慟哭は激しく、僕の身体を伝い、大地から森へ、空にまで震動してゆくさまが見れた。僕は『自ら』を思い出す。

 辺境の大陸アリアハンに生まれた、名前はニーズ。
 母親はエマーダ。魔法使い。
 父親はオルテガ。世界中に「勇者」と名前を轟かせた、魔法戦士。
 眠りに落ちていくように、僕は自分の記憶と向かい合う。


++

 アリアハン、それは小さな国だった。
 オルテガが現れるまでは、世界的にも余り名前が知られていなかった小大陸。
 生まれた頃は、おぼろげながら、僕は幸せだった、…と思う。

 両親がいて、父親は国中に、世界中に称えられ、「勇者の息子」として僕も可愛がられ守られていた。母さんも幸せだった。
 魔法使いとしてオルテガの手助けをして、二人は結ばれ、アリアハンに小さな家を建てて静かに暮らした。
 町の外れの小さな家。赤ん坊の頃少しだけ父親は家にいて、「すぐに帰る」と何処かへ行ったかと思うと、そのまま音沙汰が無くなった。

 僕は自分の目で見た、父親の記憶など笑えるほどに持っていない。

 何故か皮肉にも、父親の話はいつも他人の噂づて。「父親はこんなにいいことをしたのよ」と、必ず決まって賛美ばかりだった。
 母親が一人で寂しそうに思い悩むのを見ては、いつも父への不満を感じた。

 帰って来ない父親を、母さんは母さんなりに探していたと思う。
 子供の僕を連れてはなかなか動けず、オルテガの行方もなかなか掴めなかったみたいだけれど     


 いつの頃からか、母さんはよく泣くようになった。
 声を抑えつつも、一人辛そうに嘆いているのをよく見かけては、哀しい気持ちに襲われた。「どうして、オルテガ」と、一人泣き叫ぶ母親。
 帰って来ない父親に、泣く母親を見る度に、僕の怒りは募った。



「お父さん。帰って来ないの?泣かないでお母さん」
「…帰って来ないわ。もう、帰ってこないのよ。ごめんなさいね、ニーズ。私は何処にも行かないわ……」

「何処に行ったの、お父さん」
「私達は、捨てられたのよ……」




 僕たちは捨てられたのか。
 信じたくなかった子供の僕は、いつも町一番の背の高い木の上に登っては、ずっと父の帰りを待った。
 便りもない、姿も見せない。
 どんな顔だったのかも思い出せない、父親を憎みながら。

 僕はいつしか、父親を待たなくなった。まだ年端もない子供でも、母のために父を待たなくなった。

++

 やがて、「恐怖」は僕の前に現れた。

 「恐怖」は娘の姿で現れ、子供の僕は美しい姿に驚きもした。
 長く美しい銀の髪に紅い瞳を閃かせ、恐怖はしたたかに僕に微笑み、手を差し伸べて親密を誘った。

「初めまして、ですわね。可愛い坊や。探していましたわ…。あなたのお父様が「持っていない」ものですから、随分探してしまいました」
 若い娘の姿で現れた恐怖は、二階の僕の部屋に真夜中に突然現れ、耳元で静かに囁く。

「お父さん…。お父さんを知っているの…」
「ええ。良く知っていますよ。今、ノアニールにいますわ」
「ノアニール…」
「でも、行っても帰ってきませんわよ。ふふ。別な娘と結ばれていますもの」
「え、なに……?」
「お可哀相に。あなたのお母様は裏切られ、捨てられたのですわ。息子のあなたも放り出して。向こうで幸せに暮らしています」
「そんな…。はず、ない……」

「きっと、可愛くなかったのでしょうね。愛していなかったのですわ。でも、泣かなくてもいいのですよ。あなたは私が誰よりも愛していますから…」

 枕元に立っていた恐怖は、冷たい手で僕の髪や頬を愛おしそうに何度も撫でる。僕はいつしか総毛立って震えていた。
 彼女の指先は毒蛇の舌先のようにさえ感じる。


 彼女はベットの上に身を乗り出してきて、子供の僕に覆いかぶさり、嫌がる僕に愛撫する。
「嫌だ!嫌だ!離してっ!お母さん!助けてお母さん!」
 大声で泣き始めて、僕は必死にベットから転がり逃げようと抵抗する。

