息を切らし駆けて行く、目的地は北のミトラ教会。
 そこではジョナサン王子とファルカータの婚儀が着々と準備されている筈だった。
「はあっ!はあっ!」
 別れた恋人を取り戻すため、遥か遠き港から遠距離走者と化して町を縦断してゆく。

 豪勢なエジンベア城を仰ぎ、そのまま迂回した先に微かに教会の尖塔を見つけた。城を突っ切れたならどんなに時間を短縮できたことだろう。立ちはだかる優美な城はどんな時でも恨めしい。
 広大な敷地を誇るエジンベア城を延々と迂回して回り、小高い丘の上、岬の教会では時間を告げる鐘の音がついに鳴り響き  息を呑んだ。
 通行人をかき分けかき分け、岬へ続く一本道へと倒れ込む。

「すいませんっ!通して下さい!急いでるんですっ!」
 何故か普段とは違い、道にはやたらと人が集まっていたのだった。俺は足がもつれて人垣に倒れこみ、そのまま足の群れから頭を出しては懸命に願う。

「そこ!それ以上道に出てはいかんっ!下がれ!」
 はみ出た自分に突きつけられたもの、それはエジンベア騎士の長槍の先。
「もうじき王子がここをお通りになられる。民衆は盛大に祝いの言葉をかけるのだ」

「…すみません。教会に用事があるのですが……」
 人垣の理由はすぐに知れた。大衆を監視している騎士たちは厳重に岬への道を固めている。果たして、いち漁師でしかない自分に越えられるのか……?
 おそるおそる尋ねれば、返答は余りにも想像どうりなもの。
「本日通行できるのは招待客のみ。平民はここより一切立ち入り禁止となっている」
「………」
 さすがに王子の式とあって、騎士の姿は道なりに続き、数は数十を越えていた。

「あっ、そうですよね。失礼致しました」
 引き下がった振りをして、     咄嗟に反転して岬へと走り出す。
 止まるわけにはいかなかった。この先にファルが待っているのだから     

「そいつを捕まえろっ!」
「逃がすなっ!」
 当然の如く多くの騎士が武器を手に行く手を阻む。前後に挟まれ、窮した俺の取った行動は      。




 
 教会の扉は、不意に新鮮な光を絨毯に射し込んだ。
 
「なんだ貴様はっ!何をしに……!」
 静粛さの秩序を破り現れた男は全身ずぶ濡れて、開いた教会の扉からおかまいなしに海水の水たまりを作り出す。 
「ハァッ…!ハァッ…!その結婚、待ったァーーー!!」

 静かな音楽が流れていた。
 参列した貴族たちが総ふり返り、余りにも場違いなみすぼらしい男の登場に呆気に取られ、口を丸くしていた。
 俺の見つめる人は白いドレスに身を包み、ヴェールによって表情を知ることはできない。
     が、確かに背後を振り返って驚愕に動きを今止めた。
 彼女の手をそっと第二王子が掴み、正に神父に誓いを立てようとしていた瞬間…。

「…ファル!君が好きです!俺と結婚して下さい!」

 その場の状況など、一切おかまいなしに全力で想いを叫ぶ。
 追い立てる騎士から逃れられる場所なんて左右に広がった広大な海上のみ。ここで捕まったら確実に「殺される」と確信したなら飛び込むしか手は残っていなかった。
 切り立った岬から飛び込み、水面降下の衝撃にも負けず、裏の崖を這い登って扉をめいっぱい押した。
 
 全身潮に濡れ、髪には海草が絡みつき、素手で崖を登ったために爪が割れ出血している。まさに満身創痍な姿で、じっと彼女の答えを待った。

++

「さよなら…」
 冷たい頬に唇でふれた。それが最後のあなたの温もり。


【あなたのこと、一生忘れないわ】
 伝わっても伝わらなくても、良いと考えて渡した暗号入りの手紙。
 初めて逢った時から、あなたという忘れられない色が点いた。色のない私の世界に鮮明に輝く、たった一つの星のように。

