「凶つ神」


 隼の剣と共に、アイザックは光に包まれ光弾のように駆け去った。
 後には弾くように破壊された、祭壇が無残にも残り火をくすぶっているのみ。結界の一部として揺れていた篝火も消え、部屋の中もしんと薄暗く静まり返っていた。
「隼の剣…。本当に皆さんは、『力』に届く『心』の持ち主たちなのですね…」
 半ば呆然としてすべきことを見失っていた、俺とジャルディーノに言うのでもなく、賢者ワグナスは独り言をこぼす。
「…いいえ。それとも、旅立ったからこそ、『力』に辿り着くのか。人とは不思議なものです」
「…………」
 ワグナスの奴が、何を言いたいのかは、俺には良く理解ができなかった。

 うちの戦士が、『力』も、強い『心』も持っていることは、俺は最初から知っていた。だから、例えば言われある剣に選ばれる事も、俺は不思議には思わない。名剣も奴に握られるのなら幸せだろうなとさえ思う。

「…さて、ニーズさん。ニーズさんなら、草薙の剣を使えるかも知れません。手に取ってみて下さいませんか」
「……。なんで俺が」
 自分の顔は明らかに本音を伝えただろう。
 しかし、賢者は崩れた結界内で台座から転げ落ちた、草薙の剣を懐かしそうに見つめては説明を始めるのだった。

「この草薙の剣は、以前オルテガ様が、ヤマタノオロチを封印する時に翡翠様より与えられた霊剣です。当時巫女一族の最たる力を持っていた翡翠様。その霊力は卑弥呼以上だった事でしょう。優れた刀打ちでもあった翡翠様の、霊力の込められた剣…。これを失くしてオロチ打破は無理かも知れません」
「あの、ワグナスさん。翡翠様と言うのは?…ご存知な方なのですか?」
 いまいち乗り気ではない俺を気遣い、遠慮がちにジャルディーノが訊ねる。

「卑弥呼さん、そして佐成、彩花さんのお父さまに当たります。そして、オルテガ様の良き友人。…共に旅した仲間の一人でもありました」
「ええ…!?すごいですね!そうだったのですか!」
 オルテガの仲間、と言うことは母さんとも知り合いだろうと思われた。
 そしてあの女、サイカの父親…。

「オルテガと、俺は関係がないも同然。選ばれるかは分からないぜ」
 反発されても、俺は知らないからなと、意味合いを込めて俺は吐き捨て、草薙の剣に手を伸ばす。
 金属を素材にした風には見えなかった。
 何かの、白樺の幹を削って全身を型作ったような柔らかい印象の剣。刀身は丸みのある緩やかなカーブを残し、品のある艶やかな光を放っていた。
 全体的な装丁も、さすがジパング製、他ではみないデザインをしている。
 柄を持ち上げると、その軽さに驚く。

「……うっ!」
「ニーズさん、大丈夫ですか?!」
 手にした柄から、俺を試すような生意気な痺れが襲って来て、俺は顔をしかめ、憎憎しげに草薙の剣を握り締める。

 草薙の剣は薄く青い光を放ち、刀身からにわかに青い風が吹き上げる。
 それは麻痺をともなう風のように俺を包んだが、睨みつけるその刀身に一瞬何かの映像がよぎった。


    オルテガ、お主のために神木を一本断った。お主だけにこの剣を託そう。必ずオロチを倒し、このジパングを救って欲しい」
 見えたのは黒髪のジパング人。どこかあのサナリに面影が重なる。長い黒髪を無造作に下ろした、紅い瞳の男。
 着ているものは卑弥呼の巫女衣装に重なるが、それよりもずっと質素な装いだった。そして、受け取る、額冠を嵌めた黒髪の勇者。
 アリアハンが今でも自慢にする、勇者オルテガ、その姿が…。

 俺は実際には会った事も無い、母さんの夫。そしてニーズの父親。
 逞しい印象の後姿、顔は良く見えなかった。
「翡翠、良い剣をすまない。必ずオロチを封印しよう」
「おそらく、お主以外には、剣の霊力に耐えられまい…」

 場面は移り、一つの別れを映す。
「そうか、サイモンと待ち合わせておるのか。私もそこに向おう。お主に渡したい物があるのだ」
「そうか。では、またネクロゴンドで会おう」


