「生贄」
時はいくらか遡る。
ダーマ神殿から東、祠の宿屋には俺たち以外にも団体客が一組泊まっていた。そこで海を越えたジパングから「生贄」騒動がもたらされる。
団体はアイザックの知り合い、吟遊詩人シャルディナが所属していた旅芸人の一座であり、団長の話にうちの戦士が火山のように怒り狂った。
その概要は、悲報。
ジパングを治める女王卑弥呼、その女に気に入られ、シャルディナが生贄に指名されてしまったというのだ……。
「我々の乗っていた船が嵐に巻き込まれてな……!」
団員達も恐慌状態にあり、説明は途切れ途切れで覚束ない。
「卑弥呼って奴が、シャルディナを置いて行けって……!そうしないと船をくれないって言い出したんだよっ!」
「大変なんだ!シャルディナが生贄に……!」
「化け物に喰われるんだ!」
「…ちょっと団長さん!どうしてそんな事になってるんだよ!なんでシャルディナが生贄なんだよ!なんで守ってくれないんだよ!!」
力任せに団長の首元を掴みあげ、アイザックは吠えた。
「すまない!本当にすまない!仕方なかったのだ!」
苦しそうに謝罪に及ぶ団長、アイザックには、他の団員達が半泣きですがりつく。
「我々の乗っていた船が嵐で…。ジパングに流れついたんだ。それは良かったんだ…。我々はジパングの者たちに保護されて、お礼に歌や踊りを見てもらった」
「シャルディナの噂が卑弥呼に流れて…。呼ばれたんだ。卑弥呼はシャルディナの歌をひどく気に入って……」
「卑弥呼は、オロチとつながっていて……!オロチもシャルディナが気に入ったと言って。シャルディナを生贄にすると……!」
「ふざけんなよ!生贄になんかされてたまるかっ!」
「アイザックさん、どちらへ?」
祠の宿屋に到着し、せっかく下ろした荷物をまとめようとするアイザックにワグナスは問いた。わかりきったことを。
「決まってんだろ!ジパングに行ってシャルディナを助けるんだよ!」
「海を泳いで?」
「……っ!泳いででも行くんだ!!」
ジパングは対岸におぼろげに見えるが、いくら体力馬鹿でも泳ぎきれる距離ではない。
「小さな船なら、ジパングから貰った船がありますよ。シャルディナを助けに行くなら船を出します!」
旅芸人達は、そう言って息をまいた。シャルディナを置いて来てしまった後悔を、掻き消すように誰もが息を巻く。
冷静に対応を考えていた賢者ワグナスは、腕を組み「ふうむ」と唸ると、俺に振り返り告げる。
「ニーズさん、これは急を要するようです。ムオルには私達だけで行きましょう」
「はぁ?」
出し抜けに言い出したワグナスに、俺は眉根を寄せた。
俺にとってあの吟遊詩人の女などどうでもいいが、この期に及んで俺をまだ『最果ての村』に連れて行くと言い張るか。
そう、ワグナスは俺を最果ての村ムオルに連れて行くために、この祠の宿屋まで皆を引き連れて来たのだ。
「おい!ワグナスお前!」
「まぁ、アイザックさん、落ち着きましょう。シャルディナ様から貰った「羽根」、見せてもらえますか?」
「??????…羽根?なんでお前中身知ってるんだよ」
「まぁまぁ」
「まぁまぁ、じゃねえ!」
「落ち着きましょう、みなさん。シャルディナさんは無事です。大丈夫」
ワグナスはどう何を確認したのか分からないが、アイザックのお守りを返した。
「…なんで、そんなことがわかるんだよ!」
お守り袋を手にして、しばし見つめていたアイザックは、ムスッとふくれて文句を言った。
「わかるんですよ。船はすぐに出せるのですか?」
「…支度に少しかかる。あと、天候と……」
ワグナスは話を聞いて、空を窓から見上げると、冷静に判断を下す。
