レイチェル・ニュース #697 2000年5月18日
労働者の組織化と結社の自由−1
ピーター・ケルマン(注・後記)
#697 - Labor Organizing and Freedom of Association--Part 1, May 18, 2000
By Peter Kellman
http://www.rachel.org/?q=en/node/5083

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
掲載日:2000年5月24日
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_00/rehw_697.html



 人々の所得や富に大きな格差があると、公衆衛生に大きな問題が生じ(REHW #654参照)、健全な社会を持続出来なくなる(REHW #629参照)ので、所得や富の公平な分配が必要である。歴史的には労働組合が、最低賃金法、1日8時間労働、有給休暇、健康保険、退職年金、等の獲得を通じて、その実現のための役割を担ってきた。今日、社長の1日分の所得が労働者の1年分の所得というようなことがある現実に対し、我々はもっと公平な富の分配を求めて、以前にも増して労働運動を推し進める必要がある。以下に紹介するエッセイは労働党のためにピーター・ケルマンが書いたものである 。
【ピーター・モンターギュ】


1.問題提起

 よくないニュースは、組合(union)に参加するアメリカの労働者が1979年以来、24%から14%に減少したことである。よいニュースは、もし組合に参加するかどうかの選択が与えられれば、48%の労働者は参加するつもりであることが分かったことである。

 仕事の海外への移転、アウトソーシング、自動化等により、組合傘下の仕事の数は、組合への新規メンバーの加入を上回るスピードで減少している。職場毎に労働者を組織化するという従来のやり方でも、新規にメンバーを加入させることはできるが、雇用主は組合の代表者を職場に受け入れようとしない。

 うまく行ったケースとしてマサチューセッツ州の介護産業がある。そこでは現在40万人の介護者が働き、そのうち10%が組合のメンバーである。組合は、介護者の組織化のために、かなりの金額と人材を注ぎ込んで、1997年には組合の正規の手続きを経て819人の新規メンバーの加入を得た。介護産業は今後成長を続け、45年後にはさらに25万人の介護者の増加が予測されているが、仮に現在と同じ数の40万人の介護者を組織化するとしても、このままでは434年かかることになる。

 問題はここにある。何か違ったやり方を考えなくてはならない。例えば、スウェーデンでは労働人口の83%が組合に加入しており、雇用主が組合の結成や参加を妨害することは法律で禁止されている。アメリカの労働者と異なり、スウェーデンの労働者には”結社と集団交渉の権利”がある。アメリカの経営者が言うところの、我々の競争相手であるスウェーデン、日本、フランス、ドイツ、その他多くの国では、”結社と集団交渉の権利”は、1948年の国連の人権宣言第20条で謳われている”誰でも平和的な集会と結社の自由を持つ”という基本的人権の一部となっている。
 この権利は国連の国際労働機関(ILO)の第87協定で”結社の自由と組織化の権利”として述べられ、”事前の許可がなくても、自身の選択により組合を作り、参加することができるという労働者の権利”を確立するものであった。
 すでに118カ国がこの第87協定を批准しているが、アメリカは過去51年間、この協定の批准を頑なに拒んでいる。

 ”発言の自由 + 集会の自由 = 結社の自由”である。それは次のようなものである。
 ある人たちが会社を設立しようとしたとする。彼らは会議を開き(集会の自由)、方針について議論をし(発言の自由)、会社設立を決定する。彼らは代表を州都に送り、書類を提出する。それだけである。彼らの会社は世間に認知される。カードにいちいちサインをしたり、キャンペーンを行う必要もない。誰かが首になることもない。選挙を行う必要もない。認知とはそういうことだ。この国では会社を設立するということは保障された行為である。それは権利である。しかしながら、会社に組合を認知させることは権利ではない。組合を結成することは保障された行為ではない。もしそうならば、心躍ることであるが、労働人口の48%が組合員となるであろう。

 この国では組合のキャンペーンがあると会社は”反組合”のポスターを壁に貼り、強制的なミーティングを開催するであろう。しかし組合は、壁は自分たちのものではないので、ポスターを貼ることは出来ない。組合は、建物は自分たちのものではないので、民間企業の職場の労働者に働きかけるために代表者を派遣することは出来ない。

 この国では、公共の施設では発言と集会の自由がある。民間の施設では施設の所有者が、誰が発言し、誰が集会を開くかを決める。労働者は職場に入ると、”発言の自由の権利”を放棄しなければならない。

