酒場の中に一歩入って、ナミは不意に歩みを止めた。すぐ後ろから続いたゾロは、そんなナミにぶつかりかけてたたらを踏んだ。
「……急に止まるな」
不機嫌さも手伝って、片手でナミの背中を押す。やわらかく薄いその背が、ゾロの手の下でびくり、と震えた。ゾロは背中から手を離し、オレンジ色のひょこんと跳ねた後ろ髪を、黙って見下ろした。
何事もなかったかのように、焦げ茶の眼が振り返り、「うるさいわね」とゾロを睨む。ナミお気に入りの、踵の高い靴がかつんかつんと音を立てて、カウンターに向かって歩き出した。あの靴でどうやって普通に歩いていられるのか。それは仲間の男たちにとって、共通の疑問に違いなかった。
目当ての紙とインクが、思ったよりも安かったらしく、ナミは随分と機嫌が良かった。荷物持ちのゾロに、一杯奢ると言い出したほどだ。もっとも、ゾロの両手と両肩と、ついでに首から掛けられた紙袋や包みの量を見れば、一杯どころか食事のひとつも奢るべきだ、と大抵の人間が思ったことだろう。悲しいことに、ゾロはナミの思考に慣れ過ぎていたので、奢ると言われて素直に喜んだ。餌付けされている自らの立場には、思い至らなかったらしい。かつて刀一振りで数百万ベリーを稼いだ「海賊狩り」にしては、餌の値段があまりにも安すぎるということにも。
カウンターの隅に、並んで腰を下ろす。好きで隅を選んだのではない。荷物を置く場所が他になかったからだ。
「ラム」
店主がグラスを取る前に、ゾロはきっぱりと言った。
「ジョッキで」
同じ一杯なら、グラスよりジョッキがいいに決まっている。そんなゾロに、ナミはため息をついた。
「みっともない真似するんじゃないわよ」
「うるせェ、おれの勝手だ。ジョッキなら奢らないとか言うんじゃねェだろうな」
「言わないわよ。『約束』だもん」
「よし」
満足げにゾロは鼻で笑う。仕方ないわね、と言いたげに、ナミも小さく笑った。
ラム酒のジョッキがゾロの前に突き出される。ナミは甘い果実酒を頼んでいた。グラスの中の、ルビーのような赤が美しい。蒸留酒で酒精強化されているから、見かけによらずアルコール度数も高いものだった。
簡単なつまみも、ナミの前には出されている。美人とは得な生き物だ。
「……フードを取ったらどうだい、お客さん」
そう店主に声をかけられて、ゾロは自分が目深にかぶったフードの淵を、指で軽くひっぱってみせた。
「おれもそうしてェんだが、こいつが取るなとよ」
「気にしないで。見せるほどの顔でもないのよ」
愛想良く笑ってナミは言った。ゾロは特に文句を言うでもなく、ジョッキに口をつけた。酒さえ飲めれば、大抵のことには文句を言わない男だ。それに酒場の壁に貼られた手配書の中にはしっかりと、麦わら一味、計一億六千万の顔写真が並んで貼り出されていた。まだ一味と一般に知られぬロビンのものは、ちょっと見当たらない。20年前の賞金首だ。目新しい手配書の下に、隠れてしまっているのだろう。
腹巻は長衣の下、刀は和道一文字以外を袋にしまい、緑の髪はフードの奥。これだけでもう、「海賊狩り」は消えうせる。そこにいるのは、グランドラインの海賊たちの基準で言えばさほど長身というわけですらない、ただの寡黙な酒飲みだ。実に美味そうに呑んでくれるから、酒にも、酒場の主にも、嫌われることは滅多にない。
フードからほの見える横顔を、グラスを弄びながらナミが眺める。だがその背中に、無遠慮な声がかけられた。
「よーぅ……誰かと思えばナミじゃねぇか」
予想していたのだろう。ナミの表情は変わらない。ゾロは肩越しに声の主を見て、それからナミに視線を向けた。
「知り合いか」
「昔のね。……あら、ご健勝で何よりね、ネゴス」
ネゴス。その名と、肩越しに見た大男の顔を、ゾロは酒場の壁のひとつに見た。賞金額は3600万ベリー。それ以上の情報は、薄暗い酒場の遠い壁では確認できなかった。