「うふふ。お母様には、先程挨拶に伺いましたの。可哀相に、気を失って倒れましたわ。よほど怖かったのでしょうね…」
 身体を掴む彼女の力は恐ろしく強く、そして体温を奪われる程に冷たかった。
 まじかに揺れる紅い瞳がヘビのように禍々しくて、僕は歯を鳴らしてまで恐怖に泣きわめく。
「うわあああっ!お母さーん!おとうさ……!」

 父への叫びは、僕はハッとして飲み込んだ。
 
 来るはずがないんだ。


 彼女は僕の顔を赤い舌で舐め、歯の間に舌を滑らせる。
 僕はただ泣き震えるばかりだった。
 毒を流し込まれたように吐き気が襲ってたまらなかった。

「私が怖いのかしら…。こんなに泣きはらして…。クスクス…」
 恐怖は姿は美しく、けれど身震いする氷の微笑みを繰り返す。

 彼女は僕の口を舐めながら、白い指先を僕の胸におもむろに突き刺してくる。
 痛みはなく、しかし、例えるならば、魂でも掴まれたのかと僕は声にならない悲鳴をあげた。

「…まぁ。……」
 僕の胸から魂(?)の塊を掴み出した彼女は、何か予期せぬことがあったのか、暫く考え込んでいた。
「これは……。ふふ。どうしましょうか……」
 ただの少女のように悪戯に笑ったが、唇を舐めた赤い舌先が邪悪な意図を孕んでいる。

 彼女は邪悪な微笑を唇に浮かべ、僕の魂らしき光の玉に口付けをほどこす。
「あなたは、やはり、素敵な王子様ですわね。大人になるのが楽しみですわ…。どんな姿で私を愛してくれるのか…」
「か、帰れ…。お前なんか、嫌いだ…。帰れ……!」
 ベットの上を後ずさり、壁側に逃げ込む。でも即座にも、彼女は腕を伸ばし幼子を造作に捕まえる。

「ああ、なんて美味しそうなんでしょう。覚えていて下さいね。私、あなたを迎えに来ますわ。あなたを私のものにするために…」
「ひっ……!」
 耳を食べられるかと思って、僕はびくりと大げさに震え上がった。開いた口の中に確かに牙が光った。

「あなたを食べに来ますわ…。その髪も、瞳も、唇も。全てが愛おしい…。あなたの肢体全て、本当は今でも食べ尽くしたいほど…。あなたの命も心も、未来も、永遠に私のものですわ…。クスクスクス…」
 彼女は口付けした、魂をまた僕の胸に埋め込む。

「私のかけら、あなたの中に残しておきますね。いつでも忘れる事のないように。あなたを苦しめ、きっと徐々に心を蝕んでいきますわ…。ふふ…」

 想像する未来に、嬉しそうに彼女は怪しい微笑で予告する。
「今は綺麗なあなたの心。いつしか真っ黒に染まって、あなたは私と一つになるでしょう」
 何も口にできず、僕は人形のようにブルブルと首を振った。
「なるのです。迎えに来ますわ。必ず…。それは明日かも、数年後かも知れません」


 『宣告』は刻まれた。去った後も笑い声が耳に残り、僕は耳を塞いで一階の母親の元に這って辿り着く。

 部屋で倒れた母親の、顔色も相当悪く、すでにこの時壊れる寸前だったのだろう。
「ニーズ…。ああ、ニーズ。今、死神が…。あなたを、迎えに来ると…」
「お母さん!食べられる…。食べられちゃうよ。嫌だよ。怖いよ。怖いよ……!!」
 取り乱し、子供の僕はわんわんと泣き、母親にしがみついて離れなかった。
「……。ニーズ……!」

 頼りにしたい父親もなく、この時母親は必死で考えていた。
 どうすれば子供を守れるのかと……。



 僕は、「恐怖」に出会って壊れた。
 そして、母親も同じように壊れていく。

 夜も眠れず、何もかもが怖くて、外に出ることも恐れた。何処かであの死神が自分を見ている気がして。微かな物音にも僕は泣いて怯える程になって…。
 恐怖が甦ってくる、毎晩、毎晩、いつもどんな時でも。