 またしても貴方は全身びしょぬれで、それは雨に打たれたのではなく、常に潮の香りを連れて来る。
 同じ言葉を再び聞くことになるなんて……。

 神父への誓いを前にして、私は海の香りに撃たれた     





 早朝から教会に出かけ、決められたウェディングドレスに着替え、控え室で静かに呼ばれるのを待っていた。彼の母親のため、     というのもある。けれど抵抗しない理由はそれだけではなかった。
 私の自由など、決して兄が許さないことなど解り切っていたのです。
 …夢を見ました。儚い夢を。
 彼の創る新しい世界に生きられたなら、どんなに幸福だったことでしょう。夢を見て、彼を守ることを心に決めて、それには自分は邪魔であることに気がついてしまった。

 だから私は嫁いでゆくのです。
 死ぬまで消えぬ、ただ一本の赤い薔薇を胸に秘めて。

「病める時も、健やかなる時も、変わらぬ愛を誓いますか」
 婚姻用の正装によって面を布で隠した、神父が厳かなる声色で王子に尋ねた。神父とは言っても役割名であり、我々を見守る役は女性が務めてくれる。

「はい。変わらぬ愛を誓いましょう。ファルカータを妻に迎えます」
 ミトラ神の彫像、教壇を前にして、白いタキシードのジョナサン王子は恭しく答える。どこか鼻にかかるようなく口調で、それはおそらく勝利を確信したが為。

「では、ファルカータ・デニーズ。貴女にも訊きましょう。夫、ジョナサンを病める時も、健やかなる時も、変わらず愛することを誓いますか」
「…………」
 神の前で、一生貫く嘘を口にする。視線を下ろし、唇が音を立てた。
「はい……」

     背後で大きな音が立つ。
 扉を思い切り開け放ったのは青髪の青年。


「グレイ…!」
 ふり返り、ブーケを握る両手が思いがけず震え、ヴェール越しの彼の姿、それだけに無性に目の奥が熱くなる。
「ファル、もういいんだ!母さんは…、救い出したから…!もう…、間に合わなかったけど、でも、君は自由になったんだ!」

「誰か、その男をつまみ出せ!」
 最前列から兄が立ち上がり指示を出した。呆気に取られていた入り口守衛の騎士が慌てて、両側から武器を持って彼を挟む。
「ファル……!」
 騎士の手から逃げるように前へと駆けた、彼の声に反応して私の体も走り始める。後ろ手に王子の手が強く引き寄せ、彼の元へは届かなかった。
 乱暴に抱きしめられて痛み、ぐっと眉を引き締め睨む。

「何処へ行くんだ。君は私の妻だろう」
「………」
 意地悪く、王子は人質のように私を腕に抱いて薄く笑った。潮に濡れた青年に向かいめくった唇。狂気じみた瞳は私を脅し、素朴な青年を小虫のように踏み潰そうとする。
「そこの君も聞くといい。我が妻が神を前にして、私への愛を誓うことを」
「なっ…!ファル……!     ぐあっ!」
 躊躇したグレイは瞬く間に抑えられ、顔がそのまま床に埋まってしまった。
「離せ!くそっ!離せ!」
 必死に抵抗するけれど彼は床の絨毯を舐めるばかり。怒りに見上げる瞳は王子を刺して、なお一層彼は激しく暴れるのだった。
「一体いつまでファルを縛るつもりなんだ!ファルを離せ!」
 兄は「教会から追い出せ」と吐き捨てたが、王子は笑って一言告げた。
 「構わない」、と……。

「いいさ。彼にも祝って貰おうじゃないか。なぁファルカータ」
 グレイを床に叩き伏せたまま、残酷な誓いを彼の目前で言えと強制する。
「さあ。どうしたかなファルカータ。愛を誓ってくれないか?そして誓いの口付けといこうではないか」
「…………」
 しなければ、きっと彼が殺される。
 私は神父に向き直り、凛として言い放った。
 これ以上、彼が追いかけて来ないように、迷うことなく……。

