また寝台から落ちかけて、サンジは不意に覚醒した。物心ついた時から船に揺られてきた身にとって、揺れない寝台はかえって落下しやすいものらしかった。
昨日は、ベッドから落ちても気づかず眠り続けていた。身体が陸に慣れてきたのか、それとも他に何か気がかりがあるのか……重症の身体は意識に出遅れ、サンジはようやく眼球だけをぎょろりと動かし、仰向けのまま広大な部屋を見渡した。
彼の愛しいレディたち――ナミとビビは、この揺れなさの中でも行儀よく身体を伸ばして眠っている。サンジが寝つく前のビビは、確か船長につきっきりだったはずだ。おそらくチョッパーと交替したのだろう。あの小さな身体のどこに、と驚くほどにここ数日の船医殿はタフだった。昨日の昼間も、ゾロの大規模な縫合手術を行ったばかりだというのに、今夜は今夜で、いまだ目覚めぬ船長の隣で寝ずの番だ。
――変わってやろうか、チョッパー。
そう言おうとして、サンジは右半身がベッドからこぼれかけた体勢のまま、首をひねって左側に視線を転じた。
サンジの寝台の右隣はチョッパーで、左隣はゾロだ。だが、右隣だけではなく左隣にも、人の姿はなかった。あいつ落ちたのか、と寝返りをうちかけて身体はぎくりと固まった。
空の寝台の向こう、彼らの船長が寝ているべき場所……その枕元に、ぼう、と白い霞が見えたのだ。
剣士の寝台と船長の寝台の間に、その白い影はほのかな光を放っている。陽炎のような揺らぎを立ち上らせる、それがいったい何なのか、サンジの視覚は判別することができなかった。輪郭さえ闇の中に白く熔け、ただ鬼気だけが燐のように真芯に燃えているのだった。
そして窓から冷たく忍び寄るのは、姿を見せた上弦の月――屍衣引きて彷徨う狂女に喩えられるその月光。
――おい、ちょっと待てよお前……
麻痺した舌と鈍い五感で、それでもサンジは声を上げた。上げたはずなのに、唇の外に出ればそれは微かな喘鳴に変じただけだった。
――お前……ルフィをどうするつもりだよ……それに、
精一杯に見開いた眼、その視線をサンジはゾロの寝台に這いまわさせる。寝息すら聞こえぬ剣士はいったいどこに消えたのか。
――ゾロ……ゾロをどうした……どこへやった……!
サンジへは背を向けているのだろう。鬼気放つ異形はその燐光を脈動させながら、サンジの視界の端に移る、寝台の黒髪に手を伸ばした。長く伸びる手足のせいか、意外なほど小さくすっきりとしたその頭。彼らの船長。心底に縋りつづける彼らの海賊旗――
――待て……待て……!
激痛の中で、サンジの喉はヒュウ、と異音をたてる。
手はゆっくりと引き戻され、サンジの視線の先で緩やかに白き異形は――
……緑の髪の剣士は、サンジを振り返った。
「ゾ、」
名を呼びかけてサンジの身体は再びの激痛によじれた。音もなく、あの筋肉の鎧の持ち主が嘘のように軽やかに、寝台をひとつ飛び越えて今度はサンジの枕元に立った。夜着として与えられた白い長衣が翻り、拒む間もなく力強い手は伸ばされた。
限界まで眼を見開いた、そのままの顔でサンジは浅く絶え絶えの息を繰り返す。伸ばされた片手が容赦なく、押さえつけるようにサンジの胸に当てられた。もう片手は起き上がることを封じるように、汗まみれの額を押さえつける。
「ガッ、」
「吸うな。吐け」
砕けた骨がぎしぎしと軋むが、百の命を一振りで奪うその手はサンジに呼吸を許さない。
「落ち着け。死にゃしねえ……」
混濁するサンジの意識がようやく、己の肋骨の損傷を思い出す。吐ききった息はでたらめな痙攣を終えて、ゆっくりと深い吸気に戻った。呼吸の仕方を忘れてしまっていたらしい。危うく子供のようにひきつけを起こすところだった己を、恥じる余裕もなくぐったりと寝台に沈み込む。
手を他人の汗に濡らしたまま、ゾロはサンジを見下ろして動かない。サンジもまた、どこか虚脱したようにただ、ゾロを見上げていた。