 町の人々は父親のことをよく言うばかりで大嫌いだった。
 誰にも何も話せない。
 部屋に閉じこもり、ベットの中で耳を塞いで震えてすごす。他人が怖くて、母親以外口も聞かなくなる生活に陥っていく     


 触れられた感触や情景が思い出される度に、僕は泣きじゃくって物を吐いた。
 自分の中から笑い声が聞こえてくる気さえしていた。
 僕の中にかけらを残す、その言葉通りを信じれば、自分の胸を刺したいほどに狂いだす。

 僕と共に、僕を必死に宥める、母親も狂気という病に堕ちた。

 言葉少なくなり、同様に食欲を失い、日に日にやつれていく。魔法の研究に地下室にこもり、横顔は常に殺気立っているように思った。
 毎日の全てが恐怖で。僕ら母子は、いずれ精神がおかしくなって、発狂して死ぬのではとさえ思っていた。

 地下室で、不思議な「彼」に出会って、僕は救われる。

++

 その日、僕は恐ろしさに耐えられず、叱られると分かっていながら地下研究室の扉を開けた。
 いつもは母親に「入ってはいけない」と強く注意されている、地下の研究室。
 何か気配を感じて、母親が帰ってきたのかと思い、僕は部屋を覗き込んだ。


 母親は留守で、地下室には一人の男の子が寝台の上に座っている。ぴくりとも動かずに、男の子は足を伸ばして、虚空を動かない瞳で見つめていた。
    よくできた、人形かと、おそるおそる僕は近付いて行き……。

 傍に近付けば、僕はその顔に目を疑って、何度も目を擦って見つめた。
「…僕にそっくりだ」
 どうして、こんなにそっくりな子がこんなところにいるんだろう。

 男の子は息をしていた。まばたきもしていた。人形なんかじゃない。
 僕は怖がりながらもベットとは言えない、布を張っただけの台の上、座る彼の隣によいしょと登って確かめる。

 彼は髪もあまり手入れがされていなくて、ボサボサで、顔も汚れていて、服も長いこと洗濯していない。
 僕よりも更に痩せていて、爪も前髪も伸びていた。
 みすぼらしい姿の彼に可哀相になって、思わず彼の前髪を持ち上げて顔を覗き込んだ。
「大丈夫?君…。どうしてこんな所にいるの?」
 額は温かく、瞳は僕に反応して、青い瞳に僕を映す。

「…君は、誰…?」
「…ニーズ…」
 彼の、貼りついた唇がぎこちなく言葉を発する。
「え…?君も、ニーズ、なの…?」
「ニーズ…」
 彼は繰り返す。まるでそれしか言葉を知らないように。


 僕は、沈んでいく彼の視線に、衝動的に彼の手を取って笑っていた。
「同じだね…。あのね、僕もニーズって言うんだ」
 汚れた彼の手は温かく、それだけで僕は安心できる。
 僕にそっくりな男の子。名前も同じ「ニーズ」で……。

「ねえ、お腹空いてないの?僕何か持ってくるよ。あとタオルも持ってくるよ」
 浮かれていた僕は、後から後から彼の世話を焼いて、でもそれがとても楽しかった。口も表情も動かない彼だったけれど、いてくれるだけで、何故か僕は笑顔を取り戻していた。

「ニーズ、こっち、僕の部屋だよ。着替え、どれがいいかな?」
「…………」
「これにする?これがいい?それともこれ?それとも…。うっ。ごふ、ごふっ」
「ニーズ…?」
「ごめん、ごめん、気にしないで。ねえニーズ、今日は一緒に寝ようよ。一人で寝るの、怖いし…、ね…」
 咳き込むのをごまかしながら、僕はもじもじしながらお願いしてみた。ニーズは頷いてくれて、僕はパアッと顔も赤く喜んだ。
 兄弟ができたようで、とてもとても嬉しかったんだ。



「いやあああああっ!!」

 二人、一緒に寝ていた姿を見て、母親は衣を裂くような悲鳴を上げて僕らを起こした。
「お母さん……」
「いやっ!いやあああっ!何をしているのニーズ!いいえ、気色が悪い!!」
 狂気じみて、狂い叫びながら母親は僕を腕に抱いて彼から引き剥がす。魔物でも見るかのように、もう一人のニーズを母親は嫌悪の瞳で睨んだ。

