「僕は、僕に還る」 |
ダーマで賢者ワグナスが正式に旅の同行を申し出て、奴は一応仲間となった。 次の目的地は不本意にも「最果ての村」となっていた。 ポルトガで待つ、船の製造がまだ終わらない事と、ワグナスのお勧めが成されたのが向う大きな理由。 「ポルトガ王から謙譲される、船ができるまでまだ少し時間がありますね。ダーマでくすぶっていても仕方ないですし、もう少し、東に旅してみませんか?」 「面倒くさい」 薦めたワグナスに、俺はいつも通り冷たい。 仲間達は地図を見ながら、「でも、この先にとくに町なんてないですよ?海を渡って、ジパングなどもありますが…」ジャルディーノのように、目的とする理由を見つけられないで賛成しかねる。 「地図には無い、村があるんですよ〜。この辺りなのですが」 ワグナスは、広げられた地図の大陸最果ての場所を指差し、にこにこと嬉しそうに観光を勧める。 「私も驚きました。良い村なのですよ。ニーズさんに是非、行って頂きたい村なんです」 「なんで俺が」 「まぁまぁ、気に入ってもらえると思いますよ。折りしも、素敵な出会いもあるかも知れません」 にっこり笑われ、俺はますます行きたくなくなる。 「近くまでなら私のルーラで行けますから。行きましょうニーズさん♪途中には、素敵な、祠の宿屋もあるのですよ」 「祠の宿屋ですか?祠が、宿屋なんですか?」 「ええ、サリサさん。なかなか風情があって、面白いですよ」 だんだん、いつもの展開で、俺以外が話に乗って行き……。 「お兄様、行ってみましょう。楽しそうです」 「…………」 出た。出たよ。 「…わかったよ。行くよ。行けばいいんだろ」 流されて目的地は決められた。 ルーラで向ったのは、ダーマから東方面。ジパングに程近い、祠の宿屋。 遠目に、変わった風習の国、ジパングらしき島国が伺える。 海辺の祠が宿屋として営業されている、それは俺から見ても風変わりで確かに面白かった。 そこでは一つの事件が俺たちを待っていた。 しかし、どうしても俺をムオルに連れて行きたいワグナスは、俺だけを連れ、仲間達は祠の宿屋に暫し待たせる指示を出した。 余りに遅い時は先に向うと言ったのは、アイザックか。 暫しの時間、仲間達は宿で俺を待っている。 |
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祠の宿屋に仲間達を残し、俺は賢者ワグナスと二人で最果ての村、ムオルにルーラで飛んだ。 地図にもない、知られていない隠れた村。すぐに村に着くのかと思いきや、針葉樹の森の中に俺とワグナスはルーラで降りてくる。 「…ニーズさん。ロマリアで渡した、魔法の本持っていますよね」 「はん?…ああ。アレがなんだよ」 結局、誰の物なのか分からずじまいな、ワグナスから渡された魔法の手引書。言われて、俺は荷物からがさがさと取り出す。 誰かの使い古しの魔法の書。ワグナスは随分含んで俺にこれを渡したものだったが……。 「それを持って、このまままっすぐ北に向って下さい。ルーラでは行けない村なんですよ」 「はぁ?…お前は?…またどっか行くのかよ」 「すぐに追いつきます。きちんと行ってくださいね」 「…行くけどよ…」 なんだよ。俺はますます仏頂面で森の中を歩き始める。 一人、魔法の書を手にしながら。 北方、開かれていないこの地方では、森も全く自然のまま残されているようだ。風は冷たく、昼でもマント無しでは凍えてしまう。曇り空の下、息も白く、俺は森の中を進んで行く。 「なんだ……?」 ピリピリと、魔法書が魔力を放ち始める。 「うわっ!?」 ひとりでにバラバラとページがめくれ、魔法書は光を放って浮かび上がった。俺は眩しさに右手を翳し、魔法書が何かの結界でも破るかのように、目の前の空間を魔力で引き裂くのを間近に驚く。 その先の森は、唐突に木々が途切れ、柵に囲まれた小さな集落が姿を現す。 