「持ってこないのか」
ややかすれて聞こえる独特の、ナミも嫌いではない、あの低い声だった。
「な、なにを、」
「てめェの手配書だよ、ネゴス」
魔獣はナミの肩越しに手を伸ばし、ナミの手の上に手配書を置いたその格好のまま、ナミの昔の男を覗き込んでいる。
「3600万ベリーだってな。足せば、レイズできるんだぜ」
ナミの手の下にあるのは、200万の現金と100万相当のダイヤ。ナミの手の上にあるのは、6000万の賞金首。
そしてその対面に積まれているのは、3000万の現金と、計300万相当の宝石と現金。
6300万対、3300万。
「てめェの命を賭けてみろ、って言ってんだよ。おれの首が、欲しかァねェのか」
すごんでいるという意識すらないだろう。ごく当たり前に、ゾロはそう尋ねた。
テーブルがカタカタと揺れるほどに、それを掴んだネゴスの手も震えている。
「……おれの手配書、持ってこい」
「お、おかしら」
「黙ってろ! こいつらにゃもうびた一文ねえ!」
「ですがおかしら、ロロノア・ゾロって言やぁあの……麦わらの!」
ひっ、と店中が息を呑んだ。ナミのうなじのすぐ後ろ、息がかかるほど間近でゾロの、おかしげに笑う気配があった。
「ばれたか」
ナミの手元、伏せられたカードの上に、畳まれた手配書が一枚、落ちる。
ネゴスが己の命を上積みすれば、さらに1億のレイズをかけるつもりだったというのか。
「て、て、て、てめぇ」
「……そのみっともねェ札束」
優しい声で、海賊狩りは牙を剥いて笑った。
「しまって自分の船に帰りな。……おれの船長は、仲間に手を出す奴を容赦しちゃくれねェぜ」
「ナミ、てめぇ、……てめぇ麦わらの……」
「帰るぞ、ナミ」
もはや長衣の必要すら認めないと、ゾロはそれを脱ぎ捨ててナミに投げつけ、着慣れた三刀流のスタイルを取り戻した。
どさりと重い長衣を受け止めて、ナミはよろける。
「最後の勝負はお流れだ。それ以外の金は、持って帰れ」
長衣を風呂敷代わりにつつめ、ということなのだろう。3000万が目の前に転がっていながら、ナミはうつむいたまま一言も、逆らう様子がなかった。
とても勝者とは思えぬ手つきで、のろのろと、畳んだ長衣の中に札束と金貨を放り込む。ロビンのくれた宝石は、元通り胸元にしまった。
長衣を丸めようとして、ゾロの手がそれを押さえる。
「……ゾロ?」
「これも」
6000万の手配書と、畳まれたままの1億の手配書が、現金の一番上に添えられる。
「持って帰れ」
お前のだ、という言葉を聞いたのは、きっと耳元に囁かれたナミだけだったのだろう。
ぐ、と咽喉から競りあがるものを、ナミは力任せに飲み込んでこらえた。ぼやけかける視界を必死で見開く。
背を押されて、長衣の包みを抱きしめたまま、外に出る。
何事もなかったかのように、山のように荷物を抱えて、彼女の、……彼女たちの大事な魔獣もまた、「ごっそさん」と店を後にした。
帰り道の沈黙が痛かった。ナミはきつく歯を噛み締めたまま、少し先の地面だけを見て歩いた。
ゾロに言わなければならない言葉があった。だが、口を開くのが今はつらかった。
視界の端に、なぜかひどくなつかしく感じるものが――羊の船が映る。
ほぼ同時に、
「ナーミさぁーーーーん!」
港にこだまする勢いで、明るい青年の声が響き渡った。
反射的にナミは、顔をあげてしまう。
船べりから身を乗り出す金髪の青年が、ハートの紫煙をたちのぼらせながら、「おかえりーーー!」と手を振っている。
胸にかけているのは、アップリケつきの愛らしい、ピンクのエプロン。
満面の笑顔がふっとかげり、すぐに、彼女に過保護な料理人は船べりの上に飛び乗った。
「ナミさん、どうしたの?」
きっと今のナミは、ひどい顔をしているだろう。そしてゾロは、確かに着ていったはずの長衣をナミに持たせ、三刀流で帰ってきている。
バターや小麦粉の匂いをしみつかせて、一流の料理人のくせにかわいいエプロンなんかつけて、おろおろ心配する姿なんてまるでお母さんみたい、そう思って笑いかけた時、ナミの視界は勝手にぼやけた。
戻ってきたのだ、という安堵か、それともピンクのエプロンのあまりの優しさか。
「ふぇ…」
情けない声がこぼれ、涙もこぼれはじめる。
「ナッ……ナナナナナナミさんっ!」
