第一章「霧の向こうの過去」
ディオゲネス・クラブが女性の参加を認めるようになったのは、女王ブリジット二世戴冠の少し前のことである。女王戴冠に前後して、女性高官が増えたことによるものであった。アルビオンの枢機に与るディオゲネス・クラブに、女性高官が一切立ち入りできないようでは困る――というのが建前だが、開明的な会員たちは元来より、婦人参入の機会を狙っていた。女王戴冠は、その格好の契機に過ぎない。
「……どちらにせよ、私には関係ないことだけれど」
そう笑って、女性は悪戯っぽく、ノンアルコール・カクテルのグラスを掲げてみせた。ワーズワースの視線の先で、左手の薬指にキラリと銀の光が瞬く。彼女は、外出の際にしか指輪をはめようとしなかった。工学畑であることを考えると、正しい姿勢だといえる。
「僕にとっては実に残念なことだがね」
そう言い返して、ワーズワースはその指輪から視線を外した。できれば指輪は、学内でもはめていて欲しかった、と思う。既婚だと知った時に、余計な感傷を抱かずに済むからだ。自分も婚約者を持つ身となった今でもなお、ワーズワースはその指輪を見ると複雑な感慨にとらわれる。
「いいの……地上の駆け引きに興味はないもの。わずらわしい人付き合いは、“ロイヤル・エアロ”でもう沢山」
気負うでもなくそう言って、女性はグラスに唇をつけた。白衣の代わりに、それなりにフォーマルなスーツを纏い、普段はひっつめた金髪をゆるく結い上げた彼女の姿は、このクラブをゲストとしてでなく、会員として訪れていても決して見劣りはしなかっただろう。だが、彼女は自ら断言した通り、アルビオンの安全保障に興味を持とうとはしなかった。彼女が興味を持ったのは地上の女王ではなく、優美なる空の女王たちのことだった。
「でも噂のディオゲネス・クラブを覗けたのは素直に嬉しいわ。ありがとう、ウィリアム」
「なに、むしろ会員の方が、君に礼を言うべきさ。高名なるキャサリン・ラングが、こんな変人どもの巣窟を訪れてくれたことに対してね」
「おばさんって、お世辞を本気にするのよ」
「では君は、お世辞を本気にする性質ではないらしい」
「お世辞だったの?」
「いやいや……」
降参の印に肩をすくめてみせても、不快ではなかった。この年上の――勿論、正確な年齢を聞くような愚は冒さない――同窓生は、ワーズワースに厳然として、対等のつきあいを要求し続けた。それは女性ではなく学級の徒としての、彼女のプライドの為せる技なのかもしれなかった。
ひとしきり小さく笑い合って、そのままの表情で優しく彼女は、ワーズワースに告げた。
「休学するわ」
「……そうか」
予想されていた言葉だったから、ワーズワースがそう答えるまでの沈黙は、ほんの2秒ほどですんだ。「驚かないのね」とまた小さく笑って、彼女は年下の戦友を見つめた。
「子供は……大切だよ」
なぜ離婚したのか、詳しい話を聞いたことはない。夫だった男もやはり、ロンディニウム大学の卒業生だったそうだ。大学に残らず、企業に勤めた夫と、大学に残り、研究を続けた妻。名声は、妻の方が高かった。一人娘も、妻が引き取ることになった。
「自分の好きなことばかり、しすぎたから。しばらくはあの子と一緒にいようと思うの」
「それがいい。せっかく、同じ物を好きになった親子だ」
「ほんと、私と一緒よ……お人形には見向きもしないで毎日、飛行船の模型で遊んでばかり。……それに、」
笑顔が少し翳った。「こんなこと言うのもどうかと思うけど」と前置きしてから、やや声を低め、彼女は溜息交じりに言った。
「ゼベットのところを見ていると……どうもね」
「ゼベットの……?」
その曖昧な言葉が何を指すのか、明晰なはずの頭脳にも理解はできず、繰り返す。肩をすくめて彼女は答えを泳がせた。
喫煙の習慣のないワーズワースには、こういう時に間が持てない。代わりにグラスをあおると、かすかな酩酊が眼をくらませた。酒にはさほど強くない。もっと経験を積めば、酒量も増えてくれるのだろうか。
ゼベット・ガリバルディは、教皇庁の後押しを受けてアルビオンに留学してきた、いわば特待生だ。サイボーグ技術のスペシャリストであり、キャサリン・ラングとの共同研究はロンディニウム大学でもっとも注目されているもののひとつだった。
「あの共同研究はどうなるんだい? 飛行船の電脳知性と、操縦者の脳を直結するという……」
「ゼベットの帰国期限も迫っているし、何とか発表できる形にはするわ。ただ彼も、元々の自分の研究があるらしくて……最近はアイザックと何やらやってるみたいよ」
「アイザックと? それは知らなかったな」
その名を呼ぶワーズワースの口調には、翳のない親しみがこもっていた。だが、「ええ」と頷くラングの表情は晴れない。ワーズワースが注視すれば、一瞬の躊躇いののちに、彼女はゆるやかに首を振った。
