第二章「人形の家」



最初の記憶は、闇の中に浮かぶ父の背中だった。
汚れた白衣のその背中を、どうして自分が眺めていたのか、それを思い出すことはできない。おそらく、まだよちよち歩きの頃のことだったのだろう。暗い部屋の中の、父の後姿。床に綺麗なガラス球が転がっていたことを、覚えている。真っ白い、拾い上げればひんやりとなめらかなガラス球を、彼女はつついて遊んでいた。
母を亡くしてから、父は一切の育児を放棄したらしい。ただ、金銭を惜しみはしなかった。メイド兼乳母が一人と一機、彼女の世話をしてくれた。一人の人間と、一機のオートマタだった。
人間のメイドより、オートマタのメイドのほうが博識だった。穏やかな、欠片とて激昂せぬその静かな声で、オートマタは彼女の質問に、常に端的に答えてくれた。おひさまはお昼は白いのに、夕方になると赤くなるのはどうしてなの。ミルクの上に、ぬるくてぐにゃぐにゃしたマクができるのはどうしてなの――……オートマタは、どんなに忙しくても彼女の問いを邪険に扱いはしなかった。それが人形というものの稀有なる特性であることを、人間のメイドと見比べることによって、彼女はじきに理解した。
美しく響く完璧な発音の共通語を、彼女に教えたのもオートマタだった。ラテン語、アルビオン語、フランク語、ゲルマニクス語、ヒスパニア語……人間味のない美しい幾多の文章を、彼女は正確に、そして速やかに習得していった。屋敷は本で埋め尽くされていて、彼女を飽きさせることはなかった。父の蔵書の中に、父の足跡を追い求めることは、彼女の日課の一つだった。
やがて久しぶりに――数ヶ月ぶりだったか一年ぶりだったか――屋敷に戻った父は、玄関まで彼を出迎えた五歳の少女が、この屋敷の厳然たる女主人であることを知った。彼女はオートマタのメイドに全幅の信頼を寄せながら、同時に、人間のメイドに敬意を表して自尊心を満足させてやることも、忘れなかった。
その口調は大人びているというよりも、ただひたすらに正確だった。その正確な文法と発音で、彼女は少女らしい興味に目を輝かせ、父の書庫から持ち出したゲルマニクス語の分厚い論文を、教えてくれと父にねだった。
次の日、父は研究室に己の娘と機械のメイドを同伴し、研究室でメイドの機体を分解してみせた。少女は論文を抱きしめて、食い入るようにそれを見つめていた。その論文は、父が設計に携わり、試作機を自宅に持ち帰ってメイドとした傑作オートマタ、オリンピアシリーズについてのものだった。


父が「娘」というものの存在を、思い出したのはこの時だったのかもしれない。


……部屋中に書類を撒き散らし、電動知性をフル稼働させて、父は背中を向けている。重い扉を、娘が幼い両手で精一杯押し開いても、その後姿は振り向かなかった。
先ほど帰っていった客の名を、彼女は勿論覚えていた。アイザック・バトラーという、アルビオン出身の平民だ。
父と一緒にアルビオンに渡航してから二年がたつが、父が自宅の研究施設に人を招いたのは、初めてのことだった。本来なら、この部屋に入室を許されていたのは父自身と、「オリンピア」と、そして彼女だけであるべきだった。それなのに。
机に両肘をつき、がっくりと両手で頭を支え、父はうなだれて動かない。痩せたその背に向け、彼女はひっそりと歩み寄った。
「オリンピア」そっくりの歩き方で。
「……彼は行ってしまいましたのね、おとうさま」
まだ9歳の童女なのに、彼女のアルビオン語は理想的な女王英語だった。
「ああ……」
うめくように答えた父の、その嘆きの深さに童女の幼い胸は痛む。アイザック・バトラーという助力を得て、父の研究は飛躍的に進歩したのだ。遺失したとされていた遺伝子操作技術を、バトラーは父に提供してくれた。
それが、たかが人体一つを弄った程度でアルビオンを追われてしまうなんて。
「おとうさま」
父の傍らの床、書類を注意深く拾い上げながら、彼女は座り込んで父の膝に寄りかかった。
「おとうさま、わたくしがお側におります」
父の膝が、ぴくりと震える。そのかすかな動きがぞくりとするほど嬉しくて、彼女は懸命に父の膝を揺すった。
「おとうさま、もうわたくしを学校には行かせないで下さい。おとうさまのお隣で、一緒に研究をさせて下さい。
 わたくしも作りたいのです。――生けるオリンピアを」


