商人の町に登場する、グレイ達の序章です。
「港慕情」 |
北海の島国エジンベア。 表社会の華やかさとは裏腹に、庶民の生活は今日も苦しい。貧富の差激しい王国の港に、小さな船が戻ってくる。 それは民間の漁師が海から朝方戻った姿だった。男たちは少ない持分、賃金と数匹の魚をそれぞれ握り、数日振りの帰路に別れてゆく。 水揚げ量が予想以上に少なく、男たちの顔は誰もが沈みがちで、帰る足取りも重々しい。ただ一人、蒼髪の青年だけが、嬉しそうに船長に持分の交渉をしていた。 「悪いな。グレイ。お前のところ三人、これじゃ少ないだろう。もう少し高い値がつくと踏んだんだがなぁ…」 「これだけでいいですよ。後はなんとかします。親父さんところ、奥さんが病気なんですよね?美味いものでも買って下さい。じゃあまた!」 「おいっ。そんなに返して大丈夫なのかっ!」 「弟も働いてますから、なんとか〜!」 一人陽気に青年は手を振って、家に向かって港を駆けていた。 長身の青年グレネイドは、仲間たちからはグレイの名で慕われていた。 素朴な人のいい顔つきには、いつもたいてい笑顔が溢れて見えた。髪はくせ気なのだが、良く寝癖と間違われていたりもする。 数日振りに海から戻り、足が急ぐのは、家で弟が待っていると思うからに他ならない。 「ビームの奴、母さんとまたケンカしてなきゃいいけどな…」 気がかりは、母親と仲の良くない弟の事。 急ぐ彼の視界の端に、その女性が霞まなければ、きっとそのままの日常が在ったに違いなかった。 この日から、青年の人生は大きく変わってゆく。 グレイは、分けてもらった魚の入った篭を背負っていたのだが、立ち止まり危うくそれを落としそうになった。 「……?こんな時間に…。なんだろう」 まだ陽も上がっていない夜明け前の港に、暗い海を見つめて微動だにしない女の姿が一人伺えた。 喪服かと疑う程に女性の服装は黒一色。 赤茶色の長い髪は海からの風に煽られて、激しく生き物のように揺れていた。しかし、手で乱れを押さえることもない姿は、まるで 「まさか……!身投 女性の姿は風に煽られて、今にも静かに海に落とされそうだった。漁師は慌てて駆けていた。 「ちょっと待った 一目散にグレイは奔り、女の両腕を掴もうとして……。 女は振り返り、余りの勢いに驚いたのか、それとも拒んだのか、思わず身をかわしてしまった。 どっぱ〜ん!! 冷たい海に落ちていたのは、止めようとしたグレイの方になった。 「……………」 「うひゃああああっ!!寒いっ!!し、死ぬっ!!」 海に落ちて冷たさに暴れる、見知らぬ男を見下ろした女は、まるで反応が薄く、驚いた素振りも全く見せずにいる。 「ひいーっ!あ、焦った…。うおおっ、寒いー!絶対風邪ひくっ!」 急いで海から上がったものの、グレイは全身からボタボタ雫を垂らし、歯もガチガチ鳴らして震えた。 「………。大丈夫?」 前髪を上げて、顔の水気を拭き、片手は地面に着けたままだったグレイに声をかけ、女は静かにしゃがみ、ハンカチを差し出す。 「…まだ、泳ぐ季節じゃないわよ?」 「……………」 見上げた先の女は、とても静かな、何処か悲しい黒い瞳の持ち主だった。 伏し目がちに男を映し、唖然として見惚れている、男の視線にも反らすような戸惑いも見せはしない。 ひとすじの揺れもない、夜の湖面のような静寂さを持つ不思議な女性だった。 「あ……。あの……」 「はい」 「お、俺…。グレイと…。グレネイドと言います。その……」 突然、恋は降ってきたと思った。 彼女は暗い海によく映えた、一枚の絵画の中のヒロインのようだった。 どうにか、また会える口実を作りたくて、瞬間の思考はフル回転するが、どうにもかっこいい言葉が見つからない。 女はずっと言葉を待っていた。 男が何かを必死に伝えようとするのを、解ってくれたのか。 「………。結婚、して下さい。俺と……」 余りにも、脈絡のない、唐突なプロポーズだった。 |
