レイチェル・ニュース #731
将来展望草案−最終回 2001年8月16日 ピーター・モンターギュ #731 - A Vision Statement -- Final Part, August 16, 2001 By Peter Montague http://www.rachel.org/?q=en/node/5372 訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会) 掲載日:2001年9月23日 このページへのリンク: http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_01/rehw_731.html 人々は、持続可能で望ましいアメリカはどうあるべきかということについての展望に、同意することができるであろうか(参照:REHN #727, #728, #729, #730,ttp://iee.umces.edu/ESDA/ 及び www.futuresearch.net)。 自らをESDA ”Envisioning a Sustainable and Desirable America 持続可能な望ましいアメリカの将来像を描く”と名乗るグループによる”将来展望草案”の第5回(最終回)を紹介する。 ESDAグループは次のように述べている。
地域市場のための地域生産により、社会的資源は強固なものになるであろう。”資本の蓄積”のところで述べたとおり、コミュニティのまさに物理的な構造が社会的な資源を生み出す働きをする。 豊富なコミュニティ空間、公園、レクリエーション空間は、社会における人々の交流を活性化し、友人関係を築き、隣人及びコミュニティに対する責任感を養う。一人だけが占有するような車のあり方はほとんどなくなり、人々は今までより小さな家に住み、ひとつの場所から他の場所へ行くにも隣人と密にふれ合うことができる。 現在(2001年)のアメリカでは、公共の交通機関は大都市のみにしか見られず、乗客同士は皆他人で、隣人ではない。このような状況下では公共の交通機関は社会的資源を築くことはできないが、2100年にはこのようなことはない。 2100年のアメリカでは、現在の我が国の繁栄をもたらしている民族と文化の多様性が維持されている。ある地域では、異なる民族性と文化が同化しているかも知れないが、これらのこともまた社会資源として寄与している。しかし、アメリカで今日見られる人種差別、性差別、地域差別、その他の偏見はなくなるであろう。 アメリカ人は、家族のためにもっと時間を費やし、家族生活の中で、バランスのよい男女の役割が培われていくことだろう。 政治形態も新たな社会資源を生み出す。2100年のアメリカは、最早、脆弱な代表制民主主義方式ではなく、強固な個人参加方式の民主主義となっているであろう。参加方式の民主主義では、人々の生活に影響を与える問題点について十分に討議を行い、問題解決をはかろうとする。今日のように、仕事が過重で、自由にできる時間がほとんどなく、お互いに見知らぬ多数の人々が住むコミュニティにおいては、このような政治参画は非現実的で、過大な願望と見えるかも知れない。 我々の将来展望では、コミュニティはもっと小さく、週の労働時間はもっと短く、人々はもっと積極的なので、参加方式の民主主義は市民の特権であり、決して煩わしくいやな仕事とは見なされていない。 もちろん、このことがうまく機能するためには、人的資源の開発のための市民教育が子供の時から、きちんと行われるということが前提となる。 このような政治参加の手法は、特に地域レベルにおいて有効である。市民は問題を討議し、それを互いに解決するのための定例会議に毎回やってくるので、例え意見が違っても、互いの強い絆が社会的資源となり、コミュニティ意識を鍛え上げる役割を果たす。 政府は、もちろん、行動を求めるし、行動するには目的が必要である。目的は市民会議で人々によって決められるが、彼らはまた、行動の規範となる将来展望を共有するようになる。この展望は固定的なものではなく、常に新しい情報と状況が取り入れられる。 もちろん、全ての問題を地域レベルで決定することができるわけではない。問題の規模によって上位の機関が必要である。 例えば、地域レベルで人々が生態系の変化に気がついても、その原因は遙か遠くの国にあるかもしれない。国家レベルでは、問題を討議し、措置を決定するために数百万の人々が集まるということは現実的ではない。従って何らかの代表制の仕組みが必要である。 