 青く輝く風に目を細め、俺は痺れたままの右手を再び強く握り締める。かすった幻もわずらわしく、俺は痺れも無視して体を反転させる。
「行くぞ。アイザックの後を追うんだ!」

 剣を打った巫女一族の男。その声は耳にわずかに残り……。

++

 花嫁たちは、卑弥呼に引き連られ、皆一様に真白い着物で言葉も無く洞窟への岩道を歩みゆく。
 国のために、神に嫁ぐ生贄の娘八人。
 列の先頭は巫女、卑弥呼。その後ろには美しい異国の娘シャルディナが無表情に続き、最後尾にはたいまつを片手に彩花、   私がいました。

 姉上を信じ、私はすでになんの迷いも無く、振り返ることも一度もありませんでした。これがきっと最後の犠牲。これで、もう、生贄は終わると…。信じていたのです。
 約束どおり、ニーズ殿も、その仲間たちも、姉上は見逃して助けてくれるのだと安心していました。
 この国は、姉上と、兄上が守ってくれる。
 そのためになら、私は大蛇に喰われても構わないのです。
 それはもう、心に決めたことでした。

 初めて訪れる、オロチの棲まう霊峰は、不気味にも闇夜に満月を背負う。
 洞窟は足場も悪く、入り口からすでに熱を放っています。
 活動する火山の内部に入るのです。私達は汗をじっとりと浮かべ、歩く足裏からの熱も無視できず、歩く度に顔は苦しみに歪んでゆきました。
 花嫁達の顔は苦痛と恐怖に彩られ…。
 そう、シャルディナ以外の花嫁が例外なく。

 溶岩は恐ろしく、生き物のようにボコボコと鳴き声をあげていました。
 熱気に目眩も覚えます。
 汗は止まらない。体も焼けるように熱い。息も苦しくてたまらない。
 オロチは、溶岩の中に棲んでいるのでしょうか?
 そんな疑いと、恐怖におののく心も、誰も隠せる事はなく。
 今まで生贄の儀式が行われて来た、血塗られた祭壇は血の痕も濃く姉上の眼前にそびえ立つ。

    きっと、あの泡を立てる溶岩の海から、オロチが現れ、私達を喰らうのだ。
 長い階段を踏みしめ、儀式の場に立った娘八人の前に、卑弥呼は振り返り、場違いに薄く微笑む。
「ククク…」
「姉上…」
 姉上、卑弥呼の薄笑いに、花嫁達は不安を感じたのか、数人は身を寄せ合って震えました。一人、空虚を見つめ、微動だにしない異国の娘シャルディナ。
 私は戸惑う他の花嫁を気遣いながら、姉の前に進言に望む。

「…そんな。笑うような事ではありませぬ…。皆、本当は恐ろしいのです。…喰われる事が、恐ろしくない者などおりませぬ…」
「ハハハハハハハハハ」
 それでも、あろうことか姉上は声を上げて高く笑った。
 ここまで手にしていたたいまつを溶岩に投げ捨て、背後に燃え滾る溶岩の赤さに照らされた、姉上の顔は初めて邪悪に変貌する。

「…そうか。お前も恐ろしいか。彩花よ。安心するがいい。すぐに痛みなど感じなくなる。我の糧になるのだ。喜べ。歓喜せよ。名誉ある我の生贄となる事をな…!ホホホホホホホホホ!!!」
   姉上っ!?」
 …おかしい。心臓は急に激しくなり、足がもつれて広い祭壇上に私は転んだ。
 何か恐ろしいものがくる、本能が警戒を示すのか、花嫁達は我先にと祭壇への階段を後戻り始める。
「た、たす…っ!助けっ!!」
「私帰ります!帰してっ!」
「化け物おっ……!!」
 私は姉上の居た場所の前に尻餅したまま、動けずに見上げていた。
 シャルディナは微動だにしないまま。

「逃がさぬぞえ…。誰一人。血飛沫一つ、残しはせぬ…。わらわにその身を捧げよ!娘どもよ!」
 姉上の着物の背中が破れ、姉上は『姉上』でなくなった。
 黒い巨大な影が蠢き、影は瞬時にして八つに分かれするすると伸びてゆく。影は洞窟の高い天井にまで押し迫り、しかしゆっくりと下に覗き込みように戻ってくる。
 その影は、伸びた八つの影は全てが大蛇の姿を形とっていた。

