「お姫様の部屋はあそこだよ。少年の部屋を訪ねる前に見つけたんだ」 寝静まった王宮の一画、灯りの消えた客室のバルコニー。 緊張を隠せない僕の胸は、激しく鼓動を繰り返していた。 「邪魔しちゃ悪いからね。俺はこのまま『壺』を探しに行くことにするよ」 「……。はい……」 「健等を祈るよ少年。お姫様と仲良くね」 にこりと悪戯っぽく微笑んだかと思うと、エルフの影はふわりと屋根の上へ。あっという間に影は消え、夜霧の中には、木々のざわめきだけが残された。 一人バルコニーに残されて、躊躇いながらも部屋の中をそっと覗いた。 僅かに薄く、まるで僕を誘うように窓は口を開けている。 「姫様…?」 深夜に訪ねるなんて無礼は働いたことがなかった。怒られるのを承知の上で、返事を待たずに窓を押す。 灯りなき客室の中、怪しく何かの影が蠢動していた。 「 床に倒れた彼女の上に、男が一人覆い被さり身動きしていた。 「…っ。えっ…、っく…」 消え入りそうに微かに響くのは姫の泣き声。しゃくり上げる声も儚くて、弾かれたように飛び出し、男を突き飛ばすと慌てて姫様を抱き寄せた。 乱れた黒髪、泣き腫らした瞼、頬には強打された痕が見えた。力なく開かれた唇には色がなく、首筋や胸元には噛まれた様な鈍い痕。 「ひめ、さま……」 信じられない痛々しい姿だった。今まで姫を殴った存在なんていやしない。 「なんてことを……!」 ネグリジェは乱暴に引き裂かれ、足元に布は絡み付いたまま。 白い肌に刻まれてしまった無数の痣。それはきっと激しい抵抗の痕なのだった。 床にはあらゆる物が倒れ転がり、激しく争った惨状を物語る。破損した器物たちは、そのまま彼女が受けた傷そのものに見えて………。 「姫様……!! 姫様……!!」 何度呼びかけても応答はなかった。 瞳はガラス玉のように虚ろうばかりで、目の前の僕すら映してはくれない。 「あ…。ぅ、うぅ……」 声はショックの余り出なくなったのか 「姫様……。なんで、こんな……。こんなことに……!」 身につけていたマントをかけると、そっと抱き上げ彼女をベットに眠らせた。 「…酷いな、僧侶くん。一体何しに来たんだい?今宵の僕の愉しみを……。邪魔するなんて、ただじゃおかないよ?」 半裸状態だった男は、突き飛ばされた後、しかし余裕めいてゆっくりと立ち上がった。 ズボンの着衣を直し、不敵な態度で両手を上げる。 「だいたいなんて野暮なんだい?今宵は私達夫婦の初めての夜なのに」 このエジンベアの第二王子、ジョナサンの頬を僕の右手がえぐり飛ばす。 「 床を二回転して壁に激突し、王子は目を丸くしておそるおそる頬を押えた。 仁王立ちする僕の右手に、炎のような赤い光が帯びてゆく。 「許さない…」 怒りの炎は全身を包み、溶鉱炉のように紅く灼熱に炎上する。 「許さない!!!」 |
「紅炎〜牙」 |
「い、痛い…。なんてことをしてくれたんだ。僕の歯がっ!歯が…っ!」 壁からずり落ちた王子は涙を零し、血と共に奥歯を吐き出すと抗議にわめいた。その時すでに追って間近に迫り、第二撃を構えていた僕に両手を翳して王子は怯える。 「ひいぃっ 「あなたは、姫様を殴ったんですね…」 燃え立つ拳を震わせたまま、王子に問う。 彼の知っている気弱な僧侶の顔ではなかった。赤い髪は怒りに燃え上がり、まるで全てを焼き尽くす炎の化身。壁に更に後退し、青くなる王子は、それでも不敵な哄笑を失わなかった。 「殴ったよ。ハハ、何が悪いんだい?彼女は私のものになったんだ。どうしようと自由じゃないか。ハハハハハッ!」 腹が立ち、もう一度男の頬を叩きのめした。 どうしてそんな事ができるんだ…? ずっと大事に王宮で守られてきた小さな少女に。 嵐に揉まれた事もないような小さな花を、いきなり踏みつけることが、どうしてできる? 