「少し雲行きが怪しいですね。天気が崩れそうです。すぐに出航するのは無理でしょう。アイザックさん、少し時間を下さい。我々二人でムオルに行って、すぐに戻ります」
「ワグナス…。お前、何を企んでるんだ……?」
俺もアイザックもけげんな顔をしていた。
「人聞きが悪いですねー。大丈夫です。シャルディナさんは必ず助けますから」
何故、そこまでワグナスが俺を引っ張るのかが理解できなかった。
地図にない、その『最果ての村』にて、
俺の「待ち望んだ再会」を果たすまでは。
ムオルで俺がまごついたせいで、ジパングへの出発はいくらか遅れてしまっていた。ジパングで貰い受けた小さな船を芸団は海へ出し、俺たちもそれに便乗させてもらう。
元々、アッサラームから乗った船が嵐に遭い、半壊状態で一団はジパングへと辿り着いた。そこで保護を受け、そこまでは良かったんだろう。
お礼に持ち前の芸の数々を披露して、それで彼らは恩を返そうとしたらしい。
しかし異国との交流をしない、閉鎖した島国であるジパングには外国へ渡る定期便がなく、帰る手段には船を手に入れなければならなかった。
噂を聞きつけた卑弥呼(ジパングの女王)にシャルディナは随分気に入られ、彼女を置いていくなら船も、食料などの積荷の世話も全てすると卑弥呼は豪語したのだと言う。
当のシャルディナはと言うと……。
自ら、ジパングに残ると言い出した。
反対もしたが、シャルディナが残ると言い張るのに負けて、一団はジパングの港を出発する。しかし、近場のここ、珍しい祠の宿屋にひとまず留まり、やはりその後のシャルディナの事を案じていたのだと話す。
「アイツ…。まさか、皆のために。馬鹿がっ!」
「アイザック、ちょっとは落ち着けよ。迷惑だぞ」
終始怒りを撒き散らしている戦士に、俺は周りを代表して注意する。イライラして、じっとしていないし、何を言っても怒鳴り声に聞こえる始末。
うるさいのでせまい船内に押し込め、周りに当たり散らさないように俺が代表してアイザックを見張る。
「…分かってるよ。ああ、畜生……っ!」
「船が出ますよ」
軽くノックをしてから、船室にワグナスがひょっこりと顔を出して船出を知らせた。
「それで、ニーズさん。私少し離れまして、後から合流致しますね」
「…なんだよ。何処行くんだよ」
この非常時にと言いたげに、アイザックは呑気な顔のワグナスをギロリと睨みつけて抗議する。
「私にも、他に仕事がありまして…。色々裏事情があるのですよ。すぐに戻りますから。それでは」
賢者ワグナスを欠いて、俺たちはかなり異色な文化を持つ国、東国ジパングへと船をつける。そこでの生贄事件になど、まさか心乱される事になるとは予測もせずに。
++
この数日の間、私は神聖なる「清めの社」にて終日暮らしておりました。
我が国ジパングには、恐ろしき神、八つ首の大蛇が眠っております。数年前、何処ぞの勇者が大蛇、ヤマタノオロチを封印したはずでしたが、その封印も解かれ、我が国は再びオロチの脅威に晒されていたのでした。
しかし、大いなる霊力を持った巫女姫、卑弥呼により、ヤマタノオロチは制御され、年に数人の清い娘を差し出すのならば、逆にオロチは我が国を護って下さる『神』と変わる。女王卑弥呼の元に、ジパングの平穏は護られていたのです。
オロチに捧げられる娘の通達は、私の元へ届けられました。
…驚きました。しかし、私に拒否することなど許されない。
「はぁ…。しかし…。国に戻るなり、まさかまさか、私が指名されようなどと……」
指名された娘は、神へ捧げられるその日まで数日間、清めの社に籠もり、俗世との関わりを絶つ。 兄との旅から戻り、すぐさまオロチから花嫁を求める報せは届けられた。まるで、私は死にに国に戻ったようなものでした。