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「た……。ただいま……」 「うおっ!?なんだよ兄貴!ずぶ濡れじゃんかっ!!」 「そうだな…。いや…。どうしよう、俺……」 海に落ちたせいだけではなくて、明らかに自分は熱に浮かされていた。 「はぁー……」 ぼうっとしている俺の前で、弟のビームは手を振って呼びかける。 良く似ているとは言われる、俺と同じく青い髪の少年だった。俺と違うところと言えば、いつも愛想が悪いということぐらいか。 「もしもーし。なんだよ、寝ぼけて海にでも落ちたのかよー。着替えてさっさと寝ろよ、兄貴」 「そうだな。そうするよ。はぁー…。ああ、これ、朝飯にでもしてくれ…」 みやげの魚を台所に置いて、俺は潮臭い身体を拭いて、ごろりと横になる。 彼女は……。「ファル」と名乗ってくれた。 「その言葉が、真実のものならば……。また明日会いましょう。ここで」 明日また会える。胸が馬鹿みたいに高鳴っていた。 嬉しくて布団を抱いてごろごろと寝返り打つ。 「兄貴、なんか変だって。なんか妙なモノでも喰ったんか?」 具合を確かめに来る弟は眉間にしわを寄せて、ぼうっとしている俺に口を尖らせる。 年の離れた弟だった。十一も。 まだ子供ながらも働いていて、多分俺なんかよりずっと現実を見つめているしっかり者。家にいる間の家事もしっかりこなすし、今も粥でも作ろうか?と、様子を見に来た良い弟ぶりだった。 「ビーム、あのな…。兄ちゃんもしかして、結婚しちまうかも……」 「はああ?!」 正直思い切った告白だったのに、弟は思い切り無下にも呆れた。 「……夢?寝言?熱のせいで幻覚見たんだよ、兄貴」 「お前、ひどい弟だな…。兄の幸せを……」 「相手もいないくせに。兄貴の周りに女なんかいねーじゃんか」 「確かに。 「あのさぁー……」 布団を掴んで思い出す、彼女の表情にうっとりと顔を赤くしていると、夢から覚めるように弟の怒涛のツッコミが水を差す。 「なんだよ。またかよー。ったくちょっと美人だと思うと、コロッとさぁー!何処のブ女か知らねーけど、どうせまた振られるんだろ〜?だいたい恋人通り越して結婚ってなんなんだよ。そんな甲斐性も全くないのにさ。どんな女が着いてくるんだってーの。毎日自分の喰う飯だってヒーヒー言ってるのにさ」 「………。反論できない」 「だろ〜?本当に兄貴って馬鹿な。はぁ〜…。全く。こっちが苦労するよ」 「ううう……」 悔しかったが、二の句が告げなかった。 「はぁー…。そうだよな、現実に考えてみれば、できるわけ、ないよな…」 「でも…。会いたいな。ファル…。明日会って、それで……」 取り消そうか?生活の保護もできはしないのに。家も汚いし。 まだ幼い弟も母親だっている。俺がこの家を捨てるわけにも行かない状況で……。 「片想いでも、いいんだけどな……」 「はあああ?!」 ぼそり。俺の情けない台詞に、弟はますます眉を吊り上げていた。 |