「…………」
 不思議なニーズは、一言も口を聞かず、悲しそうに視線を下げてベットで身を起こしただけ。

「お母さん、あのね…。怖いから、一緒に寝てもらってたの、僕…」
「ニーズ、いいから下がっていなさい!」
 母親は鬼のような形相で、地下室へと彼を連れ戻そうとする。
「お母さん。やめてよ。ねえ…。可哀相だよ」
 母親は僕が頼むのも聞かず、彼をまた地下室へと閉じ込めようとしていた。僕はまた泣いて…。胸に激痛を覚えて激しく咳き込んで倒れた。

「ニーズ…」
 同じ名前の彼が、初めて積極的に動いたのを見た。母親の手を振り払って、心配そうに僕の元に膝をつく。
「うう…っ。だい、じょー…ぶ…。うっ!ゴホッ、ゴホッ!」
 辛そうに廊下に倒れたままの僕の手を取って、彼は不安そうに眉を下げていた。
 こんな時、どうしていいのかわからないで、うまく喋る事もできないで、でも心配してくれているのが嬉しいくらいに僕にはわかる。
「…大丈夫。大丈夫、だよ…。すぐに、おさまる…」

 見上げる視線の先に、立ち尽くす母親の姿がうっすらと見えていた。
 母親の彼への疑心は、その先も消える事はなかったけれど…。


 害のないことがわかってくると、条件付きでもう一人のニーズは一緒に生活する事を許してもらえた。
 誰にも、彼の事は話さないこと。外には出ないこと。
 彼の存在は僕と母親だけの秘密。

 それから僕たちは、四六時中をずっと一緒に過ごしてゆく。
 二人でいれば、僕も恐怖を忘れることができたし、二人なら寂しさも感じなかった。
 大事な兄弟、弟のような存在。
 僕以外とは話をしないし、もちろん交流がない。
 
 でも、僕もニーズもそれで毎日が楽しかった。

++

 彼と過ごすようになってから暫くして、僕は女の子に出遭う。
 出遭うと言っていいものか…。


 始めは、背後に潜む彼女に気が付いた時、僕は恐怖に取り乱して彼女に物を投げつけたものだった。物影からじっと僕を見つめていた、銀髪を後ろでに三つ編みにした少女。

 同い年くらいの女の子になってはいたものの、姿が恐怖の死神に似ていて、姿を変えて僕の元に戻ってきたのだと疑わなかった。
 遠くから見つめているだけの彼女を恐れ、憎み、追い払おうと僕は必死だった。

「帰れ!帰れ!帰れよ!!」
 無反応で、常に一定の位置を保って自分を見張っているような女の子に、僕はいつも追い返そうとして激しく叫ぶ。
 石も投げた。
 ろくに使ったこともない、剣を持って、斬りかかろうとしたこともある。
 けれど、彼女はやはり無反応で、僕が近付けば、同じだけ離れて距離を詰めさせては決してくれなかった。

 彼女の姿は他の誰にも見えず、僕はいつか本で見た、これこそが「死神」だといつの間にか認識するようになっていた。

 古い古い伝説の本には、大きな鎌を持った死神の話が書かれている。
 魔王の使者、その姿を見る者は近いうちに首を落とされるのだと…。死神の現れる時、後には「生命」は残されはしないと。

 彼女は鎌を持っていなかったけれど、黒一色の服装に、白い表情の無い顔がとても冷たさを映していた。死にたくない…、僕はまた彼女を恐れた。


 僕にしか見えない事を知ると、背中に息を潜める「死」の恐怖とは、常に自分一人で闘うことになった。
 ニーズも、母親も心配するし、僕はどうしようもない恐怖を自分の中でずっと潜めて笑っていた。

 死にたくない…。
 死にたくない…。

 小さな死神の姿を見えないふりで過ごし、時折襲う、恐怖の残した闇の慟哭に身体と心を蝕まれ、それでも弱音を吐くことはしないで笑っていた。

 子供ながらに、僕は知っていたんだ。
 僕がいなくなれば、母親も弟も生きてゆくことができないだろうと。
 二人だけが僕の大事な家族、心配をさせないように、守っていけるように、僕は一人努力してきた。
 誰にも、何にも、負けるわけにはいかなかった。