「ヤマタノオロチ!!」
「ホホホホホホホホホ!」
 逃げ出した花嫁達は、押し合いひしめき合って、もつれて階段から転げ落ちる。転げた岩の上には、上から覗く大蛇の影が娘を昏く捕らえていた。

「キャアアアッアアアアアア!」
   !!」
 易々と、一首の大蛇は花嫁の一人を喰わえ、娘が着ていたはずの白い着物は血の色に染まる。
 ここまで共に歩いてきた娘、…の、足先が、ズルリと蛇の口の中に飲み込まれて消えた。誰一人、声も上げられない。娘を飲み込んだ大蛇は、牙の間から滴り落ちた血溜まりを勿体無さそうに舌で啜る。

 気づかぬ間に、もう別の首は残る娘の一人を口に含んでいた。
「い、いや…。お父…さん…。助け…」
 助けを求める声も空しく、その娘の指先も多くの鮮血を口からはみ出して消える。

「あ…。ああ…。あ、姉上…っ!!姉上は何処ですかっ!」
 必死で、私はガタガタと打ち合う歯を無理矢理言い聞かせ、尻餅したままオロチに叫び上げる。
「姉上は何処だっ!何処に隠したっ!姉上   っ!!」
 丁寧に、オロチは一つの首に一つの娘を喰らう。三人目を飲み込み、オロチは私の元に一つの蛇の頭をよこす。
「愚かな…。お前はほんに愚かな娘よの…。卑弥呼なぞ、わらわがとうの昔に喰ろうてやったわ。先刻には、兄の佐成も食ろうておる。安心するがよい。お前もすぐに黄泉の世界へゆける」
「なっ……!!」

「イヤアァァッッ!!助けてっ!死にたくな…!」
ボタボタ。ボト。

 
 私の頭上に血の雨が降る。髪が赤く染まる。
 嘘だ。こんなもの。信じない。信じない……!
 
 娘の数は半分に減っていた。いまだに、顔色一つ変えない棒立ちのシャルディナと、私を含めて。

「や、やめて…。こんな…。こんなの嘘です……!!」
 姉上がいない。兄上もいない。二人とも喰われた?そんなはずない。そんなはずない。そんなはずない。
「姉上も、兄上もっ!オーブを使って!お前を封印する!この国を救うっ!この化け物おおぉぉ    っっ!!」

 食事の途中で、すでに事切れた娘をぶら下げながら、オロチは私を嘲笑う。
「憐れよのう…。パープルオーブ、確かに卑弥呼は持ってきたぞえ…。しかし、あれには大した力も無かった。あの翡翠ほどにはのう…」
 花嫁の血で汚れた私の顔にも、父の名前には鮮明な驚きが現れる。

「前に我を封印しおったオルテガ。しかし、憎きは巫女一族の翡翠よ。封印を解かれ、我はお前ら巫女の一族への復讐の機会をじっと狙っておった。お前らを根絶やしにするために」
「ち、父上…。ま、さか、父上の失踪はお前ら化け物の仕業なのか!」
 まだ微かに体は震えている。けれど、おそらくこれは怒り故に。
 大事な愛する家族を、こんな化け物のために壊されようとしている、燃えるような怒りのために!

 父上…。愛して、愛され、誇りであった父上の帰りを私は今も待っている。
 私は唇を血の滲むほどに噛み締め、立ち上がりオロチと対峙する。

++

「翡翠は死んだ。オルテガと共に火山に飲み込まれてな…」

 ごくり。嫌な音を鳴らし、舌なめずりと合わせ、オロチは私に宣告する。
「父上まで…」
 母は、幼い頃に病で亡くしていた。
 父上と、私達兄妹は、互いに支え合って寄り添い合って生きてきた。
 父も姉も兄も優しく、聡明で私の自慢だった。
 突如現れたヤマタノオロチを共に封印した勇者オルテガと、父は良き仲間であり、親友だった。彼に渡すものがあると、ある日父上は旅立った。
 