しかし、もし代表者が、社会に強く関与し責任を持つ人々の直接参加によって選ばれるなら、これらの代表者達は、影響力を及ぼそうと資金提供する大企業の代表ではなく、彼らのコミュニティの真の代表となりうる。 結論 皆さんに、我々の描く持続可能で望ましいアメリカの将来展望に共感していただければ幸いである。我々の目標は、皆が同意できる将来展望を作り出すことであり、もし、ここに描かれた将来のアメリカは、住むのに望ましい所であるとは思えない人は、是非意見を聞かせていただきたい。多くの方々の建設的なご意見を期待している。 将来像を描き出すということは大仕事であり、それは今、始まったばかりである。 (将来展望草案 終わり) レイチェル編集者のコメント 100年後のアメリカのあるべき姿についての展望はこの通りである。これは最初の草案であ。この草案に対する皆さんの思いをこめたコメントをメリーランド州ジョシュ・ファーレイ大学宛メール(farley@cbl.umces.edu )でお寄せ下さい。寄せられたコメントは、他の人々も検討できるよう http://iee.umces.edu/ESDA/ に掲載される。 展望についての記述は、随時、新しい状況、知見、可能性を取り入れながら、増補改訂されるであろう。 何人かの人々はすでに我々にコメントを送ってきている。私がここで申し上げたいことは次のようなことである。
当然、我々がお互い異なった世界にいても実施できる多くのことがらがある。しかし、ひとつの重要な概念で、欠落していたことは、今週の草案紹介で簡単に述べた”地域での民主的意思決定”である。 私は、真の民主主義が、我々にとって最も必要なことがらであると考えるが、それらについて人々は、考察したり取り組んだりしたことがほとんどない。多分、我々は民主主義の中にどっぷり浸かって生きているので、”民主主義”についてほあまり考えたことがないのである。アメリカは民主主義の国であると思われているが、しかしアメリカにおける民主主義への参加とはどのようなことを意味するのであろうか。 我々は税金を払い、時には選挙で投票に行くが、それ以外は、日々の仕事のことで頭がいっぱいである。これは、まさにベンジャミン・バーバー[1] が”希薄な民主主義”と呼ぶものであり、それは我が国の建国の父達によって築き上げられて以来のものである。 しかし、時が経ち、今我々は無限に広大で、人がほとんど住んでいない未開の地で暮らしているわけではない。今、我々は新たな現実、すなわち、人間であふれる地球、限られた資源(あるものは再生可能であり、あるものはそうでない)しかない地球、限られた廃棄物しか吸収できない地球、限られた大きさの地球に、我々の生き方を合わせなくてはならない。 現在、我々が直面している主要な課題は、我々のコミュニティ(及び国家)が持続可能となるよう、すなわち、コミュニティ(及び国家)のメンバーを将来とも支え続けることができるよう、我々の生活スタイルをどのように変えていくかということである。(もし、あなたが、限りある資源が重要であると思わないならば、最近のニューヨーク、ワシントン、およびペンシルベニアの非常事態は、もし産業先進国が全エネルギーの56%を中東に依存していなければ、あるいは起こらなかったかもしれないということを自問してみると良い。) 我々には生態系の限界など分からないので、”持続可能”が意味するところを正確に定義することはできない。我々は、時とともに、その意味を明らかにしていかなくてはならない。 一冊の本を紹介したい。『地球の持続可能性と地域の政策』で、著者はトーマス・プルー、ロバート・コスタンザ、及びハーマン・ダリである。 THE LOCAL POLITICS OF GLOBAL SUSTAINABILITY by Thomas Prugh, Robert Costanza and Herman Daly (Washington, D.C.: Island Press, 2000; ISBN 1-55963-744-7). 私は、この本を今後、著者達の頭文字をとってPCDと呼ぶこととする。持続可能性について興味のある人には、この短いが中身の充実した一冊を読むことは有益である。 PCDは我々が直面する、過大消費、過大人口、化石燃料の使用、種の絶滅の問題、等は、技術的なことが問題なのではないと指摘している。もし、技術的なことが問題なら、我々はそれを数年以内に解決することができるであろう。しかし問題はもっと複雑であり、その挙動を予測することはできない。 ”結論として”PCDは、「持続可能性のために”コミュニティと国家の政治”が努力を払うことが、専門家の技術よりも、ずっと重要である。