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ザーザー…。ビュオオオオオ……。 「…へぶしっ!へっぶしっ!」(ブルブルブル) 翌日はあいにくの雨、いやもとい、台風接近らしく、強風波浪警報が海岸地区に発令されてしまっている。 「えっと。どうしようかな。何着て行こうかな…。ぐしっ」 部屋に全部の服をひっぱり出して、朝から延々と俺は悩んでいた。 「あー…。これもなぁ…。ここほつれてるし…。これとこれがいいかな。靴はアレにして…」 「兄貴、…こんな日に何処行くんだよ」 気が付くと、弟がジト目で部屋の入り口に寄りかかっていた。 「えっと。彼女に会いに行くんだよ。…多分、振られると思うけど。約束したからさ、一応…。ぐしっ」 「こんな台風に女なんか来ねーよ。しかも風邪まだ治ってねえじゃんか。兄貴なんか今更着飾ろうとしたって、意味ねーよ。こんなに散らかして。さっさと服片付けろよ〜」 「………。お前、昨日からきっついなぁ」 耳うるさく弟に言われても、俺は会うことを曲げるつもりはなかった。 だって、台風だけど、もしかしたら来るかも知れない。来てくれたのに俺がいなかったら、彼女が可哀相じゃないか。 来なかったのなら、振られたんだと諦めるし…。 とりあえず、一番まともそうな格好に着替え、髪をとかして支度をする。 「………。花でも、買って行こうかな…」 「馬鹿かよ!花なんか買う金うちにはねーよっ!!」 「…いいよ。俺の夕飯抜けば…」 「……。兄貴、オカシイぜ!絶対!!」 「ちょっと!うるさいよ!ごちゃごちゃ何騒いでいるんだいっ!!」 奥の部屋の扉がけたたましく開き、ヒステリックな母親の叫びが俺たち兄弟を貫いた。乱れた身だしなみと服装で、母の愛情も微塵も無く、息子たちを忌々しそうに罵る。 働きもせずに、ぐうたら寝てばかりいる酷い母親だった。 「……。ごめん、うるさくして。母さん」 「グレイ!アンタ帰って来たんなら、とっとと金を持って来たらどうなんだい!そこのクソガキはケチでね。フン!」 「うるせーよ!クソババア!さっさと死んじまえ!」 弟は牙をむき、俺はそんな弟を背中に隠す。 「クソガキがっ!目障りなんだよ!子供のくせに口答えばかりして。子供は親の言う事聞いてりゃいいんだよ!」 「母さん、お金って…。漁に出る前に渡した分は?もう使っちゃったの?」 「あんなはした金。タバコ代にもなりゃしないよ。こんな所で遊んでないで、お前ら二人は働きに出ていればいいんだよ!」 母親と弟の間に入って仲裁する、それはなんてことはない日常風景であった。 ビームは俺の後ろでぎりぎり歯軋りしていたけれど、俺はため息一つついて、持っていた全財産からいくらかを母親に手渡す。 「少なくてごめん。これで今日は我慢して」 「渡す事ねーよ!こんなクソババア、のたれ死ねばいいんだっ!」 「お前こそ女だったら売って金に換えたものをっ!っほんと、役に立たない子たちだよ!お前らはっ!」 「んだと!…っこの……!!」 「ビーム!」 弟の手が出そうになって、母親も向かえ討とうと、手近にあった飲み残しのカップを投げつける。 弟には、多少の水が飛び散った程度に治まった。 俺はせっかく整えた格好に破片と水を被り、おまけにあちこちを切り裂いてしまっていた。 「あっ、兄貴…!この野郎!!」 「いいから、ビーム、やめろっ!」 「なんでだよ!なんでだよ…!なんでこんな奴に兄貴は優しくするんだよ!いつもこのクソババアのせいで、俺たち食いはぐれてるんじゃないか!もう嫌だ!こんな生活……!」 「フン。これっぽっちかい。相変らずシケてるね。うるさく騒ぐんじゃないよ!」 バタンと音を立て、母親は自分の部屋に再び引きこもる。 悔しさに震えるビームに、……そう、これも、いつもの常套句で……。 「ごめんな。母さん、昔はあんなじゃなかったんだ。お前が生まれた頃も、本当に喜んでたし…。親父さえ、借金作って逃げなければ…。きっとそれなりに幸せだったはずなんだ……」 「……。俺は、兄貴と二人で暮らしたいよ。まっぴらだ。こんな不条理な生活。働いても働いても、ちっとも金も貯まらない。税金だって払えないでこないだも取立てが来たんだ。もう俺、疲れたよ…」 ビュオオオオオ……。 外の嵐に、家のあちこちが軋んで音を鳴らしている。 うだつの上がらない自分に…、時々、無性に落ち込む。 |