「はい。私は…」

「その誓い、待った!」

 再び、招かぬ客が私の誓いを遮った。
 侵入者は赤毛の神官、イシス王女の従者マイス・ブライト。単身現れ、堂々と教会入り口で高々と宣言する。

「結婚式は中止だよ。誓いなんてする必要は無い。ジョナサン王子とトマホーク氏はこれから王城にて罪状を読まれるんだ」
「…なっ……!何を馬鹿なことを!」

 何が起こったと言うのでしょうか     
 イシス神官の発言に兄はぎょっとし、冷や汗をごまかして王子に救いを求めてふり返る。

「……ハハハ。何を言っているのか分からないな。マイス殿も祝いに駆けつけてくれたのかな?今日は千客万来だ」
 王子は余裕めいて両手を広げ、おどけたように乾いて笑う。
「第一王子が自供しました。あなた方兄弟は国王に薬を盛り、国政を我が物にしようとしていた。国王の病気はあなた方に仕組まれたものです」
      !」
「妹姫も共犯を認めましたよ。王子とトマホーク、二名を王城に連れて行きます」
 
 王子よりも更に彼は不敵です。神官マイスは慇懃無礼に嘲笑い、抵抗するなら…、とでも言うように腰の短剣の柄を握る。
 穏やかではない瞳の色。彼の「本気」に王子は無意識の内に後ずさっていた。
 
「…ハ、ハハハッ!そんなまさかっ!兄や妹がそんなことを言う筈がない!冗談はやめて頂こうかマイス神官」
 剣術を嗜んではいるものの、到底目の前の神官には敵うはずもない。そして彼はイシスで頂点に立つ魔法使いでもあるのだから。
 強行手段を取られたら……、と王子は笑いはするが内心は萎縮している。

「ハハハ。ちょっとした誘導尋問であっさりですよ。こちらは薬物の入手ルートも掴みました。国王は管理不行き届きと病状によって、国政を一時ランシールに預けると約束しています。今日この時から、この国の裁きはランシール、聖女の手にかかる」
「………!」
「なんと……!」
 王子の顔はみるみる青くなり、伝染ったように兄も丸顔が蒼白に変わる。

「ジョナサン王子、あなたの女性問題もいくつか足を掴みましたよ。行き過ぎた民への非道も、聖女はお許しにならないでしょうね」
 聖女様は式には参列していませんでした。王子は招待したのでしょうが、どうやら彼女は断ったようで姿はない。ミトラ信仰厚いこの国の民は例外なく聖女を慕い、同時に恐れてもいる。聖女とは、『神の声』聞く者をさすが故に。

 着席していた貴族たちにも動揺が走り、教会内部に恐慌の色が降りようとしていた。エジンベアがランシールに制裁されると言うならば、もはや貴族たちの豪遊は終わりを告げる。
 貴族だけが富を貪る時代がようやく終わるのです。
 グレイを束縛している騎士たちにも戸惑いの仕草がうかがえた。自らどう動くべきか定められず、ただ状況を見守ろうと固唾を飲む。

 私の胸に、僅かな期待という名の花が咲く。
 横で王子は悔しそうに歯噛みしていた。

「そこまで言うのなら……。きっと何か証拠でもあるのだろうね?」
 そんなものある筈がないと、くぐもった声には苦渋が滲む。
「そうだ!証拠だよ!いい加減にしてくれないかね、証拠もないくせに!全くの言いがかりですぞ!」
 神官とは対照的な狼狽しきった兄。トマホーク・デニーズは今度は真っ赤になって唾を飛ばし、イシスの神官をねぶり始めた。
「全くイシスの民は礼儀を知らん。神聖なる結婚式をなんだと思っているのかね!」
 怯むかと思った赤毛の神官は慇懃無礼さを保ったまま。理由は彼の脇に現れた小さな影。

