杖にすがって足を引きずり、やっと歩いていたウソップも、倒れたきりピクリとも動かなくなった。「しょうがねェな」とそれを片腕で軽々と、荷物のように肩に担ぎ上げたのはゾロだった。
言葉を失うような、真紅の夕陽が砂漠の向こうにのっそりと沈み、チョッパーはようやく力を取り戻したようだった。おれもう大丈夫だよ、ゾロ、と見上げられて「そうか」とゾロは笑い返した。変わらずに、力強い笑顔だった。砂漠越えの間ほぼ一貫して、人間一人を担ぎつづけているとはとても思えない頑丈さだった。
「てめェもそろそろか?」
そのような声が聞こえてから、数秒ほどたってようやく、サンジはそれが自分にかけられた言葉なのだと気がついた。のろのろと顔を上げ、「冗談じゃねェ」と言い返そうとした声はひび割れ、結局、言葉にならなかった。実際、体力は限界に近づいていた。凍えるような夜風に身体を押されるたびに、ふら、ふら、と視界が左右に揺れるのだった。
「……てめェ、の、」
がらがらにかすれた声ではあったが、それでも悪態らしきものをついて、サンジはゾロを睨み上げた。月光に照らされた横顔は、頭巾に隠れてほとんど見えなかった。
「なんだ?」
「てめェの荷物、になるぐれェなら」
この場でフリーズドライされた方がマシだ。そう言葉を続けたかったのだが、サンジは耐え切れずに咳き込んだ。人間一人を担いだゾロの方が、自分より足取りがしっかりしているということは、サンジには信じがたい事実だった。
「別に荷物じゃねェ。こいつのこともな」
揺すり上げるようにして抱え直したウソップの腰を、ゾロはぽんぽんと叩いてみせた。その化物じみた体力が今のサンジには恨めしい。
「クソ……」
「ナミが倒れた時に」
しっかりと砂を踏みしめて――だがわずかに歩調を落として歩きながら、ゾロは唐突に言った。
「ア?」
「あの時に、熱を出したのがおれだったら良かったのに――とか、思わなかったか」
「思った……さ」
はっきりしない意識の中でも、サンジは即答した。壊れた笛のような音を立てる、かぼそい呼吸を聞きながら。なんでおれじゃなかったんだ、と泣きたくなる思いで粥の盆を運んだものだ。
だがそれを聞いたゾロの返答は、サンジの予測の外にあった。
「おれも思った」
「おめェが……?」
「てめェと違って、おれには船上で仕事もねェ。体力もあり余ってる。おれがその蚊だか何だかに刺されるのが、一番理にかなってるはずだった。……物事ってなァ、うまくいかねェもんだ」
ケスチアに文句をつけるようなその物言いがおかしくて、サンジは渇いた咽喉で、それでも無理やりに笑った。フン、と仕方なさそうに苦笑して、そのゆるやかな口調のままゾロは言葉を継いだ。
「病気や怪我は代われねェが……手足の代わりになら、いくらでもなれる。おれはずっとそうやって来た」
言ってからゾロは視線をうつむかせ、苦笑を少し色濃くした。「ずっと、か」と、自分で自分の言葉をおかしむような響きが、その独言の中にはあった。
だからサンジは聞き返した。
「ずっと?」
「あァ。……こいつとか、ナミとかが。仲間になってから『ずっと』だ。……『ずっと』って言うほど、長くもねェかよ」
「いや」
とっさにサンジは否定の言葉を返していた。時間の長短など関係なかった。きっと、「ずっと」という言葉をほぼ無意識に使ってから、ゾロは不意に気づいたのだろう。もう「ずっと」と言って良いほど、彼らは共に過ごしてきたのだと――
「やる気は、あるだろ。こいつにも。んで、精一杯やるじゃねェか。だから……」
「……だから、代わりにやってやる」
「あァ」
そんな場面を何度も見たわけではない。だがゾロは「ずっと」そうしてきたのだろう。動けなくなったウソップの代わりに、その力強い手足を使って軽々と、運んでやったものがいくつもいくつもあったのだろう。
「おれには、料理も作れねェ」
その言葉をサンジは、他の人間の口からも聞いたことがあった。
「航海術も持ってねェ。……まァ、嘘もうまくはねェな」
『おれは剣術を使えねェんだ、コノヤロー!』
「でもやれと言われれば多分――てめェら全員担いだまま、そのユバって街まで歩くことはできる。ありがてェことにな」
頭巾の下の赤茶の眼は、影になって見えなかった。それでもサンジには、その眼が何を見ているか、わかるような気がした。
三歩ごとに「腹減った」を繰り返しながら、それでもぐたぐた歩いている、彼ら二人より一回り小柄な少年の背だ。
この船は、彼の海賊団はそうやって共に生きていく船なのだと、ゾロに教えた少年の背。
「――バケモノめ……」
罵声は溜息のようにやわらかかった。憎まれ口を叩いてやったはずなのに、出たそのやわらかさにサンジはかすか、赤面した。
「あァ、化物で結構だ。化物ついでに、ヘバったてめェも運んでやろうか」
「誰がてめェの世話ンなんざなるか!」
「どうだか」
「うるせェ、見てやがれ、おれだって――」
言いかけてサンジの身体がぐらりとよろめいた。支えようと、ゾロの片手が伸びてくる。それをサンジは震える腕で力いっぱい振り払った。
「おい」
「てめェの世話ンなんざ、ならねェ」
かすれきった声で、それでもサンジは繰り返し言いきった。
「海のコック舐めてんじゃねェぞ――クソ剣士」
この男は本当に、チョッパーもウソップもルフィも、サンジすらもまとめてその肩に担ぎ上げ、ユバまで歩きとおすだろう。そして多分、そうできることは、この男にとっての誇りなのだ。それだけの体力があることではなく。……それだけの体力で、クルーを支えていられることが。
それならば、とサンジは思う。
それならば、この――懐の深い男の荷物にも、足手まといにもならずに並んで歩きつづけることが自分の、誇りの拠り所になるだろう。
コックとしてのサンジではない。海の、「戦うコック」としてのサンジにとっての。
「……フン……吹きやがる」
鼻で笑ってゾロはサンジから視線を外した。多分、もうゾロはサンジに「担いでやろうか」とは言わないだろう。サンジが負けて倒れ伏すまで。
それでいい。
この剣士に対するこのコックのスタンスとして、それは実に心地よい。
「見てろよ――」
歩調を上げたゾロの背中を睨みつけ、サンジは口元だけで小さく笑った。膝の震えは、いつのまにかなくなっていた――……


