レイチェル・ニュース #767
2003年4月17日
南行き列車で北を歩く (*) − その2
デービッド W. オール (**)
#767 - Walking North on a Southbound Train, Part 2,
April 17, 2003
by David W. Orr**
http://www.rachel.org/?q=en/node/5669

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会
掲載日:2003年7月11日
このページへのリンク:
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_03/rehw_767.html


2003年7月3日発行

 何をなすべきか? この問いに対する単純なあるいは明確な答はないであろうが、手を付けなくてはならないいくつかの事柄があると私は強く考える。
 第一に、我々は保守派とか愛国者などという言葉を世間が使うのを止めるよう求めることである。これらの言葉は勝手に使われているだけで、正しく正確な意味で使われていない。
 例えば、保守派(conservative)という言葉は、地球に対し取り返しのつかない危険をおかそうとしている人々を指しているのではないか? 何も保守しようとしないのだから、彼らは保守派ではなく、むしろ地球規模での破壊者である。
 2本のアメリカ国旗と”神よ!アメリカに恵みを”と書いたステッカーをバンパーに貼り付けたスポーツカーで街に繰り出して来る輩を愛国者とみなせるのだろうか? 彼らは真の愛国心からそのようなことをしているのではなく、楽しんでいるだけである。
 偉大で高貴な言葉が、政治的にも知的にも愚の骨頂によって如何におとしめられ、汚されていることであろうか。この言葉の持つ真の意味を守れなければ、我々は地球環境その他を守ることはできない。

 第二に、正しい共通語を維持することは、人々の明敏な知性を養うことに大きく依存し、そのためには現在以上の良い教育が必要であるということである。しかし、現在の教育は、試験に受かるとか、世界経済の中で、”生涯利益”をあげることなどと、小さな目的に矮小化されている。教育がたどってきた道は、高度に技術的で専門化されただけで、若い人々の人間としての才能を十分に引き出すことを目的としていない。我々の国は専門家と技術者の国になったが、幅広い教育を受けた明敏な人々の国ではなくなった。
 学者達は、”専門知識”や自分達だけが理解できる理論、複雑な方法論に明け暮れ、賢い市民に有用で幅広い知識には見向きもしない。その結果、歴史や言葉の意味、事柄の本質について知る人がだんだん少なくなり、政治的哲学についての見識を持つ人が少なくなった。教育について着手すべき時は熟している。

 第三に、我々は政治的混乱ほどには環境的混乱を経験していないということである。人々の大部分はこぎれいで快適な住環境を子孫に残したいと考えているが、これらの望みは、本来は庶民の希望を政策に反映すべき政治の機構によって阻害されている。
 我々は世界のために民主政治の欠陥を正し、恐らく徹底的に作り直さねばならないであろう。このことは、この国の建国者たちが予想もしなかった問題に立ち向かうということを意味する。
 全ての階層が政治に参画する仕組みは、だんだん複雑で混乱したものになり、近づきがたいものとなっている。そして、大量消費社会では、我々全てはよき市民であるというより、よき消費者となってしまい、このことは我々自身の堕落を容認することである。
 しかし、全ての階層の人々に対し、政治的プロセスと政府に関心を向けさせることは容易なことではない。

 第四に、マジョリ・ケリーが言うところの”資本の神性”をとりまく神話を明らかにし、企業及び資本の流れに対して民主的な管理を行なう必要があるということである[1] 。
 我々は、かつて西欧的民主主義をうち立てるために革命戦争を戦った。しかし、まだ職場及び資本の所有権に関する民主化は行なわれていない。これらは、不合理であるにもかかわらず、君主制時代からの疑う余地のない権利として、そのままとなっている。
 企業は合法的なのだから、公の審査、管理、あるいは法規制は及ばないという仮定は馬鹿げているし、正しくない。最近の企業スキャンダルは19世紀後半の悪徳資本家時代そのままに、不法行為、私的流用、政治的堕落の繰り返しである。
 その解決のためには、企業憲章のもとに公認免許制度を実施し、もし企業が憲章の条項に違反した時には免許を取り消すことができるようにすることである。
 もし、個人所有制度がよいことならば、それは広く拡張されるべきであり、超富裕層といえども制限されるべきではない。全く同様の論理で、我々は、政治、企業キャンペーン、及び民主制度及び公共政策を腐敗させる車、道路、化石燃料、原子力発電所などへの資金援助から腐敗した金の影響力を排除しなくてはならない。

 第五に、政治改革に積極的に参画し、時には怒る市民が必要であるということである。例えば1858年のイリノイ州の農民や市民達である。彼らはリンカーンとダグラスの奴隷制と地方分権主義に関する討論を聞くために何時間も立ちつくしていた。それらの討論は注意深い論拠と雄弁と機知にあふれたものであった。
 喝采し、笑い、そして不満の声を上げる市民達は、言ってみれば、議論の流れを追い、そこで述べられることよく聞いていた。後には、これらの議論のために、あるいはこれらの議論が理由で死ぬものもいた。彼らこそが市民であり、彼らはその大義のために犠牲となることをいとわなかった。
 現在では、問題は地球規模に拡大し、その結果は未来にまで影響を及ぼすようになったのに、政治的議論は尽くされず、宣伝に委ねている。市民が知らされる情報手段はますます独占化され、操作されるようになってきた。
 投票する手間をかける市民は半分かそれ以下である。国民の無関心と政治的無能はよいことである、あるいは少なくとも許容できると信じている人々もいるが、私はそのようなことはない。もし我々がこのようなことを変えない限り、この無関心と堕落は民主的政府と健全な民主主義に依存する全てを破滅させるであろう。