 父はその日より戻らない。


 花嫁を六人飲み込み、オロチは何処か酔ったように恍惚と瞳を輝かせていた。
 残る娘は、私とシャルディナしかいないこの祭壇で。

「封印から解かれた当初は、力も戻っておらずに、卑弥呼の術に負けておったが…。娘を喰らい、力を蓄えじっと機会を待っておった。そこになんと幸運が訪れたものよ。我を御するために、卑弥呼はオーブを持ってやってきた。操られるふりをして、隙を突いて卑弥呼ごと喰らってやったわ。あれはほんに美味じゃった」
「…………」
 まさか、自分の持ってきたオーブのせいで。
 そのせいで姉上は喰われたと言うのか。
 オーブは神の力、それを喰らったなら、オロチはきっと更に力を付けた強大な敵になっているに違いない……!

「さあ。彩花よ。次はお前の番じゃ。そして我は神の娘を喰らい、大いなる力を手に入れる…」
   っ!!喰われるかっ!化け物おっ!!」
 私は大口を開いて迫り来た、オロチの牙から身を翻して逃げ出す。蛇の首は祭壇の床にめり込み、私は視界にシャルディナを納める。
「…お前!操られてるだけなんだろう!?逃げるのじゃぁっ!!」
「あ…」
 反応は薄く、しかし私は強引に腕を引いて走る。
 祭壇から降りる階段の途中で、再び大きな蛇の頭が襲って来る。

「このおっ!」
 私は階段の途中から、シャルディナを抱えて溶岩の洞窟の床に飛び込んで避けていた。しかし、岩に飛び込んだ衝撃に全身を押さえて喘ぐ。
「うう…っ。ううう!」
 肩の骨が砕けたかも知れない、耐えられない激痛に私は数回寝返りを打つ。
「……!イヤリングが……」
 抱えられていたシャルディナは、比較的ダメージが低く、すぐに身体を起こした。しかし、きょろきょろと何かを探して熱い岩の間を覗き込む。

「早くッ!逃げないと殺されるぞ…!死にたいのかっ!馬鹿娘っ!!」
「…で、でも、あのイヤリングはアイザックが…」
 吠えた私にシャルディナは肩を縮ませ、びくりと怯えた。男から貰った物を、落としてしまって動揺しているのだ。

「戻ってこい。お前は我のものだ…」
「ア…、ウウ……」
 余裕に構えて、オロチは低くシャルディナを呼び寄せる。シャルディナは頭を押さえて抵抗しようとしている、と私は感じた。
「シャルディナ負けるなっ!そのアイザックも助けに来ているから!目を覚ませ!」
 力の限りに私はシャルディナをぶっていた。
 あの時、ニーズ殿が叩いたよりきっと強い。手形が残るほどに。

「耳飾りなどじゃなくて…。本物に逢いたいだろうに。私だってそうだ。
私だってニーズ殿に逢いたいっ!」

 血で汚れていた、頬を涙が通った場所だけ洗われる。
「あんな蛇なんかに操られるな。情けない!それ程の想いなら跳ね除けてみせろ愚か者が……!」
「………!」
 シャルディナは、私の前で初めて涙を落とした。
「逢って耳飾りでも何でも買って貰え…!馬鹿者……!」
 撃った身体はきっと全身が打撲している、けれどシャルディナの手を引いて私は奔り出す。こんな場所では終われない。
 こんな化け蛇に喰われるなんて心が許さない。

「…逆らうか。シャルディナよ…」

オロチはすぐには追わず、愉しむようにゆらりゆらりと追ってくる気配だけを吐きかける。全身の痛みと、足場の悪さとで、思うように走れない自分がもどかしかった。

「逃がさぬぞ。二人とも…」

ガラガラガラ…。
「うっ!」
     !」
 赤い舌をチロチロと遊ばせて、八つ首の大蛇は二人を見下ろす。首の一つを先回りさせ、オロチは来た道を岩肌を砕いて塞いだ。
「サイカさん!あっちにも道が!」
「わかった!」
 二人、覚束ない足取りで更に洞窟の奥へと駆けて行く。何処に続くのか分からないが、広い祭壇の見えるこの場所から細い道が穴を開けていたのが見えた。
 小さな横道は、巨体のオロチには入り込めない狭い道。
 首の一つもようやっと潜り込めそうなほどの。