今、サンジの眼前には、あの頃より更に鍛え上げられた身体が、あの頃と変わらずに揺るぎなく佇んでいる。裸の上半身は夜気を悠然と跳ね返し、丸腰の手にはやはり、かすかな燐気を帯びた刀の残光が見えるような気がした。
「見ろ。空気の薄い空島で暮らしたせいか、また身体が軽くなった」
ひらり、とゾロの手が翻った瞬間、五歩ほども離れたサンジの髪を、空気の渦が乱して行った。存在しないはずの剣が、風を斬りさえせず、撫で上げて渦と為したのだ。
「てめェの言う通りだ、おれは化物になりてェ……悪魔の実なんざなくとも、能力者と軽く渡り合える、そんな化物だ。昔も今も、その思いはさほど変わっちゃいねェ、せいぜい覚悟が深まったかってなぐらいだ。だがな、コック」
じきに、素手で人を斬り殺せるようになるであろう、その両腕を軽く広げるようにしてゾロは笑った。
「最近は随分と、その化物になるのが楽しいらしくてな……おれは」
「……楽しい」
野望に近づいているのだから、それも当然だろう。だが、ゾロの笑いはそんなことを指しているようには思えなかった。
「ルフィは海賊王になる。当たり前だ。ならなきゃ死ぬんだからな。そんな船に乗ってりゃァ、あいつやおれだけじゃねェ、クルーは全員、とんでもねェ敵に狙われる羽目になる。スモーカー、クロコダイル、エネル――その配下ども」
「当たり前……だろ。覚悟の上だ」
何を今さら。そう言いたげにサンジが眉をひそめれば、ゾロは「その通りだ」とおかしげに頷いて、言葉を継いだ。
「そしておれが化物に近づきゃァ、近づくほど……てめェらは死ぬ確率が減る」
「……なに?」
「蝋が斬れりゃァ、ナミとビビは焼け死にかけずに済んだ。鉄が斬れりゃァ、ルフィとウソップは溺れ死にかけずに済んだ。今のおれは、どちらも斬れる。同じことが起きた時、おれは誰にも手間ァかけずにすむ」
大驕慢にそう言い切った笑みが、かすかに羞じるようなものに変化して、淡くつけ加えた。
「雷はまだ、斬れねェがな」
おれがもっと強ければ――
苦難に遭った時の、それはゾロの口癖だった。蝋を斬ることができなかった日も、鉄を斬ることができなかった日も、そして雷を斬ることができなかった日も。ゾロは歯噛みしてそう言ったものだった。
「だから、化物上等、苦難も上等。……だろ」
不遜な男は天に挑むように、空を見上げてそう言った。両手をかすかに広げたままだから、まるで何かを祈っているかのようだった。
そう指摘すればきっと、この男は苦虫を噛み潰したような顔で、「おれは神には祈らねェ」と、意固地になって言うのだろう。
まるでサンジなど眼に入っていない。そんなゾロの体勢にサンジは勝手に腹を立てた。
「『てめェら』、かよ」
「あァ?」
ゾロが視線を戻す。
「生憎だったな、クソ剣士。おれァ、てめェに後生大事に守っていただくほど、落ちぶれちゃァいねェ」
ぴっ、と立てた人差し指を、サンジは脅すように、ゾロに向けて突きつけた。
「砂漠でも一度言ったがな、この際だからもう一度言っておいてやる。そのサボテン頭によっく刻み込んでおきやがれ、おれは、てめェの荷物にゃァ絶対にならねェ、とな」
「……コックが、随分とデカく出るじゃねェか」
口元をゆがめるようにして、ゾロは顎を上げてみせる。そうすればひどく挑発的な表情になった。時折サンジはゾロについて、こう思わざるを得ない――こいつはおれをムカつかせるために生まれてきたのではないか、と。多分先方もそう思っていることだろう。
「当然のことを言っただけだぜ? おれを誰だと思ってる。てめェがその背中に庇って、背負って、そうして守ってやるのはレディ方々と、ガキどもだけでいい。おれは、てめェの手は借りねェ、てめェの、」
言いかけてサンジはぶつりと言葉を切った。今、自分が言おうとしている言葉が、口に出してしまえば何か、ひどく気恥ずかしい響きの言葉であることに気づいたのだ。
だがゾロは、サンジが何を言おうとしているかなどわかるはずもない。「吐いた唾ァ、飲む気かよ」と、サンジの臆病風を実に小憎らしくせせら笑った。うるせェ! と、サンジは瞬間沸騰する。売り言葉に買い言葉で、そのまま出た言葉は、
「おれはてめェの! 隣にいつも並んで立ってやる、って言ってんだよ!」
……ゾロは口を開けたまま立ち尽くし、サンジは夜目に隠れて一人で盛大に赤面した。開けたままの口が、戸惑いがちに一度閉ざされ、再び開くさまをサンジは祈る思いで見つめた。とにかく何か、罵倒でも嘲笑でも、何か打ち返してもらわなければ。このままではあまりにも、沈黙が気まずすぎる。
「……そいつァ、」
がしがしと髪を片手でかきむしり、ゾロはぶっきらぼうに言った。
「ありがとうよ」
「てっ、」
髪の生え際どころか髪に隠れた地肌の部分まで赤くなり、サンジは決まり悪さとむずがゆさのままに、声も裏返るかという勢いで叫んだ。
「てめェに礼なんざ言われる筋合いはねェ!」
「ンだとォ!」
浅黒く焼けたゾロの肌は、赤くなっているか青くなっているか、それすら定かではなかった。だがゾロもまた普段ならありえぬ勢いで瞬間沸騰し、とりあえず二人は殴り合い蹴り合いの喧嘩に突入し、しかも、他のクルーが起きてくるまでそれを続行した。
それ以外に、この場をおさめる方法を思いつけなかったのかもしれない。