多くの専門家はいるが、最良の解決策を彼らに求めることはできない。何故なら、それらの解決策が完全で最終的なものであるかどうか、誰にも分からないからである。解決策が、環境に順応するかどうかを絶えず検証し、テストしなくてはならない。どのオプションを選択するかを決めることは、人々に影響を与えるとともに、人々の広い範囲の支援と参画を必要とする政治的な選択である。”権力を民衆の手へ”というスローガンは、それが作り出された以降の世代にとっては、新しい意味を持っている」と述べている(pg. xiv)。 PCDはさらに続けて、「生態学的及び文化的にダイナミックに対応できる恒久的な解決策などこの世に存在しないので、状況が変わるたびに、選択は何度も見直されなくてはならない。従って、持続可能性を求めての運動は、非常にに幅広い参加者が必要であり、それを可能にする政治制度が必要である。その制度は、コミュニティ レベルで、絶え間ない意見聴取、テスト、実施、そして改良を促進するものでなくてはならない。重要なことは、人々の決定に重きが置かれるような政治制度を作り上げることである。我々は、コミュニティにこそ、持続可能な世界を作り上げるための責任が存在すると信じている。”地球規模で考えろ。着手は部分的にしろ”という教えは、見飽きた車のバンパーステッカーであろうか[2] (pg. xv)」と述べている。 このことは一体、何を意味しているのだろうか?その意味するところは、我々が直面する最も重要な課題は我々の生活を民主的に管理することである。 分かりやすく言えば、貧困、環境、正義、そしてコミュニティ、等、全ての問題は、つまるところ民主的参画の失敗によるものである。我々が企業の権力や”世界化する”破壊的影響について、不平を唱えるということは、民主的意思決定(その決定によって影響を受ける人々による意思決定)の不在について、不平を唱えているのである。 我々は皆、民主主義を望んでいる。しかし、民主主義を真に機能させるためにはどのようにすればよいかを研究するために、どのくらい時間を割かなくてはならないのだろうか?互いに話し合って意思決定が行えるよう我々の地域コミュニティを再構築するために、どのくらい努力しなくてはならないのだろうか? これらは良い問題提起である。 結論として、我々は、持続可能で望ましい世界の展望を現実にどのように展開していけば良いのだろうか?我々は、民主的な業務、真の業務を地域コミュニティの中に作っていくことからスタートできる。どのようにしてそれは起きるのだろうか?我々はどのようにして、我々の社会を”脆弱な民主主義”から”強固な民主主義”に変えて行くことができるのであろうか[1] ?これこそが、我々全てが、自分なりのの方法で答えを見つけることのできる主要な問題提起である。 ピーター・モンターギュ [1] Benjamin R. Barber, STRONG DEMOCRACY: PARTICIPATORY POLITICS FOR A NEW AGE (Berkeley, Calif.: University of California Press, 1984; paperback edition 1985). ISBN 0520056167. And be sure to see Benjamin R. Barber A PLACE FOR US; HOW TO MAKE SOCIETY CIVIL AND DEMOCRACY STRONG (New York: Hill and Wang, 1998). ISBN 0809076578. [2] "Directed sustainability" means sustainability that humans choose. As PCD points out, "If we fail to achieve sustainability, nature will impose it; but we would probably prefer the version we choose." [3] We have a new section on the Rachel web site called "What's Working Now" a catalog of good ideas that are actually working somewhere in the real world. Check it out at http://www.rachel.org. |