「…なんだい?女性を殴るなんて最低だと言いたいのかな?姫の口が過ぎたから、ちょっとカッとなって手が出たに過ぎないよ。…ハハハ。見てご覧よ、この部屋を。とんだおてんば姫様だよ。…そういうの嫌いじゃないけどね。抵抗する女性を無理やり…。最近の趣味なんだ」 相手は恍惚にクツクツと笑い、虫唾が走り、上から再度頭を撃ちつけようと拳を振り下ろす。男は慌てて床を転がり、殴打を逃れたが、その白い顔が醜悪に歪んだ。 「いい加減にしろよ…?僕を殴るなんて分かっているのか?お前のような僧侶如きに許されることじゃない。イシスに訴えて…、お前の父親に訴えてやる。小さな神殿如き、いつでも叩き潰せるんだぞ。分かっているのか!」 「…………」 「イシスの頂点、ラーの化身の暴行、神の名折れ。いや、イシスの名折れだね。エジンベアの王子の暗殺未遂と言ってもいいな。…さぁ大変だ。これは国際問題だよ?」 怒りで頭に血が上って、息が切れる。 血走った紅い瞳で、ゆらりと嘲る王子に近付いた。 この人をどうしたい?どうしたいと願うのか自分は。 「 イシスの宝石、いつも気品に溢れ、気丈だった姫様は傷つけ汚されてしまった。 「…許さないっ!許さない…!」 イシスなんて関係ない。 お父さんも神の名前も、この激動を鎮める意味を持っていない。 「僕はあなたを殴りたいんだ!! よくも姫様を 初めて人に乱暴を働いた。何度も殴り、追いかけては殴り、髪を掴み吠えて、嘆き叫びながらとり憑かれたように男を破壊する。 殴打の音だけが繰り返し、男は口から鼻から出血しながら必死に逃げた。 「このおっ……!僧侶の分際でこんな乱暴…、許されると思うなよ!」 拳に滲む流血は相手のものか、自分のものか、解らなかった。金髪を振り乱し男も殴り、手に取る物全てを投げつけ、力任せに蹴りを見舞う。 部屋は来た時以上に散乱し、床や壁に赤い血飛沫が沁みてゆく。 「ハァ、ハァッ…!くぅっ…!」 胸を突き上げる破壊衝動に激しく肩が上下した。 溶岩を流しているかの如く、自分の身体は沸騰している。もはや殴り合いの域を越え、お互い確かに相手に抱いた殺意。 王子はぎりぎりと歯を鳴らし、悔しそうに鋭い犬歯を剥き出した。 「…何がラーの化身だ。とんだ乱暴者じゃないか。偽善者もいいところだ。僧侶とはもっと慈愛に満ちたものだろう?心優しい聖人君子、そう聞いていたのにがっかりだよ!」 血反吐を拭い、唾を吐き、王子は指をさして僕を罵倒する。 「ラーは、慈愛の神なんかじゃない」 「…なんだって?」 不愉快だった。ラーの教えも何も知らないこの人が、「神の名」を口にする事さえも。 「あなたみたいな人が、神を語るなっ!」 跳びかかり上にかぶさり、傍に落ちていた割れたワイン瓶を叩きつける。炸裂する破片から泡喰って王子は逃げ、何か武器を探し、椅子の足を折ると威嚇に構えた。 「殺す気かッ! この邪宗徒めっ!」 エジンベアは基本的に主神ミトラ信仰の王国。他国を蔑む彼らに、他信者は侮辱されることがある。 太古より信じられ、イシスの神であった太陽神ラー。 そして僕は『ラーの化身』と名打たれてきた僧侶。 僕自身を頭から罵る言葉であったが、それでも良いと真剣に思った。 「ラーの化身なんて…、欲しくて言われてる訳じゃない。心優しい僧侶なんて、聖人なんて、自分で思った事なんてなかった!今日を限りに全部捨てる!」 「…な、に……?」 悲しいぐらいに、今の僕は堕ちたくて涙を流した。 人は、堕ちる時はきっと簡単なんですね。 今まで僕が信じ、守ってきた正しき道。 母にも父にも、兄弟にも、友達にも仲間にも、恥ずべき行いはしてこなかったはず。 今夜僕は、神の道を踏み外す。 憎き王子は何故か涙する僕に戸惑い、しかし次の瞬間、目を見開いた。 