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見る見るうちに狂っていく歯車に逆上したまま、サンジは自らの脚で蹴倒したルフィと、破壊したテーブルを睨みつけていた。たった一蹴りなのに、空島の悪環境で鍛えたはずの肺はそれに耐え切れず、自分が肩で息をしていることがサンジには信じられなかった。
「使えねェ仲間は、」
吐き捨てるようなウソップの声に、ぎくりとして振り返る。
「次々に切り捨てて進めばいい……!」
下らねェこと言ってんじゃねェぞ、と叱りつけたのは、ウソップの言葉を封じてしまいたかったからだ。なぜならウソップの吐いた疑念はそのまま、つい数週間前の自分の疑念に違いなく――あの日混乱していた自分が、今思えばどれほどひどい言葉をゾロに叩きつけたのかを思えば、今のウソップの混乱は確実に、場の空気を悪い方向に捻じ曲げるであろうからだった。
「正直、おれはもう、」
激昂しているのに、しぼり出されたウソップの声は苦痛にまみれたかのようにかすれていた。
「おれはもう、お前らの、化け物じみた強さにはついて行けねェと思ってた!」
『ついていけねェんだよ、てめェらのバケモノっぷりに』
「弱ェ仲間はいらねェんだろ!」
その時彼らの傍らに、いったいどんな化物なら寄り添っていられるというのだろう――……