ここで力強く抱きしめればよいものを、サンジは万歳の格好で固まったまま、すっかりうろたえて「泣かないでよ〜」と自分まで泣き声を出している。
だが、それでもサンジがナミを引き寄せ、船に連れて行こうと抱き上げかけた時、
「甘やかすンじゃねェッ!」
叩きつけるようにゾロが叱咤した。ひくっ、としゃくりあげるような音を立てて、ナミの涙が止まる。
「なっ……」
驚きと怒りに青ざめて、それでもサンジはナミを後ろにかばった。
「何様だよてめェ……ナミさん泣かせて帰ってきて、何が甘やかすなだ!」
「うるせェ、事情も知らずに口を出すな!」
「何だとォ!」
怒りにわなわな震える唇で、紙巻の煙草を噛み切った瞬間には既に、サンジは宙に身を躍らせかけていた。
「待て、サンジ!」
有無を言わさぬ強さで、船べりから更に声が降って来る。
「止めるなルフィ!」
「船長命令だ!」
言い張るルフィにぎくり、と、それでも身体の動きを止めて振り返り、サンジは眦を裂く勢いでルフィを睨み上げた。
麦わらの下の影の奥、黒の両眼が輝いている。
「どっちが悪ィんだ、ナミ」
泣き声をこらえ、口をへの字に曲げたまま、それでもナミは、彼女の船長を見上げた。ルフィはそれだけで頷いてくれた。
「じゃあ、ゾロに謝れ」
名前が出て、ゾロはなんとも不機嫌そうな――仲間には「きまり悪がっている」とわかる表情で、視線を逸らした。
ぐい、とナミは涙を拭く。こんなところで泣き出すなんて、「男の子」に対して卑怯な振る舞いだ、と自覚はナミにもあった。だから眼に力を入れて、息さえ止めてこらえて、ナミはほとんど睨みつける勢いでゾロを見上げた。
「ゾロ」
「……おう」
「ごめんなさい」
「いや」
この手のやりとりがよほど苦手なのだろう。乱暴な子供だっただろうから、小さな頃から「女の子」に泣かれておたおたしてきたのかもしれない。しばらく眼を逸らしていたゾロは、やがて覚悟を決めたようにナミを正面から見返した。
「お前が無事で良かった」
「お……おま、おまえ、……おまええぇぇっ!」
焦りのあまり裏返った声で、サンジがぎくしゃくとゾロを見る。
「おれのせいか!?」
ゾロはよほど困惑したのか、よりによって一番混乱しているサンジに向かって、「お前なんとかしろよ」と身振りでナミを指差した。無理、無理! とサンジが必死で両手を振ってみせる。
ああ、困らせている、あたしは最低の女だ……そう思いながらも涙を止めることができず、ナミは本格的にしゃくりあげ始めた。
「ゾロ、お前、ちゃんと仲直りしろよ。おれが風車のおっさんに殺されるだろ」
船べりの上にしゃがみ込んで、ルフィがこれ見よがしにため息をつく。その横をひょい、と黒い人影が身軽に飛び越えた。
「コックさん、私たちの夕食は外で食べていいかしら? 後で取りに行くわ」
地面から生やした手で軟着陸に成功したロビンが、そうやんわりとサンジに微笑みかける。夕食、の一言でプロ意識が戻ったのだろう、サンジは「ああ!」と気づいたように頷いた。
「わかった、日没前にできあがるよ。ええと……ごめんね、ロビンちゃん」
視線だけでナミを差して、「頼むよ」と拝むそぶりをしてみせる。ぶすっ、とゾロがそっぽを向いて、荷物を抱えたまま縄梯子をのぼりはじめた。
そんなゾロにがみがみ言いながらも、サンジもまた、ひょい、と見事な跳躍力で船べりに飛び乗った。さっそくルフィが「メシか?」とサンジにまとわりつく。
「ウソップ、ナミは泣いてるのか」
不安そうに尋ねたのはチョッパーだ。甲板のウソップ工場で、ウソップは黙々と――ありえないほどに黙々と、作業を続けていた。チョッパーはその横にちょこんと座っていたが、見に行こうとしたのをウソップは押しとどめたのだ。
「ナミだって、おれらとそう年の変わらない女だろ。泣きたい時だってあると思うぜ」
ウソップはドライバーを操りながら、カラクリを覗き込んだまま答える。
「行かなくていいのかな」
「おれがナミだったら、年下のガキに、泣いてるとこは見られたかねぇよ」
ウソップはため息をついて、長い鼻をグニグニとこすった。ウソップだって、海の男の「センパイ」として、チョッパーに格好悪いところなどは見せたくない。
「ただな、チョッパー。泣いてる女を笑わせてやるのは、男の仕事だとおれは思うぜ」
故郷の、ウソップが懸命に笑わせてきた女たちを思い出したのか。ウソップの声が少し湿っぽくなる。