赤毛の少年は小さなダガーを非常戦闘のために懐に用意していた。少年が刃物を構え、王子は「本気」と知って腰が引く。 「…大丈夫です。怪我したって、いくらでも治せますから。例え死んだって、生き返らせてまた殺せる。何度だって殺せるんだ。何度だって殺してやる…!」 僕にはそれができる。永遠にこの男を苦しめてやることが。 「何度だって、殺してやる!殺しては回復して、そしてまた殺す…!死んでしまえっ!お前なんかっ!!!」 紅い影がダガーを振り翳し、王子は救援を叫びながら逃避に奔った。 逃がさなかった。足がもつれ転びかけた肩を抑え、鋭利な刃物で肉を貫く。 右手に伝わる感触、飛び散る鮮血は僕の頬にビチビチと音を立ててこびり付く。 「た、助け…っ!助けてくれぇぇっ…!!」 「うわああああああああああっっ!!」 刺した僕も 「うわあっ…!し、死ぬっ!死ぬっ…!ヒイィアアアア 大量出血に奇声を上げ、王子は血の海に正気を失い、バタリと倒れた。 ポトリと やがて僕も両手をついてうずくまった。 「姫様……!! 姫様………!!」 次々と血の池に滴り落ちた僕の欠片。 初めて知った殺意の衝動、こんな苦しみ、こんな後悔。そして自分の恐ろしさ。 ガクガクと両手が震え、それは全身にまで大地震をひき起こす。 ドス黒く染まった両手に泣き叫び、何度も絨毯で手を拭いた。拭いても拭いても消えない血の臭いに、狂ったように悲鳴を上げた。 ボロ雑巾のように打ちのめされながら、それでも脳裏に鮮明に、彼女の笑顔が浮かんでは消えてゆく。 楽しかった思い出たちに、とめどなく落ちてゆく僕の欠片。 「ごめんなさい。姫様。姫様……!」 どんなに綺麗で尊かったことだろう。彼女の笑顔は。 離してしまった小さな手。 僕は更に壊れゆく。 |
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夜も深まり風は冷え、カーテンはハラハラと所在無く揺れていた。 今宵夜空を占拠するのは紅い月。いつだったか、イシスにもこんな血生臭い夜があった。 大きな違いは、それが「自分の手」によるものだということ。血塗られていたのは月ではなく、己の手。部屋は不気味に静寂に侵されていた。 「…これは…。…ジャルディーノ、お前がやったのか…?」 静寂を突き破り、従兄弟の兄が部屋の中に飛び込んだ。書き置きを見て駆けつけた赤毛の神官は、乱闘の痕激しい室内に愕然として言葉を見失う。 血だまりの上に倒れた王子、そしてその傍にうずくまった赤毛の少年。 あられもない姿のナスカ姫。 「マイスさん……」 何を言い訳する気にもなれず、僕は口を引き結ぶ。赤毛の神官は王子の容態を確かめると、もう一度僕に念を押した。 「ぎりぎり急所は外れているが…、瀕死だ。もう一度訊くがお前がやったんだな」 「…はい…」 顔を上げて、涙や血で濡れた目元や頬をごしごしと擦った。 彼は王子に回復呪文を施し、ぎりぎりのところでその命を繋ぎとめる。 その後でゆっくりと姫の様子を調べに寝台に向った。 静かに黒い瞳に王子への侮蔑が浮かび上がり、無言で何かを思案する。 戻った神官は、手をついたままの弟の肩を問答無用に蹴りつけた。 「自分が何をしたか解ってるのかな?一体どうしてくれるんだい、この始末?」 痛みに顔をしかめた僕に、容赦なく注がれた冷徹な瞳。 けれど謝る気持ちは微塵も沸いてはこなかった。珍しく反抗的な態度を見せて、僕の双眸は苦渋に歪む。 「…謝らないです。僕は、この人を殺したかった。でも、できなかった……!」 右手に伝わった衝撃が恐ろしすぎて、未熟な殺意は未遂に終わった。 「へぇ…。お前にそんな事を言わすなんて、姫様も偉大だね」 「…なんで、そんなに平気そうなんですか。姫様が、…こんな目に会ったんですよ!