 もし我々が集会を開き、組織化を図り、力を行使したいなら、我々は社会の中の基本的な構造を変えて行かなくてはならない。
 そのためには、現在我々の生活を支配している基本的な構造がどのようになっているのかを、まず最初に理解する必要がある。我々は我々自身の歴史を知る必要がある。

 ”歴史とは、単に書物の中の記述された1ページのことではなく、人々の記憶と血によって受け継がれた何かであると、彼は理解するようになった”[1] 。

2.我々の歴史を知る

 聖書なしに教会を、旧約聖書なしにユダヤ教会を、コーランなしにモスクを、そして創造主の物語なしにイロクォイ人 (訳者注:New York 州に住んでいた先住民)のことを想像してみよう。植民地時代のニューイングランドの開拓民や先住民の心を支えたものは、これら偉大な書物や口承伝説の教えであった。幾世代にも渡って集大成された賢者の知恵は、過去の物語として代々子孫に伝えられていった。それらの物語は我々を未来へと導くものである。それらは我々に生きる価値とその方向と強さを与えるものである。それらがなければ我々は根無し草になり、生きる標(しるべ)もなく、何事も分からず、ただ現在を過すだけとなる。

 労働者にとっても同じことが言える。そのためには、我々の歴史を眺め、我々の偉大な闘争の物語を知るための枠組みが必要である。我々の過去の過ちや勝利から何かを学ぶ必要がある。将来を築くためには過去の経験に基づき最善の方法を選ばなければならない。そうでなければ、我々は永遠に現状に甘んじ、同じ過ちを繰り返すことになる。

 より良い法律が出来るまで、我々のメンバーを増やすことは出来ないと、労働者のサークルでしばしば語られる。我々の歴史において、労働者の側に立った法律など、ほとんどなかったというのが事実である。労働者に関する法律は、ほとんどが”反労働者”であり”反組合”であった。1937年に国際労働総同盟の設立が宣言されて以来今日に至るまで、アメリカにおいては労働法は労働者のためというより、むしろ雇用主のためのものであった。しかしこのことは別に目新しいことではない。法律というものは、初期アメリカの13州植民地時代から富裕階級のためのものであり、我々人民が建設した現在のこの国においても依然としてそうである。

 ジョージ・ワシントンは、1776年には、家屋と土地の測量を生業としていたが、まだアメリカの最高権力者にも、最高の金持ちにもなっていなっかった[2]。ワシントンは大株主であったオハイオ会社のために、測量を行っていた。。
 ワシントンは若い頃、大農園主の仲間たち及びワシントンが育ったバージニア植民地の商人たちとともに、労働者を使って富と権力を得る計画を立てていた。その計画は2つの部分から成っていた。まず最初に奴隷を使ってたばこ農場を経営し、次にオハイオ会社を設立するというものであった。オハイオ会社は1748年にジョージ・ワシントンの兄のローレンス・ワシントンによって設立され、イギリス国王からバージニア植民地の西部の土地20万エーカーを授かった。後に、バージニア植民地の総統であり、オハイオ会社の社長でもあったディンウィッディはロンドンのイギリス当局に対し、7年間、道路や農場の整備及び会社の交易場の建設に従事させ、その見返りに以後、その土地の借地権を与えるという条件で、年季奉公人(indentured servants)をイギリスから輸送することを申し出て、その実現に成功した[3]。
 非常に巧妙な計画であった。国王はオハイオ会社に土地を授け、その土地に出入りするための道路とその土地を守るための砦を建設するために、無料で労働者を提供した。7年の苦役を生きながらえた労働者たちは、多くの者はそうではなかったが、オハイオ会社から土地を借りる権利を得た。

 このような計画に関わったのはワシントンだけではなかった。オハイオ会社の競争相手であるバージニアのロイヤル・ランド会社はトーマス・ジェファーソンの父が一部を所有していたし、バンダリア会社はベン・フランクリンが一部を所有していた。我々はワシントンやジェファーソンやフランクリンについて多くを聞かされてきたが、彼らは年季奉公人や奴隷ではなかった。年季奉公人や奴隷の歴史はどのようなものであったのであろうか。

 年季奉公人の歴史は、イギリス、フランス、ドイツの領地の1/3がカソリック教会のものであった1500年代に遡る。多くの土地は最低限の生活をする貧しい農民によって占められていた。1517年の新教徒による宗教改革とともに、教会の多くの土地は貴族に引き継がれたり投機家に売り渡されたが、彼らは借地人である農民を追い出しにかかった。さらに1600年代と1700年代にはヨーロッパの貧者たちが自由に使用していた共有地はフェンスで囲われ、そこに住んでいた人々は追い出された。最後に、1800年代には、成長著しい繊維産業に羊毛を供給するための羊を飼うことを目的として、従来の農地を牧場とするための”囲い込み”が行われ、農民たちは借地から立ち退かされた。