 心を研ぎ澄まし、少年になった僕は、死神の少女を見つけても心揺らがぬようになっていた。
 僕は、誰にも負けはしない。
 あの、「恐怖」にも。常に背中合わせの「死」にも。
 魂に「何か」された日から、時々僕を嘲笑うかのように胸はじくじくと痛み、その度にあの笑い声が聞こえてくる。
 「あなたは私のものよ」、そう笑う声が耳にこだまする。
 そして、死神が、「死」の宣告を僕に言い渡そうとする。

「いい加減にしてくれ……!!」


 自分の中の激しい怒りが、身体を侵食する闇の感覚が襲うたびに、僕は家の中では叫べずに夜中外へと逃げ出した。
「カハッ!ぐう…。ごほっ!ゴフッ!」
 身体の中に埋め込まれた禍々しいものがのたうち廻って、吐き出したくて僕は町の外れで嘔吐を繰り返す。涙も交えながら血を吐くこともあった。

「畜生…。負けない…!負けてたまるか…っ!!」
 選んで殴りつけていたのは、幼い頃登って父を待っていた、町で一番高い杉の木の根元。
「ああ、うっ。ううっ、ぐっ…!!」
 悔しくて、苦しくて、声を殺して少年の僕はよくそこで嗚咽していた。
 知っていたのは、ずっと僕を見つめていた死神の少女だけ。彼女も、僕と同じように姿が成長していた。このまま、ずっと見ているつもりなのか…?

 いつまで…?



 ある時、激しい雷雨の中、家に戻れなくなった夜があった。
 小雨だったのが、泣いているうちに雨が強くなり、どうしようか思案していた時のこと。
 僕は木の根元で、雨宿りをしていたから良かったのだけれど、死神の少女はいつも通りの離れた位置で、ずぶ濡れになっているのが視界に障った。

 今まで、死神の少女に関心を寄せたことはなかったのだけれど…。

 見ていて、可哀相なくらいずぶ濡れな少女に僕は申し訳なさを思った。
 自分がここにいるから、彼女は濡れているのだから。初めて、罵りでない言葉を、僕は彼女にかけた。

「ごめんね。もう、遅い、かな」
 遠慮がちにかけた言葉に、不意で驚いたのか、少女は数回瞬きをした。まつ毛にたまった雨粒がぽたぽたと落ちて、雨の中寒くて泣いてるように見えたんだ。
「マント、これ、かぶってもいいよ?ここに置いておくね」
「…………」

 近付くと、離れることはわかっていたので、木の根元にマントを置いて、僕は走って帰路についた。少し走って振り返ると、マントを見下ろして、考え込んでいる少女の横顔が雷雨の中に霞んで見えた。

 僕は立ち止まって、彼女の行動を待った。
 もちろん、僕も負けないぐらいずぶ濡れになっていた。
 随分長い時間が経って、待っている僕に気づいて、彼女は一度だけ僕の方向を見た。

「かぶらなくてもいいよ!お気に入りだから、持ってきて!!」
 雨音に負けないように、大きな声で僕が叫ぶと、少女は戸惑いながらもマントを拾い上げて頭にかぶった。
 僕は、それがすごく嬉しい事に思え、にこりとして家に走り帰る。


 家族を起こさないように体を拭いて部屋の窓を開けると、濡れたマントを両手に、呆然と軒下で見つめる少女の姿が見えた。
 一階の軒下に、僕は小声で話しかける。
「そこに置いといていいよ。明日洗濯してもらうから。ありがとう」
「…………」
 二階の窓を見上げた少女は、それでもまだマントを手にしたままで立ち尽くしていた。
「待ってて。今タオル落とすから」
「………!」
 大きなタオルを持ってきて、僕は窓から下に落とす。少女は慌てて、マントをたたんで地面に置き、タオルを受け取った。
「さすがに、女の子の服はないんだ。僕のでいいなら貸してあげるんだけど…」

 少女は、静かに首を振った。
 渡したタオルも、なかなか使わなかったけれど、僕が見ていると、おずおずと頬に当てた。

 …死神って風邪ひくのかな?
 思いながら、僕は「おやすみ」と声をかけて眠りについた。


 翌日、マントとタオルは洗濯物の中にこっそり入れられていて、彼女も風邪をひいた様子もなく、いつも通り僕を見つめていた。
 その日から、僕の気持ちも、彼女の反応も変わっていった。