どうして平然としてるんですかっ!」 責められた事すら意外なようで、彼は軽く鼻で嘲笑する。 「こんな目?夫が妻を抱くことに何の問題がある?元々女好きの王子のことだ。今夜こうなる事は解り切っていたことだよ。……まぁ、ここまで乱暴なことになるとは思っていなかったけど……。姫が抵抗し過ぎたんだろうね。大人しくしていればこんな事にはならなかった」 「解り切って…?解ってて、ここに姫様を泊めたって言うんですか!」 余りの言い草に逆上し、掴みかかって彼を揺さぶる。 「ああ、そうだよ。お前が知らなかっただけさ」 ガッシャアーーン……! 我を忘れて従兄弟の兄を殴り飛ばした。兄は倒れたテーブルに飛び込み、食器類を破壊してうるさい音を立て鳴らす。 「…ジャルディーノ…。なんで、僕がお前に殴られなきゃならないんだ……?」 起き上がり、食器の破片で切った指を彼は舐めると、悪意の視線を解放し弟を睨んだ。 一度闇に堕ちた者の、迷いなき憎しみの視線。反発し襟首を掴み上げ、そのまま容赦なく殴り返す。 吹き飛ばされた僕の身体は横転し戸棚にぶつかり、痛みで暫く「くの字」に固まる。 従兄弟の足は僕を追いかけ、更に背中や横腹を踏みつけ、そして蹴りを入れた。 「言っておくが、姫が決意したのはお前が止めなかったからだよ。お前が一番姫を傷つけたんだ。そんなお前に僕を責める資格があると思うのか」 「……っ!僕が……!」 「姫がお前を頼ったのに、お前は冷たく突き放したんじゃないか。こんな男と結婚してもいいと言ったのはお前だろう。王子に姫がどうされようと関係ないと見捨てたんだ。それを今更何だ?おままごとじゃないんだよ結婚は。結婚すれば、こんな望まない肉体関係だって、重ねなきゃならない。この先何回も、毎晩でも、何十年と」 「…そ、んなこと…。僕は…。ただ……」 背中を踏みつけられながら、僕には何の言い訳も出てこずに、ただただ兄の責め苦を飲み込むことしか許されない。 あの時は、ただ姫の求める決断から逃れたくて。 僕に決定権を委ねる事から目を背けたくて。 責任を背負うことから逃げ出した。 「…だって、マイスさんだって、姫を冷たく突き放せって、以前言ってたじゃないですか…」 「ああ、言ったね。でもお前は突き放さなかった。中途半端に繋ぎとめて。汚い男だよお前は。優しいつもりで、どんなに残酷か解っていないんだ」 「……。だって、王子が姫に片想いしていて……。邪魔するなと言われたから……」 「お前は一体何をしたいんだ?邪魔しないと決めたくせに、何故今、邪魔をする?目障りなんだよ。中途半端で。迷惑なんだよ!」 強く踏まれる背中。 姫様の悲しい顔を、脳裏に掠めては、悔しさに床を殴りたくなる。 最低なのは、自分でした。 誰よりも、何よりも、自分が許せなくて、生きたまま灼かれるかの様に身悶える。 「最低だ…!なんて、情けないんだ…!最低なのは、僕なんだ……!」 自分の生まれから、生まれてきた瞬間から背負う罪の意識から、人に迷惑をかけないように、かけないように生きてきた。 誰のことも疎まずに、憎むことなく、全ての人に誠意を持って優しく接する、それが自分にとって課せられた償いに換わってゆくと信じてた。 争いごとを避けて、人の意見に反発するのを避けて、常に自分を低く持って、目立たないように、誰の邪魔にもならないように そんな生き方をしてる内に、いつの間にか人の気持ちがとても怖くなっていた。 僕を表の世界へ引っ張ろうとする、姫の気持ちが未知で、脅威で、大切な彼女の手を掴む勇気を失った。 僕は自分自身を ラーの化身と呼ばれることも、 聖人なんて持ち上げられることも望んでなかったはずなのに。 愚図な僕に膨れて、とても可愛らしかったナスカ姫。 幼い頃から僕に親しく接してくれた、身近な女の子。 