ゾロはナミより奥に座っているので、ネゴスというその男から、フードの奥の顔は見えていないだろう。ゾロはさほど興味もなさげにまた、ジョッキを持ち上げた。
「そいつが今の男か? ひょろい兄ちゃんじゃねえか」
ゾロのジョッキが宙で止まった。一瞬後、何事もなかったかのように、ジョッキは口元に運ばれた。ナミはゾロが、「今の」男、という言葉を聞いた瞬間に動きを止めたのだと気づいた。ひどく好戦的な気分が、ナミの全身に一瞬で満ちた。
「そうよ。あたしの男」
「おいナミ、」
「あんたは黙ってて」
尖った声でナミは、ゾロの反論を封じた。ゾロは不満そうにジョッキを空けると、「もう一杯呑むぜ」と脅すように言った。こいつあたしのこと脅迫しやがったわね、と忌々しく思いながらも、それで要求するのが酒の一杯だけかと思えば、ナミの心の棘はわずかに先が丸くなった。
「同じの、あげて」
店主にそう言ってゾロを視線で差し、ナミはスツールの上で、くるりと綺麗に身体の向きを変えた。隣に座っている男は、ナミに命を預け、ナミの命を護る男だ。ナミの男だと言って何が悪いだろう。もちろん、サンジもルフィもウソップもチョッパーも、ナミの男だ。ちなみにその論法で行くと、ロビンはナミの女になる。
ネゴスの狡猾な、蛇のように細められた両眼。ナミにとっては一瞬たりとて、好もしく思ったことなどない男だった。それでも昔の「男」だった。ナミは女としての自分が美しいことを知っていたし、海賊専門の泥棒を続けている間は、それを利用することにためらいもなかった。
「お互い、相手が生きてて意外、ってとこだな」
「あたしはそうでもないわ。情婦を敵に差し出してまでして、逃げた男よ? それで死んでたらよっぽどのバカでしょ」
ナミの小気味良い皮肉に、ゾロはまた鼻で笑った。先ほどのように楽しげな笑いではなかったが。
「おれは意外だったぜ。逃げおおせて宝箱を開けてみりゃ、上物の宝石ばっかりが綺麗に消えてやがるのを見た時にはな」
「あら、どこの泥棒猫に盗られたのかしらね」
「ったく……」
呆れたようにゾロがつぶやいた。その声に嫌悪が含まれていないのを確認してから、ナミはほっとしている自分を心の底から忌々しく思った。
ココヤシ村を救うための金。悪党を騙し、身体でも何でも使えるものはすべて使って、巻き上げ、盗み、手に入れた金。それを恥じたことなど、一度もない。海賊なんてみんな死ねばいい! 宝石を鷲掴みにしてそう高々と笑い、ノジコに抱きしめられて泣いた日々。恥じるもんか、と歯軋りをする思いで誓い続けたのだ。
……それでも、この男には、
そしてナミの操る羊船の上で、朗らかに笑うあの仲間たちには。
決して知られたくないことだって、あった。
「相変わらず可愛い女だな、ナミよ」
せせら笑ってみせる男、だがその目元が癇癪を起こして痙攣している。ナミは店内に視線を走らせた。もともと、海賊としてより商人としての才覚の高い男だった。あの「白猟のスモーカー」の眼を盗んでグランドラインに入るには、かなり気前良く金をばら撒かなければならなかっただろう。逆に言えば、「あの頃」よりもそれだけ集金力がついたということだ。そ知らぬ顔をしてみせているが、この店の中にも護衛をもぐりこませているに違いない。
ナミの警戒を知ってか知らずしてか、片方の瞼を神経質に引きつらせたまま、男はいかにも楽しげに言う。
「どうだ、ひさしぶりにカードでもしねえか? お前は昔っから強かったよなぁ、ナミよ」
「カード?」
獲物に舌なめずりをする獣のように、ナミは猫なで声を出した。
「あたしにカードで勝負しようっての、ネゴス?」
「おれもちったぁ強くなったんだぜ?」
「いいわ」
「おい、ナミ……」
面倒くさげに口を開きかけたゾロの、目の前のカウンターにナミは金貨を一枚叩きつけた。
「おとなしく呑んでらっしゃいな」
口出しなんて許さない。そう言いたげに笑ってみせた、ナミの手が興奮に震えている。それをちらりと見てゾロは、黙って、金貨を店主に投げた。