「お前、」
声がまだ出ない。息と、唇の動きだけでサンジは問う。
「お前……ルフィに何してた」
明るい陽光の元では赤みを帯びるゾロの瞳も、今は物静かな黒にしか見えない。その眼を意外げに開いてみせて、ゾロは「何も」と簡潔に答えた。だがすぐに言葉を継ぐ。サンジの怯えたような眼差しのことが、さすがに気になったものらしい。
「おい、何かされたのはおれの方だぜ。あいつ熱に浮かされて暴れやがった。チョッパーが仮眠に入ったってのに」
「……そう、か」
おそらくサンジが見た光景は、ゾロが何とかルフィを寝かしつけた、その後のことだったのだろう。
ゾロの両手はまだ、サンジの額と胸に置かれたままだった。お互い、発熱しているはずだった。だがおそらくは、ゾロの体温のほうが高いのだろう。腕に置かれた手が熱い。その熱さは人間の熱さで、置かれた手そのものもまた、サンジに何の危害を加えるというわけでもなかった。
――幽霊の正体なんとやら、だ。
霞のように燐光をまとう、異形などでは断じてない。サンジはそう、かたくなに思い込もうとした。
「何でもねえよ」と傍らからゾロを追いやって、サンジはゾロから――正確にはゾロと、ゾロが歩み寄るルフィから、眼をそらした。
理由のない怯えにどれほど脳が煮えていても、睡眠を求める身体は強制的に、サンジから意識を奪おうとする。
寝台にまっすぐに寝なおしたその身体が弛緩しはじめた頃に、サンジはゾロの声を聞いた。
『ルフィ』
きっとゾロは、先ほどのようにルフィの枕元に佇んでいるのだろう。あの白くかすむ燐気を発し、人ならざる者のように佇んで。
『ルフィ、おれぁ鉄を斬ったぜ』
おぼろに聞く台詞は、その内容さえ夢の中のように非現実的だった。
『ルフィ』
人ならざる者の手が、ルフィの額に当てられる様をサンジは夢うつつに想像した。
『早くお前に見せてえよ……船長』
鉄を斬った。
鉄の刀が鉄を斬った。
……ガレオン船を斬るように。
――ああ、幽霊なんざじゃねえ。
重く沈んでいく意識の、最後の欠片にサンジはうめく。
――こいつは……こいつらはもっと、恐ろしい生き物だ……
身ひとつで街を滅ぼす砂嵐の化生や、
指先で家を縦に割る剣の化生と、
こいつらは渡り合い、命を削り、死線の際さえ軽やかに飛んで、そして乗り越えて化生になったのだ。
「一皮剥けた」などという、生易しくもお綺麗な言葉ではとても飾ることができない、それは恐ろしい闇の進化。
発熱と疼痛で過敏になったサンジの視神経が、それを白き異形の姿と捉えて脳に送り込んだに違いなかった。
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はるか上空1万メートルから、ようやく帰ってきた放蕩息子たちを、あたたかく迎えてくれる程度には、海という存在も優しいものらしい。
疲弊しきった船と船員にはありがたいことに、夜の航海はすべるように穏やかに進んだ。
明日の支度をすべて終えて、サンジはゆっくりと瞳を閉じる。眠るように気配を鎮めて、キッチンの外の空気に意識を飛ばした。
何もわからない。ただ、研ぎ澄まされた聴覚が、規則正しく振られているバーベルの音を掴んだだけだ。
――やっぱりな。
瞳を元通りに開き、嘆息する。
アルバーナに雨が降った次の夜のことを、あれからサンジは幾度も思い出そうとした。だが朦朧としていた身体と意識で経験したことはまるで夢のように頼りなく、いつしかサンジは、あの時に自分が何を感じ取ったのかさえ、はっきりとは思い出せなくなっていた。
実際、ルフィとゾロが生死の淵からめきめきと這い上がってくるにつれて、ゾロの身体から感じたあの得体の知れない燐光は逆に、実に無害になりを潜めてしまったのだ。