 オロチは執拗には追いかけてこない。
 けれど、それでも私達は不安だった。何処からでも、オロチは私達を襲えるのだと確信している。ここはオロチの住処。

「…ハァッ、…ハァッ…。あううっ!」
 こめかみを伝うものが、血なのか汗なのかも判別できない私は、ついには足を引っかけて倒れた。

++

 洞窟は溶岩の熱気に包まれ、身体は這いつくばった岩の上で焦げつきそうに熱くなる。熱さで寝てるのも辛いのに、私は起き上がることができなかった。
「…サイカさん!大丈夫ですか!しっかりして下さい!」
「…すっかり、自分を取り戻せたようだのう…。シャルディナ……」
 脆弱な呼吸で胸を上下する、私をシャルディナは青い顔で揺らして叫ぶ。今にも泣き崩れそうだったが、そんな水分もここでは蒸発してゆく程に身体が熱い。

「…すいませんっ!…私がっ。私が着たばかりにこんな事に…!私が悪いんです!全部私が……っ!」
「シャルディナ、先に逃げるといい…。お前一人なら逃げられる」
「何を!そんなっ!サイカさん!」
 シャルディナは懸命に泣き叫んで私を担いで逃げようと試みる。けれど、か細い繊細な少女にできる芸当ではないことは承知していた。

「もう、構うな…。こんな状態では逃げられない。先に行くといい。二人一緒に喰われるよりはましだろう……」
 こんな風に、もたもたしている間にオロチが首で道をこじ開けようと画策している。肩に私を担ぐ異国の娘の横顔は、今更ながらにとても美しいと思った。

「アイザックと言う男とは…。良い仲なのか……?」
 場違いに微笑み、私はシャルディナから離れ、一人焼ける洞窟の壁に寄りかかる。悔しいが、私より幼くて、美しい少女に先へ往かせるために。
「い、良い仲なんて…。ただの友達です……」
「でも、お前は想っているのだろう…?そうか、想いを口にしてもいないのか…。ならば尚更、シャルディナは生きるべき者。私は…、もう、全てを伝えてきた…。嘘かも知れぬが、抱きしめて貰えた。嬉しい時間を貰えた。悔しいが、お前よりは後悔は少ない」

「………。サイカさん…」
「早く往け…。オロチの首の届かぬ所まで…」
 洞窟を背にした、私は背中を擦ってずり落ちる。理由も釈然としないけれど、私は涙を流していた。いつの間にか流れていたのか、もう私にもわからない。
 姉上、兄上も喰われた…。そして父上も亡くなった。
 こんな化け物のために。
 
 どうして。どうして。ずっと幸せになれると信じていたのに。
 壊れた。壊された……。
 もう、私に帰る場所はないのですね。帰りたい場所は。
 あの人の元以外には……。

 瞼の裏に浮かぶのは、あの人の事ばかり。最後に「馬鹿野郎」と罵られた。けれど、本当に私は馬鹿者です。
 あなたの手を取って、素直に逃げていれば良かった。

    サイカさんっ!!」
 がりがりと音を立てて、オロチの頭がすぐ傍まで迫って来ていた。
「早く逃げろ!早くっ!」
 私は、迫る蛇の眉間に思い切り拳を叩き込む。
「くうっ……!」
 しかし、反動に襲う衝撃に耐えられずに、私はよろめいて倒れかかった。

 シャアアアアアア      ッッ!!
 痛みに歪む視界から、唾液をまとわりつけた牙が飛び込む!
「…………!!」
 後方でシャルディナが、両手で頭を押さえて昏迷する気配。シャルディナは腰を抜かしてへたりと座り込んでしまった。
「あ…。ううっ…」
 腰に、じんわりと血の温かさが拡がってゆく。喰らい付かれた私は、気を失いかけていた。食い込んだ牙、痛みではなく、痺れと、温かさだけを感じて、私は仰向けに脱力して倒れる。
 もう一度、あなたと……。

「おのれ。あの男の匂いがするな。余計な真似を…」
 オロチは、食事を邪魔されたように憎憎しげに呟きをもらす。永遠に残ればいい。匂いも温もりも。
 ぼとりぼとりと、洞窟を血で汚しながら、オロチは七人目の花嫁をめとう。
 花嫁が視界の最期に見つめていたのは、最初で最後の口づけ。