 第六に、我々は人々の想像力をかきたてるような積極的戦略を立てる必要がある。人々は、我々が何に反対し、何に賛成しないかを知っていると私は信じている。そして止めさせなければならないことはたくさんあるが、始めなくてはならないことは何であろうか?
 その問いに対する答えは、国土の利用、建物、エネルギー、輸送、資材、水、農業、林業、都市計画などに適用される、いわゆるエコロジカル・デザインと呼ばれるものを形成する課題の中に存在する。この30年以上の間、我々は、持続可能な社会を築くために、アイディアや科学、技術などを発展させてきた。
 人々はこれらの事柄について部分的にしか知らず、一貫した実際の問題としてとらえていない。このことは、環境保護の場にいる者の責任であり、我々は人々に対し、技術に裏付けられた人間的及び経済的優位性、きちんとした計画、一貫した目的、そして先見性をもった積極的な問題意識を提示することを始めなければならない。

 最後に、我々は、現在以上に指導者たちに期待をかけなくてはならない。このように真の指導力の必要性が求められたことはいまだかつてなかった。我々は、無知、悪意、貪欲、無能、そして近視眼的な人々による支配を望まない。
 もし我々が10年進んだ努力目標、E.O.ウィルソンが言うところの”ボトルネック”を目指すのなら、我々は偉大な能力、明晰な頭脳、精神的な深さ、勇気、そして展望を持ち合わせた指導者を必要とする。我々は、文化、宗教、地理、時間の区分を超えて我々を結びつけることのできる指導者を必要とする。
 我々は、我々とともに矛盾を解決し、化石燃料を太陽エネルギに早急に切り替え、地球の環境破壊を食い止め、そして、全ての人々に対し避難所、食糧、医療、きちんとした生計、教育を用意する権限を我々に与えてくれる指導力を必要としている。
 我々は、地域の文化、経済、知識を保護し敬う新しい展望とともに、古い伝統に対しても真の約束を果たせる指導力を必要としている。

 我々を導こうとする人々が、まずヒロシマの爆心地を訪れ、公に”今後、二度としない”と誓うような、そのような社会を想像しよう。我々を導こうとする人々が、アウシュビッツの殺戮現場を訪れ、公に”今後、二度としない”と誓うような、そのような社会を想像しよう。我々の指導者が、ボパールを訪れ、犠牲者に”本当にに申し訳なかった。このようなことは世界中のどこでも決して起してはならない”と言う、そのような社会を想像しよう。
 これらの巡礼指導者が、愛、親切、寛大、犠牲、同情、賢明、生態学的工夫、先見があるところを訪れる、そのようなことを想像しよう。

 我々を導こうとする人々が、人間の行為によって破壊された世界中の場所を特定し、それを再生するのを手伝う、そのような社会を想像しよう。アラル海、インドのハラッパン地域、レバノンの森林、中東の肥沃な表土、チェサピーク湾、北大西洋のタラ漁場のように再生するのに1000年の年月を要するであろう場所もある。
 日々の喧騒に向けられている我々の目を、はるかかなたの水平線上に向けさせるのを助けてくれる人々がいる、そのようなことを想像しよう。

 チェコの大統領バクラフ・ヘイブが示したような謙遜した指導者を想像しよう。「いつか、私は、自分の自信が揺らぎ、謙虚になってきた。・・・日々、私は場遅れし、この仕事は勤まらないのではないかと不安になった。私は期待に応えられないのではないかと、仕事に対する資質に欠けることが発覚するのではないかと、一生懸命やっているのに失敗するのではないかと、そして、信頼をなくして、現在行なっていることを行なう権利失うのではないかと恐れるようになった」。

 自己弁護する現実主義者は、頭が混乱しているので、よりよい指導者のアイディアを捨て去るであろう。あるものは地球規模の陰謀をその中に見るであろう。先見の明のある指導者は共感の意を表わすであろうが、自身をさらに向上させるための時間はないというであろう。そして指導力のない人々はそのことに少しも注意を払わない。しかし、我々を指図するのは彼らではない。
 我々は、多くの変化はあるが共通の課題として取り組む地球の市民である。我々は、我々を導こうとする人はその仕事を行なう価値のある人であることを主張する権利がある。
 そのような時が来ることを想像しよう。我々全員が北を目指す汽車に乗れる日が、遠からずやってくることを想像しよう。

デービッド W. オール (**)

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(注*)
 Conservation Biology Volume 17, No. 2, April 2003, pgs. 348-351からの転載。
 タイトルはピーター・モンターギュ、レイチェル・ニュース#570(1997年10月30日)による。

(注**)
 デービッド W. オールは、オハイオ州、オバーリンのオバーリン大学環境研究計画の議長である。
E-mail: david.orr@oberlin.edu

[1] Kelly, M. 2001. The divine right of capital. Barrett-Koehler, San Francisco.

[2] Havel, V. 2002. A farewell to politics. The New York Review of Books 24 October, pg. 4.



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