毎朝毎晩、清めの滝に通い身を清め、オロチの妻になる準備を行う。
館には男は入れず、面会も家族でも容易ではない。非常に退屈で死にそうでした。
「兄上……」
煩悩を嫌う社には時間を潰す本も食べ物も無く、私は一人寂しく物思いにふけるしかなく……。
個室には最低限の必要な品しか置いていないのですが、私はこっそり、いくつかの持込みをしていました。
「兄上…、また、次はいつ会いにきてくれるのでしょうか」
そして兄上も、いくつかの差し入れを手に隠れて会いに来てくれていたのです。それがせめてもの救いでした。
そして……。
私は結っていた髪をほどき、紅いリボンを両手に見つめる。
「ニーズ殿……」
出会いは、最高で最悪でした。
あのまま、一緒になれたのなら、私はこの上なく幸せだった。突然の告白は私の勘違い……。
突然見知らぬ殿方からの結婚の申し込みなど、胸がときめきます。
ときめきましたとも!しかも、その方は、とても素敵だったのです……。
黒い髪と青い瞳と、背も高くて、細いけれど、ひ弱そうでもなくて。まさに運命の出会いだと思いました……。 今でも思い出すと、うっとりとしてしまいます。
随分口悪く侮辱されたのですが、私は謝ったその方を許していました。侘びでもなんでも、「白い花束」は嬉しかったのです。それが素敵な殿方からなら尚更。
私は期待していました。
今は勘違いで、嘘のものであっても、いつか真になりはしないかと……。
「ああっ!私ったら、ふしだらな!他所の方のことなど考えては神に障ります!」
リボンを握り締め、体を左右に振って私は自分を戒めます。
けれど、どうしても、ニーズ殿のことは忘れられない。彼に結んで頂いたリボン、触れる度に慕ってしまう。
すぐにアッサラームで会えた、その時もまじないをかけておけば良かったです。
もう、数日後には、私はオロチに捧げられる。
オロチの妻、私は大蛇に喰われるのです。
じっと自分の手を見つめた私は、そのまま両手を頬にそっと当てた。
アッサラームではニーズ殿と一緒にダンスを踊る事ができた。衣装はあまり褒めて貰えなかったですが、でも誘って貰い、とても感動したのを覚えています。
ニーズ殿の手は大きく熱く、今でもぬくもりを思い出す。
「ううっ!ニーズ殿〜!」
随分緊張していたようでしたニーズ殿、思い出す横顔に痺れる思いが込み上げる。私は轢いて置いた布団に転がり込み、すっかり顔を上気させておりました。
「ニーズ殿が悪いのです。罪なお方です……」
私は、枕元の小さな包みにも手を伸ばす。
どうにか、あの花束を残せないかと思い、異国で教わった保存法。花びらを使い、香の守りにと自ら作った、ポプリは今も良い薫りを放っていました。
「私は、生贄失格です……」
自分ではそう思って仕方がありませんでした。
こんなにも他所の人の事ばかり、考えているというのに……。
「せめて、最後に、会えないものでしょうか。神よ、お許し下さい。どうぞ、せめてもう一度だけ……」
++
島国ジパングは、他国との交流を遮断しているがために、非常に独特の文化を持つ異彩の国。建造物も奇妙なら、住民の姿も衣服も、言葉使いさえも絶妙に変わっていた。ジパングに船を着け、俺たちは船と芸人達を残し、卑弥呼の暮らす王宮へとすぐにも向う。
この国では、何処でも俺たちの扱いは「ガイジン」。
エルフの町等の、嫌な記憶も呼び返すが、それどころではなく、急ぐアイザックを先頭に俺たちはひたすら女王卑弥呼だけを目指す。
卑弥呼のいる建造物、奉殿は恐ろしく広く、背に高い霊峰を控え、厳重な体制で全てを拒むように俺たちを見下ろしていた。
道を聞いても何処でも歓迎されなかったが、強引にもこの社にまでやって来る。
