SOI 2011年3月24日
アメリカの原子力時限爆弾
ハンフォード 核廃棄物
未だに深刻なリスクを及ぼす


情報源:Special Online Internationa, 24 March 2011
America's Atomic Time Bomb
Hanford Nuclear Waste Still Poses Serious Risks
By Marc Pitzke in New York
http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,752944,00.html

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会
掲載日:2011年3月29日
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/nuclear/articles/110324_SOI_Hanford_Nuclear_Waste.html



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 福島の大災害は原子力の安全性について世界中に疑問を提起した。しかし、汚染はアメリカの太平洋側北西部ではもっと悪い。ワシントン州ハンフォードのかつてのプルトニウム工場は、数十年来クリーンアップが行なわれているが、地球上で最も汚染された場所のひとつである(訳注1)。

 目や口のない仔羊が生まれた。ある仔羊はグロテスクに結合したままの足を持ち、あるものは足が全くなかった。多くが死産であった。一晩で31匹が死んだ。

 近くの牧草地で、一頭の牛が、そよ風の中でひずめを奇妙に伸ばして硬直して死んでいるのが見つかった。川に下りるとヤカマ族の男たちがコロンビア川から目が三つあるサケを引き上げていた。マスはがんのような潰瘍で覆われていた。そして赤ん坊は病気になり始めた。

 それは、農民のネルス・アリソンが最初に何か不吉なことに気がついた1962年の春のことであった。”ちくしょう!”彼は妻に言った。アメリカ大陸の北西部の隅にあるコロンビア川の近くの田舎町ベイスン市近郊のアリソン農場で何か良くないことが起きると、羊がいつも真っ先に倒れ、そして死んでいく。彼は、その恐ろしい夜、”小悪魔たちの夜”について語った。

 アリソンが死んでからずいぶん時間がたつが、そのショックは続いている。ジャーナリストのマイケル・ド・アントニオの1993年の本『原子力の報い(Atomic Harvest)』にあるように、彼らの物語は、アメリカの最初の本格的プルトニウム製造設備のあるワシントン州ハンフォード周辺で起きた恐ろしい話のひとつである。この土地には、地元の人たちが出入りしており、危険に曝されている。

 ハンフォードはアメリカの原子力の原罪である。シアトル南東に車で4時間のワシントン州東部の広大な無人地帯にある586平方マイル(1,517平方キロメートル)の敷地に広がるこの巨大な施設で、かつてアメリカは冷戦のための核原料物質の多くを製造した。その施設は1988年に閉鎖されたが、いまだに北半球全体で最も汚染された場所である。

 米エネルギー省(DOE)は最近、アメリカ史上最大の環境クリーンアップであるハンフォードの汚染物質除去のスケジュールを変更した。最終完了年は再び先延ばしされた。この非常に困難な作業は2052年までに最終的に完了することが期待されるが、これはハンフォードが開設されてから108年後のことである。

”死の地図”

 はるか遠くの福島で起きている原子力災害は、アメリカの原子力発電所の安全性について、多くの人々に疑問をもたらしている。しかし、最悪の脅威のひとつ、冷戦の手に負えない最終的遺物のひとつがハンフォードの地下深くに潜伏している。

 もっと厄介なことは、地震の起きやすい太平洋北西岸に唯一ある稼動中の原発がこの汚染された地域の端に位置するという事実である。実際、活動家グループである”アメリカ北西部の心(Heart of America Northwest)”の代表ゲリー・ポレは、ハンフォードの遺産と潜在的な地震活動の組み合わせが”深刻な危害のリスク”を及ぼすと述べている。

 これらの懸念は、ハンフォードに最も近い町、リッチランドの人々、そして郡の周辺のまばらな人口の地域内に住む24万人の人々とっては新しいことではない。彼らの祖父母は永久的な汚染と放射能の対価をすでに払った。流産、出生障害、そして稀な子どもの病気である。

 1960年代に、ある農民の妻ジュアニタ・アンドレジェスキーは、彼女の家の周辺地域の”死の地図”を作った。心臓疾患が×、がんが○である。直ぐにその地図は×と○で埋まり、ある1点には67の死者があった。

平和の対価は?