「じゃあ、男を笑わせるのは誰なんだ?」
「女の笑顔に決まってんだろ」
その言葉はウソップの口から発せられたものではなかった。くわえ煙草のコックがウソップの背後に立ち、ひょいと二人を覗き込んでいた。
「おいおい、おいしいとこばっかり持ってくな! それにウソップ工場は火気厳禁だー!」
「へェへェ、失礼しやした。チョッパー、ロビンちゃんから言われたら、一応ナミさんの診察頼むな」
「うん、おれ笑わせるぞ!」
「おう、がんばれよ」
言ってから、ちょっと違う気もするぞ、と首を傾げたものの、結局サンジはそのままキッチンに入っていった。仏頂面のゾロは、後方甲板に消えていく。
ナミを女部屋まで送ってから、ロビンは空いた盆を持って会議室へと向かった。階段をかつ、こつ、と上るうちに、知らず、小さな吐息が漏れる。
――何か役に立てたのかしら、私は。
10歳も年下の、泣いている少女を慰めるなど、28年の経験でも初めてのことだった。普通に少女時代を送っていれば嫌でも体験したであろうことを、闇の中を駆けつづけてきたロビンは何一つ経験していないのだった。
だからロビンは男どもが全員船に引っ込んだ後も、しゃがみこんで泣きじゃくるナミの目の前で、手持ち無沙汰に突っ立っていただけだった。ナミの泣き声が少しずつ落ち着いてきたので、とりあえず声をかけようと思った。だがどんな言葉をかければ良いのかがまったくわからず、
「ごめんなさいね」
などととりあえず謝ってみてしまったのだ。
真っ赤に泣きはらした眼を覗かせて、この期に及んで立ったままのロビンを、ナミは見上げる。仕方なくロビンは正直に言った。
「あなたを、どう慰めたらいいかわからないの。慰める気持ちは、私なりに持っているのだけれど」
すん、すん、と鼻を鳴らしながら、ナミはきょとんとロビンを見上げている。ひとつ自分にできることを思いついて、ロビンはかがむとハンカチを差し出した。
「良かったら、使って頂戴」
「……」
ナミはそれでもロビンを見上げていたが、やがて、鼻を真っ赤にした顔のままで、あどけなく、小さく笑った。
「航海士さん?」
「ロビンって、かわいい」
「え……?」
がらがらにかすれた鼻声でそう言われて、ロビンは眼をまたたいた。「ありがと」とナミはロビンからハンカチを受け取って、遠慮がちに眼をこすった。
「あまりこすらない方がいいわ。腫れるから」
「もう手遅れよ。ねぇ、ロビン」
しゃがみっぱなしで脚が疲れたのだろう、よろよろと立ち上がって、ナミは少し恥ずかしそうに、また笑った。
「なにかしら」
「何があったか、あたしの話、聞いてくれる? それがすっごい慰めになる気がするの、今は」
「勿論よ。でも……」
ロビンは船べりの方角を見上げた。太陽は既に没しようとしている。判然としない視界の中で、金の反射光がちらちらと揺れていた。
「……食事をしながらにしましょうか。二人で、甲板で食べるのも素敵だと思うわ」
『ねぇ、コックさん?』
口だけを、船べりに咲かせてそう囁く。びくっ! と船べりのあたりで怯えるように光が揺れ、そして、ばたばたとキッチンに戻っていったのだ……
「……ふふ」
思い出し笑いをすると、盆の上のフォークがかたん、と落ちかけた。生やした手でそれをきちんと戻し、ロビンは会議室の扉の前に音もなく立った。
大テーブルでは、19歳二人が小声で口論を続けているらしい。
『……だからさ、ナミさんは女の子なんだよ。まだ18歳の』
『それがどうしたよ』
『甘やかすなってほうが無理だろ! こんな過酷な環境だし、ナミさんの肩にはおれらの命が乗ってるんだぞ』
『おれにナミを甘やかせって言いたいのかよ』
『お前に甘やかせとは言わねェよ。けどおれが甘やかすのまで口出しすんな、ってことだ!』
――年頃の娘を甘やかしたくない父親と、つい口を出してしまう母親の会話ね。
経験はないが、ロビンにも何となくそのあたりの機微は理解できた。それでも、このままでは話が堂々巡りになることは必至だろう。ロビンはこんこん、と扉をノックしてすぐに開いた。
エプロン姿のサンジが流し台に腰を預け、いつものスタイルのゾロがどっかりと大テーブルの椅子に座り、机の上には酒の瓶と木のジョッキ、そしてつまみが並んでいる。何て典型的な家庭の風景かしら、とロビンはしみじみと感慨にふけった。