「私たちには、彼が何をしてるのか知ることはできないわ。教皇庁から資金が出ている研究だし。でもねウィリアム、何だか私……嫌な予感がするのよ」
「それは女性の勘という奴かい?」
冗談に紛らわせようとして、ワーズワースはそれがうまくいかなかったことを知った。ゼベットの、己の研究に対する狂信めいた情熱は、彼らにとってどこか不気味に思えるものであることは確かだった。その根底にあるのが「神」への狂信であるとするなら、それは、アルビオン人たちには理解ができないものなのかもしれない。
だがゼベットが「神」を信じているようにも、彼らには見えなかった。
「女性の勘なのか、母親の勘なのか、どっちなのかしら」
「母親?」
「逢ったことがあるでしょう? ゼベットの娘さん」
「ああ……彼の秘蔵っ子だね」
名前がとっさに思い出せず、ワーズワースは首を捻った。ゼベットは7年ほど前に妻を亡くしており、今回の留学には、忘れ形見の幼い娘を同伴していた。まるで母の代わりを務めようとするかのように、懸命に父に寄り添う姿が、ワーズワースには印象的だった。
「見所のある娘さんだと聞いているよ。羨ましいことだね」
「羨ましい? ……そうかしら?」
独り言のような呟きを、ワーズワースは聞き漏らした。聞き返そうと顔を覗きこんだ時には、すでにラングは何事もなかったかのように、時計に視線をやる素振りをしていた。
「予定があるんだったわね……ごめんなさい、こんなに長く拘束しちゃって」
「いや……楽しかったよ」
「レディ・フランセスによろしくね」
ワーズワースの婚約者の名を挙げた時、この年上の女友達の瞳にもまた、複雑な感慨がたゆたったように思えた。だがすぐに、彼女はするりと席を立ち、差し出されたコートに袖を通しながら、ワーズワースに向けてやわらかく微笑んだ。
「後は頼んだわ、ウィリアム」
「キャサリン……」
「学院にとって……いいえ、アルビオンにとって。貴方は必要な人だもの」
「それは君もじゃないか」
「私よりも、ずっとよ」
王太子ギルバートには公私共に信頼され、ロンディニウム学院きっての天才。その上ベドフォード公の娘婿ともなれば、将来はアルビオンの国政を左右する重鎮になること間違いない。
「忘れないで、ウィリアム。アルビオンの未来は、貴方が背負っているの。忘れないで……」
母親のように微笑んで、友は繰り返す。彼女の「勘」は、理性とは別の領域で感知していたのかもしれない。アイザック・バトラーと言う男の危険性を。……ウィリアム・ウォルター・ワーズワースという男に降りかかる、悲劇の存在を……
<……ウィリアム?>
繰り返されるその声に、ワーズワースは嫌々薄く眼を開け、そして初めて、己が夢の世界に迷い込んでいたことに気づいた。
机の上には火の消えたパイプが転がっており、彼は椅子に深く沈んだまま、あやうくそこからずり落ちかけているところだった。
「……夢か」
<ウィリアム? 聞こえてますの?>
「ああ……ケイト君かね」
<他に誰がいると仰いますの。パイプの火は消して下さいました?>
「パイプというものは構造上、少し口を離していればすぐに火が消えるものなんだよ、ケイト君」
<消して下さいました?>
「……」
ワーズワースは手を伸ばし、パイプの火を無言で確かめた。
「ほら、消えているじゃないか」
<つまり『消して』はいないんじゃありませんの>
「君も言うね」
思考を覆っていた、霧深き肌寒さが急速に、尼僧のきびきびした声に打ち払われて消えていく。苦笑して、ワーズワースは椅子の上にゆったりと座り直した。小さな欠伸を噛み殺す。
<……夢をご覧でしたのね?>
遠慮がちに、尼僧の声が耳元の通信機から滑り込んできた。
「ふむ……」
押し込めてきた過去を、語る気にさせたのは尼僧の声に混じるアルビオン訛りだったろうか。
「……君の『機体』のね。母親の夢を見ていたよ」
<あたくしの?>
「キャサリン・ラング……亡くなってもう、二年になるかな」
<ああ……そうでしたわね……>
ケイトは、己が重傷を負った時のことを思い出したようだった。あの時、スフォルツァ家の資金力と、カテリーナの必死の願いと、そして、ワーズワース博士――当時はまだ神父ではなかった――の頭脳によって、戦艦「アイアンメイデン」が誕生したのだ。だがそこに、キャサリン・ラングの研究結果が不可欠であったのは言うまでもない。
そして共同研究者たるゼベット・ガリバルディの……
「彼女も、ゼベットも……己の研究結果だけを残して、さっさと行ってしまったね」
そしてその結実が、ワーズワースの下に残された。アルビオンの未来を担うと期待されておきながら……婚約者を、名声を、信頼を、そのすべてを喪ってこうしてローマにうずくまっている、一介の無力な神父の下に。
自分がいたら、王太子ギルバートを護ることができただろうか。否、とワーズワースは自嘲の笑みを漏らす。ローマにいながら、ゼベットの暴走を止めることができなかったのは誰だ?