門を固く閉ざす、それを取り締まる門番にアイザックが交渉をする。
「俺たちはアリアハンから来た旅の者だ。女王卑弥呼に会わせて貰いたい。生贄に選ばれた、シャルディナを返して欲しいんだ」
言い聞かせてあるので、穏便に、穏便にとアイザックは気を使っていた。(多分)
「生贄などとは障り者め!神に嫁ぎし娘達は我が国の誇り。神の国で至極の幸福を得るのだ。そして、我が国に永遠の繁栄をもたらす。立ち去られよ!異国の者よ!」
「………。シャルディナはジパング人じゃない。そんなこと望んでなんかいないんだ!頼む!卑弥呼に、シャルディナに会わせてくれ!!」
追い払う門番にアイザックは喰ってかかるのだが、どうにもこうにも、交渉は失敗に終わりそうな気配が漂う。
「シャルディナ殿は、卑弥呼様が直接選び申したのだ!神に最もふさわしき聖なる娘であると。そして、当人も神に嫁ぐ事を自らの誇りと受け止めたのだ!」
「んな馬鹿な話があるかっ!嘘だっ!仕方なく言う事を聞いているだけだっ!仲間のために仕方なく!シャルディナに会わせろっ!!ここを開けろっ!」
風向きが怪しくなり、俺はケンカになる前にアイザックの肩を掴んで止めさせた。
「…アイザック、ひとまず引こう」
アイザックの耳元で、俺は静かに提案する。
「なんでだよっ!どうしてっ……!!」
「何も、正面から行かなくたっていいんだ」
小声で、耳打ちすれば、悔しそうだが、仕方なくアイザックも折れる。
…本当なら、この門番を殴り飛ばしてでも助けに行きたいんだろうが……。
「一体、何の騒ぎだ」
数人、供を引き連れた若い男が、俺たちを確かめにやって来るのが見えた。
「佐成様!申し訳ありませぬ!無礼なる異国の者が現れまして!直ちに縛り上げます!」
「お前は……」
供を連れた若い男は、俺に気づいて一度動きを停止していた。
俺も、すぐに思い出した。ロマリア、アッサラームで会ってしまった、あの女の兄貴、間違いない。
黒い長めの髪と、穏やかな空気と。身分も高そうに、サナリは門番らに指示を出す。
「良い。彼らは私の客だ。姉上にも後ほど私が報告に参る」
「客……?ですか?このような輩が……?」
周りは訝しがったが、この兄貴には誰もが意見を言えないようすで、すごすごと命令を遵守する。
「どうぞ、私の屋敷へ案内しよう。こっちだよ」
予想外な協力者が現れ、俺たちは兄、サナリに素直について行く。
道の途中で、サナリは供を帰し、俺の両手を取ると強く感動に震えていた。
異国の街並みの中、一人の青年が肩を震わせまぶたを伏せる。
「まさか、君が、本当にこの国に現れるなんて…。これも神の思し召しか。神の情けか…。ああ、ニーズ。私は今感動に胸が震えるよ」
「…なんだ、よ」
信じられない歓迎を見せる兄貴は、けれど、痛切な表情に変わり俺に頭を下げる。
「妹に、会ってくれないか。君に会いたがっていたんだ。嬉しいよ。サイカもこれで救われる。ありがとうニーズ……!」
本心は「嫌だ」と言いたかったんだが、続いた言葉に、俺は返事を見失う。
「妹は、明後日、オロチに捧げられる。その前に君にもう一度会いたいと、それはもう身を引き裂くほどにしてね……。ありがとう。いくら感謝しても足りない。きっとサイカも喜ぶ」
「ちょっと、待って下さい。今…。サイカさんが、なんて……」
俺の後ろから、心配したシーヴァスが覗き込んで兄に問いた。
「えっ!まさか、サイカさんも生贄なのですかっ!?」
後ろからジャルディーノの声も聞こえる。
俺は今、どんな顔をしているんだろうか。分からなかった。
「……。生贄、そうだね。オロチは娘を喰らう。サイカは明後日の満月の夜、神の国へ旅立つ」