魔法書は光を失い、ぽとりと地面に落ちた。 「…一体なんなんだ」 本を拾い上げ、俺は小さな村に一人訪れる。 最果ての村ムオルは、民家は少なく、それ以上に畑が目に付いた。 こんなところじゃ、買い物もできそうにない。と言うか、店がない。村の中での自給自足の生活なんだろうなと、俺は歩きながら思った。 「あれ?ニーズさん、こんにちは」 いきなり、見も知らぬ農夫ににこやかに挨拶され、俺は戸惑った。 「珍しい格好だね。まるで何処かの旅人みたいだ。何処かに行くのかい?」 「………。いや、俺は旅人だよ」 にこやかに挨拶される理由がわからず、名前を知られている理由もわからない。 「あははは。また〜。ニーズさんが旅に出たら、あの娘が悲しみますよ」 俺は農夫の物言いに眉を思い切りひそめ、そいつの全てをけげんに睨んだ。 「あ!ニーズのお兄ちゃん!こんにちは〜!」 険しい顔の俺に、まだまだ人は寄ってくる。しかも子供が寄って来て「ぎょっ」として振り向けば、後から後からいつの間にか、子供たち数人に俺はすっかり包囲されてしまっていたじゃないか。 「ねえねえ、今日はなんでこんな格好なの?」 「…………」(困) 「あ!剣だ!剣なんか持ってる!お兄ちゃんって剣使えたの?」 「引っ張るな!コラ!」 「今日は遊んでくれないの?ねえ、またご本読んで!」 「なにぃ……?」 剣やら、マントやら、腕やら、言うこと聞かないガキどもは引っ張って離さない。 「ちょ…。待て……!」 子供は大の苦手で、初めて子供に囲まれてしまった俺は焦り、苛立った。 「お兄ちゃん、なんか今日、違うね?怒ってるの?」 「ほらほら、お前達、ニーズさんを困らせるんじゃないよ。ニーズさんは体が弱いんだからね。無理させちゃいけないよ」 「!!!!!」 俺の中で、弾けた思いがあった。 まさか。 「おい…。ニーズ、いるのか……?」 言葉が、ブルブルと震える。農夫の両肩を掴み、脅迫めいて訊ねる俺は相当鬼気迫った顔をしていたのだろう。 「ここに、ニーズがいるのかっ!?」 「ど、どうしたの、ニーズさん…?」 「俺じゃない!ニーズは何処にいるんだって聞いてるんだ!」 「うわ〜ん!今日のお兄ちゃん、怖いよ〜!」 農夫を掴み上げた俺の足元で、子供がピーピーと泣き出す。 「何処だ!ここに住んでるのか?!家は何処だ!?」 「あ、あっち…。北側の、一番奥に…。どうしたって言うんだい…?」 農夫や子供の群れも放り出し、俺は弾けるように奔り出した。 確信はない。けれど、けれど、嘘でも良かった。幻でもいいと思った。 ただそこに居てくれたなら……! 小さな村の北側、外れに小さな民家が建っている。 …これだろうか。俺はどうしようもない動悸の激しさに目眩すら感じていた。 ごくりと唾を飲み込んで、俺はゆっくりと家に近付く。 扉の前で俺は、ふと、人の気配に振り返った。 家の近くには小川が流れていて、その岸辺に一人、白い服の男が立っている。静かに水面を見つめる、横顔は俺に良く似ていた。 俺がその男に良く似ていたんだ。 肩から防寒のためにマントをかけ、黒い髪の男は一人、思案に暮れている様子だった。懐かしい、ずっと探していた、失くしたはずの俺の「命」をまた手にできる…? 「…ニーズ!!」 呼ばれて、男は振り返る。 変わらない、優しい瞳のままに。 |
