雷鳴の記憶――前編



「……あのねぇ、ユーグさん……」
最近は談話室の扉を開けるたびにこの台詞を吐いている。
そう思いながら、その場によろよろ崩れ落ちるのをこらえてアベルは、力ない声を押し出した。


名を呼ばれたユーグは、眠るように閉ざしていたその瞳をゆっくりと開いた。稀有な翡翠色の瞳を、縁取るのは物憂げに伏せられた淡い金の睫毛だ。奇跡的に整ったカーブを描くそれが、ぱし、ぱし、と二度またたかれ、それから、ユーグはどこかうっとりと、斜めにアベルを見上げて言った。
「……どうした、アベル? 休んでいかないのか……?」
「この蕩けた空気の中でのんびり休める人がいたら、私、尊敬しちゃいますよ」
それでもアベルは律儀に談話室の中に入り、きっちりと扉を閉めた。こんな光景、通りすがりの外部訪問者に見られたら、それだけでもう、国務聖省全体の面子にかかわる問題である。
機械化歩兵用に補強された、談話室のソファ。そこにかっちり背筋を伸ばして腰掛けて、トレスは我関せずの態を崩さない。床にファイルをうずたかく積み上げ、目を通しては、傍らからバインダーを取り上げ、それに何かをさらさらと書き上げていく。
「おや、トレス君の方はお仕事ですか?」
「肯定。“教授”に暗号解読の依頼があった。難易度は高くないが件数が多いため、俺に解析用のソフトをダウンロードして解読することが能率的だと判断された」
端的な報告を行う間も、トレスの眼は、常人には数字の羅列としか見えぬファイルを広げ、目を通しては、無個性な美しい字を書き連ねていく。
「偉いですねぇ、トレス君は……ユーグさんもちょっとは見習ったらどうかなーなんて私思うんですけど」
「その言葉、そっくり君に返すぞアベル。その両手一杯の駄菓子は何だ?」
「何です? 私が私のお給料でお菓子買っちゃいけないってんですか?」
「俺も俺が自分の休日をどこで過ごそうが問題ないだろう?」
「それとこれとは次元が違います」


アベルは駄菓子の袋を三つ抱えたまま、扉の前に仁王立ちになってユーグを見据える。
「いいですか、ユーグさん。確かに休日はどこで過ごしてもいいですよ。けどね?
 いくら何でも、お仕事中のトレス君の股間で過ごすのはダメなんじゃないですか?」


