レイチェル・ニュース #691
2000年3月16日
がんの主な原因−1
ピーター・モンターギュ
#691 - The Major Cause of Cancer--Part 1, March 16, 2000
By Peter Montague
http://www.rachel.org/?q=en/node/5043

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
掲載日:2000年3月24日
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_00/rehw_691.html



 1895年にウイルヘルム・レントゲンが初めてエックス線を発見すると、医学者や医師達は直ぐにその実用的な可能性を見抜き、一斉にエックス線についての実験に取りかかった[1,pg.7]。多くの医師達が自身でエックス線機器を考案・製作したが、その結果は色々であった。あるものは放射線を全く出さなかったり、またあるものは隣の部屋の人まで照射してしまうようなものもあった。

 人間の体の内部を見ることができるということは、奇跡的で、神秘的で、そして非常に刺激的な発見であった。レントゲンは実験で、彼の妻の手にエックス線を15分間照射して、結婚指輪に飾られた、気味の悪い彼女の指の骨を映し出した。レントゲンの伝記作家であるオットー・グラッサーは次のように書いている。「レントゲン夫人はこの骨だけの手が彼女自身のものだということはとても信じることができず、自分の骸骨を見ていると思うとぞっとした。この経験は、後の他の多くの人々と同様に、レントゲン夫人に漠然とした死の予感を与えた」[1,pg.4] 。

 1896年までの1年の間に、医師達は診断のために、さらには誤診だという訴訟から自身を守るための証拠収集の新しい手段として、エックス線を使うようになっていた。また1895年から1896年の間に、エックス線が深刻な医療上の問題を発生させるということも明らかになっていた。ある医師は照射により癒えることのない火傷を負い、指を切断しなければならなかった。また不治の癌に冒される者もいた。

 当時はまだ抗生物質が発見されておらず、医師達が患者に施せる治療方法はごく限られたものであったので、エックス線を用いた多くの新たな治療方法はハイテクで、神秘的ですらあり、病気に対する希望の光となった。このようにして医療の世界では、この神秘的な目に見えぬ放射線が熱狂的にもてはやされた。現代から見れば何でもないことであっても、当時の医師達はエックス線のおかげで治療上有益なことを発見できたと、しばしば考えた。

 当時、1920年の直前、”アメリカ エックス線ジャーナル誌”の記者は「エックス線による治療に適した病気が約100例ある」と述べた。
 キャサリン・コーフィールドは、有益な技術史である著書「複合照射−放射線世代年代記」の中で(REHW #200, #201, #202 を参照のこと)、この時代について次のように述べている。「良性な(癌ではない)疾病に対する放射線治療は、その後の40年間以上にわたって、熱狂的にもてはやされた[1,pg.15]。・・・多くの人々が、白癬やざ瘡など大したことのない疾病の治療のために、不必要に放射線の照射を受けた。多くの女性はうつ病治療のために卵巣に放射線を浴びた」[1,pg.15]。このようなエックス線を用いた治療は、今日ではインチキ治療であると見なされるが、その多くは1950年代までは医療行為として容認されていた。医師達だけがエックス線治療に熱心であったわけではない。大量のエックス線を照射すれば髪の毛は抜け落ちるので、「美容院ではエックス線装置を据え付け、顔や体の毛を除去することに使用した」とキャサリン・コーフィールドは述べている[1,pg.15]。

 1895年のレントゲンによるエックス線の発見は、直ちに1896年のヘンリー・ベクレルによるウランの放射能の発見及び、1898年のマリー・キューリーとその夫ピエールによるラジウムの発見を導き、そのことによりベクレルとキューリー夫妻は1903年にノーベル賞を受賞した。(20年後にキューリー夫人は急性リンパ芽球白血病で死ぬこととなる。)

 放射性ラジウムは、たちまち、エックス線と共に医療に使われるようになった。ラジウムによる治療は、心臓発作、インポテンス、潰瘍、うつ病、関節炎、癌、高血圧、失明、結核、その他の慢性病、等に用いられた。間もなく放射性練り歯磨きが市場に出回り、さらには放射性スキンクリームも出てきた。ドイツではラジウムを含んだチョコレートが”回春剤”として発売された[1,pg.28]。
 アメリカでは数十万の人々がラジウムを少量加えた瓶詰めの水を、一般にリキッド・サンシャインの名で知られる不老不死の霊薬として、飲み始めた。
 1952年にはライフ誌が、鉱山の地下深い所で放射性ラドンガスを吸い込むことによる効能についての記事を書いた。
 今日でさえ、モンタナ州のビュートに近い”メリー・ウィドー・ヘルス・マイン”や、その近くのサンシャイン・ラドン・ヘルス・マインでは、その広告の中で、「ここを訪れた客達はラドンガスの吸入により多くの効能があったと述べている」と宣伝している[2]。しかしながら、今日の数多くの研究により、ラドンガスによる健康への影響で明らかになったことは、肺ガンになるということだけである。