その研究が罪深いなどと、どうして人は言うのだろう。
完璧なオリンピア、美しいオリンピア、母のように死んだりしない、父を置いて行ったりしない、ただメイドという役割のみを正確に果たし続けるだろう、それは彼女の最後の家族。
限られた記憶だけを完璧に保管し、壊れれば次のボディと生体部品に記憶を移し、かといって完全な人形でもない。かすかな感情の残滓を持ち、ただ主にのみ尽くしつづける。永遠のように長い時間を、脳と機体を取り替え続けて。
……そんな人形が、本当に傍らにいてくれるなら。一体誰が、ちっぽけな倫理などを気にするだろう?


父はゆっくりと顔をあげ、そして、彼女の眼を覗き込んだ。
同じ狂熱が宿っていることを、改めて確認するかのように。
「――ジョヴァネッラ」
名を呼ばれたのは初めてのような気がして、娘は父の膝の上で、拳を小さく震わせる。
いつしかその拳はいとけない童女のものではなく、少女のように神経質に細くはあっても、やわらかさと同時に女の優雅さを備えたものに変わっていた。
「お父様」
跪いた姿のまま、運動をろくにせぬ白衣の両腕に、彼女は分厚いファイルを精一杯抱え、父を見上げる。
「お父様、ご覧になって」
これは何だね、などと聞く手間は持たない。父は彼女からファイルを受け取り、手早くそれをめくり始めた。
学校教育を一切受けず、ただ、父とオリンピアの薫陶を受けて育った彼女はいつしか、父の最も苦手とする分野――人間と機械の精神の仲立ちとなる感情制御について、父を補うかの如く、そのスペシャリストに成長していた。狂わせぬ、だが自由にはさせぬ、そのぎりぎりの一線を、彼女は罪なき幼い脳に、強いることを可能とした。
「どうか実装させて下さいませ、お父様」
見る見るうちにぎらぎらとした、狂熱のような光を両眼に宿していく父が、眩しくてならず、彼女はその膝を幼い頃のように揺する。
「これならきっと、うまく行きますわ。個を廃した完全無欠の、不死の兵士にまた一歩、あの子たちを近づけることができるでしょう」