<……でもそのおかげで、あたくしも、そしてトレスさんも、こうして元気にやっていますわ。貴方がローマにいらして、そして、皆様の研究結果を引継いで下さったからでしょう?>
尼僧の声はやわらかかった。そのやわらかさが心に染み入り、ワーズワースは、己が気弱になっていることを自覚した。
煉獄を共にした親友――と言うも今更な深き友――を喪い、生きる術をそれなりに必死で与え続けた弟子は故郷より帰還してもいまだ、予断を許さぬ状況にある。そして、あの懐かしい日々の戦友が、忘れ形見のように残した「作品」までもが……
「少し疲れているみたいだよ。……亡霊のせいかな」
珍しい弱音がぽろりと、頑固な唇からこぼれた。
<亡霊……HC-IIXのことですわね>
派遣執行官“ガンスリンガー”――「HC-IIIX」が交戦し、重度の損害を負わされたその相手は、異端審問官“ブラザー・バルトロマイ”――「HC-IIX」だったのだ。
「そうだね……うん、彼もそうだ」
<彼「も」?>
通信機の向こうで、シスター・ケイトは首をかしげたかもしれない。だが、己の思考に沈みはじめたワーズワースがそれに答えることはなかった。
彼にとって「HC-IIX」は、亡霊「が見せたもの」であって、亡霊そのものではない。HC-IIIXが派遣執行官の手によって保護されていたのだから、HC-IIXが異端審問官の手によって保護されていること自体は想定内にあることだ。あの聖天使城を落とした時、現場の秩序を取り戻したのはカテリーナの私的スタッフだけではなく、局長フランチェスコをはじめとした異端審問局によるものでもあったのだから。
だが問題は、そのHC-IIXが復元されたということである。
カテリーナには、ゼベットの研究を知悉し、その研究を引継ぐだけの頭脳を持ち合わせたワーズワースという稀有なる人材が存在した。だからこそ、カテリーナは大破したHC-IIIXを持ち帰り、それを復元し、再起動させることに成功したのだ。
では、大破したHC-IIXを持ち帰り、復元し、再起動させたのはいったい誰なのだ……?
ゼベットの研究を知悉し、その研究を引継ぐだけの頭脳を持ち合わせた存在とは……
キャサリン・ラングは死亡したし、そもそも、人間の頭脳の部品化に手を染めようとはしなかった。ウィリアム・ウォルター・ワーズワースは今、国務聖省の特務分室に属している。
……ではアイザック・バトラーは……?
「……まさか!」
<教授?>
己の夢想を己の声によって断ち切ると、不安げな尼僧の声がようやくワーズワースを現実に立ち返らせた。
「ああ、すまないねケイト君。どうも徹夜続きが祟ったようだよ……こんなことじゃ、神父トレスの腕を間違えて前後逆につけ兼ねない」
<お弟子さんに斬りかかられますわよ、そんなことをなさったら>
「ユーグに何ができるものかね。そもそも彼は……」
言いかけてワーズワースは沈黙した。その沈黙の理由は正しかったらしく、尼僧の声がようやくやんわりとした微笑を含んだ。
<ええ、それをお知らせしたくて通信を繋げましたの。今日、ようやくベッドで上体を起こせるようになったそうですわ>
ワーズワースの返答は数秒ほど遅れた。ようやく、平静を装った声を通信機に返した時、師たる男はすでに椅子から立ち上がっていた。
「やれやれ、それではようやく僕にも楽をできる機会が巡って来そうだというわけだ……悪いがケイト君、眠気覚ましにお茶を一杯もらえないかね。分室には僕から出向くよ」
<そうですわね、最近運動不足に過ぎましてよ……ここまで歩いてくるぐらいはなさるべきですわ>
隣り合った部屋の向こうに、物質的な暖かささえ錯覚させるホログラムの微笑が待っていることだろう。それを確信して、ワーズワースは部屋の扉を開いた。答えの出ない疑問と不安は、過去の霧の向こうへと押しやって。
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