「証拠ならたくさんあるよ!」
      !?」
 兄の巨体は驚きに大きく飛び上がる。
 舞い込んだのはクレイモア・デニーズ。兄が地下室に閉じ込めたはず。しかし妹は無傷で書類の束を抱えていた。

「ふふーん!私が来てビックリしてるんでしょ?残念でした。お兄様が悪いんだからね。お兄様が使用人を大事にしないから、こうして私を助けてくれる人が出て来るんだよ!証拠もバッチリ残ってるんだから!」
 まるで兄妹喧嘩の口調で、クレイモアはバシッと書類の束を叩いてみせる。
「なんだと、この生意気なっ…!」

「不正の書類。証言もいくつも貰ったよ!みな本当はお兄様のやり方に不満だったんだよ。さあ観念しなさい!」
 ここまで来ると、さすがのお兄様もおろおろとして、うっかり口に出てしまった本心。 
「……まさか!そんなまさかっ…!確かに消せと命じておいたのに……!   !ああっ……!」
 使用人を大事にしない己の冷酷さが仇になり、兄は内部告発されることになった。

 妹が無事であったことに胸を撫で下ろし、私はふっと息をつく。
 
 その隙に目を光らせ、王子は決死の行動に出た。
「動くな!この女がどうなってもいいのか!」
 もはや言い逃れはできないと思っての苦し紛れの愚行。  神父の前に置かれていた燭台を掴み取り、王子は反対の手で私を抱いた。三本の蝋燭から蝋が足れて首を熱し、炎はチリチリとヴェールを焦がす。
「…うっ…!…っ!」
 小さく喘いで、炎に目を瞑る。

「お姉ちゃん!」
「ファル!」
 妹とグレイが駆けつけるのを制止して、鬼気迫った王子は乱暴に燭台を押し付けて喚き散らす。
「動くなと言っているだろう!この女の顔を貫くぞ!動くなっ!」

 バシッ    

 直後、王子の肩から背中を強打が襲った。
 拘束は意外にもすぐさま外れ、王子から開放されて危うく私は転倒しかける。

      なっ!…何をするっ!?」
 背後から殴りつけた存在、王子を教本で強打したのは婚礼衣装の神父。想定外の攻撃に王子は面食らい、撃たれた右肩を押さえて犬歯を剥いた。
「邪魔するな!お前を人質にしたっていいのだぞ!」
 燭台の矛先は神父に向かう。素早い攻撃であったのに、神父は腕輪で受け止め更に手首を回転させて王子の手から燭台を叩き落す。

「このっ…!」
 ヤケになって王子は素手で掴みかかる。神父は余りにも戦闘に長け、王子の手首を掴むとそのまま後ろへ捻り上げて強く締めた。

「見苦しいですよ、ジョナサン王子!」
 落雷のように激しい女性の一喝。痺れて王子は往生してしまった。
 神父は顔を隠した布をめくり、合わせて十字の入った帽子と大きな聖衣をはぎ取り教壇へかける。
 眩しいほどの白い肌に目が眩みそうでした。輝く金の髪に宝玉閃く額冠。簡素ながら気高い白の聖衣。身を包む蒼いマント。
 神父に扮していたのはランシールの聖女、ラディナード・フィルスだったのです。

 声もなく     王子は腰を抜かし聖女の前にて尻餅を打つ。

「神の前で潔白を誓えますか」
 ステンドグラスからの斜光を受け、神の御使いは厳格に問う。
「あ…。う……!」
「質問を変えましょう、ジョナサン王子。貴方の身の潔白を神の前で誓いなさい。誓えるのでしょう?」
「……………っ!」
 王子の細い体はがくがくと畏怖に震え、なんとかこの場を取り繕うと瞳がせわしく周囲に動いた。

 しかし、どんなに時を費やしても、王子には誓える筈がなかったのです。
 聖女は神の力をその身に宿し、偽るものを断罪すると信者なら知っている。もしも虚偽を訴えたなら、大いなる神の裁きが訪れる。聖女の翳す指より落ちる「光の十字架」によって。聖女は神の使いたる『賢者』の姿で其処にいたのですから     