大好きに決まっていました。家族みたいに、友達みたいに。 国の大事な王女様として、国の大事な宝物として。 「僕は……。姫様をあんな人に渡したくないです」 「お前は一体何をしたいんだ?」その問いに答えるのは、咎を外した自分自身。 心なしか、踏みつける足の力は弱まった気がした。 「僕は、姫様を守りたい。こんな姫様、もう見たくない」 「………」 「こんな王国、ぶち壊してしまいたい。城も燃やして、壺を見つけてオアシスに水を戻す。王子もあの貴族も八つ裂きにしてやりたい。姫様の記憶から彼らの事も、この国の事も全て消し去ってやりたい。姫様を守りたい……!」 従兄弟の兄は足を戻し、片膝をつくと幾分優しい声色で呟く。 「…姫を守るだって?どうやって?本気でこの国を潰すかい?」 囁くには物騒すぎる事柄。 こんな言葉をさらりと言う、従兄弟の兄を僕は心から尊敬していた。 おそらくはその暗黒面ゆえに、強い彼にきっと何処かで憧れていたんです。 「知り合いのエルフが、壺を探しています。壺を見つけたら、姫は自由になれますか?僕はこのままお尋ね者になってもいいです。このまま実際に王子を殺して逃げてもいい。どうしたら姫様を守れますか。僕はそのためなら何だってできる…」 「…姫や、イシスを救う手立てはある。しかし姫の精神面は僕では保障できないな。彼女を救えるのはお前しかいないだろう。本気で姫を守る気があるかい?この先、一緒になる覚悟まで?」 問いかけには、床に寝そべったまま答えるわけにはいかなかった。 ゆっくりと立ち上がり、心を定めた僕の足は 白い手をそっと握ると、感情のない瞳が、僕を責めるでもなく静かに見つめた。 「姫様が許してくれるなら……。僕はずっと一緒にいます。ずっと姫様を…。守ります」 「イシスの貴族達が反対に騒ぎ出しても?またイシスを揺らすかい?」 誓いの証人の小さな少女は、じっと僕を細く見つめたまま、真意を疑っている。 僕の従兄弟も、僕に甘くない。 「…揺れません。揺らさない。その時は僧侶を辞めてでも、皆を納得させてみせる」 「姫の正当なる婚約者として、王子と張り合う覚悟はできるか?国家間の争いごとに敢然と立ち向かえるかなお前が。途中で逃げ出すことは許されないよ?」 「解ってます。…僕は、もう逃げない…」 「…そうか。解ったよ。それなら……」 言いかけて、近付く数名の気配に、彼はハッと注意を向けた。 愉しみのために王子は人払いをしてあった。ここへ来る途中の少ない見張りを眠らせ、やり過ごして神官マイスは現れた。その誰かが起きたか、気づいた誰かがやって来るのだろう。 部屋の惨状を見つめ直し、僕の胸に緊張が走る。 「大丈夫だ。これからイシスは反撃に入るよ。だいたい僕が指を咥えて見てると思うかい?お前が、うじうじ悩んでる間、僕は寝ずに動き回っていたんだ。…水を取り戻すため、姫に少しだけ犠牲になって貰う気でいたけど…、事態が変わった。全力でエジンベアと戦う」 騎士が数名部屋に雪崩れ込み、惨状に大口を開けて固まる。 「なっ!ジョ、ジョナサン王子!貴様ら許さんぞ!」 胸に血糊のべったりついた王子を抱き上げ、騎士は激昂して武器を構えた。他の騎士達もそれに習い武装するが、それ以上の迫力でイシスの神官が吠え退ける。 「許さないのはこちらの方だ!大事な伝言のために部屋を訪ねれば、嫌がる姫への過剰な暴力行為!およそ紳士の国とは思えない仕打ち!これが由緒あるエジンベア王国の為す事か!」 僕は叫ぶ兄の横で姫を抱きしめ、恨みがましく騎士達を睨めつける。 「まだ姫は少女というのにこの仕打ち!とても許せるものではない!止めに入った我が国の従者と王子は乱闘になったが、それは王子の所業ゆえ!なんでも王子は妻以外の女性とも関係を多数お持ちとのこと。