ソファーの前の床に座り込み、トレスの脚を開かせてそこに身体を置き、膝に頭を預けてうっとりしていたユーグは、心外げに頭を起こしてアベルを見返した。
「俺はちょっと彼の膝を借りているだけだ。しかも右膝だけな。別に使いたいなら君が左膝を使えばいいだろう」
「…………おお、主よ、想像して『ちょっといいかも』とか思っちゃった私をお許しください……」
天を仰いで大げさに十字を切るアベルのために、ユーグは親切にも、床の上をわずか移動して左側を空けてやる。
「ちょっと何をいそいそ左側空けてるんですかユーグさん! 座りませんよ私は!」
「ヴァトー神父、静止を勧告する。筆跡がぶれる」
書類から眼を離しすらしないトレスの、冷然たる勧告に、ユーグは物悲しげな声を作って甘えてみせた。あまつさえ、膝に頬をすり寄せている。
「神父アベルが、どうしても君の左膝が欲しいって言うんだ……俺だって動きたくなんかないんだよ」
「だから座りませんってばぁ!」
半泣きでアベルが訴える。「何だ、もったいないことをするんだな」とあっさりもぞもぞ動き直し、今度は頭と腕で心置きなくトレスの両膝を占領しておいて、ユーグは本格的な睡眠の体勢に入ってしまった。
「……トレス君……」
ユーグはダメだ、と思い知ってアベルはトレスに矛先を向ける。「用件の入力を、ナイトロード神父」と、やはり、手際よくソファに解読済のファイルを積み上げながら、トレスはペンを動かす手を止めぬままにアベルを促した。
「あのね、トレス君? お外は昼から真っ暗、お空はどんより灰色で、私の気分もそりゃもう土砂降り寸前なんです」
「俺には隠喩は理解しがたい、ナイトロード神父」
「……お隣、座ってもいいですか?」
「否定。既にヴァトー神父には勧告してあるが、このソファには解読済のファイルを整理して積む予定だ。向かいの椅子か、あるいはヴァトー神父のように床に着席することを推奨する」
滑らかに、だがきっぱりとそう言ってから、トレスはペンを置き、床のファイルに手を伸ばした。目をつぶったまま、ユーグが己の脇のファイルをひょいと取り上げ、トレスに手渡す。「感謝する」と律儀に礼を言ってそれを受け取り、トレスは解読行為を再開した。そこにアベルの立ち入る隙はない。
「トレス君のいぢわる……」
「何を言っているんだ。神父トレスはちゃんと『床に着席して俺の膝を枕にしても構わない』と補足しているじゃないか」
「ユーグさん、それ、余計な解釈つけすぎです。……ユーグさん?」
物憂く瞳を開き、トレスの膝から顔を起こしたユーグに、アベルはそっと歩み寄る。
「何だ?」
意外げにアベルを見上げた時のユーグの顔は常と変わらず、アベルは首を傾げた。先ほど確かに一瞬、ユーグの表情に深い翳りが差しているように見えた。普段、トレスにべたべたしている時のユーグがうんざりするほど幸せそうなだけに、その一瞬の表情は、深くアベルの印象に残ったのだ。
「『何だ』って、そりゃこっちの台詞……どうしました?」
「悪いが、君の聞きたいことがよくわからない。俺はどうもしないよ、神父アベル」
やわらかくそう言ってから、ユーグは完全にトレスの膝を離れ、床の上に座り直した。片膝を片手で抱え、小さく呟く。
「……降ってきたな」
言われてアベルは、無意識に聞き入れていた音を、やっと認識した。確かに、窓の向こうからざわめきのような、かすかな雨音が聞こえてくる。
すぐにそれは窓そのものすらばちばちと叩く、猛烈な乱打に進化した。
「うわ、ほんと土砂降りだ」
駄菓子の袋をテーブルに置き、アベルは窓際に歩み寄る。雨水のために波打つ視界は、窓の外に見えるはずの中庭と、その向こうの回廊を、緑と茶と灰白の淡いモザイクにぼかし、溶かしてしまっているのだった。
「夕方から夜通し雷雨だって言ってましたからね。涼しくなるのはいいですけど――……ってユーグさん?」
「うん?」
慌てて呼びかけたアベルに、既に扉に手をかけていたユーグが振り返る。
「どこ行くんです?」
「ああ……寮に帰る。洗濯物を干しっぱなしだった」
「洗濯物って……今更どうこうなるものじゃないですよ。何です、私が来たのがそんなに邪魔なんですか?」
ぶぅぶぅ、と唇を尖らせるアベルに「そんなはずないだろう」と苦笑して、だが、ユーグは扉を開く。
「……ユーグさん?」
「戻れるようだったら戻ってくるよ。……また後で」
