書評ケモノ道
十二
文/豊崎由美
とよざき・ゆみ
61年生まれのライター。某エンタメ系文芸誌の第一次選考で100編もの短編小説を読み、小説という文化がここまでナメられているのかと驚愕。書く前に読みなさい。

1995年、ニッポン書評界を揺るがすような大事件が起こったのを、皆さんご存じですか? 東大教養学部の助手時代に5万冊もの閉架蔵書の完璧な検索カードを、たった独りでコンピュータも使わずに作ってしまったという狂気の沙汰としか思えないエピソードで知られる、生きながら伝説と化した究極のマニエリスト、高山宏師の厚さ5センチを超える大著が刊行されたんであります。師の15年間に及ぶ書評をまとめたこの1冊がどれほど驚愕に値する書であるかは現物にあたって実感していただくとして、ブックレビュアーの末席を汚すわたしにとって心にしみたのは、実はこんなさりげない一言。
師曰く、「書評文化を溺愛する人のみが『展望』を得るのだ」。
書評が軽んじられるこの国では「ろくな書き手がいないから、書評のページなんて必要ない」「短評の場しか与えられないから人材が育たない」「そもそも小説家は書評を必要としていない」「優れた書評は小説家を育てる」など、立場によって異なる意見が流通しているのですが、いずれにしてもそうした水掛け論からは、高山師説くところの“展望”は生じ得ません。書物を愛し、惑溺し、錯乱し、時には愛ゆえの暴徒と化し、といった魂の強い揺らぎからしか実は怜悧な書評は生まれないのだし、長かろうが短かろうが、そうした書評しか他者の心を動かすことができないとあれば、軽んじられることに憤っている場合ではなく、まずは深く読め、そして深く愛せ、が書評家のあるべき姿勢でありましょう。粗筋紹介でお茶を濁したり、同じ言葉を4行に1回も反復して省みないような自己管理能力に欠けた書評(本紙ブンゲくんの生みの親、米光一成氏のHP「こどものもうそう」における日記1/21を参照していただければ、それが誰を指すのかは瞭然)が少なくなれば、書評文化を溺愛、とまではいかずとも信頼する読者も増えるというものでしょう。
さて、全書評家の性根を問うこの大切な書物を世に送り出してくれた自由国民社が、この時期精力的にその他の書評本を刊行してくれていたことも、書評愛好家なら覚えておくべきです。その1冊が、若島正氏の『乱視読者の冒険』。この人の書評を読むと、がっくりきてしまうのが常。学者のくせして、何でこんなに読んで面白いものが書けるのか。新聞で見かける、読む気を失わせるほどつまらない学者書評とは別次元。あえて浅学非才の自分なんかが書評せずとも……と、しばらくは立ち直れないほど憂鬱な気分に落ち込んでしまうわけです。
その続編ともいうべき『乱視読者の帰還』が、みすず書房から刊行されました。これまた前著以上に充実した内容になっております。専門分野であるナボコフを論じて最上の推理小説のような謎解きの妙に満ち、チャールズ・ウィルフォードという忘れられかけたパルプ・ノワール作家を取り上げて、かの作家の脱ジャンル化に成功し、クリスティの『そして誰もいなくなった』を再考して、驚愕の真犯人像を提示し話題を呼んだピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』(白水社)に匹敵する知的興奮を巻き起こし――。娯楽小説から主流小説まで、ジャンルを問わない雑食読書家ぶりが痛快な本なのです。
なかでも、その学者ばなれした芸の細やかさと面白さを伝えるのがキ章。ここで、若島氏はたった1000字弱で3冊の本を紹介するという困難に挑戦しています。皆さん、実はこの形式こそが書評家の力量をもっともよく示すんですよ。1000字という短い文章量の中で3冊の読み所を伝えるのはもちろん、紹介する文章の流れも自然で易しく、しかも書き手としての思考の芸もきちんと見せるというアクロバティックな筆さばき。「こんな読み方があったのか」と瞠目させられ、未読の本全てを読みたくなる。これぞ、書評! つまり、長さなんかが問題ではないのです、問われるべきは密度なのです、深さなのです。
高山師や若島氏以外にも、斎藤美奈子氏、風間賢二氏、坪内祐三氏、柴田元幸氏、青山南氏、関川夏央氏、川本三郎氏と、尊敬できる書評の書き手は多いのですが、詩や小説の実作者にも素晴らしい評者は多々存在いたします。高橋源一郎氏、村上春樹氏、堀江敏幸氏、丸谷才一氏、荒川洋治氏、池澤夏樹氏、佐藤亜紀氏の書評は、これまたブックレビュアーとして意気消沈してしまうほど鋭く、鮮やか。「たしかに、書評家なんて専門職は必要ないのかも」とすら思わされることもしばしばです。
そんな中、『パルタイ』や『スミヤキストQの冒険』『大人のための残酷童話』など、観念の毒をもって現実を超克する作品群で知られる倉橋由美子氏が、久しぶりの新著『あたりまえのこと』を上梓して話題になっています。77年から79年にかけて発表した「小説論ノート」と、約20年後に書かれた「小説を楽しむための小説読本」が収められているのですが、これがもうア然とするほど厳しい筆致なんであります。ここで倉橋氏が展開しているのはあくまでも小説論であり、書評ではないのですが、「今日では評論家にかわって批評を行うのは市場である」など、作家のみならず書評に携わる人間にも手厳しい箴言がちりばめられているので、ぜひともこの欄で紹介したいと思った次第。残念ながら今回の紙幅は尽きつつありますので、詳しくは次回に譲ろうと思いますが、しかし、皆さん、わたしの紹介なんかまたず、まずは早々にご一読下さい。あまりに身も蓋もない物言いの頻発に、ギョッとするのを通り越してヒステリックに笑い出してしまうほどですから。志賀直哉ですら、小説内における女性観を「文学的求道者をもって任じているような男は、賢い女と組んで知的ダンスが踊れるだけの知的運動神経を持ち合わさず、女を理解できない分を女の愚鈍さということで埋め合わせて満足していられる程度の幼稚な精神の持ち主で」と、けちょんけちょんな言われよう。批評対象は主流小説にとどまらず、エンターテインメント系作品にも及び――。と、今回はここまで。続きは次号にて紹介いたします。

●辛口書評で知られるトヨザキ社長が思いのタケを吐き出しまくって大人気。

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