望まぬ相手を無理やり囲っているとも聞いています。これは一体どういうことか!」 騎士達はうろたえ、顔を見合わせて、気絶した王子の顔を覗くしかなかった。王子の行いなど騎士たちの口から語られる筈も無い。 「他にも町で悪い噂を聞きました。国王が倒れた後、王子や貴族を中心に、不当な税の徴収が横行されているとか。真相を国王様に問い正したい。第二王子の所業に関しては、返答次第では婚約解消もよぎなき事と考えます」 「…ひ、ひとまず、王子の手当てが先だ!部屋に戻られよ!全ては王子が目覚めてからです!」 「姫様をこの部屋に置いておく訳にはいきません。この国にいる事さえも姫の心をえぐるでしょう。姫はイシスへ戻り、代わりに女王陛下が明日追求に参ります」 「ジャル、姫を」 「はい!」 姫をマントで包み、抱き上げて退室する。 荷物をまとめイシスへ呪文で引き返すと、またしても王宮は混乱と恐慌に陥った。 姫様を自室で休ませ、女王様は娘の痛々しい姿にうち震え、自らエジンベアを討つべく準備に立ち上がる。 僕はずっと彼女の手を握り、返事は無くても繰り返し謝っていました。 「ごめんなさい。姫様…。僕は、もう逃げない。ずっと姫様を守ります……」 |
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すでに不眠は二晩目にさしかかろうとしていた。 オアシスの水が奪われてから不眠不休の仕事が続く。 イシスの王宮は姫の傷害事件に騒然となり、絶望の色濃く沈んでいた王宮は、今度は憤激に色めき立つ。 ナスカ王女を弟に任せ休ませた後、一連の報告を女王や上層部へと手早く伝えた。 母親たる女王は心外な王子の所業に憤り、勇ましさを取り戻しエジンベアを討つ「旗印」となって行動を開始する。 さすがに女王も寝込んではいられないということだ。各所に指示を出し、明朝にはエジンベアへと糾弾に詰めかける。 貴族衆、騎士団長たちが慌しく退室してゆく。 玉座前は一瞬にして静まり返り、神官の僕一人がぽつりと残った。 「女王様、これは女王様には朗報なのかも知れませんが…。どうやらジャルディーノは姫とのことを心に決めたようです。…勿論、姫がそれで宜しければですが…」 女王は唐突な報告に暫し瞬きしていたが、毒気を抜かれたように微笑みに包まれていった。 「…そうか…。それは喜ばしいことだの。こんな状況に光が射す。ナスカにはジャルディーノが必要であろう。ことが終わったら、二人を祝福したいものじゃ……」 僕は敬礼し、特に意見は残さずに退室した。 するべきことは山ほどあった。 エジンベア王家の不正、王子の悪行の証拠を掴むためには、人手がいる。今頃奴等は証拠隠滅に奮闘していることだろう。時が過ぎれば過ぎるほど、こちらが不利になる。寝ている暇なんてなかった。 廊下を急ぎ足で行き来していると、名門貴族の当主たちが浮き足立って僕を囲んだ。 「マイスよどういう事かね!なんとあのジャルディーノが姫と結婚するのか?エジンベアとの婚約解消は喜ばしいが、何故そこであのジャルディーノが上がって来るのだね!」 揃いも揃って口にするのは弟のこと。 「由々しき事態であるぞ!早急に手を打たねばならぬ!」 「おのれジャルディーノめ、なんと浅ましい!」 「……。耳がお早いですね。…それとも盗み聞きですか?」 この忙しいのに煩わしい貴族風情にうんざりして、半目で僕は不遜に笑う。 「ジャルディーノはエジンベアとの交渉決着後、正式に婚約者として発表されるのではないでしょうか。おそらく十中八九」 「そんな事があってたまるかね!な、なんとかせねばっ!」 「マ、マイスよ!そなたも反対であろうに!何かないのかね!阻止する手立ては…!」 「……。ないですね。…と言いますか、僕はそれでいいと思っています」 「なんと……!