「あら、またあたしの勝ちみたいね」
テーブルに二人向かい合って、ナミは優雅に脚を組み替えた。ついでに、胸を押し上げるように腕も組む。机の上に投げ出したスリーカードから、形良く盛り上がったその胸に、ネゴスの視線が移って這った。
ナミが適当に――その実、ネゴスの手下であろう客は巧妙に外して――指名した客が、カードを切り、オーソドックスなポーカーでの勝負は続いていた。ナミの前にはベリー札や金貨がくしゃくしゃと積み上げられている。ネゴスはさすがに大金を持ち歩いていた。すでに200万ベリー近い額が、ナミの手元に引き寄せられている。
ひっきりなしに貧乏ゆすりをする男を、ナミは変わらぬ微笑の下で嘲った。後から冷静になって考えれば、あきらかに、いい気になっていた。だからナミは、ネゴスの手下が近寄って「おかしら、そろそろ船に……」と言った時も、逃げるのね、と声を立てずに笑うだけで特に怪しむことはしなかった。
「もうそんな時間か」
舌打ちをしてネゴスは、ナミの手元の札の山を未練げに睨んだ。
「そろそろお開きかしら、ネゴス?」
「昔のよしみだ、もうひと勝負ぐらいしてくれたっていいだろう」
「あらでも、もう時間がないんでしょう?」
「ひと勝負だけだ。パスなし、金額も天井なしってことでどうだ」
「天井なし?」
上限なし、ということだ。ナミは眼を血走らせている男を一瞥した。醜い男だ。あの頃と――ナミを捨て駒にしようとしたあの頃と、ちっとも変わらない。
「配ってくれる?」
ナミは甘い声で、見守る客にチップを渡した。気おされたように頷いて、客はカードを切り始める。
配られた5枚のカードを無表情に見て、ナミは黙ってそのカードを伏せた。
「あの、交換は……」
「いらないわ」
無造作に言い捨てると、敵手をじっと見つめる。ひったくるように三枚のカードを奪ったネゴスは、引きつったように笑った。
あの日宝石を握りしめた、血まみれの自分の手を思い出す。
――全部搾り取ってやる。
ナミは札の山から、10万ベリーを中央に向けて押しやった。
「レイズ」
3倍の額が積み上げられる。
「強気ね、ネゴス?」
「お前もな、ナミよ」
ネゴスの手元に、現金は大して残っていない。じゃらじゃらとつけている装飾品を積んできたら、片っ端から買い叩いてやる。ナミは小さく欠伸をしてみせると、札の山にひょいと100万ベリーを足した。
「レイズ」
「……レイズ」
手持ちの現金をすべてかき集め、純金のネックレスとエメラルドの指輪を男は札の山に乗せた。
「全部で200万ってところかしら?」
「まだあるぜ」
黄金作りの短剣。あの美しい白鞘の刀に比べて、それは何と見掛け倒しな存在だろう。ナミは上品に笑った。
「250万ベリーがせいぜいね」
「お前の金はかき集めても200万ってとこだな、ナミよ?」
「そうね、でも」
ナミは胸元に手を差し入れると、谷間から、ロビンから貰ったダイヤの立爪リングを取り出した。
「これには、100万の価値があると思うわ、ネゴス。今ならあたしのぬくもりつき。レイズよ」
店中の視線が集まっている。ナミはクリマ・タクトに、もう片方の手を這わせた。万が一、この金を狙って襲ってくる者でもいたら、その時は自分の身を守らなくてはならない。
眼前の大男の顔が歪んだ。ナミが勝ちを確信した瞬間だった。


