tickner, eds. Protecting Public Health and the Environment; Implementing the Precautionary Principle. Washington, D.C.: Island Press, 1999.

[4] Poul Harremoes and others, Late lessons from early warnings: the precautionary principle 1896-2000 [Environmental Issue Report No. 22] (Copenhagen, Denmark: European Environment Agency, 2001). Available at (3-megabyte file):
http://www.rachel.org/library/getfile.cfm?ID=301

[5] Carl Cranor, "Some Legal Implications of the Precautionary principle: improving information-generation and legal protections," European Journal of Oncology (2003; Supplement 2), pgs. 31-51.
http://www.rachel.org/library/getfile.cfm?ID=373

[6] Frank Ackerman and Rachel Massey, Prospering with Precaution; Employment, Economics, and the Precautionary Principle (Medford, Mass.: Global Development and Environment Institute, Tufts University, 2002). Available at
http://www.rachel.org/library/getfile.cfm?ID=218



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