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僕はその日、胸騒ぎを覚え外に出ていた。つい先程も、何かピリリと予感が走ったのを感じて、僕は弾かれるように外に出た。 こんなに逸った気持ちは…、いつだったか、少し前にもあった気がする。 家の脇を走っている、小さな小川のたもとに一人立ち、僕は川の流れを見つめながら自問していたんだ。自らが失くした、自分のことを。 「ニーズ……!!」 そこへ、僕を呼んだ声があった。 若い男の声だ。振り返った僕は、彼を見つけて、その姿を見て戸惑った。 何故か、言いようのない緊張感に捕われる。 驚くほどに、彼は僕に酷似していたせいで……。 良く似ていた。生き写しと言ってもいい。額に額冠が覗き、焼けた肌にマントと、旅人の風体、腰に帯剣している。 手にしていた本を落とし、彼は、まっすぐに、両手を伸ばして僕の元へ駆けて来る。 落とした魔法書には、見覚えがあった。…以前僕が失くしたものじゃないか……? 「やっぱり!そうだ!ニーズ!生きていたんだな!?生きていたんだ!!」 彼は強く、僕にしがみつき、僕と出逢った感動に泣きむせいだ。 「ああっ!畜生…。なんだよ。生きていたんだ。生きていたんだな。良かった。本当に良かった……!!」 「……。誰……?」 僕を折れそうなほどに強く抱きしめ、ひたすら泣く彼に、僕は訊いた。 「……。覚えてないのか……?」 顔を上げ、僕の両肩を掴んだままの彼は、まじかで見れば、まるで鏡と会話してるかのような錯覚に陥る。 「俺は、ニーズだ。アリアハンで共に暮らした、俺もニーズだ!」 「……え。君も…。 突然に頭痛、おかしいと思った。今のようなやりとり、僕は何処かで聞いた。 「ねえ、君は、誰……?」 「君も、ニーズなの…?」 「同じだね…」 「大丈夫か?お前、まだ具合悪いんだろ?思い出さなくていいから!あれから…。怪我はどうしたんだ?また体おかしくなってないのか?」 頭を押さえた僕を支え、彼の叫びは心配している。 いつも必死に、僕を心配してくれた人がいる。大事な人が、確かにいてくれたはずだ。こんな風に、彼のように 「 彼と僕とは、急に他者によって引き離される。 彼と僕との肩を掴んで引き離す、その姿は小さな華奢な女の子。分け入った少女の背中には、綺麗に編んだ三つ編みが揺れていた。 「 旅人は現れた少女、フラウスに驚き、次の瞬間には殺意の剣を抜く。 「お前が、ニーズを連れ去ったんだな!許さない!!こんな所に閉じ込めやがって…!ニーズをどうするつもりだ?いや、ニーズに何をした!!」 「……よくぞここに、来れましたね…」 僕がずっと世話になっていた、銀髪の少女フラウス。その声には深い暗い闇が響いていた。 「ニーズは、返してもらう!どけぇっ!!」 突然のことに、僕は出遅れる。戦いが始まった状況が理解できずに、自分が世話になってきた三つ編みの少女の後姿を見つめる。 そこにいるのは、僕の全く知らない彼女。背中からは殺気がし、手に取り出した鎌には鋭い光が宿る。 「帰りなさい!」 彼女は、本当にフラウスだったのか 旅人に放たれた鎌の一撃が、最後まで見れずに視界は真っ白に染まる。 僕の意識は不意に途切れた。 |
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開けた視界いっぱいに、針葉樹の森が広がる。 この地方独特の針葉樹の森、太い幹の根元に僕は寄りかけられて寝ていたのだろう。目覚めた視線の先には、共に暮らす少女の不安げな顔がすぐに見えた。 「…あ、ごめんなさい…」 僕のすぐ傍で、彼女は僕を覗き込み、手は僕の頬に添えられていた。フラウスは慌てて僕から離れて、隣にかしこまって座った。 「…ここは……?」 頭が少し重い。僕は渇いた喉から声を搾り出して彼女に訊ねる。 「あ…。近くの、森です。すみません。あそこは、危険だったもので…」 「危険…?」 ゆっくりと座ったまま、身を起こし僕は辺りを見回した。だいぶ森の中なのか、遠くにもムオルの村は見えてこない。 丁寧にも、自分には毛布が掛けられていた。彼女も毛布にくるまっている。だいぶ気を失っていたのか、辺りは薄暗くなりかけていた。 彼女の身支度は、しっかり旅支度のそれ。ここに今夜野営するつもりなのか、もう火も焚かれてあった。 