    っ! 逃げるぞトマホーク!」
 教団の右手側、各室や裏口へと続く扉へと王子は逃げ出し、言われて兄も後を追う。太った兄は足が遅く聖女に捕まり、さすがに聖女には強い態度に出れないのか、がくりと膝をついて懺悔を始めた。
「ああ…。お、お許しをっ…!申し訳御座いません!お許し下さい聖女様っ!どうか、どうか命だけは……!あわわわっ!」
 繰り返し上げては両手を床に付いて、情けなくも全面降伏する兄。これまで人を傷つけて生きてきた兄の報い。その深さも恐ろしさも自分が一番良く知っているのでしょう。
 故に兄は額を床に擦り付け、何度も平伏し続けるのかも知れなかった。

 これまで悪事を組んで来た相方を見捨て、一目散に裏口へ逃げ出したジョナサン王子。扉の前で彼は最後の砦に出遭う。王子がノブに届く前に扉は開いた。
 王子を捉える熱い眼差し。悲しみも同時に宿して立ち塞ぐ少年に、王子は灼熱の怒りを感じて総毛立つ。
「…何処に逃げるのですか。あなたが、一体何処に逃げると言うのですか」
    うっ!うわあああああっ!出たっ!出たなっ!」

 脱出口に控えていたのはイシスの誇るラーの化身。
 凄まじい力を宿した赤毛の少年、僧侶ジャルディーノ。

 幼い僧侶に異常に恐怖して王子は我を見失っていた。僧侶が一歩踏み出すと、悲鳴を上げて我が身を庇う。 
「やめてくれ!殺すな…っ!殺すなぁっ…!」
 腰を抜かして教壇まで戻り、装飾物など手に取るもの全てを少年へと投げつける。
「おのれ悪魔めっ!野蛮人めっ!人殺しっ…!」
 進退極まった王子の前に壁となる、少年僧侶の声は悲愴さに揺れていました。
「殺すなんて……、しません。あなたは生きて裁かれるべきなんだ」
 
 飛び交う道具類に数箇所撃たれ、けれど少年が悲痛であるのは痛みが原因ではない。罵られた言葉が彼を傷つけるわけでもない。
 少年が想うのは、王子に傷つけられた小さな姫君ただ一人。

「僕と同じく、生きて償っていくべきなんだ!」

「ひいいっ…!」
 初めてでした。高慢で常に余裕の塊であった王子が乱れ、半泣きじみて転がり逃げようとする光景を見るなんて。
 少年は王子の腕を捕み、静かであるのに声には気迫が焔立つ。
「行きましょう。あなたを裁くのはこの国の民であり、聖女様です。死ぬなんて許さない。あなたには生き地獄がお似合いです」
「…おのれっ!…畜生がっ……!     !そうだ!壺だ!壺が欲しいんだろう?壺の罠は私しか外せないんだ!どうだ!私の前に跪け!そうしたら壺を渡してやるぞ!」

「………」
 赤毛の少年僧侶は呆れて、暫し無言で王子を見つめていた。


「その壺ってコレのことかな?♪」
      !!!」
 いつの間に入り込んでいたのでしょう。礼拝堂の左右に広がる高い窓。その窓の一つに浮かんだシルエット。長身の男性    噂に聞くエルフ族でしょうか   その手には大きな壺の丸い影。
 ガシャ    ン!
 窓が砕け、空を背景に銀髪のエルフが髪をかき上げる。まるで壁に埋め込まれた絵画のように、窓枠に手をかけると優雅にマントがたなびいた。

「んなっ…!ぬあっ…!…っ!…っ!    っ!」
 口をパクパク、窓を仰ぎ鯉のように開け閉めする。王子は零れ落ちそうなほど目を見開き、軽い口調のエルフ族は掌の上でクルリと壺を回してみせた。
 