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弟を振り切り、嵐の中役に立たない傘を広げ、俺は町へ繰り出していた。 なけなしの金を握って、町中に入れば、嵐でたいていが店を閉めているのに、当然ながら途方に暮れる。 俺たちが住まう港の居住区は、こちらとは違い貧相な住宅の集まりばかりだった。 色の綺麗なレンガの壁や、色の付いた屋根なんて港外れのいわゆる貧民街には見当たらない。 住む世界が違う、 「ふいませんー!花を買いたいのですけどー!」 何件か花屋を回り、数件目にしてやっと、しぶしぶ中に入れてくれた店があった(鼻声)。嵐の中雨に打たれてずぶ濡れて、金もなさそうな男に店主はかなり不機嫌で応対する。 「ちゃんと金あるんだろうね〜。兄ちゃん」 「えっと…。薔薇とか…。うわっ。高いな…、薔薇って…」 花の値段なんて知りもしなかった、俺はその値段に心底自分を甘いと後悔する。 「……。薔薇一本で。できたら、リボンとかあるといいんですけど」 「追加料金だよ」 「うえっ」 一食抜くだけじゃ、賄えない出費ではあったけれど、花束を握り締めた俺は思わず胸がどきどき鳴るのを感じていた。 喜んでくれるだろうか…。そうしたら、ものすごく嬉しいかもな……。 なるべく濡らさないように花を庇いながら、(無理な話だけど)俺は彼女と約束した場所へ壊れた傘を強引に差して向かう。 時間より少し早く、彼女の姿はまだ見えてはいない。 家を出る時よりかは風がおさまり、雨だけが強く海を打っていた。 雨が港の倉庫を叩く音が続いている。 彼女は時間通りにやって来た。 藍色の造りのいい傘を差し、今日の服装も黒と紫、暗色系が好きな人らしい。赤みを帯びた綺麗な茶色の髪に、綺麗な髪どめを後ろに当てていた。 昨日は無我夢中で、あんまり気が付かなかったけど……。 身なりが俺なんかとは違い、上質の絹仕立ての衣服、縁飾りの付いた傘、どう見ても上流階級のお嬢様だった。 俺ってば、どうしようもない、手の届かない相手に声をかけてしまったんじゃないか…? 港の倉庫の脇から現れて、俺の目前に歩いて来るまで、すでに俺の心は萎縮させられていた。雨に濡れて、貧相な格好で壊れた傘を差す、どんなに俺の姿は滑稽だったんだろう。 待ち合わせの時間は夕刻、五時。 再び暗い海を背景に、彼女は俺の前に姿を見せてくれた。 「こんにちわ。本当に来てくれたのね」 「は、はい…。あ、…と。君も…。台風の中、ありがとう……」 「もう、台風は通り過ぎたわ。………」 ファルは、俺の顔や腕の切り傷に気が付き、じっと見つめた。そして一輪だけ、握り締めていた薔薇の花束も。 「えっと、ファル…。これ、良かったら。薔薇、好きかな?」 受け取った彼女は、表情を変えずに呟く。 「薔薇は、青い色が好きね」 「…………」 ……失敗、した……?(汗) 青い薔薇なんて見たことがない、喜んで貰えなくてショックだったけれど、とにかく謝るしか俺にはできなかった。 「そ、そうか…。ごめん、赤で…」 「今日ここへ来たと言うことは、本当に私と結婚してくれるのね」 光の見えない瞳で薔薇を見つめた彼女は、俺に確認する。 昨日のプロポーズの言葉を。 取り消そうなんて、少しは思った。 でも……。 身分不相応でも、馬鹿の見た夢物語でも、笑われてもいいと思った。 ファルを目の前にすると、心がかきたてられてしまうんだ。 「本当だよ。ファルと、結婚したい。…っと、俺、今はこんなだけど、変わるよ。