「まさか、帰らないつもり?」 「はい…。ニーズさんの出遭ったあれは…。魔物なんです。モシャスと言う、変身の魔法を使う魔物で…。村に戻るのは危険です」 「魔物……?」 「はい。驚きました。突然ニーズさんが襲われていて…」 「まさか、あの後どうしたの?まさか斬ったの?」 立ち上がる、僕の足は村への道を探していた。 「ニーズさん!」 血相を変えて、フラウスは僕の前に回りこんで来る。 「あの…!いけません!お願いです!私とここに……!」 青 さを帯びている銀の髪、それを後ろで三つ編みにしている彼女は、その可愛らしさも消え去るほどに血の気を失っていた。 僕を止めようとする、その両腕が痛々しいほどに震えている。 「……。どうして、そんなに…。何が怖いの?フラウス」 怪我をして倒れていた僕を看て、そしてこれまで世話をしてくれた、彼女には限りない感謝を感じている。その彼女を苦しめる事は僕の意思に反していた。 なるべく優しく彼女に声をかけ、僕はその瞳を真剣に見つめた。 「彼は、魔物じゃないよ。どうして嘘をつくの」 「………」 立ち尽くす、僕の視線に彼女はうろたえた。 「彼は、僕の、きっと大事な人だ。それを斬ったと言うのなら、例え君でも、許せるものじゃないよ」 フラウスは、ぐっと唇を噛んで、けれど何かを決意したのか、強く僕を見つめ返してきた。蒼い瞳は、いつの間にか熱い決意に揺れる。 「構いません。あなたにどれ程憎まれようと、彼とあなたは会わせられません」 「………」 普通なら、邪魔をする彼女に怒りを覚えたところなのかも知れない。 彼は僕の家族かも知れない。ようやく失った記憶を取り戻せそうだと言うのに、頑なに行く手を阻もうとする彼女に。 僕は、哀しく小さな女の子を静かに見つめた。 「それは、何のためなの。僕のため……?」 ずっと、この子は優しかった。 彼女の殺気立った後姿を見ようとも、これまで貰った優しさに疑いなんて浮かばない。 「君を憎んだりしないよ。だから教えて。僕のことを。そして君のことを」 「 彼女は声をあげて泣き出した。両手で自分の口を覆って…。 そのまま崩れてしまいそうな、フラウスの細い体を僕は抱き寄せ胸に抱きしめる。 「泣かせてごめんね。いつも、泣かせてばかりで、ごめん…」 彼女を思えば、僕も切ない涙がこみ上げてきそうになる。 「今まで、君のために聞かなかった。君が泣き出しそうで。でも、知っていたんだ。君が、人ではないだろう事や、君が、きっと前から、僕のことを知っていたんだろう事や…」 「…………。はい……」 「僕のために、何かを犠牲にしていることや…」 一度だけ訪れた、彼女の姉、ユリウス。 彼女の様子や、恐ろしさや、不気味さ。そのユリウスと姉妹だと言うフラウスのこと。気にならないわけがない。 「君は…、誰?そして僕は…?どうして、僕を隠すの」 彼女は、僕の記憶が戻る事をずっと恐れていた。思い出して欲しくないと苦しんでいた。僕は、彼女と一緒にいて気が付いた。 僕の過去を彼女は多分知っていたのだろう…。知っていてこそ、僕と一緒にいたのだろう。 彼女は人ではない。強い魔力を持つおそらくは魔物。 僕を村から出さないことや、数々の要素が僕にそう判断させていた。 でも、僕は聞かなかった。 自分の思いとは矛盾しながらも。彼女が自分を縛っていることを黙認してきた。 「怒っているわけじゃないよ。君は、いつも僕のことを考えてくれていた。僕を閉じ込めるのは、僕のため…?」 「あなたのためです…。あなたは、ずっと一人で苦しんできた…。抱える憎しみも、孤独も、死への恐怖も。思い出さなくていいのです。思い出さない方が…。この、二年半、このムオルで暮らしたように、あなたはそのままでいる方がきっと幸せです…」 確かに、二年半、この小さな村で静かに暮らした、僕は幸せだった。 「幸せだったよ。…楽しかった。感謝してる。