「知ってたかな?本来この『乾きの壺』はエルフ族がエジンベアに与えたものだったんだよ。それに、あの仕掛けもエルフ族が教えたものなんだ。だから解除なんてわけないんだよね。残念だったね」
 驚きすぎてもぬけの殻になったような王子に舌を出し、エルフは少年に向かって手を振った。銀髪のエルフは少年の知り合い。アリアハン以降何かと縁のある盗賊シャトレー。

「先にイシスに持って行くよ。ではね、少年」
「ま、待て!」
 ジョナサン王子にとって最後の頼みの綱であった『乾きの壺』。盗賊はスッといなくなり、気まずい沈黙が王子を圧し潰す。
 もはや彼に選択肢などない。

「これで最後にしましょう。神の前で真実を唱えなさい。ジョナサン王子」
「あ…。あああ、ううう……」
 打ちのめされた王子はがくりと両手をついた。賢者衣装の聖女に迫られ、ついに堪忍して弱弱しく泣き崩れてゆく。

「…わ、私が…、悪う御座いました…」
「……。結婚式は中止です。王子とトマホーク。両名を城に連れて行きます。では」

 大人しく従い、力なく両名は聖女ラディナードに連行されていった。
 神官マイス、僧侶ジャルディーノも後に続き、名だたる貴族たちも参考人として城へ向かう。
 突如起こった国の一大事にわらわらと貴族たちは逃げ帰り、それぞれ不祥事の隠滅に忙しくなるのだと思った。

 がらりと礼拝堂は静まり返り、遅く、止まっていた時が動き始めた。




「…大丈夫だった?ファル…」
 王子に焦がされた髪を気遣い、いくらかその身が乾き始めた青年が手を添える。
「どうして、濡れているの?」
 私も冷えた彼の体を気遣って、そっと寄り添った。
「えっと、騎士から逃げるために海に落ちてさ…」
「無茶をするのね」
 
 密着することに彼は照れて、頭をかいてここまでの経緯を説明してくれた。

「あの、ファル。…もう一度言うよ?俺と、結婚して下さい。君と一緒にいたいです」
 見ている者は妹クレイモアのみ。邪魔しないように入り口から動かずに、じっと彼の背中を応援している。
「……望む人と一緒にいられる人は、本当に幸せね……」
 まさかそんな幸運が自分に訪れるなど、夢にも思ったことはなかった。
 思い出だけで生きてゆけると、海を見ながら生きていこうと心に誓った。

 同じく誓うなら、心からの愛の言葉を。
「…はい。あなたと生きるわ…」 

 新しい世界に生きられる。「私」という存在が生きる、まだ知らぬ世界。
 彼が雲が晴れるように微笑むから、私も精一杯彼に応えて微笑んだ。

 パチパチパチ!
 遅れてやってきた観客が嬉しそうに拍手を贈る。
 ランシールの騎士クロードがクレイモアの横に並び、その後ろで青髪の少年が隠れて拍手を打っていた。彼も、ささやかながら祝福してくれる。

「おめでとうお姉ちゃん。でも、本番はナルセスバークでやろうね!」
「そうね」

 ドレスが濡れるからと戸惑うグレイを、私は暫く抱きしめたままでいた。
「ありがとう…」
 助けに来てくれて。諦めずにいてくれて。
 変わらず自分を求めてくれて。
 何より、私に出逢ってくれてありがとう……。



 エジンベアの国政は一時ランシールに移り、王家の不正は瞬く間に国内へ伝えられていった。
 ジョナサン、トマホークの両名は家名を剥奪され、数年は投獄の日々が決まる。兄王子と妹姫は共犯によって家名剥奪、エジンベア辺境にて監視生活。国王は聖女とともに国の最構成に着手、指示を仰いでゆくことになる。
 イシスのオアシスには水が戻り、乾きの壺はそのままイシスへと献上された。

 騒動は数日おさまらず、その間に私はグレイの母親の死を知った。
 詫びても詫びきれず、そのために必ず彼のことは幸せにすると亡骸に誓う。

 彼らの住む町に埋葬するため、グレイと弟ビームは先に帰り、その後にクロード騎士も町へと戻った。
 私とクレイモアは事後処理のためにもう暫くはこの国に。神官マイスはイシスに戻り、僧侶ジャルディーノも姫の傍へ。
 