どうしたのだマイス!お主はあれ程、あの小僧を憎んでいたではないか!」 「今でもジャルディーノの事は憎いですよ。でもそれとこれとは別問題です」 あっさりと言い、不敵に微笑んだ。 殴られた頬のうずきに思いを馳せ、思わず笑顔が込み上げてくる。 「聞いて下さいよ。あのジャルディーノが僕を殴ったんです。生まれて初めてのことでした」 父親と親友を手にかけたのに、言葉でなじる事すらしなかったお人好しのジャルディーノ。その弟が変わろうとしている。 ずっと聞きたいと思っていたんだ。あの弟の口汚く誰かを罵る言葉を。 殺意に歪むその顔を。 「…驚きましたよ。…そして、不思議と嬉しかった。あの弟が変わるんだ。こんなに興味深いことはない」 貴族の親父どもはゾッとしたのか、息を飲んで体が仰け反り、ようやく僕から離れてくれた。恐れたのはジャルディーノの変化なのか、僕の闇なのかには興味がない。 「今まで何をしてもあの馬鹿はヘラヘラ笑っていた。これからはアイツにも牙が生まれる。僕はその牙を見たいだけ。……忙しいので失礼しますよ」 慇懃無礼に、馬鹿な貴族達の横をすり抜け、廊下を進む。 「……おっと、一つ言い忘れましたが」 氷像のように固まってしまった貴族達を振り返り、ますます凍りつく冷気の吐息を僕は残す。 「もしジャルディーノを邪魔する気なら、僕が相手になりますから。これから先はジャルディーノは守るべき王家の人間と見なします。…意味は解っておいで、ですよね?」 反応は見るまでもなく、足は再び作業へと急いだ。 殴られた頬は、いまだに僅かに鈍い痛みを保存している。 しかしそれは妙に心地が良く、僕は幾分興奮していた。 …だいたい、裏でこそこそ根回しするだけの貴族達と、アイツの覚悟にどれだけの差があるか解っているのか。 イシスでの仕事を終えた後、明け方を前に僕は移動の呪文を唱える。 深夜というより、時刻は明け方に近い。 兄弟の家を訪ね、早急に返事を求めた。 「これからイシスはエジンベアを告発に動く。ランシールの聖女も一緒だ。行く気はあるかな」 訪れたのは数日前にセレモニーを終えたばかりの商人の町。町作りの発端であったエジンベア兄弟の家を訪ね、「共に行く気はあるか」と誘いに来た。 「セレモニーでは報せを受けていたのに、王子の邪魔をできなくてすまなかったよ。お詫び代わりに誘いに来たよ。恋人を助けに行く気はないかい?」 「グレイさん、遅くなってしまったけれど、まだきっと間に合うわ。私もエジンベアへ向かいます」 僕の後方には聖女ラディナード、そしてその弟のクロードがすでに身支度を終えて待っている。更に後方から少女が飛び出し、まだ寝ぼけている青年の肩を揺らした。 「グレイさん!お姉ちゃんを助けに行こう!きっと待ってるよ!私も協力するから!」 青年の恋人、ファルカータの妹クレイモアは、悪の参謀の妹でもあった。特別戦闘ができるわけでも権限がある訳でもなかったが、デニーズ家内部の情報は彼女に集めて貰うのが手っ取り早い。 「兄貴……」 玄関の奥から弟が現れ、迷う兄の腕を掴んだ。 「クソババアなら俺が助けるよ。だから兄貴はあの女と一緒になればいい。あの女…。待ってないかも知れない。きっと最初から諦めていたんだ」 「ビーム…?」 「いつだったか、兄貴が女から貰った手紙。俺は解読できたんだ……。簡単だったよ。手紙のスペルから兄貴の名前を抜いていくんだ。あの女は兄貴と一緒になれない事を解っていたんだ。だからそんな暗号を……」 「………」 「内容も短いし。…【あなたのこと、一生忘れないわ】、だってさ…。別れの手紙だよ」 強行軍を前に、兄弟の短いやり取りが交わされる。 東の空がうっすらと明るさを帯びてゆく中、青年はぐっと表情を引き締め答えた。 