――違うんだ、ウソップ、
その言葉は声にはならなかった。サンジの眼は、何かに押されたようにふらりと後ろに揺らいだルフィと、腕を組んだままじっとウソップを見つめるゾロの、その表情を見てしまっていた。
きっと彼らは思ってもいなかったのだ。ウソップという「弱ェ仲間」が、自分たちにとって不要だなどとは――ほんの一瞬たりとさえ。それどころか、そんな考え方があるとすら、思いつかなかったに違いない。
――違うんだよ、こいつらは。
多分ルフィとゾロは、ウソップのことがただ単純に、とても、とても好きだったのだ。好きな奴が船に乗って、道の険しさを詩ってなお、一緒に旅をしてくれるのが、楽しくてしょうがなかったのだ。
そしてそれが、彼らより著しく腕力の弱い者たちにとって、時にひどい重荷になるのだと言うことも。彼らのまばゆい心根は、思いつくことすらしなかったのだ……
――見ろよウソップ、お前のたった一言で。一億六千万の首がまるで、死を目前にした覚悟の顔じゃねェか。
サンジは言ってやりたかった。「化け物」というその言葉を、かつてゾロが笑いながら、たやすげに口にしたのだというそのことを。
――化け物だよ、確かに。でもなウソップ、あいつにはそれが楽しかったんだぜ……
身体を鍛えて強くなった分だけ、砂漠でも、雪国でも、仲間を背負って歩いてやれるようになったのだ。どんなに強くなっても、どれだけ人を斬り殺しても、自分ひとりの食いぶちを稼ぎ、自分ひとりの野望に近づくためでしかなかったゾロにとって、それがどれほど――どれほど楽しいことであったのか、今のサンジはよく知っている。
だがウソップはそれに気づいていなかった。
「おいウソップ、どこに行くんだ!」
ぴくりとも動かない二人の代わりに、サンジは怒鳴りながら外に出た。既にウソップは船べりから陸へと降りていた。どこ行こうとおれの勝手だ、と、振り向きもせずに言い放った背中を、サンジは呆然と凝視した。
言わなければならない言葉は、最後まで咽喉を震わせることなく――もはやサンジには、振り返ってあの赤茶の眼が、どんな沈痛な光を帯びているのかさえ、確かめる勇気が存在しなかった。それでも、とサンジは歯を軋らせた。うまく言葉にならぬこの感情は、必ず自分がウソップに伝えてやらねばならないことだった。かつてウソップと同じようにもがき、わめき、そうしてウソップの知らぬままに、そこから必死に抜け出した自分こそが、教えてやらねばならないことだった。


そしてサンジはそれを伝えた。血と埃にまみれ、くわえたタバコから煙を立ち上らせ、敢然と狼に対峙して――
仮面で顔を隠した少年には、頑なに背を向けたまま。


狼の腹は黒く焦げ抜き、その衝撃を物語っていた。頑強な身体を誇るゾオン系能力者でさえなかったら、即死していたに違いない。「化け物じみた」――悪魔のごときその破壊力を、サンジは冷ややかな眼差しで確認し、新たな煙草に火をつけた。
「……これでおれも、化け物の仲間入りか」
なってしまえばそれはひどくあっけなく、たやすく受け入れられるものだった。理由をサンジはよく知っていた。泡を噴いて転がっているこの狼――その敗北が、一本の鍵というわかりやすい形で、サンジの手の中に納まってくれていたからだった。
『おれが化物に近づきゃァ、近づくほど……てめェらは死ぬ確率が減る』
――簡単な理屈だ。
血のこびりついた金色の鍵に、サンジは優しく笑いかけた。サンジが化物になることで、ウソップは助かり、ロビンを救う可能性はまた少し上がった。それはとてもわかりやすい話だった。この簡単な理屈を当たり前のように掲げて、毎日、飽きることなくあの男が鍛錬を繰り返していたのかと思うと、それはサンジの微笑を濃くさせた。
――あァ……化物、上等だ。
塔の上階では、人間離れした――「化け物じみた」破壊音が、先ほどから塔全体をゆるがせている。あいつらこの塔をへし折る気か、とその計画性のなさに毒づいてから、サンジは軋む身体を動かして走り出した。


やがて駆けつけたサンジは見るだろう。
闇色の鬼気を鬼神の幻へと昇華させた、恐ろしく禍々しい三面六臂の異形を。


だが黒足の悪魔にとって、それはもはや、愛しさ以外の何をとて感じさせるものではなかった。