レイチェル・ニュース #734
2001年9月27日
恐怖を前にして考えること
ピーター・モンターギュ
#734 - Thoughts In The Presence Of Fear, September 27, 2001
By Peter Montague
http://www.rachel.org/?q=en/node/5390

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
掲載日:2001年10月27日
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_01/rehw_734.html



 我々の環境保護運動に関するシリーズは今回は中断し、ウェンドル・ベリーが9月11日のニューヨークとワシントン、及びペンシルベニアで起きたテロについて書いた小論を紹介することにする。

 ウェンドル・ベリーはケンタッキー州ヘンリー郡に住む、農民であり、記者であり、環境保護運動家であり、また教師でもある。彼の著書は共著も含めて、『家庭経済学』(1987)、『アメリカの動揺:文化と農業』(1996)、『もう一つの回転方向』(1996)、『豊かな土地の恵み』(1983)などがある。

 紹介する記事は、ウェブマガジンのオリオン・オンラインに、”アメリカについて考える:危機についての記者の意見”という特集記事に発表されたものである。この特集記事に投稿する記者の数は現在も増え続けている。詳しくはhttp://www.oriononline.orgを参照下さい。

恐怖を前にして考えること
  ウェンドル・ベリー

1.9月11日の恐怖についての記憶は、技術と経済についての疑いない楽観主義がその日をもって崩れ去ったということの記憶とともに、やがていつかは消え去るかもしれない。

2.この楽観主義は、我々が前例のない繁栄を次々にもたらす”新しい世界秩序”と”新しい経済”の中にいるという主張に基づくものであった。

3.この繁栄を信じている有力な政治家や企業経営者、投資家達は、この繁栄の恩恵を受けるのは世界中で数%の人々であり、アメリカの中でも一握りの人々だけであるということ、またこの繁栄は世界中の貧しい圧迫された人々の労働の上に築かれたものであるということ、そして、この繁栄がもたらす環境への負荷が全ての人々の生命を脅かしているということを認めようとはしなかった。

4.先進諸国は”自由市場”を神のように崇め、農民や農地、地域社会、森林、湿地、草原、生態系、水系などを生け贄として捧げた。先進諸国は通常の汚染や地球温暖化はビジネスを行っていく上での通常のコストであるとして受け入れた。

5.その結果、世界中で、経済的集中の排除や経済的正義、生態系の保護のための努力がなされた。我々は、9月11日の出来事により、この努力が今まで以上に必要であると感じている。我々先進工業国の市民は、自己を省みて誤りがあればこれを正すという努力を続けなくてはならない。我々は我々の誤りを認めなくてはならない。

6.最近数十年間の経済及び技術至上主義は、全てのことについて革新に依存している。我々はひとつの技術革新から次の革新へと歩を進めて行き、それにより経済が成長し、何事もよりよくなるということは理解できるし、望ましいことであろうし、さらには、必要なことであろう。しかし、このことは、かつては価値のあった過去や過去の全ての革新を、最早価値のないものとして憎悪することを暗示している。

7.我々は、今、起こっているいるようなことについて、何も予測することはできなかった。我々は、次々になされてきた我々の革新が、たちまちのうちに、より大きなもの、例えば新しい戦争のようなもの−そこでは我々が無視してきた短所や危険を見つけだして活用することにより、我々の今までの革新を我々に背かせる−にとって代わるということを予測することはできなかった。我々を自由にしてくれるはずだった情報と輸送の網に捕らえられるなどとは、我々は、かつて考えたこともなかった。

8.また軍備拡張と戦争科学が役に立ち、国家政府が不気味な戦力を持って合法的に大規模殺戮を行うことが認められるだけでなく、悪党国家(rogue nations)”、反体制または狂信的集団または個人が行う殺戮は、国家が行うものほど悪質ではないにもかかわらず、国家によって違法であるとされるなどということを、我々は想像もしなかった。

9.我々は技術は善であるという信仰、すなわち、技術は邪悪のために、敵のために、破壊のためには使用することはないという信仰を無批判に受け入れてきた。

10.その結果、我々は、世界に広がる経済、複雑な技術、そして中央集権的な制度は、テロや破壊活動や戦争に対して不死身であり、”国防”により保護されているということを信じてきた。

11.我々は今、明確で避けることのできない選択をしなければならない。我々は、長く張り巡らした無防備な情報ラインと補給ラインによって支えられた、無制限の企業の自由市場に基づく地球規模の経済制度を推進し続けることもできる。しかし、そのような経済制度は、莫大な費用のかかる世界中の警察力によって保護される必要がある。それは一国家によるものかも知れないし、数カ国、あるいは全ての国によるものかもしれない。そのような警察力は、各国市民の自由とプライバシーを侵害するに十分なほど、正確に機能するであろう。

12.あるいは、我々は、各国と各地域が、それぞれの地域で自分たちの生活必需品を十分にまかなえるようにすることを目指した分散型世界経済を推進することもできる。この制度は国家間の通商を排除するものではないが、それは各地域での余剰物の通商に移行するものである。

13.今後の我々市民に対する第2のテロ攻撃に次ぐ、最も危険なことは、以前のように企業の世界規模戦略に基づく”自由市場”を、自由や人権の対価などお構いなしに、自分自身で深く考えることもせず、世間での討議も行わずに、推し進めよとすることである。