もっとましな仕事見つけて、一生懸命働いて、必ず君のこと幸せにするから!だから……!」 「あなたの言う幸せって、具体的にどんなもの」 「え………」 興味がなさそうに呟いた彼女は、雨に打たれる暗い海をじっと静かに見つめている。 「………。えっと、ちゃんとした収入があって、生活ができて…。夫婦仲が良くて、子供もいて、子供もいい子で、仲が良くて…」 「普通ね」 「……………」 つまらなそうだった、ファルの横顔は。 もっと突拍子のないことを言えば喜んでくれるのか。一体何を言えばいいのか、困惑した俺は慌てて、気の効いた言葉を探す。 「新しい世界が、見たいわ…」 たった一言、彼女は願いを口にした。 「あなたが見せてくれる世界は、一体どんなものなの。嫁ぐ私は、あなたの世界に暮らす事になるの。それは、どんな世界」 ザザー…ン。バシャー……ン…。 横に海が揺れていた。雨が音を鳴らして地面を打ちつけていた。 俺は完全に途方に暮れていた。 真面目な考えを持つ人だと思った。俺の世界に、俺なんかが暮らすような世界に、彼女を迎え入れてしまっていいのか、ずっと悩んだ。 明らかにファルは、不幸になってしまうんじゃないか……? 返事の無い、俺には何も言わないが、ファルは諦めたように、薔薇の花びらを一枚千切り、風に飛ばす。 「気にしないで。ただ、時々思うことがあるの。誰も知らない場所で、自分だけの世界を創りたいと」 飛ばした花びらは風に舞い、海の上に赤い染みを生み落とす。 「赤は好きなの。黒に映えるから」 何枚も、花びらを摘み取っては、ファルは海へと飛ばした。 終わった夢物語に別れを告げる、悲しい儀式の動作のようで。 寂しそうだった。自分が情けなくて、悔しくて歯痒かった。 変わるって、言った。それはいつだ?何もできることはないのかと……? 花びらが終わった時、もう、別れが決まって、彼女と二度と会えなくなるような苦しい予感に襲われる。 終わりたくなかった。終わらせちゃいけなかったんだ。 「…………!」 不意に突風が吹き、彼女の手から風は、数枚の花びらを残した薔薇の花束を奪い取り、海に持ち去る。海に落ちた、花束は遠く、彼女は 「残念ね」 夢に敗れたように、昏く何も無くなった指先を見つめた。 俺は今日も海に飛び込んでいた。 昨日に比べれば、断然波は高いし、暗く容赦なく波打つ海面に浮かんだ花束までは一心不乱で腕をかく。 急がなければ、見えない場所まで流されてしまいそうで気ばかり焦り、冷たい海を泳ぐ距離に目眩いがする。 ラッピングの紙のおかげで見失う事はなく、花束を掴むと安堵し、でも急いで彼女の元へと泳いで帰った。 遠巻きに傘を差した彼女がずっと待っているのを見ながら、 俺は………。 心を決めていた。 「ハア…っ。ハアッ。…ファル、はい、まだ、残ってるから……」 海から上がり、またしても潮にずぶ濡れて、でも俺は自分でもおかしい位に幸せさに笑っていた。 黙って花束を受け取ったファルは、勢い良く立ち上がった俺の宣言に、初めて表情のない顔に驚きの色を見せる。 それは、本当に些細な、微妙とも言える驚きの変化。 「俺…。町を作るよ。君のために」 「昔、考えたことがあったよ。何処か別の場所へ行って、弟とか、気の合う仲間たちと暮らせないかなって…。エジンベアに未練はないし。実はそんなに愛国心があるわけでもないから」 冷たさも忘れて、寒さも忘れて、ただ今は目の前の人に笑ってあげたいと思った。 「小さな町でもいいと思う。皆で協力して、畑を作ったり、漁をしたり。ファルのしたい事、全部叶えるから。いつでも君の話を聞いて、願いを聞いて、必ず叶えてみせるから」 雨の音さえも、自分の世界から掻き消えてゆく。 気休めに手を服で拭き、彼女に手を伸ばす。 