「目も開けないで。じっとしてて…」
 確かに重なった、心と唇。私を映した、深い青い瞳。


++

 身体が、震えて、腰が抜けて、私は何もできずに目の前の光景をただ眺めていたばかり。
 断末魔の悲鳴もなく、もう、本当に覚悟を決めていたのか、静かに、静かにサイカさんはオロチに飲み込まれていった。
 ぴしゃり。…ばき。みし。
 …ぴしゃり。
 狭い洞窟の壁に反響して、オロチの口の中の音が微かに響いて繰り返す。
 滴り落ちた血溜まりを、舌でオロチは楽しそうに舐めて…。

「とうとう、お前一人になったのう…
「…………」
 怖くて、恐ろしくて逃げ出したい。でも身体はぴくりとも動かせない。
 助けて…。助けて……!
 オロチはにたりと笑い、サイカさんを飲み込んだ首をするすると引き込め一度姿を消した。すぐに血の汚れのない、最後の頭を穴に押し込んでくる。

「お前を喰ったら、どれ程の力が手に入るか。ぞくぞくするわ」
 赤い舌が、震えるばかりの私の頬をくすぐる。
「助けて…。お父様…」

「ホホホ。助けなど来ぬぞ」
「助けて……」
 頭によぎってしまったのは、アッサラームで出会った戦士。助けなんか求めちゃいけないのに。
    そうよ。…私は、彼に何をしたの?
 せっかく助けに来てくれたのに、私は彼を刺してしまって……。
 怒ってるに決まってる。
 自分を見失いそうで、現れた彼が嬉しくて。
 私は自分を繋ぎとめようと、アイザックの感触を求めたの。よりリアルな感触を。

 自分のために、どれだけの人が犠牲になったの。どれだけの人に迷惑をかけて私はここにいるのだろう。今も目の前で人が殺されてしまった……。
 何もできない自分が嫌    



 全ては、いつから始まったのだろう……。
 生まれた場所の景色も、もう思い出せないほどに、長い永い時間をランシール神殿で過ごして来た。
 共に過ごしたのは、一緒に居てくれたのは、聖女の一人、黒い神官衣を纏うジードのみ。たった二人だけの暗い世界。
 何年も。何十年も。
 『光』を手にした勇者オルテガの現れは希望だった……。
 
 けれど、オルテガは火山に消えた。『光』を失い、私の外に出る夢も儚く消えて、歌うことも口を開くことも忘れてしまった。

 ジードは、そんな私の心情を知って、神殿から離れるのを見逃してくれたのだろう。もう一人の聖女ラディナードは厳しい人、きっと今も私を探している。
 自由になりたくて。空を見たくて。風を感じたくて。私は夢見て外へ飛び出した。
 空へ、お父様の元へ帰ること叶わなくても、それでも外の世界には心が躍った。
 人に冷たくされても、歌を聴いてもらえなくても、空の下にいられるだけで良かったのに。
 アッサラームで一人の少年に出会ってから、私の世界は変わり始めた。
 また別の、夢が生まれたの。

 彼に助けて貰って、優しい人たちの仲間に入る事ができたのに、私はまたそれさえも壊してしまう。
 女王卑弥呼は、ヤマタノオロチにすりかわっていた。
 オロチは私に気づき、私を求めた。
 大切な芸団の仲間達を助けるために私は一人ジパングに残り……。

 誰も、助けになんて来てはくれない。そう思っていた。でも彼が現れて、とても嬉しかったのに。嬉しかったのに……。
 ぎゅっと目を閉じて、全てを押し消そうとしても、それは届かない甘え。
 噛み締めるように、ゆっくりと、オロチの牙はじんわりと私の身体に喰らい込む。

「シャルディナ   !!」
    !!」
 耳に飛び込んで来たのは、間違える事のない、どこまでもまっすぐな彼の声。
 感じた。彼に渡した「羽根」の気配。隼の剣の波動。

「ア、アイザック…!アイザック   !!」

 舌の上にまで飲み込まれながら、大声で名前を叫び続けた。
 食い込む牙の痛みと、吐かれた毒の痺れと戦い、蛇の口をこじ開けようと腕の力の限りに抵抗する。
 唾液で滑って、蛇の口は開かない。長い首の中に引きずり込まれる……!

