レイチェル・ニュース #700
2000年6月8日
結社の自由−4
ピーター・ケルマン(注・後記)
#700 - Freedom of Association--Part 4, June 08, 2000
By Peter Kellman
http://www.rachel.org/?q=en/node/5101

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
掲載日:2000年6月15日
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_00/rehw_700.html



 1830年代の労働運動の目標、すなわち1日10時間労働と義務教育は民主主義に関わることであった。民主主義を作り上げるためには、労働者は教育を受けなくてはならない、そのためには労働者は学校に行く時間が必要であると、労働者たちは考えた。そこで彼らは、1日10時間労働と無料の義務教育を、彼ら自身の利益のためではなく、共和主義体制の政府樹立を成し遂げるために必要な条件であるとして、その実現のために闘った。
 1830年代の労働運動は、1816年にニューハンプシャー州議会が打ったボール、すなわち1819年のダートマス大学事件で連邦最高裁がファールと宣告した(REHW #699 参照)そのボールを拾い上げることから始まった。
 ニューハンプシャー州知事はダートマス大学を公立の大学にするよう州議会に働きかけた時に、「私立の教育は忠誠心と控えめな節操に由来し、・・・自由政府の精神と気風とは相容れないものである」と述べ、また州最高裁は州議会の言い分を受け入れて、「・・・それは公衆の福祉と繁栄に密接に関連する非常に重要な事柄であるから、多くの人々の手に委ねるべきである。青年層の教育は、公衆が最も関心を持つ事柄であり、各州が最善の注意を払うに値するものである」と述べた。

民主主義の日
 1830年代の労働運動を今日にあてはめるならば、我々は、労働時間を現在の民主主義の欠如に結びつけ、1週間の労働については、1日8時間労働として週4日働き、5日目は民主主義作りへ参加する日、すなわち”民主主義の日”とすることを要求することであろう。民主主義には単に数年に一度投票するだけのこと以上のことがあるはずなので、我々が政府の機能の一部に参加する時間を持つことが必要である。そこで、週のうち1日をとっておいて、1830年代の言葉で言えば”庶民(the COMMON people)”が学び、そして地方政府の機能の一部に参加する、例えば、週のうち1日は地方の委員会に出向き、公聴会や検討会に参加するというようなことである。
 数多くの労働者階級の人々が法案の立案過程に実際に参加するとすれば、「これが我々の理想の姿だ」と労働組合の人間は言ったが、企業の役所担当者はびっくり仰天して心臓発作を起こすことであろう。

 労働者階級、すなわち庶民が我々の理想を実現しようと闘っている間に、資産家階級は彼らの理想を実現するための手段を見つけ出していた。それが”企業(法人)”である。

企業(法人)
 独立戦争直後の認可企業は数が少なく、その活動範囲も、認可した州議会によって狭く制限されたものであった。例えば、道路建設業として認可された企業は繊維製品を作ることは出来ないし、繊維製造業として認可された企業は道路建設工事をすることは出来ない。また道路建設企業も繊維製造企業も他の企業を所有することは出来ない。さらに企業の株主は、今日の企業経営者や株主のように企業責任を免れることは出来ない。すなわち、1800年に認可された企業の株主は、企業の負債に対し個人的に責任があり、企業の活動に対しても責を免れることは出来ない。今日の世界で言えば、企業経営者は企業が法律違反をすれば一個の人間として責任を問われ、株主は企業が倒産すれば企業の負債を支払う義務があるということである。
 今日、もし個人が労働法や環境法に著しく違反すれば、刑務所行きとなる。しかし企業はどうやって刑務所に入れればよいのか? 企業の認可を1800年まで戻せば、企業を守るものない。それが企業の責任というものではないのか!

 1800年には、金持ちは彼らの資産を主に、広大な土地や奴隷や事業を所有する個人として、保有していたが、南北戦争が終わる頃には、資産家階級は権力を行使する方法を個人から企業へと移していった。
  鉄道会社は、石油、鉄鋼、金融、その他、企業にとっての重要事項に対し、経済的、政治的そして法的な手段を講じて、1876年までには文字通り、国中を走り回る(席巻する)ようになった。
 その年の大統領選挙では、選挙結果に異議が唱えられた。民主党サムエル J.ティルデン、または共和党ラザフォード B.ヘイズのどちらを合衆国大統領にするかの決定は、5人の最高裁判事と10人の議員から成る特別委員会の手に委ねられた。その結果について、労働史家フィリップ・フォナーは次のように述べている。「実際の決定はペンシルベニア鉄道の社長、トーマス A.スコットによってなされた。彼はテキサス太平洋鉄道を支援することの見返りとして、南部議員によるヘイズへの投票の約束を勝ち取った。1877年3月2日、ヘイズが大統領に選出されたとの電報を受け取ったのは、彼がワシントンへの途上、スコットが所有する豪華な個人用客車の中であったということは偶然なことではなかった。[1]」