でも、彼は僕を見て泣いたよ。僕がここで穏やかに暮らしてくる間に、彼はどうしていたんだろう。僕がここにいた分、彼が苦しんでいたとしたら…?」 泣きついて、僕の名前を嘆き叫んだ、旅人の姿が忘れられない。 「僕は、自分が許せなくなるよ」 「ニーズさん…」 「苦しんできた、か…。君は僕のそれを見てきているんだね。僕は、それから逃げたいと思っていたのかな。心配してくれる家族すらも無視して、逃げ出したい程に。僕は自分が、そんな愚かな人間だったとは思いたくないよ」 「それは……」 フラウスは、僕の腕の中で、肩をすぼめて口ごもった。 「ごめんなさい…。嘘です。あなたのためじゃない。私の勝手な欲望から…」 僕とふれ合うことに反発して、彼女は腕から逃げて行った。 冷たい風の吹く森の中、空もゆっくりと闇に堕ちていく。三つ編みの少女は悲しそうに、僕に道を選ばせるのだった。 「ニーズさん。あなたは…。あなたは、選びますか?過酷な、辛い、戦いの日々を。記憶を取り戻せば…、また、あなたは苦しみます。誰もあなたを逃がさない…。それとも、私と……」 声は最後には細く、かすれて冷たい空気に白く消えていく。 「僕は、選ぶよ。僕は、僕でなければ、僕でありたい。君と、彼のためにも」 おそらくは、彼女の望んだ答えではない。知りつつも僕の返事は決まっていた。 ここで暮らしながら、ずっとそう思っていた。 僕は、僕に還りたい。そうでなければ、自分が誰なのかすら見失う。 誰とも会えなくなる。目の前の少女にも、僕と同じ名前の旅人とも。 彼女を泣かすのは辛い。けれど、僕は泣かせてしまうんだ。 「…ごめん。僕を、返してくれないか」 返した決意の言葉に、彼女は暫く俯いて顔を隠していた。一歩近付くと、びくりとして彼女は距離を取る。 「ごめんなさいニーズさん…。私は、あなたの前に、立つ資格すらありません…」 「何を言うの?」 「なんて、勝手だったのでしょう。あなたは強い人だったのに、私は、一人で諦めて…。あなたを、縛り付けてしまった…。ただ、私は、あなたを助けて、それだけでいいと思っていたのに…」 土の上の湿った枯葉たちを踏みしめて、彼女は慟哭に声を高く上げていく。 「あなたと、話をしてしまったから…。声をかけられたのが嬉しくて。微笑んでもらえたのが嬉しくて…。名前を呼ばれたことが、嬉しくて。普通の女の子として、見てもらえたことが嬉しくて…。私、欲張ってしまって……」 フラウスは顔を覆って、冷たい大地に向って哀しい雨を降らせる。 僕は膝を折って、冷えたその手を固く掴んだ。 離しちゃいけないと思った。 「責めなくていいよ。泣かないで。これからも傍にいて欲しいんだ。君は大事な女の子に変わりないよ。きっと変わらない」 自分を知ったなら、彼女に言いたい言葉があった。 失った記憶の中に彼女はいるのだろうか?もしかすれば、他に僕には想う子がいたかも知れない。けれど、彼女への思いは変わらないと思いたい。 「……。あなたは、本当に、ずっと、そうして、優しい人でした…」 見上げた彼女は今にも消えそうに儚く、そしてそれ故にとても美しく存在。 |
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あなたを想い始めたのは、いつからだったのか…。 ユリウスからあなたを救おうとして、私は突発的に行動を起こしてしまった。 ユリウスがアリアハンを襲撃したあの日。ニーズさんはそれこそ全てを失う手はずでした。家族も、家も、国も。旅立つ希望さえも。 旅立ちの前夜、私はユリウスの目を盗んで、彼を連れ出すことに奇跡的に成功した。彼の分身の前で、彼は死んだのだと印象をつけて。 彼に浴びせた怪我を治し、そのままではユリウスにすぐに見つかるがために、私は彼から勇者としての「心」を奪った。 何処に隠せばいいのか、私は焦り、場所を見つけても魔物の私はそこへ侵入する事はできなかった。 