「あ、ロビンちゃん……」
「ごめんよ」と慌てて盆を引き取り、流し台に食器を移しながら、サンジはそわそわとロビンをうかがう。ゾロは椅子に腰を落としたまま、ぶすっ、と前だけを向いて動かない。
「あのさ、もし怪我とか、どっか痛いとかだったらと思って、チョッパー……」
「ああ、そういうことではないそうなのよ。……コーヒーいただけるかしら」
「喜んで!」
即答してサンジは跳ね回る。ロビンは敢えて、ゾロの向かいの席の椅子を引くと腰掛けた。
「おいしそうね、一口いただいても?」
「別におれのじゃねェ」
「そう」
いただきます、と言うが早いか、ロビンの目の前には小皿とフォークが並んでいる。
「ありがとうコックさん。女同士で甲板で食事というのも、たまにはいいものね」
「楽しんでもらえたんなら、おれも嬉しいけど」
「航海士さんも私も、とても楽しんだわ。いろんなお話をしたの」
「そ、そう……」
少しほっとしたように、サンジはへろりと微笑する。ゾロは黙ってジョッキを空けた。
「ねぇ、剣士さん」
山椒と玉葱を巻いたサーモンを、上品にフォークでつついてロビンは微笑した。呼ばれてゾロが視線を向ける。
「航海士さんは、怖かったのね。ほっとして泣いてしまったみたい」
「そりゃ怖ェだろうよ」
「自分の身体に危険が及んだからじゃないわ。……あなたの夢を、奪ってしまいそうになったからよ」
手酌で瓶からジョッキに再び酒を移し、一口飲み終えてから、ゾロは低い声で言った。
「ちっとも変わっちゃいねェな」
「航海士さんが?」
「『人一人見殺しにできねェ小物が』」
何かを思い出すように、その低くかすれがちの声でゾロはつぶやく。
「……そんな小物が、命切り売りしてゲームなんてするもんじゃねェ」
サンジは洗い物の手を休めない。背を向けたまま、実直に作業を続けて何も言わなかった。
「航海士さんに、あなたの命を賭けることなんてできないわ」
「おれたちは海賊だぜ」
「そうね」
「――おれにも」
背を向けたまま、硬い声でサンジが不意に吐き捨てた。
「おれにも、できねェ。何でもかんでも、自分の基準でものを言うな」
しん、と静まった会議室に、ただ、黙々と食器を洗い続ける音だけが響いた。
「……ンなこたァ、わかってる」
ぐい! と再びジョッキが空けられる。机の上に置かれる音は、不必要に大きかったかもしれない。
「見殺しにできねェ奴だから。一緒に命を賭けるんだろうが」
つまみが残っているのに出て行くなど、滅多にすることではなかった。扉に向かうその背中に向けて、ロビンは優しい声をかけた。
「あなたも」
とってに掛けられた手が止まる。
「……あなたも、航海士さんを奪われるのが、怖かったのね。
それで、勝負に手を出してしまった」
沈黙がすべてを雄弁に語り。
そして剣士の姿は扉の向こうに消えた。
「……物騒な奴でごめんね、ロビンちゃん」
「どうしてあなたが謝るの?」
「え、」
「私もあなたと同じ、彼の『仲間』。……そうなのよね?」
「あ、う、うん」
少し口ごもってから、サンジは素直に頭を下げた。
「ごめん。おれ、今、他人行儀な感じだった」
「いいえ」
優しく眼前に置かれたコーヒーカップを手に取り、口に運ぶ。既に好みを把握されたその味は、ロビンの胃と胸をあたためた。
「『人一人見殺しに』……なんて」
コーヒーカップの底の、濁った黒に向けてロビンはつぶやいた。
「いつのまにか、できなくなっているものなのね……」
「ゾロのこと?」
皿を拭きながら、サンジは眼を細める。
「そうね、剣士さんも……」
ロビンは言いかけたひとつの単語を飲み込み、ただ、おだやかにサンジに笑いかけた。
――剣士さんも……私も。
きっと私は、じきにひどい死を迎えるだろう。ロビンはそう思う。
何千人と見殺しにしてためらいのなかった自分が、今はたった六人の命を喪うことに怯えているのだ。
でもその死の瞬間に思い出すのが、この優しいコーヒーの味や、泣きはらした焦茶の眼の微笑だというなら、それは何て素敵な生涯なのだろう……
「……ロビンちゃん?」
「少し、眠くなってしまったわ」
甘えるようにロビンは囁いた。そう言い訳をしないと、可愛い航海士の涙がわけもなく伝染してしまいそうだった。
「そう」
それ以上は聞かず、サンジは布巾と食器の奏でる優しい音を、控えめにロビンに聞かせつづけた。