 このように医療の世界においても、また一般大衆の文化においても、エックス線や他の放射性物質は奇跡の療法であり、それは発明世代の天才達からの人類への贈り物であるとして、もてはやされた。

 しかしながら、1945年に原子爆弾が日本に投下されたことにより、これらの技術に対する一般大衆の考えは大きく後退した。
 議論の余地があるところではあるが、たとえ原爆投下が第二次世界大戦の終結を早め、アメリカ人の人命の損失を守ったとしても、ジョン・ハーシーによる広島における人々の惨状に関する記述は、キノコ雲を言いようのない破滅の前兆として、一般大衆の胸に永遠に焼き付けた。
 原子爆弾に光明を当てようとする努力がなされたが、もはや放射線技術は、第二次世界大戦前までに持っていたその輝きを、取り戻すことはなかった。

   原爆が投下されてから7年後、ドワイト・アイゼンハワー大統領は、アメリカ政府の新しい政策として、核兵器や放射能や放射線はもはや死の前兆ではなく、力強くて、人類に無限の利益をもたらす恵みの技術であるということを世界に示そうとした。
 原子力の平和利用計画が導入されたが、それは明らかに、アメリカ人及び世界に対して、これらの新しい技術は希望に満ちあふれたものであり、原子力発電のために税金によって原子炉を開発すべきだということを納得させようとするものであった。
 この最新の技術が約束することは真実であり、非常に安い電力が得られるように見えた[3]。

 1946年の原子力エネルギー法により、民間人からなる原子力委員会が設立されたが、実際には軍の高官が核に関する全ての技術開発をコントロールしていた[4]。
 このような状況の下に、一連の歴史的な事故が起こり、一般の人々や公共施設の周りに生命の危険を伴う放射能が降り注いだ。

   1927年にハーマン J. マラーはエックス線が遺伝子損傷を引き起こすということを実証し、そのことによりノーベル賞を受賞した。しかしながら、彼は果実バエで実験を行ったので、彼の発見は人間にはあてはまらないとして、簡単に、都合よく捨て去られた。

 まとめると次のようになる。
  • 医師達にとって放射線は、この世のほとんどの良性の病気に対し、新しい治療法を約束するもののように思えた。
  • 軍と議会の原子力委員会にとって放射線は、納税者の血税による基金から数兆ドルの予算を意のままにさせてくれるものであり、その多くは兵器開発という環境下での秘密保持のため、外部の監視が行われなかった。
  • 政府との契約業者であるユニオン・カーバイド、モンサント・ケミカル、ゼネラル・エレクトリック、ベクテル、デュポン、マーティン・マリエッタ、等にとって放射線は、アイゼンハワー大統領が1959年の彼の最後の演説の中で、政治力が増大し始めてきたことに対して警告を発した”産・軍複合のエリート集団”に参加する機会を与えるものであった。
 1950年代を通じて、軍はネバダ州の実験場で地上での原子爆弾の実験を行い、風下の民間居住区域に放射能を降らせた[5]。ワシントン州のハンフォード居留地では、専門家が意図的に巨大な放射能の雲を放ったが、それは、放射能に曝された居住区域でどのようなことが起こるかを確かめることが目的であった。ハンフォードでの1回の実験で500,000キューリーの放射性ヨードが放出された。ヨードは人間の甲状腺に蓄積される。この実験による犠牲者(その多くはアメリカ先住民であるが)は45年もの間、この件について知らされていなかった[6,pg.96]。
 船上の水兵や地上の兵士は、彼らに何が起こるかを見るために、大量の放射能を浴びせられた。軍のお偉方は放射能を浴びても害はないと主張した。

 1944年から1971年までオーク・リッジ国立研究所(テネシー州クリントン)の放射線安全管理者であったカール Z. モーガンは彼の自叙伝の中で「退役軍人局は犠牲者が補償されていないということを確かめることに対して、常に消極的であった」と回想している[6,pg.101]。モーガンは、1946年のビキニ環礁の原爆実験で大量の放射能を浴びた海軍軍人であるジョン D. スミサーマンについて詳述している。「退役軍人局は、彼の未亡人が補償金を給付されることになった1988年まで、彼の死と放射線被曝との関係については全面的に否定していた。スミサーマンが死亡するまでに、彼の体は肺、気管支リンパ節、横隔膜、脾臓、膵臓、胃、肝臓、副腎腺と体中いたるところが癌にむしばまれていた。補償金が給付されて1年後の1989年に、退役軍人局はスミサーマンの未亡人への補償を取り消した」とモーガンは書いている[6,pg.101] 。

 1940年代に始まり1960年代に至るまで、数千人のウランの採鉱者達はニューメキシコ州のウラン鉱山でラドンガスを吸入しても全く安全であると言われてきた。50年も経ってやっと真実が明かされ、ラドンに起因した肺ガンの数を計算し始めたのは最近のことである。

