レイチェル・ニュース #706
2000年8月17日
環境保護への新しいアプローチ-3
ピーター・モンターギュ
#706 - Modern Environmental Protection--Part 3, August 17, 2000
By Peter Montague
http://www.rachel.org/?q=en/node/5161

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
掲載日:2000年8月27日
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_00/rehw_706.html



 時々、本当に重要で新しいアイディアが出てくることがあるし、昔からあるアイディアが重要で新しいアイデアに取り入れられることもある。”リスク評価”に代わるものとしてメアリー・オブライエンが提案した重要で革新的な”オルターナティブ評価”がこれに当たる。
 我々の組織(訳者注:Environmental Research Foundation)が彼女にこのことについての本を書いてもらったということもあって、私にはこの考え方に対し特別な思い入れがある。この本(訳者注:『環境問題についてのより良い決定−リスク評価に代わるもの』)はMITプレスから出版されたばかりである[1]。

 オブライエンの基本的な考え方は単純であり、現状を痛快に打ちのめすものである。彼女の考え方は、我々が物事を決めるに当たっては『コンシューマーズ・リポート』的なアプローチをとるべきであるというものである。
 ちょうど、有名な消費者向け雑誌が特定のトースターやテレビを推奨する前に利用出来るオプションの範囲を審査するのと同様に、全ての(公のそして私的な)決定者は新しいプロジェクトや新しい技術を是認する前に考えられる選択肢の全てを検証すべきであるとしている。及ぼす被害が最も少ない選択肢を採用する。言い換えれば、”跳ぶ前に見よ”(訳者注:諺。転ばぬ先の杖)である。

 オブライエンの考え方はしごくもっともであるから、全ての決定者はすでにそようなアプローチをとっているはずだと思うであろう。しかし工業化された世界では、物事の決定はそのように行われてはいない。全ての選択肢を検証するのではなく、決定者は一般的に自分たちが望むことを決定しようとする。
 従って彼らはリスク評価者を雇い、自分たちがしようとしていることによる被害は”許容出来る”ということを皆に納得させようとする。彼らは及ぼした被害が目に見えてくるまでに、儲けを銀行に預け入れてしまうというわけである。その時点ではもう取り返しがつかない。
 このリスク評価に基づく物事の決定の積み重ねが地球の生態系を低下させ、圧迫している。
 もっとはっきり言えば、道路を建設し、湿地を埋め立て、森林を乱伐採し、川にダムを造り、海の魚を根こそぎに乱獲し、草原を過放牧し、表土を流出させ、水を浪費し、汚染し、残留性塩素系化学物質、有毒金属、温暖化ガスそして窒素ガスを大量に環境に排出している人々によって地球の生態系は切り裂かれている。
 これらの破壊行為のそれぞれは、リスク評価によって正当化され、”許容出来る”ものと見なされている。

 時には、リスク評価は非常に形式張ったもので数学の公式や技術的データを備えた1000ページ以上にも及ぶものもある。一方、多くのリスク評価は形式も整わず、数行から成る、とてもリスク評価とは言えないような代物である。  例えば、「ヘーベル板による仕切りによって、シルト(訳者注:沈泥。砂より細かく粘土より粗い沈積土)の流出は許容範囲内に留まるであろうから、我々の護岸工事によって魚が死ぬことはほとんどない」、あるいは「食品中に含まれる天然物質の方がこの農薬よりも発がん性があるので、この農薬が食卓のコーンフレークに残留しているということを心配するのはばかげたことで金の無駄である」、等である。

 リスク評価は害毒を与え地球を破壊する者たちが、今までに作りだした中で最強の知的ツールである。それは彼らの”破城槌(battering ram)”であり、又カムフラージュでもある。それは彼らの破壊行為を覆い隠す”カバー”である。
 リスク評価は労働者を有毒化学物質と放射線に曝すことを正当化すること、かけがえのない森林をを乱伐し破壊することを正当化すること、車の排気ガスの放出とその結果としての殺人的スモッグを正当化すること、シルトと表層土の河川への流出を放置することを正当化すること、放射能汚染と化学物質の投棄、事故及び流出に関する規制を正当化すること、川にダムを建設することを正当化すること、郊外の都市化と農地の侵食を正当化すること、漁獲量や狩猟割り当て量を正当化すること、食品を残留農薬や添加剤で汚染することを正当化すること、絶滅の危機にある種にとって必要な生息環境を破壊すること、飲料水中の毒性物質の許容レベルを正当化すること、道路のない地域に道路を建設することを正当化すること、等々のために利用されている。