 死神って、何食べるんだろう…?
 お菓子をもらった時、いつも僕は弟と半分こにして食べる。それを思い切って、少女にも勧めてみた。彼女がよく立っている場所にカードと共に置いて、良かったら食べてと。
 彼女は食べずに、僕の部屋に返してきていた。
 お菓子は食べないのかな?と思った。
 女の子が好きなものと言えば、少ししか思い浮かばず、僕は近場の花畑に行って、ついて来た彼女の反応を伺った。

 一面のオオイヌノフグリは、青い小さな花と低い背でとても可愛くて、銀髪の少女にも良く映えていいなと思った。彼女も、花は嫌いじゃないのか、座って手を差し伸べていた。
「……。なぁ、最近、何処を見てるんだ…?」
「え……?」
 唐突に弟に言われ、僕は返事に困る。
「なんだか、時々、わからなくなるよ。庭にクッキー置いてみたり。花畑とか、探してみたり」
「………。それは…」

 僕は理由の少女を横目に盗み見ては、自分で吹き出して笑っていた。
「あははは。そんなに、僕見てるのかなぁ…」
 訝しがっていた弟に笑ってごまかし、それからも僕は少女にちょっかいを出し続ける。


 僕は綺麗に咲いていた花を摘んで、リボンを巻いて少女にプレゼントすることに決めた。白いマーガレットの花、受け取ってくれるのかドキドキしながら彼女の反応を見つめていた。
 本当は手渡ししたいし、名前も聞きたかったけれど、どうしても彼女は僕に近付かないし、口も聞いてくれない。
 花束に気づいた彼女は、今回も、なかなか手に取ろうとはしなかった。

 結局、一日経っても受け取ってもらえず、僕はひどく落ち込んだ。
 落胆した僕は、すねて眠りに付き、しょんぼりとして朝を迎える。一夜明けた少女の姿は様子が違っていて、僕は目を見開いた。

 花束は貰わなかったけれど、白い花を一輪耳元に挿し、花を巻いていたリボンを三つ編みの先に結んでいた。
 僕はその姿に感動さえしていた。
 恥ずかしいのか、いつもよりもずっと物影に彼女は隠れっぱなしで、僕の視線にたじろいでさえいた。
 恥ずかしそうな少女に、僕は笑顔でお礼を告げた。
「ありがとう。すっごく可愛いよ」
「………!」
 初めて、死神の頬に赤みがさして、彼女は物影に隠れて暫く姿を隠した。
 本当に可愛いと思った。


 以降も、彼女の声を聞く事はなかったし、名前も聞けなかったけれど、僕は幼くもずっと彼女に恋していた。彼女に手が届く時は、自分が死ぬ時なのかも知れないとは、何処かで思いながら…。

++

 記憶は加速してゆく。
 父、オルテガの悲報が届けられた、その日は『誓いの日』。


 城の兵士により、僕達母子は呼び出され、アリアハン国王よりオルテガがネクロゴンドの火山に落ち、亡くなったとの報告を受ける。
 火山ふもとに残されていたという形見、青い石の嵌められた額冠だけが母親の元に帰り、国をあげての葬式が執り行われた。

    名目上は、僕らもオルテガの死を悼んだ。


 母親から僕は額冠を貰い、弟と共に通っていた杉の木の根元に埋める。
「聞いてよ。馬鹿みたいに、皆泣いていたんだ」
「………。そうなんだろうな。オルテガは勇者とか言われてたから…」
「勇者なんて、志も半ばで。しょせんその程度だったんだ」
 埋めた場所を踏みつけ、僕は嘲笑していた。

 これが奴の行き着いた場所。ざまあみろと罵り、僕は清々としていた。
「何が、勇者の息子だ……」
 誰にでもない、僕は一人、微かな声で恨み言を語りかける。

「ふざけるなよ。あんな奴、僕が引きずり落としてやる」



「ニーズ……?」
 聞き取れなかった弟が、心配そうに声をかけてくる。僕は振り返った時には笑顔だった。
「ねえ、聞いて。オルテガが死んで、皆ひどく落胆してる。世界はどうなるんだろうって…、ね。まだバラモスは死んでいないからね。皆、新たな勇者を求めているんだ」
「まさか…」
 意図を読んだ、弟は顔色を悪くする。