 振り返ってみると、核への一種の熱狂が産業界を風靡していた。1950年代及び1960年代初期の原子力に関する技術というものは、現在におけるバイオ技術やハイテク・コンピュータ技術のようなものであった。
 政府の契約業者は原子力飛行機を開発するために何十億ドルもの金を使った。簡単な設計計算により、そのような飛行機は貨物を実用的に運ぶには重すぎるということが、プロジェクトの初期の時点でわかっていたにもかかわらずである[4,pg.204]。
 モンサント研究所は、100年間燃料を補給することなく湯を沸かすことの出来るプルトニウム燃料のコーヒーポットを提案した[4,pg.227]。
 ボストン会社はウランは鉛より重いので、その並はずれた重さのためにカフスボタンがずり上がってくるのを防げるという単純な理由で、放射性ウランでできたカフス・ボタンを提案した[4,pg.227]。

 1957年に原子力委員会はプラウシェアー(Plowshare”鍬”)局を設立した。その名は、言うまでもなく旧約聖書イザヤ書の第2章4節”剣を鍬とし、槍を鎌とする”という言葉からとったものである[4,pg.231]。
 アメリカ政府とその産業界におけるパートナー達は世界に対し、この技術は優しいものであり、決して過去にあったような恐ろしいものではないということを示すことにした。

 1958年7月14日、水爆の父と呼ばれるエドワード・テラー博士がチャリオット・プロジェクトについて発表するためにアラスカにやって来た。このプロジェクトはアラスカ海岸で6発の水素爆弾を爆発させて、新しい港を切り開くというものであった。ダン・オニールの本「爆竹小僧(THE FIRECRACKER BOYS)」[7]に記録されているように、はなばなしい政治的論争の後に、この計画は棚上げとなった。

 他の計画では、原子爆弾を爆発させて中米を横断する新運河をつくるというのがあった。これは単にアメリカがパナマ運河についてパナマ政府と交渉するにあたっての脅しの材料とするものであったが、この計画も同様に破棄された。

 1967年にニューメキシコ州の地下で、頁岩(けつがん)層に貯まっている天然ガスを取り出すために、原子爆弾を爆発させた。実際に、貯まっていた天然ガスを放出することは出来たが、プロジェクトのエンンジニア達は吹き出すガスは放射性のものであろうということを予測しておくべきであった。地上の穴は直ちにふさがれ、砂漠の中に建てられたブロンズ製の記念銘板のみが、このガスバギー・プロジェクトに関する唯一の目に見える証となった[4,pg.236] 。

 要するに、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニスト H. ピーター・メツガーによれば、原子力委員会は、核の技術は有益であり、決して危険なものではないということを示すことを目的とする”気違い計画”のために、数十億ドルという大金を無駄に使った[4,pg.237]。

 プラウシェアー局は完全に失敗に終わったけれども、全ての骨折りの中で一つ残ったものがある。それは力強い、不同意の精神が、科学と産業の国アメリカの心の奥深くに根を張ったということである。

【4月13日に続く】
ピーター・モンターギュ
===== Peter Montague (National Writers Union, UAW Local 1981/AFL-CIO) =====

[1] Catherine Caufield, MULTIPLE EXPOSURES; CHRONICLES OF THE RADIATION AGE (New York: Harper & Row, 1989). ISBN 0-06-015900-6.

[2] Jim Robbins, "Camping Out in the Merry Widow Mine," HIGH COUNTRY NEWS Vol. 26, No. 12 (June 27, 1994), pgs. unknown. See http://www.hcn.org/1994/jun27/dir/reporters.html. And see http://www.roadsideamerica.com/attract/MTBASradon.html

[3] Arjun Makhijani and Scott Saleska, THE NUCLEAR POWER DECEPTION; U.S. NUCLEAR MYTHOLOGY FROM ELECTRICITY "TOO CHEAP TO METER" TO "INHERENTLY SAFE" REACTORS (New York: The Apex Press, 1999). ISBN 0-945257-75-9.

[4] H. Peter Metzger, THE ATOMIC ESTABLISHMENT (New York: Simon & Schuster, 1972). ISBN 671-21351-2.

[5] Michael D'Antonio, ATOMIC HARVEST (New York: Crown Publishers, 1993). ISBN 0-517-58981-8. And: Chip Ward, Canaries on the Rim: Living Downwind in the West (New York:Verso, 1999). ISBN 1859847501.

[6] Karl Z. Morgan and Ken M. Peterson, THE ANGRY GENIE; ONE MAN'S WALK THROUGH THE NUCLEAR AGE (Norman, Oklahoma:University of Oklahoma Press, 1999). ISBN 0-8061-3122-5.

[7] Dan O'Neill, THE FIRECRACKER BOYS (New York: St. Martin's Press, 1994). ISBN 0-312-13416-9.

Descriptor terms:
radiation; nuclear weapons; nuclear power; x-rays; cancer; carcinogens; karl z. morgan; downwinders;nevada test site; hanford;



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