レイチェル・ニュース #730
2001年8月2日
将来展望草案−4
ピーター・モンターギュ
#730 - A Vision Statement -- Part 4, August 02, 2001
By Peter Montague
http://www.rachel.org/?q=en/node/5367

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
掲載日:2001年9月15日
このページへのリンク:
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_01/rehw_730.html

 自らをESDA ”Envisioning a Sustainable and Desirable America 持続可能な望ましいアメリカの将来像を描く”と名乗るグループによる”将来展望草案”第4回を紹介する。(参照 REHN #727, #728, #729, http://iee.umces.edu/ESDA/, and www.futuresearch.net)
 共通の将来展望、目標を持つことが本質的である。もし、我々がどこに行こうとしているのか分からなければ、我々は目的地に到達したかどうかどうか分かりようがない。

 ESDAグループは次のように述べている。
  • あなた方がこの展望を読むために時間を割き、意見をお聞かせいただければ幸いです。
  • あなたはこの世界に住んでいたいと思いますか?
  • この展望にはあなたが同意できない部分がありますか?
  • 重要なことが抜け落ちていないでしょうか?
  • あなたのご意見をメリーランド州ジョシュ・ファーレイ大学宛 E-mail、farley@cbl.umces.edu に送って下さい

4.人的資源

 人的資源とは、個人の有する実用的な知識、獲得した技能、学習によって得た知的能力であり、その個人を生産的にし、労働の対価としての所得を稼ぎ出すために必要なものとして、従来定義されてきた。
 2100年のアメリカでは、人的資源の定義そのものが変わるであろう。そこでは最早、労働の対価としての個人の所得という観点からの生産性だけが強調されることはない。そうではなくて、社会の一員としての生産性を高める、すなわち、人々が社会の目指すゴールに寄与することの助けになる知識、技能、知的能力がまず第一に強調される。2100年のアメリカのゴールは、単に所得を稼ぎ出すということ以上のものである。

 教育は、日々の暮らしの中に統合されるようになり、それは単に、成人するまでの間、1日数時間、何かをするというようなものではなくなる。それは常に教室の中に閉じこもって行われるものではなく、学校はひとつの機関であり、物理的な場所のことではなくなる。
 一歩外に出れば、田舎と同じように都会においても、自然はすばらしい実験室である。このことは2100年においても同様で、我々のコミュニティは健全な生態系を最大限に取り込むよう設計されるであろう。
 意思決定の過程に直接関与することによって、又はコミュニティにとってためになる活動に積極的に参加することによって、市民としての責任と役割についての教育がしっかり行われるであろう。コミュニティに積極的に参加することによって市民としての責任を学ぶであろう。経済的生産に必要な技能を学ぶために、職場以上に良い場所があるであろうか?徒弟制度が技能取得の一過程として組み込まれるであろう。
 技術革新もまた教育で重要な役割を果たす。仮想学習環境も適宜取り込まれるであろうが、直接の対面教育にとって代わるものではない。

 教育と科学においては、最早、物事を各要素に分解して問題を分析するという還元主義的な手法(reductionist approach)だけがとられるということはない。還元主義的手法と分析は教育において依然として重要な役割を果たすが、しかし本当に重要なことは統合(synthesis)であり、全体論的視点に立って、問題の分析のために分解された要素を如何に再構築するかということである。
 統合は我々の生活が関わっている体系を理解する上で重要である。自然界では、個々の樹木が森となり、その森が供給する機能を作り出す。経済社会では、生産は単に原材料を製品に変換することではない。生産活動は資源を消耗し、汚染を作り出し、廃棄物を出す。しかし生産プロセスを替えれば、作業を単純化し、社会の必要性において他人と関わりを持ち、あるいは自身の創造性を表現する機会を作り出すことができる。そして社会のシステムは、単なる個人の集合以上のものとなる。

 分析と統合以上に、コミュニケーションに関する学習が重要である。コミュニケーションに長けた研究者は容易にアイディアを他者と共有することができ、そのアイディアを共有することで、さらにより良いものへと発展させていく。
 コミュニケーションの上手な作業者は、製造過程の問題を仲間と共にうまく解決することができる。
 コミュニケーションの上手な市民は、政策とその実施にドライブをかける持続可能な望ましい将来の展望を描き出すことに貢献することができる。市民がお互いに持てる知識について情報交換することにより、教育、生計、家族、そしてコミュニティは、切れ目のない終生の学習と教育の場となり、だれでもが学生であり、同時に教師であるという状況になる。

 教育は、物質世界の単なる科学的理解以上のものを重要視する。批判的な思考と研究が重要となるが、創造的な表現と好奇心も重要である。知識と科学は、中立不偏の価値を求めて努力するという姿としては最早描かれない。学生は、何を研究するかの決定は、社会に対し幅広い密接な関係を持つ倫理的な選択であるということを学ぶであろう。
 教育の求める目標は、叡智と洞察力を養うことであり、人間のあらゆる種類の活動において責任ある決定を下すことができるような円熟さを養うことである。

