2010年12月4日
NGO国際水銀シンポジウムの記録
水俣病被害者の報告
佐藤秀樹さん(水俣病被害者互助会会長)

文責:化学物質問題市民研究会
掲載:2011年1月30日
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/mercury/INC2_CACP/101204/101204_Tani_Kouen.html

■中学卒業まで家族が患者であることを知らなかった

 私は、熊本県水俣市茂道(もどう)というところで生まれました。私の地域は漁村地帯で、ほとんどが漁師で生活をしていました。私の父、母、おばあちゃんが認定患者で、私の兄弟5人のうち姉2人と弟が95年の解決策といわれたもので医療手帳をもらっています。私だけが認められなかったということです。母が一番症状がひどく、私が覚えているのは、昭和35年くらいにからだが悪くなって、杖をついて歩く、そういう中で炊事などしていた。水俣病というのは人にどれだけの影響を与えたか、ほんとうに恐ろしいということを痛感しています。
 母は最初は水俣病と認められていなかったので、水俣病というのはどういう症状があって、どういうものか全然知らなかったわけです。というのは、私の育った地域は山に囲まれたリアス式の海岸で、魚を捕って暮らすだけで、車の道もない、町に行くにも舟で行ったり、電車で行くにもひと山越えて電車に乗らなければならないという、新聞もない、テレビもない所だったからです。
 私は中学を卒業して大阪に出たのですが、父が認定患者の補償についてチッソに対する座り込みをしていると聞いて、家族が水俣病患者であるということをその時初めて知りました。父が座り込みをしている時には、私は大阪のお菓子屋に勤めていましたが、仕事に向いていないということで、田舎に帰ってミカンをつくることにしました。帰っても、水俣病の症状については分からなかったわけです。

■外見からは見えない症状

 水俣病被害者というものは、劇症の人たちだけが表に出て、人に見えない手の痺れとか、こむら返りとかの症状は、水俣病だとは思われないわけです。私は小さい時からそういう症状があったのですが、まさかそれが水俣病の症状だとは思わなかったわけです。年をとるにつれて、こむら返り、肩こり、頭痛とか、このごろは首の後ろの張り、頭の重さも出てきている。たまに力が抜けるということもあります。
 1995年の前に申請したのですが、棄却になりました。1995年の解決といわれた時も申請したのですが、棄却されました。現在、関西の訴訟で国の責任が問われている時にまた申請しています。
 水俣病というのは、劇症の人たちだけが中心で、眼に見えない、苦しんでいるけれどもわからない、そういう人たちに国、県はなにも対策をとっていない。ほんとうに水俣病で苦しんでいる人、水銀に侵された人を国は隠そうとしています。国は水俣病は公害の原点である、これを国際的に発信するといつも言われる。ですが、被害者を切り捨て患者と認めない人たちが、ほんとうに「水俣を教訓に」と言えるのか、といつも思います。

■加害者が被害者を"救済する"のはおかしい

 2004年最高裁判決で国、県は加害者と認められたにもかかわらず、認定基準を変えようとしません。2010年7月に大阪地裁で「認定基準に医学的根拠はない」という判決があったにもかかわらず、やはり控訴して患者を切り捨てている。今度の特措法で救済策と言われ、和解協議だと言われますが、被害者を患者と認めない中で、加害者が被害者を救済する、という言いかたをすることはあってはならないと思います。加害者は被害者に対して賠償をする、そして責任をとるということが必要です。加害者が救済という言葉を使うこと自体がおかしいと思います。
 今度は、チッソを分社化してチッソを助ける法案を作った。ほんとうに水俣病を教訓にするなら、被害に遭った人たちをきちっと患者と認めて、補償を払って、チッソをそのまま残して、水銀の恐ろしさを伝えていくのが国のすることではないかと私は思っています。そうしない限り、水俣病の怖さを世界に伝えていくことはできないと思います。
 私たちがなぜ裁判をしたか。国、県は加害者としての責任を認めないで、チッソだけにかぶせて早く幕引きをしたい。自分たちがチッソを分社化してなくしてしまえば、国の責任もなくなるわけです。加害企業をなくして、水俣病を終わらせたいがために、こういう法案を作ったとしか思えない。
 私たち被害者はこういうことを絶対許してならないと思うし、公害の問題をずっと伝えていかないと同じ事がまた繰り返されるのではないかと思います。私たちはそういうことがないように、水俣病の恐ろしさをずっと伝えていかなければいけないと思います。



化学物質問題市民研究会
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