「…行くよ。行くに決まってます。連れて行って下さい」 同行を決意した彼の家に、また一人駆けつける人影がある。 「ハァッ!ハァッ!俺もっ!俺も行きますよ!エジンベアへ!」 寝起きのためにボサボサの髪でこの町の盟主は現れた。揃った面々の前で服のボタンを閉め、髪を直し額の汗を拭く。 勇者一行の仲間でもある商人、今は僧侶の修行もしているナルセスの登場に、一人だけ意を唱えたのはランシールの聖女。 「ナルセス、あなたは…。ここに残ってはくれないかしら。この町を空っぽにするのも不安なの」 「ええっ!?そ、そんな…!俺だけおいてけぼり!?」 「あ…。私もお願いしたいかも…。あのね、実はここ数日、ファラ君の姿が見えないの。ナルセス君ここにいて……。ここに居ないと、もう会えないような気がするんだ。変な話だけど……」 クレイモアにも頼まれてしまい、商人ナルセスは不平を零しつつも足踏みをおさめる。 「ううう…。わっかりました!留守番してます!絶対上手く行くって信じてますよ!」 「ごめんねナルセス君。なんか嫌な予感がするんだ……」 「…分かったよクレイモアちゃん。ファラ君のことは任せてよ!」 「ありがとう。…ごめんね。必ずファルを連れて帰ってくるよ」 留守番する商人に、青年グレイも頭を下げて謝った。 確かにこの町を空にすることには不安があった。卑劣極まりない奴等の事、この町に何もして来ないとは言い切れない。 「ドエールでも補佐に連れて来よう。アイツも多少魔法が使えるからね。貴族としての権威もある」 「あ、それは…、助かります」 「勇者達は今はこちらに来れない。向こうも向こうで、ちょっとある様だからね。…後は頼むよナルセス」 商人の町は盟主とイシス貴族のドエールに任せることに決め、僕達はそのままエジンベアへと直行した。 そのやり取りを、影より見つめていた二つの黒い影。 「…クレイモアはエジンベアへ行ったのね。丁度良かった」 「………」 「別に関係ないですよ」 影の一つはふてくされて、フイと視線を反らした。 「こちらは私一人で大丈夫。あなたの方はどう?」 「あっさり片がつきます。あの僧侶と賢者さえ居なければ、後は雑魚だ」 「…そう。油断しないでね」 二つの影は夜明けを待たずに霧の中に姿を消した。 |
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告白を受けてからずっと、彼女のことを避けていた。 魔王も冒険の渦中も怖くはないのに、彼女だけはとても怖い。 随分おかしな話でした。 世界を救う決意はできるのに、たった一人、彼女の未来を背負うことに怯えた僕。 「姫様は、僕の力も、生まれも関係なく僕を見てくれていた。それなのに僕は…。最低ですね。僕は生まれも周りも気にしてばかり。姫様そのままの事を見ようともしないで……」 「それでも……」 傷心の姫はあれから一言も、口を聞いてはいなかった。 瞳に感情が宿ることも無く、その瞳は誰も映ってはいない。 「もう一度、取り戻せますか?まだ間に合いますか…」 帰りたい。やり直したかった。できれば出会った日に戻って初めから。 「僕は……」 白い手をずっと握りしめたまま、確かに渦巻く復讐心を自覚していた。 許さない。あの男を。あの国を。そして自分自身への果てしない憎悪。 煌々と吹き上げる怒りを背中に、僕は誰よりも彼女に優しく微笑むでしょう。 微笑み続ける。 彼女を傷つけるものは、何であろうと灼き尽くす。 太陽神は慈愛の神ではなく、全てを温かく照らす裏で実は業火の塊りだった。障るものを一瞬にして消し炭と化す、獄炎の牙を持っている。 「僕も明日エジンベアに向かいます。見ていて下さい。必ず王子からあなたを救い出してみせる。あなたを守るために戦います」 |