 労働の概念もまた変化し、その言葉自身が言外に持つ”いやな仕事”という暗示もなくなるであろう。人々は、生産に関する単純労働そのものがおもしろくない上に、レジャー時に消費するための物資を大量に生産することにより発生する問題に対し、技術を適用することのばかばかしさに気がつくであろう。企業は、望ましい作業者を確保するために、仕事そのものが毎日の生活の楽しみの一部となるよう、技術を振り向けざるを得なくなる。
 典型的な仕事は、多くの変化に富んだものであり、エキサイティングで興味あるなものであるだけでなく、個人の技能を最大限に引き出すものである。儲けのためと、今日、考えられている仕事と、ボランティアの仕事との区別がほとんどなくなる。
 誰でも市民社会に参加し、意思決定及び公共の場の維持を行うことになるであろう。これらのことは煩わしい、つまらない仕事ではなく、隣人やコミュニティとつき合う楽しい時間を過ごすこととなる。またそれは、個人の生活から時間を奪うというよなこともない。従来の”仕事”は週平均15時間くらいだからである。

 教育は、従来の”多ければ多いほど良い”ということは重要視しなくなり、経済活動としての生産、自然、人材開発、及び社会との繋がりをよりよく理解すればするほど、人々は度を超えた消費にかかる真のコストをよりよく知るようになる。
 今後100年の間に技術は進歩し、”必要量”は減少するので、働く者全てが生活費としてまかなえる賃金を社会は出すことができるであろう。各種の仕事に参画することが期待され、支援されるが、決して強制されるものではない。
 仕事は、煩わしい義務というよりも経験を積むということなので、働かない人に対する憤りはほとんどなく、むしろそのような人々は、人間として持てる能力を開発することができないといことを心配がするようになる。

 社会の目標が積極的に議論され、しっかり織り込まれたコミュニティに暮らしながら、人々は自分たちの仕事の重要性をよりよく理解し、社会の利益に貢献する責任をよりよく感じるようになる。労働に対する報酬は、コミュニティに対し最も貢献した人々、例えば、教師や幼児介護者等に、最も多く与えられる様な仕組みに変えられるであろう。

 人的資源はまた、人口に直接関係することである。2100年のアメリカの人口は、資源と生態系にふさわしい水準で安定しているであろう。

5.社会的資源

 社会的資源とは、制度、人間関係、規範など社会の相互作用の質と量を形作るものである。社会的資源とは、社会に貼り付けられた制度の単なる合計ではなく、それらを互いに支える接着剤である。

 強力な社会的資源は、今までの資源に関する議論の中で暗示されたとおり、2100年の持続可能な望ましいアメリカの将来像にとって重要な役割を演じる。
 2001年のアメリカにおいて、雇用と経済分野における支配的な社会的資源の形態は、単純に市場である。雇用主と雇用人の関係は労働の売買関係である。ほとんどの場合、雇用主の”誠実さ(loyalty)”は、人を雇用することが利益を生む限りにおいて、存在する。雇用人の”誠実さ”は、他の仕事がより高額な給料や、勤務場所、労働条件などを好条件で示さない限りにおいて、存在する。
 生産者と消費者の関係は、もっと市場ベースである。人々は金銭的に最大の価値があると感じた時にのみ製品を買う。もっとも、正直な所、広告が、製品の実際の価格と品質についての感覚を形作るのに大きな役割を果たしているが・・・。
 2100年のアメリカでは、多くの産業において労働者が経営者であったり、あるいは生産の形態が地域の市場向けであったりすることが、これらの関係を大きく変える。
 労働者が所有する企業は、株主の利益を考える会社よりも労働者の幸福により注意を払う。幸福にはもちろん利益の共有が含まれるが、それ以外にも健康で創造的であり、参加しているということ及びと自己のアイデンティティを感じさせるような労働条件も含まれる。

 全ての企業が労働者の所有になるわけではないが、多くの企業がこのよう条件を提供するようになると、他の企業に対してもそのようにしなければならないという強い圧力となる。強力な社会的資源がないと、地域市場のための地域生産はうまく機能しない。

 多くの場合、小さなコミュニティに同種の製品をつくる多くの企業が存在するということは非効率的である。このことにより、特定製品の独占供給ということになりかねない。もし、市場が、生産者と消費者の関係について従来の形態に留まるならば、高利益と低品質を生む結果に陥るであろう。
 しかし、労働者/所有者がコミュニティに住んでいれば、彼らが製造した製品に対する隣人達の価格と品質についての質問に答えなくてはならない。高品質の製品はプライドの源泉であり、低品質と高価格は、役に立たずで怠惰な印象を与え、コミュニティにおける社会的地位を弱くし、社会的資源を減少させることとなる。

 地方が発行する通貨もまた、地域に根ざす生産と消費に貢献するであろう。そのようなシステムは、ニューヨーク州のイサカ(http://lightlink.com/hours/ithacahours/ 参照)など、すでに多くのコミュニティに存在する。これらの通貨は、コミュニティのメンバーが品物の対価として受け取ることに同意し、従って社会的資源が強く機能することへの信頼によって裏付けられている。コミュニティのメンバーがその通貨を受け取る毎に、社会的資源が蓄積する。これらの通貨は国家及び世界の経済の不安定性に対し、高い自立性を持った免疫機能を実質的に果たす。

(次回に続く)
ピーター・モンターギュ



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