「ふざけんな!何が神の国だ!シャルディナは何処だ!卑弥呼は何処だ!」
仲間達は驚き、アイザックはサナリに怒鳴りつけて再び怒りの暴徒と化した。
わらぶきらしい家屋たちの背景には異国の森。異彩の匂いを持った風が吹き抜け俺を置いてゆく。
俺はアイザックの怒声すら、遠くに聞こえて、暫く自分を見失っていた。
「騒ぎを立てないでくれ!オロチには逆らえない!私とて辛いんだっ!」
空に、兄貴の嘆きの声が響いてゆく。
そう、コイツは優しい、妹思いな兄貴だったはずだ。
大事な妹が、二日後の夜。大蛇にその身を喰われる。
++
生贄の一人に選ばれている、サイカは男子禁制の清めの社に籠もっていると、兄サナリは話し始めた。今回、選ばれた娘は八人。
一つの首に一人ずつ。国の繁栄のために化け物に捧げられる。
選び、通達を言い渡すのは女王卑弥呼。シャルディナのように異国の女が選ばれたのは初めての事だという。
「詳しく、教えてくれないか。卑弥呼って奴は何者なんだ?」
サナリの屋敷は事の他大きく、相当の身分の者に窺えた。人払いをして、俺たちにこの国の説明をしてくれる。
「卑弥呼は、代々、この国を支えてきた巫女の頂上に立つ者です。オロチが数年前封印を解かれてからは、大王(おおきみ)より、祭り上げられ、今の地位に重んじています。卑弥呼なくして、ジパングの存続は有り得ませんでした故」
「あの、本当に、ヤマタノオロチは国を護ってくれているのですか?」
座布団に正座しながら、控えめにジャルディーノは質問する。
「本来ならば、オロチは人を襲い、数々の災難を起こす。しかし、生贄を差し出してるうちは、それだけで満足してくれるのだ。少ない犠牲で済むのならと、誰もが納得している」
「そんな馬鹿な!そんな馬鹿な話があるかよ!人を喰らっておいて、何が神だ!何が平和だ!国の繁栄だ!それでいいのかよサナリ!!妹が喰われてもそれでも納得できるのかよ……!!」
「…………」
床を強く叩いたアイザックに、サナリは無言だった。
「納得せざるを得ません。これまで、犠牲になった娘達のため、今まで娘を殺しておいて、自分の妹だけは殺したくないなどと、私達は言えないのです!」
ほとんど、口を開かなかった俺だが、そこで一つだけ兄貴に聞きたいと思った。
「なぁ、サナリ。国は捨てれないのか。旅をしていたお前達なら…、考え付かない事はないだろう?妹と二人で逃げればいいじゃないか」
「できませぬ」
頑なに、サナリは言い張る。畳の上、正座した黒髪の男は、両手を握り締め懺悔のように告白するんだ。
「我々が生贄を選び、そしてオロチに捧げてきたのです。私達二人が逃げる事は許されません。すれば卑弥呼の治世は堕ちます。サイカも、姉上のために死を選ぶのです。卑弥呼の妹が逃げるなど、許されるはずが有りません……!」
「妹……!」
脳裏によぎったのは、馬鹿みたいに浮かれていたジパング娘。
どうにもできない、愚かな鎖に連行されて、もうじきこの世を去ってゆく。
残された、一日目の夜が過ぎようとしていた。月は高く、満ちるまであと僅か。
月が満ち、欠ける時にはあの女はもういない。
サナリに案内され、俺はサイカがいると言う建物に侵入を果たした。
さすがに隠れて通っている兄は侵入ルートも良く知っている。同じ建物内にいるシャルディナに会うために、アイザックも来ると豪語したのだが、アイツがいると隠密行動できるものもできなくなる、と言うわけで奴は留守番。
生贄の娘達が監禁された建物は、霊峰の麓に厳重な警備で配置されていた。
オロチは霊峰の麓、溶岩の覗く洞窟内に住んでいるらしい。
「そんな蛇ごとき、俺が粉砕してやるっ!」アイザックは叫んだものだったが、それは果たしてできるのか…。