「迎えに行ってもいいですか。君と一緒にいたいです」 彼女は思い出したように、今更ながら、俺の頭上に自分の傘をそっと重ねる。 「あなたはもしかしたら、海に飛び込むのが好きなのかしら」 「あ……」 質問にうっかり間抜けな顔をした、…と思う。 彼女の表情に柔らかさが垣間見れたせいで、思わず浮かれて。 「えっと…。うん。多分…。泳ぐのは、得意なんだ」 「そう……」 今一度、彼女は俺が海から持ち帰って来た濡れた花束に視線を落とし、唇がふと微笑む。 「赤い薔薇も、好きになったわ」 「えっ……」 「待つわ。あなたの事を。グレイ……」 恋は降ってきた。 俺はその言葉に嬉しさのあまりに人形のように固まり、動けなくなる。 「きっと、風邪をひいてしまうわね。今日は時間がないの。明日薬を持って見舞うわ。あなたの住まいは何処かしら」 「え”、うち、うちになんて……。い、いいよ。寝てれば治るから……」 じっと見つめられて、そのまま、ただ彼女は質問の返事を待った。 硬直したままの俺は、無言の態度に仕方なく住所を教える。家に上がらなければ、きっとなんとか……。 「薔薇の花束、ありがとう。大事にするわ」 「え…。でも、もう、花びらも千切って、ボロボロだよそれ」 「私は好きよ」 身体は固まったまま、心の中では自分はすでに壊れて暴れ回っていた。 「明日、行かせてもらうわ。ありがとう」 背を向けた彼女が見えなくなるまで、ずっとずっと身動きができずに、歓喜に俺は震えていた。思わず、頬を叩いて、痛みを確かめてみたり。 「痛い…。夢じゃない?」 「待つわ」、「赤い薔薇も好きになったわ」 本当に……!!? 世界は薔薇色に変わった。 冴えなかったと思っていた自分の人生。今日のファルの微笑みだけで全て救われた。 「好きだ……。俺……」 誰に言うわけでもない。多分自分自身に報告している。 「ファルのこと、すごく好きだ…。うおおおおおっ!」 「好きだ 誓いを海に叫ぶ、心は晴れ晴れとしていた。 まだ倉庫の裏に、実はファルは足を止めて花を見つめていた。 しっかり聞いてしまって、微かに瞳に温かさを宿し、町へと帰って行く。 |
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「薔薇が咲いた。薔ー薇が咲いた。真っ赤な薔薇が〜…」 「あ、兄貴……?」 「さーびしかった。ボークの心に薔薇が咲いた〜♪へぶしっ!」 「………。熱で頭イカれてるよ…。なんだよその歌…。キモ…」 また今日もずぶ濡れで帰って来た兄貴は、倒れて眠っていたが、はっきり言って気味悪い程に、にやけていた。 「はっくしゅん。はっく…っし!」 横になってからも、時々歌うし、時々女の名前呼ぶし、叫んでるし。 枕抱きしめて転がってるし。風邪はますます悪化してるし…。 …これは、本格的に女に騙されたか……??? 俺は、浮かれる兄貴に危機感を覚えていた。 兄貴みたいの騙したって、搾り取るものも何もねーけど。それでも悪い女にいいようにあしらわれるのは忍びない。 「ファル…。むにゃむにゃ。好きだ…」 額の冷やしたタオルを取り替えながら、兄貴が呼ぶ名前に不安がよぎる。 何処かで聞いた響きだ。 何処かの貴族にいなかったか?ファルなんとかって女…。 やばいな。 貴族の女が兄貴と付き合う利点が何処にもない。 そんな女、俺が蹴散らして……。 雨は夜半にようやく止んだ。 兄貴の熱は下がらず、腹の音も鳴りっぱなしだった。満足に物を食えたことなんて、あんまり記憶にねーけど。 一人の女の出現によって、俺たちの運命が音を立てて変化してゆく。 |
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