ピコ通信/第145号
発行日 2010年9月23日
発行:化学物質問題市民研究会
ピコ通信/第145号に加筆
2010年9月 熊本・水俣訪問記
原田正純さんの裁判証言の傍聴と
水俣病被害者/支援者との交流
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/mercury/INC2_CACP/
Report_on_Kumamoto_Minamata_Visit_jp.html


 当研究会がINC2に向けて進めている4つのプロジェクトのうちのひとつが、「水俣関係者との連携強化」であり、水俣の人々や地元メディアと直接会って交流を深めるために、9月12日から14日まで熊本及び水俣を訪問しました。

1. 地元メディアとの交流

 水銀汚染への取組を広く市民に知らせるためにメディアの協力を得ることが重要であり、熊本のメディアとの交流を図りました。

(1) NHK熊本放送局
 同局は、当研究会が国際NGOの支援を受けてINC2に向けた取り組みを実施していることに強い関心を示しており、今回の「熊本・水俣訪問」、12月4日の東京での「NGO国際水銀シンポジウム」、来年1月の幕張での取り組みを一連のNGOの活動としてTV撮影・取材したいとの意向を伝えてきました。9月12日午後、熊本のホテルで約2時間にわたりインタビューを受け、今回の熊本・水俣訪問の目的、INC2に向けた当研究会と国際NGOの取り組み等について説明しました。

(2) 熊本日日新聞
 日本の主要紙が、世界の水銀問題の取り組みについてほとんど関心を示さない中で、同紙はUNEPの水銀汚染削減の取り組みを早くから報道し、本年6月にストックホルムで開催されたINC1に日本のメディアとして唯一参加しました。13日の午前中に熊本市にある同紙本社を訪問し、INC2に向けたNGOの取り組を説明しました。同紙は14日の水俣での私の報告会を取材し、翌15日の朝刊で報道しました。

2. 原田正純医師の証言を傍聴



証言が終わり熊本地裁を出る原田先生に花束
 水俣病被害者互助会の会員9人が国と県、原因企業チッソを相手取り損害賠償を求めている訴訟で、9月13日、熊本地裁で原告側証人の原田正純医師の証言があり、その一部始終を傍聴することができました。
 原田先生には当研究会が12月4日に東京で開催するNGO国際水銀シンポジウムでの講演をお願いしてあり、体調が許せばという条件で快諾をいただいています。
 胎児・小児期に有機水銀による被害を受けた原告9人のうち、今回対象の5人について、原田医師は全員を水俣病患者であると証言し、個々の臨床所見だけでなく、家族や地域の生活環境を含む総合的な症状把握が重要であると証言しました。
▼個々の原告の初期データがないのは、原告の責任ではない。国や県がもっと早い段階できちんとした調査をしていれば、診断はもっと容易にできた。
▼すでに50年以上経過しているこのときに、同じもの(魚)を食べていた家族や地域の中で一人ひとりの症状で水俣病である/ないと分けるのはおかしい。
▼それは医学的な違いではなく、社会的/政治的な理由に基づく分け方である。
▼育った地域の特性や家族の症状から共通点を見いだし水俣病と判断することが大切である。

3. 熊本から水俣へ

 熊本地裁には水俣からバスで約30人の被害者や支援者が駆けつけ、原田医師の証言を傍聴しました。裁判終了後、原告団は近くの会場で報告会を行なった後、再び水俣に帰るためにバスに乗り込み、私も同乗させていただきました。車中で自己紹介をし、皆さんと懇談しながら水俣に向かいました。

4. 水俣病に関連する主要場所の訪問

 9月14日の午前中は、谷洋一さん(水俣病協働センター理事/水俣病被害者互助会事務局長)に水俣病に関連する主要な場所を案内していただきました。NHK熊本放送局と熊本県民TVが取材・撮影のために同行しました。

(1) 百間排水口

 チッソ水俣工場の前を通って百間排水口に行きました。チッソが1932年から1968年まで水俣病の原因物質メチル水銀を含むアセトアルデヒド製造プラントの廃水を水俣湾に排出したこの百間排水口は水俣病の原点です。
 百間排水口の案内板には「水俣湾に排出された水銀量は約70〜150トン、あるいはそれ以上とも言われ、百間排水口付近に堆積した水銀を含む汚泥の厚さは4mに達するところもありました。現在、百間排水口からは、浄化処理された工場廃水及び家庭からの生活排水が流れています」と書かれていました。