オロチは、かつて一人の勇者が封印していたと言う。
ここでも名前を聞くはめになった。勇者オルテガ。
ひとまず俺はサイカに会うことに決めていた。あの勘違いなジパング娘に。
++
「サイカ、入るよ」
小声で中に知らせ、サナリは素早くふすまを開けて部屋の中に消えて行く。俺も音を立てないように、神妙にその後に続いた。
「兄上〜!………!!」
ばたばた。泣きついて来ようと両手を伸ばして駆けて来た、サイカは兄の後ろから顔を出した俺に驚き、そのまま衣の裾を踏んで転ぶ。
「あーれー!」
「サイカ!…おっと!」
兄貴は、受け止めた妹を、思いついて俺にパスする。
「に、に、ニーズ殿っ!?きゃああですっ!」
俺を確認して、サイカは嬉しそうに再度抱きついてきた。
「馬鹿!離れろよ!」
「嫌ですっ!嫌ですぅっ!ニーズ殿お〜!!!」
「ッたく、この…っ」
ふと気づくと、兄貴が満足そうに笑顔で見つめていた。
「良かったね。私も驚いたよ。でも、ニーズだよ。良かったねサイカ」
言いつつ、俺の手を取ってサイカを抱かせようとする。
…何やってんだこの馬鹿兄貴は。
「こんな事しに来たんじゃないんだよ!」
強引に離れて、俺はサナリに不機嫌に言い放つ。
「シャルディナは何処だ。コイツには会ったんだからいいだろう」
「ええっ!に、ニーズ殿は私に会いに来たのではないのですか!?まさか他所の女子に会いに……!」
「そうだよ」
「がぁぁあああん!うっうっ!兄上〜!!ニーズ殿の浮気者〜!」
「誰がいつ浮気だ」
「違うよサイカ。ニーズはサイカに会いに来たんだよ。そっちの子の恋人に頼まれていてね。シャルディナって娘はニーズの恋人じゃないよ」
「おい兄貴、早いところ…」
「ニーズ、可哀相じゃないか。どうしてもっと優しくしてあげないんだい」
「…あのな……」
妹を慰めながら、キッとサナリは責める視線で睨んでくる。会えとは言われたが、優しくしろとまでは言われちゃいないさ。
しかも、アイザックはシャルディナの恋人に勘違いされているし。まぁいいが。
「……。はいはい。じゃあ、あとちょっとだけな。何すればいいんだって?」
「くれぐれも妹を泣かせないようにね。じゃあ、私は一度シャルディナ殿の部屋の方を見てくるよ」
「……。おい、二人にして、どうしろって…」
「ニーズ。頼むよ。サイカは君が好きなんだよ?少しくらい、心ときめく思い出があったって良いだろう。優しくしてやって欲しい」
サナリは耳打ちをして、俺を一人部屋に残す。
好きって……。
大きな、問題発言を兄サナリは残して、人の気も知らずに部屋から消える。
「ニーズ殿。あの、何もないですけど、お茶でも出しますよ。どうですか?」
嬉しそうに、部屋の奥にサイカは誘う。
コイツ、もうじき喰われるくせに、随分と明るいなぁ…。
「にげー……」
「えっ!苦いのはお嫌いですか、少しならお茶菓子もありますよ」
「あまー……」
「ぷっ!あははははっ」
「笑うなよ。味が極端だぞ、これ」
妙なジパングの茶は、飲物とは思えないほど苦くて、茶菓子は砂を吐くほど砂糖の固まりだった。
「そうですね。はい」
嘘のように、サイカは底なしのように明るく笑っていた。
兄の言った報せの方が嘘だったかのように。
「ニーズ殿、また、リボンを結んで下さりませんか?」
「…………」
腑に落ちないまま、俺は赤いリボンを結びなおしてやる。
「あの後、本当にアッサラームでニーズ殿に会えました。嬉しかったです」
「そうです、あの花束、ポプリと言うものにしてみたのですよ!良い香りでしょう!」
「…………」
嬉しそうに、小さな包みを俺の顔に近づける。
あの花束、そんなに嬉しかったのか……?