 簡単に言えば、どのような行為に対してもリスク評価は次のことを問う。
  1. どのくらいの被害が発生するか
  2. 人間と人間以外のものが曝される被害はどの程度か
  3. 局所的な影響は許容できるか
 本来”許容”というものは政治的な判定である。もし化学工場の所有者に作業員ががんになることを防止するためにどのくらいの金を使うべきかと問えば、ある回答を所有者から得るであろう。同じ質問を作業員にすれば、所有者とは異なった回答を得るであろう。  ”許容”できると見なすことは正に政治的な力に帰する事柄なのである。このようにリスク評価は”科学的”な実践ではなく、高度に政治的な先入観、偏見、推測、見積り、いくつかの科学的事実、そして多くの倫理的判断の混じり合ったものなのである。全ては”客観的”な科学の仮面をかぶったものである。

 ”どのくらいの被害が発生するか”という設問自体が政治的である。その答えは、どのくらい厳しく調べようとしているのか、どのような被害を考慮しようとしているのか、そして科学的に分からないことについてどの程度認めようとしているのか、によって異なってくる。実際、科学者は例えば、子どもたちが食べるコーンフレークの残留農薬が安全なのかどうか、とるに足らないものなのかどうか、を算定することなど決して出来ない。なぜならば
  1. 考慮すべき有害な影響が数十も数百もある。そして歴史が示すように、新しい事実は将来見出されるものである。
  2. 農薬の子ども達への影響は、子ども達が受けている他の様々なストレス(医療用薬剤、自動車の排気ガス、塗料噴霧、たばこの二次喫煙、両親の離婚、長期の慢性病、オゾン層の減少による過度の紫外線放射、等々)に加算される。
  3. 子どもたちは他の生物と同じく、それぞれが持つ能力が異なり、また危険に曝されてきた履歴もそれぞれに異なる。
  4. 全ての生態系と同じく、全ての生物は非常に複雑であり、信頼性のある影響予測を科学的に行うことなど出来ない。
 実際には、リスク評価ではこのような複雑なことは割愛して単純にしている。すなわち、真実の世界は無視されており、それは一種の科学的フィクションである。化学物質に曝されても”無害”である、あるいは”とるに足らない”と主張する科学者やジャーナリストたちは、知り得ないことを知っているふりをしているのだから、詐欺師の様なものだ。リスク評価者の成果が人々を同意なしに不必要な危険に曝すことに用いられる時に、それは一線を越えて非常に不道徳なものとなる。

 リスク評価において常に悪しき設問がある。「いかに最小の被害に抑えることが出来るか」ではなく、「どのくらいの被害まで安全か」という設問である。
 さらに、リスク評価では都合の良いことには、「提案された行為は倫理にかなったものか」ということは決して問われたことはないし「人間と人間以外のものに被害を及ぼす他の様々な行為と複合した時に、その行為の影響はどのようなものになるか」ということも問われたことがない。そしてリスク評価者は「同じ目的を実現するために、もっと被害の少ないやり方はないのか」という設問はかつて考えたこともないし、今後も考えないであろう。

 一方、これらの全ての設問は”オルターナティブ評価”では主要な部分をなしている。オルターナティブ評価は、ビジネスの世界では当たり前のことについて基本的な疑問を投げかけるので、まさしく旧来を打破するものなのである。
 他方リスク評価は、ビジネスの世界で当たり前のことが円滑に運ぶよう潤滑油の役割を果たす。

 1975年頃から始まったリスク評価は、有害な決定をその決定に不賛成な大衆に押しつけるためのキーとなり、それが20〜30年間くらいはうまく機能することを産業資本家は期待した。
 企業のリスク評価者及び高給で雇われて”リスク伝達者”になりさがった三流のジャーナリスト集団は白衣に身を固め、首から聴診器をぶら下げるのを好み、そして彼らを批評する人々を”理性のない””悪しき科学”の狂信者であると非難した。
 モンサントやダウケミカルやその他の汚染大企業は、リスク評価こそが”良い科学”を体現するものであるという風潮を普及するために、数千億円の金を使ってきた。
 ハーバード大学は、汚染企業の基金によるリスク評価のための”センター”に場所を提供している。このセンターはアメリカ国民に対し、リスク評価に基づく決定は偏見がなく、公平であり、中立であり、理性があり、健全な科学に拠っているから、誰もがリスク評価に基づくもっと多くの決定を必要としているのだということを説得するために、恥知らずな宣伝を続けている[2]。
 健全な友? ニューヨークタイムズ紙は常に少なくとも1人は、汚染企業を代弁してリスク評価の宣伝記事だけを書いている記者を抱えている[4]。この中にはジョン・ストッセル、グレッグ・イースターブルック、エリザベス・ウェラン、ミカエル・フメント等の有名企業のごますり屋が含まれている。