どこか申し訳なさそうに、優しく目を眇めてアベルを見ると、その眼を伏せてユーグは扉の向こうに消えた。
ぱたん、と乾いた淋しい音が響き、室内を気まずい沈黙と、そして、スクリーンひとつ向こうに隔てたような、ぼやけた雨音が支配する。
「……お邪魔……でした?」
しょんぼりとアベルが囁けば、即座に「否定」と無機的な、だが力強い返答が与えられた。
「735秒前の入室より現在まで、卿が俺の作業の邪魔をしたことは皆無だ。むしろヴァトー神父の方が、作業の邪魔になっていた」
その返答はその返答で、ユーグが気の毒に思えてならず、人の良いアベルは曖昧に「たはは」と笑う。
「着席を推奨する」
自分のソファの向かいに置かれた椅子を、ペンで差すとトレスは次のファイルを開いた。口では「邪魔だ」と言っているが、本来なら資料室でできることをわざわざ談話室に持ち込んでいる辺り、トレスもユーグや、……自惚れるなら他の派遣執行官たちとの、交流を求めてくれているということなのだろう。
ユーグのように駄々はこねず、大人しく向かいの椅子に腰をおろし、アベルは窓の外を見つめた。
「……雨、すごいですね」
「肯定。予想降雨量は平均しても一時間に30ミリを超えると予測されている。――ナイトロード神父」
ペンの滑る心地良い音は、止むことがない。眠りに誘うその音を聞いていたアベルは、ついでのように呼ばれた己の名を、一瞬聞き逃した。
「え? な、何ですかトレス君?」
「ヴァトー神父の退室は卿の責任ではない」
ファイルを閉じ、だが、次のファイルには手を伸ばさずに、トレスはアベルを見た。
「トレス君……?」
「ブリュージュでの任務後、ヴァトー神父は雷雨の日に俺との会見を避ける傾向にある。退室の原因は俺にあると推測される」
それだけを言うと、トレスは視線を膝の上のバインダーに落とし……1秒半ほどの、ためらうような沈黙ののち、元通り、次のファイルに手を伸ばした。
アベルはしばらくトレスの次の言葉を待ち、何も得られない、と知ると椅子から立ち上がる。
「ねぇ、トレス君」
ごめんなさい、と断ってから、トレスの前に跪き、ファイルをめくる手の上に、己の手を置いてやる。
「作業の邪魔だ、ナイトロード神父」
「トレス君。心当たりがあるんでしょう? ……ユーグさん、しんどそうでしたよ」
トレスはアベルの手を振り払おうとはせず、どこか居すくまったように、じっとその手を眺めている。
「トレス君?」
「……俺は機械だ。人間の感情は理解できない」
「トレス君?」
トレスの手をやんわりと握り、アベルは膝の上のファイルに顎を乗せ、上目遣いにトレスを見た。
「…………偶然の可能性も否めない」
「ト・レ・ス・君?」
握る手に、励ますように力を込める。冬の湖水に喩えられる、凪いだ薄蒼の眼差しは、ゆっくりと幾度か瞬きを繰り返しながら、トレスの義眼から離れない。
そのアベルの瞳ではなく、開いたままのファイルから視線を決して動かさず、そのまま、トレスは無機的な声で答えた。
「ブリュッセルで俺と“ソードダンサー”が交戦した際も雷雨だった。――俺と“ソードダンサー”に共通する『雷雨』への関連性は、それだけだ」


アベルの手がゆっくりとファイルを閉じたが、トレスは逆らおうとはしなかった。
「トレス君、それはね」
ファイルをトレスの脇に寄せ、アベルは半歩トレスにいざり寄り、そっとその頬に手を伸ばす。
「ユーグさんにとって、『雷雨』がとても苦しい記憶になってしまったから、トレス君に苦しい顔を見せてしまうのが怖くなったんだと思いますよ」
「それは推測に過ぎない」
「そうですねぇ」
のんびりと笑って、両手でトレスの頬を包み込み、アベルはごく自然にそれを引き寄せた。
「ナイトロード神父?」
こつん、と額と額をつきあわせ、かちり、とひとつ瞬きをしたトレスの義眼を覗き込んで、アベルはあやすように囁いた。
「でも、試してみて悪いことはないと思うんですよ。たとえば、ほら――」


悪戯な唇が悪戯な笑みを浮かべたまま、トレスの作り物の口元に、「ちゅっ」と軽やかな音を立てて吸いつく。
ただ、理解できないといったようにアベルを見つめるトレスに、触れたままの、笑みを浮かべた唇がそっと、何事かを囁いた。



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