「……いいのかい兄さん。あの娘、負けるぜ」
出された串をくわえたまま、壁の手配書を眺めている剣士に、店主は低く声をかけた。
返事の代わりにゆっくりと立ち上がり、剣士は壁に歩み寄ると、一枚の手配書に手を掛けた。
「荷物、見といてもらえるか」
「そりゃいいが、あんた、金は……」
壁から手配書を破り取り、剣士は今度は、己のフードに手を掛けた。
店中の誰も気づかなかったが、親父だけが息を呑み、ひとつの名を小さく呟いた。


ひ、ひ、ひ……と、すすり泣くような声がネゴスの口から漏れ出した。
ナミがかすかに眉をひそめた瞬間、
「レイズだぜ、ナミよ」
先ほどまでの引きつった声とはがらりと変わった、低くドスの効かせた声で男は宣言した。
指輪をすべて取りはらった手が、ゆっくりと振られる。ひとりの男が背後からその手に、袋をひとつ提げさせた。
「ちょうど商談帰りでなぁ……大した取引じゃあねえんだが、お前にはいい金額だろう」
袋の口が開かれ、どさどさと札束の机に落ちる様を、ナミはただ、絶句して眺めているだけだった。
「即金で3000万」
テーブルいっぱいの札束の向こうで、男の笑いが歪んでいる。ナミは己の迂闊さを呪った。
「下りる、たぁ言わねえよな、ナミよ……大事なダイヤの指輪もおじゃんだぜ。そこでひとつ相談だが」
その歪んだ笑いのまま、男はわざとらしく声を低めた。
「お前の男は随分と、不釣合いなもん腰に差してるじゃねえか。あれをちょっとここに載せてやりゃあいい。そうすりゃあ、お前の指輪にそこの200万を、そのままつけて返してやる」
「……なんですって……?」
力ないナミの声は不吉な雷鳴をはらんでいたが、ネゴスがそれに気づいた様子はなかった。
「どうせまた裏切るつもりなんだろう、ナミ。それなら今裏切っちまえばいいじゃねえか。なぁ?」
「あの、刀を……あいつを売る、ですって……?」
『中途半端な覚悟で、』
太陽のように笑う、彼女の王。その声が彼女の鼓膜を叩く。
『海賊を相手にしようとするから、そうなるんだ』
覚悟って何よ、人を簡単に殺してみせることがそうなの? それが、海賊の覚悟……?
『違う』
ナミはゆっくりと顔を伏せた。その唇が作った笑みは、ネゴスが思っていたほど暗いものではなかった。
「相変わらず、ばかな男ね、ネゴス」
低い声でナミは囁いた。あげられた顔、オレンジ色の髪によく合う焦茶の眼は、ぎらぎらとした熾火をはらんで燃えていた。
「賭けるものはまだあるのよ。あたしは女だもの。三千万の価値はある、海図を描き船を進める美人の女よ」
あの白鞘は、ゾロが抱いて寝る恋女房。
黒き死神の黒き刃からゾロを護り、壊れなかった唯一の刀。
……ナミの男を、護ってくれた大切な子。


ナミは札束の山の一番上に、己の右手を――彼女の夢を紡ぐ右手を、ゆっくりと置いた。
綺麗に口紅を塗った、女の唇が静かに開く。
『自分の命を、賭ける覚悟だ!』
「賭けるのは、あたしの――」
「レイズ」


ナミの右手、その甲の上に、一枚の手配書が置かれていた。


ネゴスの視線がナミの頭上をさまよい、最大限まで見開かれた。
ナミの手を守る手配書に、映っているのは血を流して空を睨むひとりの剣士。
賞金額6000万ベリー。
生死問わず。


「海賊狩りの、ロロノア・ゾロ……」


振り返るナミの頭上、
フードを落とし、片方の肩に赤鞘と黒鞘の刀を担ぎ、緑の髪の剣士が赤く透ける眼で、男を静かに睥睨していた。