 我々にとって大統領選出が鉄道会社の最高責任者(CEO)によってなされたということは大した問題ではない。問題はヘイズ政権が、解放奴隷や組合労働者やアメリカの次世代の人々の命運に及ぼした影響である。実際に、今日のアフリカ系アメリカ人や労働運動の状況の多くは、ヘイズが大統領としてとった2つの行為によって決定づけられたものである。第1は、南部において平等の権利や奴隷解放の実施が確実に行われるよう南部に駐留していた最後の連邦政府軍部隊を引き上げることにより、南部の再建を終了してしまったことである。第2は、100人以上の死者を出した1877年の労働者の暴動を鎮圧するために、連邦政府軍を出動させたことである。
 ジェルミー・ブレチャーの著書”ストライキ!”は次のような書き出しで始まっている。「多くのアメリカの都市の中心部には、19世紀のいかめしいレンガ造りや石造りの建物からなる兵器庫が作られた。それらは頑丈な壁と銃眼を備えた要塞であった。今日、人々がこれを見ると、何故このようなものがあるのかと不思議に思うかもしれない。これらは決してアメリカを外国の侵略から守るために作られたものではなく、自国の労働者の暴動を鎮圧するために作られたものであるなどとは、想像することも出来ないであろう。今では、これらの建築物は1877年の”偉大な蜂起(the Great Upheaval)の記念碑である[2]」 。

 1877年6月、不況のさなか、鉄道労働者たちは不安全な作業環境と度重なる賃金カットに対抗してストライキを行った。このストライキにより国中の主要産業が閉鎖された。ストライキが鉄道沿線に広がって行くにつれて、他の産業の労働者もストライキに加わるようになり、鉄道ストライキはやがて、12以上の都市でゼネラル・ストライキへと発展していった。1877年4月に、大統領ヘイズは南部に駐留していた最後の連邦政府軍部隊を引き上げると、7月にはこれらの軍隊を労働者の鎮圧のために投入した。さらに同年秋には連邦政府軍はスー族とも戦った。
 もし、1877年の連邦政府が、鉄道会社のCEOではなく人民の手に委ねられていれば、この国はどんなに違った国になっていたであろうか。もし最高裁の判事が弁護士ではなく、商店の管理人であったならば、そして、もし1877年に連邦政府軍部隊が労働者や解放奴隷やアメリカ先住民を守るために使われていたならば、今日のこの国はどのようになっていたであろうかと想像してみよう。

 ”1877年の偉大な蜂起”は政府軍によって鎮圧されたがその後、労働者たちは、1886年のピーク時には会員数が100万人を超えた”労働騎士団(the Knights of Labor)”を組織して、再び重要な勢力として浮上した。労働騎士団は、企業と賃金労働者というシステムにとって代わり、協同組合的な産業システムを導入することを主張した。労働騎士団は、1日8時間以上の労働を拒否することによって、労働者の労働時間短縮のために闘った。彼らは、生産者、消費者及び流通業者の協同組合の創設、児童労働の禁止、性及び人種に関係ない同一労働同一賃金、普通選挙権及び1日8時間労働を主張した。また彼らは富が一部の人々に集中することに反対した。

 アフリカ系アメリカ人及び地域共同体は労働騎士団の中で重要な役割を演じた。バージニア州リッチモンドの労働者たちが1886年の騎士団総会を開催した時に、人種差別主義の新聞、サザン・プレスは、この時とばかりに、騎士団の人種混合の代表団に対し、白人と黒人の男女が公然と交わっていると、異常な憎しみをもって非難した。しかしながら、騎士団はこの人種的な言いがかりにじっと耐えた。リッチモンドのアフリカ系アメリカ人の労働者たちは騎士団への大行進をもってこれに応じた[3] 。
 騎士団は、労働者階級は投票権と不買運動(boycott)によって力を行使すべきであると考えた。彼らは、労働争議は調停によって解決されるべきだと主張した。調停に応じようとしない雇用主は、地域住民による大規模な不買運動にさらされた。
 アメリカ労働総同盟(the American Federation of Labor(AFL))は、1886年に労働騎士団から分裂した労働組合によって設立された。その後直ぐに、AFLは労働組合の連合組織となり、今日に至っている。

無形財産
 労働騎士団及び初期のAFL指導下における労働運動の成功は不買運動を採用したことによるところが大きい。不買運動では人々は、店での買い物をしないよう、働かないよう、そして製品を買わないよう、他の人々に働きかけた。不買運動は言論の自由の見本であった。しかしながら不買運動によって資産家階級に損害が出始めると、憲法の制定者達によって与えられた役割に従い、裁判所が動きだした。