 これからのエジンベアがどうなってゆくのか。それはまだ誰も知らない。
 聖女様の指導の元、エジンベアは生まれ変わろうとしていた。

++

 俺たち兄弟は眼下の町をひたすら眺めて、お互いに会話のタイミングを見失っていた。
 ナルセスバークを見下ろせる丘に登り、赤く染まる世界に心奪われてゆく。その足元にはできたばかりの母親の墓石。
 ここからなら中心の教会群が見え、兄貴の結婚式も見ることができる。
 
 兄貴と二人で選んだ場所。これから先も俺たちの暮らしをずっと見ていけるように…。それには最も適した丘だった。

「…ビームは、盗賊?だったんだな…」
 兄貴がとうとう切り出した。
 俺はただ俯いて、兄貴だけでなく、母親にも心中で詫びている。なかなかどうして、謝罪の言葉すらも巧く口から出てくれないのか。
「ごめん……」
 言い訳も思い浮かばない。兄貴に見せる顔がない。このまま崖から落とされても俺は兄貴を恨まない。それぐらいの責め苦を覚悟していた。

「ごめんな。苦労させて」
 兄貴は俺の頭に手を置いて、いつものように素朴に笑う。不安に押し潰されそうな俺を、安心させるために施された笑顔。兄貴が笑うといつもほっとした。
「時々おかしいなと思う時はあったんだ。そんな余裕ないはずなのにお前が食べ物を買ってきたり。明らかに給料以上の金を持っていたり…」
「………」
「お前にそんなことさせちまうなんて……。俺は兄貴失格だな。本当にごめん。もうさせないから…」
「兄貴ぃ……」 
 ぶわりと泣けてきて、ゴシゴシと袖で目を擦った。

「…クロード君は知っていたんだな。あの雨の日がそうだったのかな」
 様子のおかしかった雨の夜を思い出して、兄貴は泣く俺をそっと宥める。俺はこくりと頷いて、その日の事を隠さず兄貴に教えた。

「…嬉しいこと誓ってくれたね。ビームに誓う、なんて」
「…………」
 半分以上はまだ恥ずかしいし、認めたくない気持ちで溢れてる。しかしいつまで経っても子供でいられるわけじゃない。
 貴族をひたすら憎んできた自分。もう「貴族を憎むだけで良かった」時代が終わってしまった。アイツのことも認めなければ、俺はまだアイツよりも「幼い」という証明になってしまうんだ。
「こん畜生…」
 ボソリと、居ない奴に向かって悪態をつく。

「いい友達になれるよ。きっと」
「ともだち…?」
 相変わらず兄貴は人がいい。すっかりクロードに毒されて、にっこり笑われても俺は「うげっ」と気色ばんだだけなのに。

「まさか。貴族とダチになる日がこようとは……」
「いいじゃないか。ちゃんと謝らないと駄目だよ。今まで散々当たってきたんだから」
「え”……。あ”〜…。う”〜…」
 冗談じゃない。と思いつつもそれが道義なんだろう。
 あーー…。嫌だー……。しかしなー…。

 何が面白いのか兄貴はにこにこしていて、気づいた俺はムスッと膨れて石を蹴る。なんだか墓の中で母親まで笑っているような気がして、ますます恥ずかしさが膨れ上がった。

「分かったよ…。謝る。嫌だけど」
 アイツが変わったのだから、俺も変わる。貴族全てが悪いワケではない、本当は解っていたのに他国のアイツに八つ当たりしてしまった。
 そんな自分とはもうオサラバ      。



 新しい町に初めての墓標。
 町を全貌できる特等席。これから先、俺たち家族はこの町で生きてゆく。






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エジンベア編終了。
商人の町へと戻って「逢魔ヶ時」へ続きます。

2006・3 UP