「そう、息子の僕が…、って、皆期待しているんだよ」
「無理だ。ニーズは体が弱いんだ。無理に決まってる!」
「……。酷いこと言うなぁ…。魔法を使っても、ちょっと目眩するぐらいになってきたのに…」
 弟の心配もわかったけれど、僕の決意はもう頑なだった。
「死神の呪いで、魔法もろくに使えないのに、力だってないくせに、何言ってるんだよ。無茶だよ」

 僕は魔法を使うことができたが、使った後で、恐怖に「何か」されたせいで全身を激痛が襲う。気を失う事もしばしばだったんだ。
 けれどそれでは何もできない僕は、呪いの制限に負けない訓練をしていた。


「僕はそれ程馬鹿じゃないよ。あんまり、侮って欲しくないな」
 伏し目がちに、傷ついたように呟いた僕に弟は黙り、人の悪い顔を見せる兄に恐れたように息を飲む。
「いいかい?勇者の息子って言われるの、すごく屈辱なんだ。あんな奴勇者でもなんでもないのに。誰も彼も勇者の息子扱い。…ひどいよね」

 足の下には落ちぶれた父親。
 僕は杉の木に寄りかかり、自虐的に笑う。

「僕はね、もうちょっと大人になったら…。十六くらいかな。勇者になろうと思うんだ」
 …変えるんだ。そう決意したがために。
 オルテガは、勇者の父親に成り下がる。僕がオルテガを踏み堕とす。


「ニーズ…」
「君も、手伝ってくれるよね」
「…ああ。それは、いいけど…」

 僕の旅立ちの決意、それは外面は父の意思を継いで。
 けれど真相は、その父を蹴落とすことにあることは、他の誰も知らない。

++

 失われた記憶の最後。
 それは、道が、別たれた瞬間。

 僕の十六歳の誕生日は、新しい勇者の旅立ちの日に設定されていた。僕自身が望み、決めたことで。
 前夜、国中はわめきたち、旅立ちの祝いの準備も万全に整えられていた。
 しかしそこへ、数年ぶりかに再び恐怖が襲ってくる。


「魔物だ    !!
魔物が襲ってきたぞ
   !!」

 何処かで、そんな伝令がもたらされた、きっと同時だっただろう。
 僕の胸は「恐怖」が会いに来たことを即座に読みとり、真夜中に突然ざわめき痛み出した。
 それは異常な程の大群、アリアハンを飲み潰すほどの魔物の襲撃と共に。

 勇者の旅立ちに浮き足立っていた人々は逃げ惑い、城下はパニック状態に陥っていた。外れにある僕の家に兵士が知らせに来た時にはもう、町の至る所から火の手が上がり、被害者も無残にも多数街中に倒れ積みあがっていた。

「ニーズ!どうしたんだよニーズ…!胸が苦しいのか?」
「う…。近い…!来たんだ。迎えに来たんだ……!」
 同じ部屋に寝ていた弟が心配して体を押さえ、青ざめた僕の額を拭う。外からは激しい喧騒が爆音のように繰り返す。

「ニーズ!逃げるのよ!!」
 部屋の扉はけたたましく開けられ、冷静さを失った母親が血相を変えて飛び込んできた。僕を担いで運ぼうとし、意識の覚束ない僕の肩を担ぎ、何事かを弟に指示する。
 その内容を僕は聞き逃してしまった。
 母親は弟に「残れ」と言っていたんだ。僕の身替わりとして、ここに残れと…。
 家から逃げ出し、遅れて、僕は弟の姿が無い事に気がついた。

「母さん。ニーズは…?何処…?」
「ニーズはあなたでしょう」
「……。弟は?ニーズ、まさかはぐれたの」
「いいのよ。あの子は、元からこんな時のために造ったのだもの。今のうちに逃げるのよニーズ!死神があなたを迎えに来るわ!」


 僕は、耳を疑ったものだった。
 我を失うほどに激昂し、初めて、母親を容赦なく睨み手を振り払う。
「ニーズは大事な弟だよ!どうしてそんなこと言うんだ!!」

 僕は足を引きずりながら、家に戻っていた。
 魔法で魔物を吹き飛ばしながら、その激痛に襲われながらも戻ったんだ。弟のニーズはご丁寧な事にも、外に出て、魔物に襲われるのを待っているようにさえ見えた。戻ってきた僕に驚き、あろうことか、僕を追い返そうとする。