けれど、そんな場所でしか、ユリウスから守る手は無く…。 運良く、私は協力者を得て、そのエルフに彼の「心」の封印を頼みました。 エルフは善も悪にも興味がなく、私の頼みは叶えられたのです。 そのまま……。 彼をどうすれば守れるのか、自問自答の毎日でした。 傍にいるつもりなんてなかった。けれど、意識を取り戻した彼と会話をし、初めて接触を持てた私は、自分の欲望に飲み込まれ溺れてしまった。 ただの娘として彼に会えること。 私を見てくれること。彼に触れられること。 その喜びに目が眩んで…。私は、忌むべき行動に走ったのです。彼を、独り占めしたいと思ってしまった。彼を縛って離さなかった。このまま二人でいられたならと…、愚かな夢を見たのです。 彼のためじゃない。私は自分の欲求のためになんてことを……。 自分自身に嘆き、彼に何度も何度も謝ります。 彼を信じなかった、自分が恥ずかしくてたまりません。 どんな悲しみにも苦しみにも、苛酷にも立ち向かっていた人だったのに。自分はただ、運命のままに、彼の心を受け入れていれば良かったのです。 「ありがとうございます。私は、もう、もう、何も欲しがりません。私、信じています。あなたは負けたりしないのだと……」 二年半もの間、二人一緒に暮らすことができた。本当に嬉しくて、毎日幸せでした。 私は、あなたが子供の頃から、ずっと、あなただけを想ってきました。 誰よりも、何よりも愛しています。 だからこそ、あなたを自由にしなければいけない。 「案内します。ニーズさん」 握られた手をほどいて、私は毅然として立ち上がっていました。 彼と離れる、覚悟の元に。 |
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案内は、更に北の森へとつながる。 ある程度魔法で移動したけれど、もう、そこが何処なのかすら分からない、深い古い森に足を踏み入れる。 彼女の話では、ムオルよりも、更に北の、未開の森。 人間の村も国もない、かつて古きエルフ達が暮らしていた広大な森林地帯の一角にあたる。しかし、そのエルフたちもすでに姿を消し、数十年が経っていた。 「ここから先、…大きく、開けた場所があります。故世界樹の跡です。そこの地面、消えた根元に、そこに行けば、記憶は戻ります」 すでに朽ちた、世界樹の跡に、僕の記憶は封じられていると言う。 「私は…。もう、これ以上は、入れませんから…」 魔物であるフラウスは、いまだ残る世界樹の聖気によって近付けずに、冷えた森の中で僕の帰りを待つ。 「待っていて。必ず」 「はい……」 戻った時、彼女がいないような気がして、僕は念を押した。 世界樹の跡には、古い樹木たちをかき分けて辿り着く。風の音すら遠慮して息を潜めているように、辺りはシンと物音一つしていなかった。 僕の、緊張する鼓動だけが聞こえている。 体が、高揚してきているんだ。胸が熱い。 何もしなくても、光りは世界樹の跡からふわりと僕に戻ってくる。 両手に収まりそうな、微かに光る僕の記憶が、まるで宝玉のような姿で浮かんでいた。光る宝玉は僕の胸に吸い込まれ、濁流のような記憶が僕を駆け巡る。 「うああっ!ああああああああっ!!」 「君は誰?」 「僕は、ニーズ」 「そう。君と同じ」 胸を押さえ、叫びながら僕は冷たい地面の上を転がった。 激しく襲う記憶の渦。 僕の過去、家族。母親。父親。そしてもう一人のニーズ。 アリアハンの町。人々。怒り、悲しみ。苦しみ。そして恐怖。苦悩。 僕は地面を叩きつけた。地面の草を握り締め、爪で地面をえぐる。 記憶の中、最も強く襲いきた感情、そして面影に、僕は大声をあげて反発する。 深き森も狂声に驚き、空ごと世界が震動した錯覚がした。 叫んだ名前は、「オルテガ」 そう。勇者と呼ばれた、父親の名前。 |