 米最高裁の判事ステファン・ブレイヤーは、著書『悪徳社会をうち破る−効果的なリスク規制に向けて』の中でさらにリスク評価に踏み込んでいる[3]。ブレイヤー判事は政府の中に、合理化を使命とし、リスク評価に基づいた強制力のある意思決定を行う小さな政策者集団を設置するよう提言している。宗教的狂信者の様に、これらリスク評価の連中は真実と唯一の方法を見出したと我々を信じ込ませようとしている。しかしながら、実際に彼らが見出したものと言えば、金儲けのために生態系をずたずたに引き裂くことを正当化するための新しい方法だけである。それは今までの環境破壊行為を覆い隠すためのものであり、詐欺以外の何ものでもない。

 メアリー・オブライエンは著書の中で◆なぜビジネス業界はリスク評価を好むか、◆なぜ政府機関はリスク評価を採用するのか、そして◆なぜ多くの科学者は、リスク評価が科学的な活動ではなく、権力者が彼らのやり方を皆に押しつけるための政治的な武器となっていることを知りながら、それを受け入れるのか−という章を割いている。

 オブライエンの本は刺激的なアイデアで満ちている。例えば、政府やハーバードのリスク評価者たちのような多くの人々は環境問題を重要なものから重要でないものまでランク付けする”比較リスク評価”を推奨している。その理論的根拠は、全ての問題を解決するほどの金はないので、なけなしの金は最も重要な問題の解決のために使うべきであるというものである。
 オブライエンはこの考え方に対し次のように挑みかけている。

 「比較リスク評価が環境問題をランク付けすることは注目に値する。しかし、どの行為が最も大きな環境問題を引き起こすのか、あるいは誰が最も大きな環境問題を引き起こすのか、あるいはどの公共事業が環境問題を引き起こす可能性があるのかということについてランク付けするというのは、単に理論上出来るというだけのことである。問題のある行為よりむしろ環境問題そのものに焦点を当てることによって、比較リスク評価グループはその問題がたまたま起きたのであり、それを引き起こした個人や企業を特定することは出来ないということの口実としている 」(pg. 121)。

 民主主義社会では全ての企業と政府機関は、環境被害を最小にする選択肢が他にないかについて検討するために、理解可能な言語で書かれた多くの論文をもっと調査すべきであるとオブライエンは提言している。彼女は「環境を破壊する可能性のある全ての行為について、それが公共のものであろうと企業のものであろうと、他の代案に関し、国民が参加する綿密な調査を受けるべきである。汚染し、抽出し、消費し、放出し、焼却し、投棄する当事者が、環境破壊を最小にするための技術的選択肢を知っているかどうかを国民が知ることは価値がある」と述べている(pg. 122) 。
 しかしながら、これはいつでも直ぐに出来るというものではないとして、オブライエンは「もし、あなたが特定の有害な行為を行うことについて承認を得たいと望むのならば、人々がその行為についての重大な質問をすることをあなたは望むだろうか? 人々がその危険又は潜在的なリスクは不必要なものであると考えることを望むだろうか? オルターナティブ評価は現状を脅かすものである。オルターナティブ評価は社会の変革を望ましいものにすることを可能にすることができる 」と述べている(pg. 136)。

 リスク評価は100%悪いものであろうか? 必ずしもそうではない。選択肢の全てについて徹底的な分析を行えば、リスク評価にもそれなりの役割があるであろう。
 たった一つのことだけ、あるいはほんのわずかな選択肢についてだけリスク評価することを、オブライエンはやめさせたいと望んでいるのである。

 どうか皆さんの近くの図書館や書店に、MITから出版された本『環境問題についてのより良い決定』[1]を置くようにお願いして下さい。秋になれば、メアリー・オブライエンは皆さんの近くのコミュニティや大学で講演したり、リスク評価者と討論したり、講義したり、市民団体や自治体の相談にのることができるようになります。それにより、オルターナティブ評価が皆さんの地域で関心のある政策の決定をどのように改善することができるか解き明かしてくれるでしょう。
 メール mob@darkwing.uoregon.edu で彼女にコンタクトすることができます。

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ピーター・モンターギュ
Peter Montague (National Writers Union, UAW Local 1981/AFL-CIO)
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[1] Mary O'Brien, MAKING BETTER ENVIRONMENTAL DECISIONS; AN ALTERNATIVE TO RISK ASSESSMENT (Cambridge, Mass.: MIT Press, 2000). ISBN 0-262-15051-4.

[2] See for example David Ropeik, "Let's Get Real About Risk," WASHINGTON POST August 6, 2000, pg. B1.

[3] See REHW #394. Stephen Breyer, BREAKING THE VICIOUS CIRCLE; TOWARD EFFECTIVE RISK REGULATION (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1993; paperback edition 1995); ISBN 0674081153.

[4] See for example John Tierney, "Tracing the Toxins to Your TV," NEW YORK TIMES August 18, 2000, pg. A25.



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