 これらの出来事が起きた時に、住む場所や仕事のない人々に対し、焼き印を押し、ひどい目に遭わせ、投獄し、奴隷として売り飛ばすというような法律が議会を通過した。このような状況が、ヨーロッパを逃げ出したいと思う多くの人々を生み出し、北アメリカにおける安価な労働力の供給源となった。

 一方アフリカではヨーロッパからの豊かな商人たちが国際奴隷貿易を組織し、ヨーロッパ製の武器を携えた兵士を従えた西アフリカの王子たちから奴隷を買い集めた。アフリカ奴隷貿易は3世紀間に渡って行われ、延べ1千万〜1千200万人のアフリカ人が新世界に運ばれた[4] 。

 命が契約によって売買されたヨーロッパからの年季奉公人やアフリカからの奴隷たちが北アメリカの自然を開拓する労働者として、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンやジェームス・マディソンやベンジャミン・フランクリンなどのアメリカ合衆国憲法の創立者といわれる人々に供給されたのである。
 植民地アメリカへの移住者の約半数は年季奉公人であったと言われている。独立戦争当時、ペンシルベニア、メリーランド及びバージニアの人々の4人の内3人は年季奉公人か、かつて年季奉公人であった。そしてこの時、植民地人口の約20%は奴隷の状態であった[5]。アフリカからの奴隷と年季奉公人は等しく、”奴隷逃亡法”の下にあり、彼らの子どもは主人の所有物であった。これらの人々は売買される財産であり、植民地法と後の合衆国憲法によって保護される財産であった。

メアリー・ブラウンを捕えた者に
報酬 45シリング


数日前に逃亡したペンシルベニア生まれの女・年季奉公人。
そこそこの器量。不器用。あばた面のため無愛想で冷たい感じ。
数本の欠歯。英語とオランダ語が堪能。26〜28歳。30歳くらいか。

ジェームス・クロフトン、アルバーニー

(1761年ニューヨーク州アルバーニーの新聞広告)



 アメリカの多くの人々にとって植民地時代のイメージは、”サンクスギビングやポカホンタス(訳者注:John Smith を父 Powhatan の手から救ったといわれるアメリカ先住民の女性; キリスト教に改宗し, 英国紳士 John Rolfe と結婚した)やキャプテン ジョン・スミスや宗教的自由を求めた人々”の光景に支配されがちである。これらのイメージは、ヨーロッパの探検家たちがアメリカを発見し、先住民を殺害し始めたという植民地支配の実態を覆い隠すものである。植民地支配はヨーロッパからの投機家に引き継がれ、アフリカ奴隷とヨーロパからの年季奉公人の労働力を使って新天地から利潤を吸い上げた。
 しかしながら、奴隷や年季奉公人を使って大いなる将来を築き上げたアメリカ人は、富をイギリス国王と分かち合うことに我慢がならず、アメリカ独立戦争への道を進んだ。
(次週に続く)



(注)ピーター・ケルマンについて
ピーター・ケルマンは労働運動家であり、全米記者組合及び労働党のメンバーである。彼は活動家の小さいグループである”企業と法律と民主主義のプログラム”(Program on Corporations, Law and Democracy (POCLAD))を活動の拠点として、民主主義と企業支配の歴史について考察している。
下記にてPOCLADの活動についての情報を得ることが出来る。
E-mail: people@poclad.org
Web Site: www.poclad.org
Phone: (508)-398-1145
Mail: P.O. Box 246, So. Yarmouth, MA 02664-0246



[1] Zeese Papanikolas, BURIED UNSUNG -- LOUIS TIKAS AND THE LUDLOW MASSACRE (University of Nebraska Press, 1991), pg. 259.

[2] Charles A. Beard, AN ECONOMIC INTEPRETATION OF THE CONSTITUTION OF THE UNITED STATES (N.Y.: Free Press, 1986), pg. 144.

[3] Willard Randall, GEORGE WASHINGTON -- A LIFE (N.Y.: Henry Holt, 1997), pg. 68.

[4] Bruce Levine and others, WHO BUILT AMERICA, VOL. I (N.Y.: Pantheon Books, 1989), pg. 25.

[5] Jerry Fresia, TOWARD AN AMERICAN REVOLUTION (Boston: South End Press, 1988), pg. 26.



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