サンジにはひとつ、思い当たることがあった。二人で酒杯を交わす見張りの夜、何かの折にふと、ゾロがアルバーナでの戦いのことを漏らしたのだ。
『死の境地ってやつを得た。二晩ほどは、余韻が抜けやしなかったな』
その「死の境地」にゾロは何かを掴み取り、人ならざる者の領域へと足を踏み込んだのだろう。……ルフィと共に。
―― 一億の首と、六千万の首か。
思えば手配書とはなんと正確に事態を把握することか。麦わら海賊団を正確に、人の域を超えた者から順に、勝手に紙切れひとつへ押し込めていく。海賊たちの事情も、心情も何一つ汲みいれることなく、問答無用に金額で「化物ですよ」と保証をしてくれるのだ。
きっとルフィとゾロは、一億の首でも、六千万の首でも終わるまい。更に強く、更に恐ろしく、その金額は更に高値に。
……つまり更なる化物に。
しがないひとりのコックを置いて、彼らは高みを目指すのだろう。世界一の海賊と、世界一の剣士へ向けて。
「……チ」
サンジは己の拳を開いて眉を寄せた。まだ火をつけもせぬままにつぶれてしまった煙草が、掌の汗で張りついている。
煮詰まった頭と空気を入れ替えたくて、ゴミと化した煙草をくず入れに捨て、サンジは操舵室の外へ出た。
墨を呑んだような海原。そこに散らばる月光色の無数の針。
不意に、バーベルを振る音は途絶える。
サンジはかすかな逡巡ののち、踵を返し、キッチンの冷蔵庫へと向かった。
非常識な重さのバーベルを傍らに横たえ、ゾロは後部甲板にひとり佇んでいる。ぎらぎらと光る赤茶の眼が今は閉ざされて、ノミの一刀で荒々しく削り出されたような、厳しくも静かな彫像の横顔を作り出していた。
だらりと下がっていた手が、得物を持たぬままにゆっくりと持ち上がる。三刀流「龍」の構えだ。それから「牛」、「鴉」、「鬼」と――舞よりもなお変幻自在な、ゾロ独特の演舞。
この演舞に刀の残影を見るようになったのは、いつからだろう。手の内にはないはずの刀が、銀光を曳いてゾロの身を飾る。
『無刀の境地という言葉があるのよ』
二人並んでゾロの鍛錬を見ていた時に、ロビンが言ったその言葉を思い出す。
まるで世界の中で己ひとりが自在だと言わぬばかりの、奔放なその舞を無性に断ち切りたくなって、サンジは声をかけた。
「おい」
今まさに飛び立とうとしていた「鷹」の構えがふわりとほどけ、ゾロはサンジを黙って見返す。
「水飲めって、何回言ったらわかるんだてめェ」
きっちり蓋をした、木製のジョッキを投げつける。ゾロが片手を挙げれば、それは吸い寄せられるように手の中へとおさまった。
「ありがとうよ」
留め金を外し、一気に飲み干す。無邪気な仕草だ。一振りで何百の命を奪える、そんな手を持っているくせに。
「どういたしまして」
ラウンジの外壁に背をもたせかけ、サンジはゾロの咽喉仏が、月明かりにうごめくその様を凝視していた。
「何だ?」
ジョッキを離し、口元をぐいとシャツの肩の辺りで拭きながら、ゾロは斜めにサンジを睨む。
「六千万のクソご尊顔は、拝見するにも金が要るってか?」
「……あァ?」
一瞬、眉間に皺を寄せたものの、すぐにゾロはサンジの回りくどい言い草を理解したようだった。「フン」と鼻で笑って視線を外す。
「まだこだわってんのか、てめェ」
「別に」
即答してからサンジは、他ならぬその即答が、自分の心情を雄弁に語ってしまったことに気づいた。ゾロは「こだわっているのか」と聞いただけだ。「何に」こだわっているのかについては、明言していないのだから、「何のことだ」と聞き返すべきだったのだ。
「賞金首になりてェのか」
「そういうんじゃねェ」
「他人の勝手につけた額が、気になるってか」
「値がついてへらへら笑ってた奴に言われたかァねェ!」
「クソコック」
溜息混じりに片手を挙げ、ゾロは逆上するサンジの言葉を、その仕草で制した。