(2) 水俣湾埋立地

 チッソのメチル水銀を含んだ排水が流れ込んだ水俣湾はメチル水銀で汚染された大量のヘドロがたまりました。埋立地の案内板によれば、「その面積(水銀濃度25ppm以上の部分)約209万m2、量にして151万m3という大変な量でした。熊本県は昭和52年(1977年)から湾内で水銀濃度が特に高い部分(約58万m2)を護岸で囲み、その中に周辺の水銀を含んだヘドロをくみ上げ、合成繊維製のシートをしき、きれいな土砂をかぶせ、水銀を含むヘドロを封じ込める埋立工事を始めました。工事には14年の期間と約485億円の費用がかかり、平成2年(1990年)に終了しました」。
 広さ58.2haの埋立地の下には、水銀濃度25ppm以上の未処理汚泥約151万m3がありますが、"エコパーク水俣"がこの巨大な汚染を隠蔽するように百間排水口近くから親水護岸まで広がっていました。水銀で汚染された汚泥は浄化処理されることなく、単に汚染場所が移動しただけです。
 汚染汚泥はスティール・パイルによる護岸で封じ込められていますが、スティール・パイルの寿命は50年と言われています。この埋立工事が1977年から1990年の間に行なわれたことを考えれば、このまま放置することはできません。
 案内板は次のように書き換えられる必要があるでしょう。
 ”今、あなたが立っているところは、100トンを超える水銀で汚染された150万m3の未処理汚泥で埋め立てられた場所です。将来、未処理の水銀が漏れ出し、環境を再び汚染するかもしれないという懸念があります”。

(3) 海

 埋立地の護岸に立ち、穏やかな海を眺めていると、石牟礼道子さんの『苦海浄土』天の魚の一節が思い出されました。「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこに行けばあろうかい」。

5. ほたるの家

 国立水俣総合研究センターの水俣病情報センターを見学した後、谷洋一さんに車で、水俣病多発地域であった湯堂、茂堂、月の浦の周辺を案内してもらい、その後、ほたるの家を訪問しました。ほたるの家は、1996年に水俣病被害者支援施設として建てられ、谷さんもその設立に参加されたとのことです。ほたるの家では坂本しのぶさんをはじめ、数人の被害者の方々と話をし、トン汁とおいしい昼ごはんをご馳走になりました。
 午後に報告会の予定があり、時間の都合で他の団体や施設を訪問することができず、大変残念でした。

6. 水銀条約報告会

 水俣市体育館の会議室で約30名の水俣病被害者や支援者の方々に、世界の水銀削減の動きと2013年の水銀条約に向けた国際NGOの取り組みを紹介し、強い水銀条約にするためには水俣の方々の関与が必要であることを説明しました。
 鳩山元首相が本年5月に水俣で、さらに日本政府が6月のストックホルムのINC1で、水銀条約を"水俣条約"としたいと述べたことについて、水俣の方々は、その意味を深く考えたことはなかったようです。

 国際NGOの中には、水銀を輸出し、水俣問題も解決していない日本に"水俣条約"を提案する資格があるのかとの議論もありました。また、鳩山首相(当時)のこの発言は、水俣問題は解決したのだと世界にアピールするために、政治的に利用するものであるとする冷ややかな意見もありました。
 一方、日本政府が水銀条約に向けて積極的に取り組むと世界にコミットしたのだから、日本は水銀輸出をやめ、法的拘束力のある強い条約作りに積極的に取り組まざるを得ないとする意見もありました。

 いずれにしても国際NGOは、水俣条約という命名そのものに賛成も反対もする立場にはなく、水銀条約に水俣という名前をつけるなら、水俣の経験を水銀条約にきちんと織り込み、水俣の悲劇を二度と起こさない"強い水銀条約"にすべきであると考えています。

 参加者から、「有毒な水銀を廃絶し、このような水銀汚染を二度と起こさないようにするために、そのような水銀条約は必要であり」、また「日本政府が水銀条約を水俣条約と命名したいなら、全ての被害者を救済する責任を直ちに果たすべきである」等の意見が出されました。

 今回の熊本/水俣訪問は大変有意義でした。協力いただいた方々にお礼を申し上げます。
(安間武)


化学物質問題市民研究会
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