「母さんと逃げろよ!」

 信じられない暴言を弟は吐いていた。自分が死ぬから、僕は逃げていいのだと。
 頼むよ。そんなこと言わないで欲しいよ。

「行くわけないだろ!馬鹿!!」

 自分を大事に思わない、弟がいつも不憫で仕方がなかった。弟を捕まえて、母さんと、三人で逃げようと思っていた。僕の二人だけの家族だから。
 けれどそこへ、頭上から、僕らの繋ごうとする手を遮るように人影が降ってくる。

 長く美しい銀髪を三つ編みにした少女    その日ははっきりと大きな銀の鎌を握りしめていた。


「勇者ニーズ、死んでもらいます」
 初めて聞けた彼女の声、唇からこぼれた微かな言葉。
 予想通り、それは僕に死を告げた。美しい閃光が翻るように僕を捕らえ、痛みも無く、ただ視界が真っ赤に染まる。

「さようなら。もう一人のニーズさん」
 消えゆく意識の中で、死神の声だけが遠く聞こえた。




     それから…。僕はどうなったのだろう。

 重症を負い、僕は北の果て、ムオルの民家で目を覚ました。
 魔法を無理して使用した事も重なって、僕は暫く昏倒を続けた。

 目を覚ました時、僕は見知らぬ民家のベットで横になっていて、傍には銀髪の少女が心配そうに控えていた。
「…ここ、は……」
「気がつきましたか…」

 名前以外の記憶が無く、僕は困惑していた。
 大怪我をして、ムオルの村はずれの森に倒れていたという、僕を助け、手当てをしてくれたのが銀髪の少女フラウス。
 怪我や病気のこともあって、僕はすっかり彼女に世話になってしまった。記憶が戻るまでここに居ていいと、彼女の行為に僕は甘えた。

 村人とも親しくなり、村の子供たちとも仲良くなった。
 原因不明の体の不調と、戻らない記憶に不安だったことを除けば、僕はこの二年半を本当に幸せに過ごした。

 …そうだ。彼女は、死神だったんだ。
 そして、彼は、大事な弟だった。

++

 濁流のように流れ込んできた記憶。
 僕は気がつけば頬を涙で濡らし、世界樹の後の大地に頬を当てて倒れていた。

    これが、僕か…。これが僕自身。
 これが今まで抱きしめてきた感情。


 凍りつく北の大地に、もう日は射さなくなっていた。
 重苦しい暗雲が立ちこめ、今にも冷たい雨が落ちてきそうな気配に、空気が湿りを帯びている。
 あれから、弟のニーズはどのようにして、生きてきたんだろう。
 母さんはどうしているんだろうか。二人で、暮らしてこれたのだろうか。
 アリアハンは、どうなった……?

 こんな所で、悠長に眠っている場合じゃなかった。僕は身を起こし、服にこびり付いた土を払い落とす。
 不意に、誰かがここへ来る気配に警戒していた。

 フラウスはここには入って来れないと言っていた。
 僕は、しかし、見知った人物が世界樹の跡に現れた事を知る。

 不思議な、エルフ族のような、緑の髪の魔法使い。オルテガと同じ額冠をして、僕のいることなど予測済みという顔でゆっくりと歩み寄る。
 何故、オルテガと同じ額冠を持っているのだろう。
 そして、以前ムオルで会った時、僕のこともフラウスのことまでも知っていたようだった人物……。


 不思議な魔法使いは僕の眼前にまで歩み寄ると、静かに膝を折り、頭を下げてかしこまった。
「これまでの無礼をお許し下さい、勇者ニーズ。私はルビス神より、貴方を導くように仰せつかったワグナスと申します。この世界では、賢者とも呼ばれております」
「……!賢者、ワグナス…!」
 僕は自分が跪かれた事にも、彼の名前にも驚愕していた。

「ルビス神…!精霊神ルビスが、まさか、どうして僕に…」
「お伝えしましょう。それは、貴方が……」

 自分を知ったその直後から、僕の止められていた運命は動き出す。
 もう、二度と、帰れない。



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