父が「娘」というものの存在を、思い出したのはこの時だったのかもしれない――


「ねぇ……おとうさま」


呼びかけた己の声に目が覚めた時、彼女は己の研究室で、電動知性の画面を見つめていたところだった。
子供のような寝言を言ったことが恥ずかしく、かすかに頬を赤らめて、しっかりと椅子に座り直す。視線を流せば、デスクに置かれたままの灰色の頭巾が目に入った。
この頭巾を被るようになってから二年が経つが、いまだに、頭巾を被った己の姿に慣れることができない。父は僧籍ではなかった。信仰心のひとかけらとて存在し得ないものを、こうして聖職者の振りをしなければならないのは無駄な話だと思う。
電動知性の画面は休眠状態にあり、漆黒の画面に彼女の顔が映っていた。オリンピアによく似た、だが、それよりはやや痩せて細く尖った、倦み疲れた女の顔だった。
父がオリンピアを製作する際、母の顔をモデルにしたのは、感傷というより「他に女を知らなかった」為だろうと彼女は思っている。父がどれほど母を愛していたか、彼女は知らない。だが少なくとも、オリンピアは母の代理品ではなかった。むしろ父にとってオリンピアは母の――
――母の「未完成品」だったのだ。
あのオリンピアに、母の生体部品が搭載され、人形と人間が真に融合することこそを、父は望んでいたのかもしれない。
「……オリンピア」
囁いた声に疲れを感じて、彼女はひとり苦笑した。呼んでも、オリンピアは戻らない。六年前のあの日以来、人型のデータベースであるオリンピアは、教皇庁に接収されて結局、戻らなかった。不正規のアクセスによって情報開示を強要された場合、彼女は自壊するように設定されていた。きっと彼女はその設定を、忠実に――という意識すらなく当たり前に――実行し、そして廃棄されたことだろう。
「オリンピア……貴女がいてくれたら」
彼女は母に似た細い手足を、ゆっくり突っ張って立ち上がった。手袋に包まれた指先で、キーボードを一つ、かつんと弾く。画面が生き返り、現状をずらずらと列挙した。
「こんな修理、わたくしはすぐに済ませたことでしょうに」
画面から視線がふらりと揺れ、彼女は頭巾を被らぬまま、ゆっくりその視線を上げた。
眼前に在るのは、一個の人形。皮膚の全く貼られておらぬ、脇の下や手首をバンドで固定され、不恰好に吊り下げられた状態の。頭部と胴体は切り離され、無数のケーブルによってやっと接続された状態の。
……瞼も形成されておらぬ、ぎょろりとグロテスクな眼球も剥き出しの……


……ひんやりしたガラス球をつつけば、それはころりと床の上を転がった。くもの巣のようにひびが入ったそれは、恐らく何かの失敗品なのだろう。だが幼い身にそれは理解できず、ただ、真っ白い中にぽっかりと浮かぶ、暗い小さな丸を彼女はとても気に入っていた。
よいしょ、と鷲掴みにして覗き込むと、暗い小さな丸は、部屋のわずかな灯りをきらきら綺麗に反射した。彼女は嬉しくなって、それを口にくわえて舐めてみた。思っていた通りひんやりとして、冷たくなめらかな舌触りだった。彼女はますますそれが好きになった……


……気がつけば彼女は、吊られた人形のすぐ傍らまで、ふらふらと歩み寄っていた。
「そう……だったの」
手袋の指先が、触れるその先は――眼を閉じることも叶わぬまま、眠りつづける人形の眼球。
「あれは……お前たちの眼だったのですね」
無惨に装甲の剥がれかけた、その両頬を彼女は包み込んで囁いた。
「わたくしは物心つく前から、お前たちが欲しかった」
人間にするように、口づけるつもりなどはなかった。ガラス球を玩具としか認識できなかった、幼き頃の記憶と違う。彼女はもう、それを舌で汚してはいけないことを知っていた。自ら望んで、それを学んだ。
「この人形が、欲しかった……」
動かぬ眼球を手袋で撫で回す、彼女の人形めいた表情、その眉間にそこだけは深く、憎悪のいかづちが閃いた。
「だから誰にも――渡すことはないでしょう」


この人形は、彼女の息子。
彼女と、彼女の父の間に生まれた、稀有なる、不死なる、永遠なる吾子。
個を廃し、互いにひとつの記憶を為し、繰り返し部品を取り替えて、永劫に存在しつづける生けるオリンピア。


『ジョヴァネッラ』
疲労と不眠に喘ぐ脳が、彼女の耳に幻聴をかきたてる。
それは懐かしく神経質な男の肉声と、冷たく優しい女の人工音声だ。
「……ご安心なさって、お父様……必ず修理してみせますわ」
父と同じ狂熱を、オリンピアによく似た瞳に浮かべて女は、吊るされた人形に背を向ける。
「そしてあの『部品』を――取り返すのです」


手袋の細い指先が、かたかたとキーボードを弄り始める。
そして画面にははっきりと、一枚の画像が映し出された。


それは死のあぎとたるディエス・イレを、まっすぐ画面に向けて構えた――



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