14.このことが、常に国家の危機時台頭する”雄弁が思想にとって代わる”という誘惑に官民が一体となって抵抗しなければならない理由である。普通の市民にとって、あのような大惨事が起きた時に、ワシントンでは実際に何が行われていたのかを知ることは非常に難しい。我々が知ることができるのは、重苦しい困難な検討が行われたのであろうというだけである。しかし、我々が政治家や官僚、報道官から聞いた話では、我々が現在直面している複雑な問題を、統一、安全保障、正常化、そして報復という問題に置き換えようとする傾向があるということである。

15.個人の自己正義の様に、国家に自己正義を期待することは間違っているし、ミスリードする。今、我々がテロに対して起こすどのような戦争も、我々が全面的に参戦した戦争の歴史に新たなページを刻むことになる。民間人を攻撃目標とする戦争を起こせば、我々は最早無実ではない。近代のそのような戦争は北軍の将軍、ウィリアム・ティカムサ・シャーマンによって始められ、合法化された。彼は、民間人を有罪として軍が懲罰・処刑することを支持した。我々は、このような政策を否認したことはなかった。

16.9月11日の事件が起きてからは、政府が世界経済を促進し、それに参加することができると同時に、国際条約を破棄したり、道議に関する国際協調から身を離して、自己の利害に基づき勝手に行動することができると想像することは間違っている。

17.そして、我が国の憲法の下においては、危機または緊急事態ならば、どのような政治的抑圧も正当化できると考えるのは確かに基本的な間違いである。9月11日以、来非常に多くの世間の声が”我々のための発言”として、アメリカ人は”安全保障”のためには自由の制限を甘んじて受け入れると大胆にも述べた。そのように考える人もいるであろうが、そうではなく、我々の憲法で保証された権利を制限するくらいなら、安全保障の縮小と世界規模の通商を縮小することの方をむしろ選ぶという人もいる。

18.我々が我々を憎む人々によって深刻で残酷な攻撃を受けた今、そして我々がそのような人々によって容易ならぬ脅しを受けている時に、平和の道を説き、キリストが言った汝の敵を愛せという言葉を思い出すことは難しいかも知れない。しかし、それが不要だというわけではない。

19.今回の攻撃はパールハーバーの攻撃と同一に論じることはできないが、今でも我々はパールハーバーを忘れてはいない。我々、人類はほとんど絶え間なく戦争の被害に遭ってきたが、どのような戦争も平和をもたらすものではなかった。

20.戦争の目的と結果は、必ずしも平和ではなく、勝利である。そして勝利が暴力で得られた場合には暴力は正当化され、将来の暴力に繋がる。もし我々が革新について真剣に考えるのならば、我々は絶え間ない”戦争を終らせるための戦争”を何か異なる新しい方法に変えていく必要があるのではないだろうか?

21.平和を導くものは暴力ではなく、平和を望むことである。これは受け身なことではなく、警告であり、告発であり、実践であり、積極的なことである。我々は、戦争遂行のために金を過度に費やしてきたが、平和を求めることについては、ほとんど完全に無視してきた。例えば、我が国には、いくつかの国立の軍学校があるが、平和に関する学校はない。我々は、キリストやガンジー、マーチン・ルーサー・キング、その他の平和運動家について教えること怠ってきた。そして、今、我々は、戦争は儲かるが、平和を求めることは、安くて時には無料ではあるが、金にはならないと認めざるを得ない。

22.平和を求めることのキーは絶え間ない実践である。我々は貧しい国々を武装させ、最新の戦争技術を教えながら、彼らに平和を求めつつ、それらの国々を食いものにし、荒廃させることはできない。

23.我々は、世間やメディアに我々の敵をあざ笑う様なことをさせてはならない。もし、我々の敵が特定のイスラム国家なら、これらの敵を知ろうと企てるべきである。学校ではイスラム国家の歴史、文化、芸術そして言葉を教えるべきである。そして我が国の指導者達は、謙虚さと分別をもって、彼らが我々を嫌う理由を尋ねるべきである。

24.まず、食糧と農業経済の観点から着手する地域自給経済の理想を、我々は国内において促進し、それから海外にも広めていくべきである。我々は、世界中が生きていくために、この方法が最も確実で安全で安価な方法であると考えている。我々は、地域社会が必要とする財貨を生産するために必要な能力を損ねるようなことを黙認していてはならない。

25.我々は人々の経済生活の基礎となる自然、すなわち、土壌、水、空気を守る努力について見直しを行い、新たにし、そして拡大しなくてはならない。我々は、手つかずの生態系や水系を保護し、すでにダメージを受けているものは回復させなくてはならない。

26.現在、我々が直面している問題の複雑さは、我々の教育の概念を大幅に変えるべきであることを示唆している。教育は産業ではないし、職業訓練や産業からの支援を受けた研究開発によって産業に奉仕するためのものでもない。教育は、市民が生活をしていく上で、経済的にも、政治的にも、社会的にも、そして文化的にも責任の持てるようにするものである。このことは、我々が情報と呼んでいるもの−いわゆる脈絡がなく、従って優先順位のない事実−をいくら集めても、いくら評価しても実現できるものではない。適切な教育では、若者に実生活においてどのようなことが他のことより重要であるかを学ばせ、最重要事項を最優先で行わせることができる。

27.我々が子ども達に最初に教えなければならないこと(それは我々自身が学ばなければならないことでもあるが)は、我々は資源を無限に使い、消費することはできないということである。我々は蓄え、節約することを学ばなくてはならない。我々は、”新しい経済”を是非必要とするが、それは貯蓄と節約に基づくものであり、過剰と浪費ではない。浪費の上に成り立つ経済は本質的には希望のない暴力的なものであり、戦争はその様な経済において避けることのできない副産物なのである。
 我々は平和な経済が必要である。



化学物質問題市民研究会
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