「ニーズ殿と踊った音楽、覚えていますか?私覚えているのですよ」
鼻歌を歌い始める。その姿が痛々しく見えるのは思い違いだろうか。
「サイカ」
俺は一緒に笑うこともなく、近付くとその腕を掴んでこちらを向かせた。底なしに思えた笑顔は消え去り、深い紅い瞳が揺れてくる。
「お前、死にたいのか」
「…………」
遅れて、サイカは眉根を寄せて、首を振る。
「死にたくはありません。ニーズ殿……」
「逃げるんだ。俺たちが手引きしてやる」
どうせ、一人助けるなら、一人も二人も変わらない。半ば睨むように、俺は真剣に誘っていた。
「…嬉しい。真に嬉しいです。そのように私を想って下さるなんて…。けれど、申し訳ありませぬ。姉上を、裏切る事はできませぬ…。できませぬ……!私は、この国を捨てられませぬ……!」
「なら、俺がオロチをぶった斬ってやる。二度と出てこれないようにな」
「なりませぬ…!オロチは障れば災害を呼びます。姉上が、姉上を信じているのです!姉上はオーブを手に入れました!オーブの力で、もうオロチに怯える事は無くなるのです!」
「……なんだ。オーブって……」
興奮して大声を出した事に後悔して、俺は声を潜めた。ここに男がいるのも知れたらまずい。
「神の力です。兄上と二人で見つけて、姉上に渡しました。オロチを本当にジパングの神にできるのです。オロチに刃を向けてはなりませぬ……!」
「…………」
八方塞がりじゃないか。逃げない、国を捨てない。オロチも倒すな。
俺にどうしろって言うんだ!
シャルディナは逃げればいい。あっちは逃げてくれるだろう。
この馬鹿女は死んでいくという。俺が止めても……。
「じゃあ、好きにしろよ。お前なんか勝手に喰われちまえ」
「っ!!」
立ち上がり、俺は部屋を出て行こうとする。
ショックを受けたサイカが、鼻をすすり始める。ふすまに手をかけた俺の耳に届き、俺は眉を跳ね上げていた。
「…ううっ…!行かないで下さい!ニーズ殿!ニーズ殿ぉぉっ!」
号泣するのを知って、振り返ると、サイカは床に突っ伏して泣き伏せている。
力いっぱいに、あの花束のかけらを入れた包みを握り締めて。
「…なんだよ。どうしたいんだよ」
吐き捨てては戻り、足元に泣き伏す女を見下ろして、俺はなんて馬鹿な女なんだろうと呆れた。そして、そんな馬鹿な女を「死なせたくない」と考えている、俺も相当な馬鹿野郎だと思った。
「死ぬなよ。死にたくないんだろう。じゃあ、死ぬんじゃねーよ」
「ニーズどのぉぉぉっ!」
屈み込んで声をかけた、俺の首に飛びついて、声をからしてサイカは泣き叫ぶ。
「オロチの妻なんて嫌です!私にも夢がありました!素敵な殿方に見初められて、愛して頂いて、幸せに暮らして……!」
なんてことはない、女が抱く普通の夢だと思った。
叶えればいいじゃないか、生きて。
「ニーズ殿と、一緒にいたいのです……!」
顔の距離も近く、衝撃の台詞に俺は息を飲み込んだ。
隔離されたこの建物は余りに静か過ぎて、お互いの呼吸ぐらいしか聞こえてこない。
俺の結び方が下手だったのか、サイカの二つに結った髪の片方がほどけて、黒髪が肩に落ちる。そんな音すら胸を突いた。
ゆらゆらと、ジパングの灯篭が暗く二人の顔を照らしていた。
もう一度、サイカはしっかりと俺にしがみつく。
明かり取りの窓から見えた月は、すでに円を描くにも等しく…。