「ギィエエエエエエエッッ!!」

 突然、山を揺らすかと疑う程のオロチの咆哮。
 そして私を含んだオロチの首は激しくのたうち回る。
「きゃあああああああ!!!」
 口の中の私には、何が起こっているのかが分からない。けれど、足の先に光が見えた。私を飲み込もうとしていた、首の途中がバッサリと切断されている。

「このっ!!」
「ギィヤァアアアアッ!

 周りの壁を剣撃で叩き壊し、蛇の頭を切り裂いて彼が私を見つける。血と唾液と、毒にまみれた汚れた私には彼の光が一層強く眩しい。
「シャルディナ!遅くなってすまない!もう大丈夫だからな!」
 強く抱き上げ、彼は切り裂かれ尚暴れる、蛇の頭から私を引きずり出す。
「ううっ!アイザック!アイザック……!」
 満身創痍、下半身も言う事を聞きそうにないけれど、たまらずに私はぶつかって堰を切らして泣いた。

「ごめんなさい!ごめんね!あんなつもりじゃ!こんなつもりじゃ…!ごめんなさい!アイザック…!ううっ。ああっ…」
「…くそっ。待ってろ、今仲間の僧侶の所に連れて行くから」
 身体に刺さった数本の牙を引き抜き、けれど鈍く変色しだした足や腕を悔しそうに見つめながら、アイザックは私を気遣う。
「行かないで。…もう、離れたくない。もう、何もかもが嫌なの。怖いよ。皆私のせいで傷ついていくの」
「違う。お前のせいなんかじゃないから。卑弥呼はどうした?他の女達は?」

「…………」
 口にするのも、とても辛いこと。
「卑弥呼は、もう、居なかったの。あれは、オロチの化けた姿だったの。他の人たちは……」

「おのれっ!邪魔するかっ!」

ドゴオオオッッ!!!

「うわっ!」
「きゃああっ!」
 首を斬られて怒り狂ったオロチは、乱暴に数本の頭で洞窟ごと私達を潰しにかかる。切り落とされ、裂かれていた頭の一つは断面と貼り付き合い、まさかの再生をしようとしていた。
「くそっ!!シャルディナこっち!」
 崩された瓦礫から這い出して、アイザックは私を抱えてオロチから距離を取る。
 祭壇のある広い空洞に戻り、天井まで届く禍々しい蛇の化け物の姿を改めて彼は仰ぎ見た。
「…コイツ。自分で首をくっつけやがった!」
 再生しようとしている、アイザックが切り落としたはずの首。オロチの首は紫の光に包まれ私は戦慄していた。
「オーブの、力……」

     全ては、そう、私がもたらしてしまう、災い。


「渡さぬぞえ…。逃がさぬぞえ…。神の娘は我が貰う。ラーミアの復活なぞさせぬ…!」
 先ほど、封鎖された逃げ道には鋭く剣で断ち切られた痕が伺えた。アイザックは隼の剣を構え、光り輝く剣と共に、自らもその光に包まれる。
 今なら大量の岩も紙のように、彼は易々と切り裂くのだろう。

 本来なら、彼を助けるために、剣はその手に握られたもの。
 でも、今、背中を見つめる私は激しく後悔していた。
 私は、彼を巻き込んだんだ。神々の戦いに。私はアイザックを神の戦士にしようとしている……。

「後悔は少ない」
 サイカさんの言葉を思い出しては、私は後悔して俯いてしまう。
 私は、いつも後悔ばかりです。きっと想いも伝えられない。

「…とんだ神様だな。お前なんかが「神」なんて盲信もいいところだっ!再生も追いつかない程に微塵切りにしてやる!」
 堂々と言い放つ彼は、振り向き私を抱えて道を戻り始める。
「シャルディナを逃がした後でな!」

 毒が回る……。
 私は、悔やみながら、彼に担がれたままに気を失う…。
 自分の身体の事、自分で人事のように感じていました。オーブの力を手に入れたオロチの猛毒。もう、瞳を開く事はないかも知れない…。

    後悔は、私が天界を落とされたあの日から……。



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