 ジョン F. ケネディ大統領とリンドン B. ジョンソン大統領の下で内務長官を務めたスチュワート・ウダルは、ハンフォードを”アメリカの冷戦下の歴史で最も悲劇的な出来事”と呼んだ。

 1943年に始まった巨大なプロジェクトはハンフォードに9つの原子炉を建設した。それらの全ては恐竜の化石のように、まだ砂漠の砂上にそびえている。それらのひとつであるB反応器は空前絶後のものであった。

 ここは、アメリカが最高機密の下にマンハッタン計画(訳注2)で使用されるプルトニウムを製造した場所である。ハンフォードは、1945年7月16日ニューメキシコ州のホワイトサンズ性能試験場で、原子爆弾の最初の爆発であるトリニティ実験(訳注3)のための原材料を供給した。また、1945年8月9日に長崎に投下した爆弾ファット・マンのためのプルトニウム239を14.1ポンド(6.4キログラム)供給した。

 その後数十年間、ハンフォードは、米軍の全核原料のプルトニウムを供給した。西側の自由はハンフォードに依存していると言われた。それは第二次世界大戦を終らせるための手段であったが、現在は冷戦を冷やし続けるためのものであった。

 それは、明らかに人の健康よりもっと重要な事柄であった。

死の遺産
 アメリカはハンフォードを誇りにしていた。彼らの日々の犠牲者に感謝の意を表すひとつの方法として、ハンフォードの従業員と契約会社は襟にきのこ雲の形をしたピンをつけた。ド・アントニオは、どのようにしてきのこ雲がリッチランド高校のフットボール・チームであるボンバーズ(Bombers)のマスコットになったのか、そしてどのようにして、原子力ボウリング、原子力食品、原子力芝生手入れと呼ばれるような地元のビジネスができたかを詳しく述べている。

 しかし、今日、その誇りは恐怖に変わっている。その地域の農民と、”三都市”と呼ばれているリッチモンドと二つの近隣の町パスコとケネウイックの人々は、地球上で最も高い放射線を浴びた人々であることが知られている。

 それはゾッとするよな遺産である。ハンフォードの52の建物は汚染されており、ウラン、セシウム、ストロンチウム、プルトニウム、その他の致死性放射性物質などが土壌や地下水に滲みこんだために、24平方マイルが人の住めない地域である。全体で204,000立方メートル以上、アメリカ全体の3分の2以上の放射性廃棄物がその地にとどまり続ける。

 2億1,600万リットル以上の放射性流体が放出されたある地域では、液体廃棄物と冷却水が漏れたタンクから流れ出したものであった。10万本以上の使用済み燃料棒、合計2,300トンがコロンビア川に近い水漏れのする池に置かれている。

 反応器の冷却水はこの川から取水していた。1971年まで、最小の処理だけがなされた後、冷却水は秘密裏に川に放出されていた。高い放射性レベルが、コロンビア川が太平洋に注ぐ250マイル(402キロメートル)西の場所で測定された。汚染された魚を食べたのはほとんどアメリカの先住民であった。

放射性プルーム(放射性雲)

 ハンフォードの施設はまた、放射性プルームを放出したが、それは全て風によってオレゴン州、アイダホ州、モンタナ州、そしてカナダにまで運ばれた。放射性降下物質によって影響を受けた人々、いわゆる”風下の人々(downwinders)”は、家畜、ミルク、卵などを通じて食物連鎖中に入り込んだヨウ素131に被爆した1945年から1951年までの初期段階に、最も被害を受けた。