「おれは悪名も野望のうち。だがてめェの『手』は別に……賞金首になるためのもんでもねェだろ」
「ンなこたァわかってる」
そう、わかっているのだ、本当は。自分の誇るべきはひとえに料理の腕であり、食べた人間の笑顔であるべきなのだと。
だが――
「おれは料理の腕を誇り、てめェは人殺しの腕を誇る。それが筋だってンだろ? よくわかってるぜ」
突っかかる物言いに苛立ったか、ゾロの目元がぴくりと引きつった。嫌味な笑顔を口元に貼りつけたまま、サンジは重ねて言いつのる。
「六千万か、たいしたもんだ。でもそれだけじゃすまねェんだろ? バケモノルフィを追っかけて、てめェだってバケモノになりやがるんだ。一億二億と自分の値段を吊り上げて、」
「おい、コック」
「鉄が斬れて、次は何だ? 周りを顧みもしねェでそのまま、何でも斬れるようになりゃァいい、そうでもしねェとあの『鷹の目』にゃァ――ああそうだよな、バケモノといやァアレ以上のバケモノもねェよなァ!」
「コック!」
「黙れェ!」
耳鳴りがするほどの混乱の中で、サンジは叩きつけるように叫んでいた。眼前の男は片手を自分の方に伸ばしかけていたが、その顔に激怒の色はなかった。驚愕したようにサンジを見ている、赤茶の眼差しはまるで――まるでサンジを心配しているかのようで、サンジはますます逆上した。
「そんな眼で見るな、てめェに心配されるほど落ちぶれちゃいねェ!」
「てめ、……おい、どうしたんだ」
「ついていけねェんだよ、てめェの、――てめェらのバケモノっぷりに」
大地を――島ひとつを突き抜けるような、すさまじい太さの豆蔦だった。なまじの大木より、それはずっと雄大だった。
この男は剣一本で、それを小枝のように斬り――……彼らの船長はそこから飛び立ち、雷神すらをも打ち倒した。
伸びやかに、あまりにもためらいなく、化物のように強くなって。いつか一人きり小船に乗って、暇つぶしに片手で船を割る日が来たら。……その時彼らの傍らに、いったいどんな化物なら寄り添っていられるというのだろう。
ましてやしがないひとりのコックなど――
「……化物か」
低くかすれた声が、囁くようにつぶやいた。
「違いねェ」
「てめェッ」
やんわりと肯定されればそれはそれで看過できず、サンジは眼を怒らせた。その逆上した視線の先、夜闇の中、ゾロは俯いて自分の右手を眺めているようだった。
「別に構わねェさ、事実だ。おれは化物になりてェんだ」
ひどくおだやかにゾロは言った。サンジの背筋を寒くさせるような、そんな低くかすれたままの声だった。
「ゾロ――」
何かを言いかけて歯を食いしばり、サンジは己の弱さを無理やり、肺の奥に叩き戻した。多分、それは最後まで残しておくべき矜持だった。その矜持が崩れる時まで、サンジが言ってはならぬ一言だった。
置いていくなと。
おれのことを、置いてひとりで強くなるなと。
「――ゾロ」
代わりに、滅多に呼ばぬ名を連呼すればゾロは、己の右手から顔をあげ、サンジの灰青の眼をまっすぐに見た。
サンジの眼が見開かれる。
「なァ、クソコック」
甘ささえ錯覚するような、低い声は――笑っていた。
「化物も存外、悪かァねェんだ……ただの人間よりはずっと、護れるものも増えるだろうぜ」
あァ、化物で結構だ――
不意にそんな言葉がサンジの耳の奥を叩いた。
その言葉をどこで聞いたのかと、サンジは夢中で記憶を手繰った。それは今よりもさらにかすれた声で、多分、今よりも濃い疲労の中にあったが、それでも、豊かな生命力は決して損なわれていなかった。
――いつの記憶だ。
おぼろげな思い出は、たどれば肺腑にひりつくような熱を思い起こさせた。反射的に咳き込んだ拍子に、鮮やかにその風景が甦った――
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