 もしストライキ参加者が、企業の物質的財産に損害を与えれば法的に賠償しなければならないことは明白であるが、不買運動やストライキやピケットの場合には物質的財産には手を触れていない。労働史家チャールス・スコントラスは次のように述べている。「ストライキやピケや不買運動を個人が行うことは完全に合法的であり、雇用主は個人のそのような行為により被った損害に対し、法的な損害求償権がない。そこで雇用主は、ストライキやピケや不買運動などの組合の行為は違法行為であるということを示す必要があった。そこで裁判所は共同謀議に関する過去の判例を持ち出し始めた。
 昔の共同謀議に対する考え方によれば共同謀議は公衆を脅かすという理由で犯罪であったが、新しい共同謀議の解釈は、無形の財産に対し取り返しのつかない損害を与えるという理由で民事上違法であるというものであった。これにより雇用主は、そのような行為が起こったときに、無形の財産に対し取り返しのつかない損害を与えるであろうということを証明する必要はなくなり、単に、ビジネスを行い利益を得るための無形財産の権利に対し取り返しのつかない損害を与えるであろうということを証明すればよいことになる[4]。」

 将来得るであろう企業の利益は無形財産の定義のもとに算出される。それならば、賃金はどうなるのか? 誠意をもって交渉することを拒否した雇用主に対して禁止令が出されたなどということをかつて聞いたことがあるだろうか[5] 。雇用主のそのような行為は労働者が将来得るであろう所得に対し損害を与えるものではないのか? それは企業が将来得るであろう利益に損害を与えることと、とどこが違うのか? 企業の最高責任者が、彼や彼の部下が雇用人の将来得るであろう所得を損なうような行為をしたということで、刑務所行きとなったという話をかつて聞いたことがあるであろうか?
 歴史的にも禁止令的な法律は、そうなってほしいという判決の助けを借りながら雇用主が労働者に対して用いるのが常であった。

禁止令
 鉱山労働者組合の会長ジョン・ミチェルは「どのような武器も、禁止令ほどに労働組合に対してひどい結果をもたらしたものはない」と1903年に述べた[6]。

 裁判で対象となる行為は通常、すでに起きた行為に対してであり、裁判所はその行為が既存の法律に違反したかどうかについて審判を下す。禁止令の場合には、裁判所は”将来の”行為に対して禁止又は命令を下す。(1880年から1931年の間に、労働者のストライキに対し1800もの禁止令が出された。)禁止令を強化するために判事は違反者に罰金を課し、刑務所に送り込むことが出来る。もし禁止令を犯す者がいれば、判事は法廷を侮辱したと見なすであろう。すなわち違反者は州議会が決めた法に違反したのみならず、判事の命令にも違反したことになる。
 労働者が彼らの利益を獲得するために不買運動やストライキやピケに参加する自由は、雇い主がビジネスを推し進める自由ほどには重要ではないというのが裁判所の判断であった。これを例えて言えば、裁判所は製品の不買を提唱した人を刑務所に送り込む権限を有するということである。
(次週に続く)

(注)ピーター・ケルマンについて
ピーター・ケルマンは”企業と法律と民主主義のプログラム”(Program on Corporations, Law and Democracy (POCLAD))で活動している。POCLADに関する情報を入手するためには下記にコンタクトして下さい。
e-mail: people@poclad.org
web site: www.poclad.org
phone: (508) 398-1145
mail: P.O. Box 246, So. Yarmouth, MA 02664-0246

[1] Philip S. Foner, THE GREAT LABOR UPRISING OF 1877 (N.Y.: Pathfinder, 1977).

[2] Jeremy Brecher, STRIKE! (Boston: South End Press, 1980), pg. 1.

[3] Bruce Levine and others, WHO BUILT AMERICA Vol. II (N.Y.: Pantheon, 1989), pg. 116; the Knights did not welcome Chinese immigrants into the fold and championed the passage of the Chinese ExclusionAct of 1882. That Act and the agitation surrounding it did much to fan the flames of discrimination against the Chinese which led to the torching of "China Towns" and the deaths of Chinese people.

[4] Charles A. Scontras, SAMUEL GOMPERS AND THE AMERICAN FEDERATION OF LABOR VS. MAINE'S CONGRESSMAN CHARLES E. LITTLEFIELD, 1900-1913 (Orono, Maine: Bureau of Labor Education, 1998), pg. 8.

[5] The National Labor Relations Board defines good-faith bargaining to exist as long as each side is willing to sit down at the bargaining table and discuss all issues. What positions a side takes does not enter into the definition. So if the company sticks with a proposal to lower wages in a time of record profits, the company will be in compliance with the Board's definition of good-faith bargaining, so long as the company does not refuse to discuss wages.

[6] John Mitchell, ORGANIZED LABOR (Philadelphia: American Book and Bible House, 1903), pg. 324.

Descriptor terms: labor; constitutional law; human rights; freedom of association; boycotts; strikes; injunctions; contracts clause; corporations; knights of labor; intangible property;

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