 さらに、幾多の労働者、住民、農民がテスト目的で意図的に汚染させられた。

 1949年12月3日ハンフォードの科学者らは高放射性プルームを、当時世界最大のプルトニウム工場であったTプラントと呼ばれる施設の煙突から放出した。放射能は、アメリカ史上最悪の原発事故であるペンシルベニア州のスリーマイル島の1979年のメルトダウン時に放出されたものより1,000倍高かった。”Green Run”と呼ばれる、この実験による放射性降下物はカリフォルニア州まで吹き流された。人々は、なぜ突然病気になったのか不思議に思った。

 調査により、ハンフォードの赤ちゃんはチェルノブイリの子どもたちより2倍多く被爆したことが最終的に示されるであろう。”Green Run”の前に、ある農民の2歳になる息子トム・ベイリーは畑で遊ぶのが好きだった。しかしその時、原因不明の麻痺に襲われた。成人しても、彼は父親になることはできないであろう。彼の家族全てはがんで死んだ。

 しかし、地域の新聞スポークスマン・レビューのある新聞記者の助けを得てベイリーがなぜこのようなことになったのか理解し始めたのは1986年のことであった。それは放射能被害者と米政府との間の10年に及ぶこととなった戦いの端緒であった。被害者らは政府を訴え、秘密のファイルを開かせた。いくつかの訴訟は集団訴訟として統合され現在もまだ行なわれている。

カチカチ音を立てる時限爆弾

 1988年にハンフォードの現場が閉鎖されたときに、政府は膨大な解体作業を実施した。政府はそれを”人類史上最大の民間事業プロジェクト”であると、あたかも誇らしげに呼んだ。

 今日でも、そのプロジェクトは年間20億ドル(1,600億円)以上のコストがかかっている。2013年会計年度には、29億ドル(2,300億円)が必要であろう。その作業は、常に泥水、挫折、事故により妨げられた。2008年に、クリーンアップ20年後に、やっとその半分が完了した。9基の反応器のうち4基だけが埋められた。周囲は2020年までに、タンクは2047年までに完全に汚染が除去されることが期待されている。

 そして、もちろん、まだ運転中の反応器がある。1984年以来、アメリカで安全性の低い反応器のひとつであると考えられている。日本の大災害の後、その管理者である電力コンソーシアムのエナージー・ノースウェストはそのプラントはいくつかのバックアップ・システムを持っており、マグニチュード6.9の地震に耐えることができると主張している。

 昨年、ハンフォード地域で210回の地震があり、最大のものはマグニチュード3.0であった。しかし、それらがそれほど大きなものでなかったという事実も環境活動家を納得させるものではない。”もし深刻な放射線災害を回避するのに間に合うようクリーンアップされずに、地下タンクの漏れと汚染された地下水の川へ流出すれば、将来、川は放射能で汚染されることを意味する”と太平洋岸漁業者協会(PCFFA)の地域代表グレン・スパインは述べている。”大量の核廃棄物の遺産はまだ、チクタクと鳴っている”。


訳注1:ハンフォード・サイト/ウイキペディア
米国ワシントン州東南部にある場所で、原子爆弾作成のマンハッタン計画でプルトニウムの精製が行われた所。その後の冷戦期間にも精製作業は続けられ、現在はこの作業は行われていないが、米国で最大級の核廃棄物の問題を残しており、その処理が継続されている。

訳注2:マンハッタン計画/ウイキペディア
マンハッタン計画(Manhattan Project)とは、第二次世界大戦中、枢軸国の原爆開発に焦ったアメリカが原子爆弾開発・製造のために、亡命ユダヤ人を中心として科学者、技術者を総動員した国家計画である。

訳注3:トリニティ実験/ウイキペディア
トリニティ実験(the Trinity test)とは1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州で行なわれた人類最初の核実験である。

訳注4:放射性プルーム(放射性雲) 気体状(ガス状あるいは粒子状)の放射性物質が大気とともに煙突からの煙のように流れる状態を放射性プルームという。



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