雷鳴の記憶――後編




「あの日」の雨は、こんな、痛いほどに身を打つ激しさではなかった。ただ、曇天を白く痛々しく切り裂いて、天を叫喚させるこの雷光と雷鳴は変わらなかった。身のうちの剣気を焼き焦がすような、そんなすさまじい雷だった。
顔を上げることができないほどの雨。それでも、重く水を吸って指に引っかかる金の髪を、無理矢理かきあげてユーグはその白い美貌を天に晒す。
天が哭いている。耐え切れず顔を背けた時、重く土をにじる足音がユーグをすくませた。
「――ここで何をしている、ヴァトー神父?」
雷光に白く染め上げられた、人形そのものの無表情な顔を、ユーグはただ、呆然と見つめた。その作り物の声から放たれる言葉、その正確すぎるイントネーション、そのきついほどまっすぐ見つめてくる眼差し、……すべてをユーグは知っていた。それは同じ雨の日、同じ雷の夜、同じ肌寒さの中でこの人形がユーグを刺し貫いた言葉だった。
「こんなところで何をしているか質問したのだ、ヴァトー神父」
「――やめろ」
繰り返される質問は吐き気のするような既視感を揺さぶり起こし、とっさに、ユーグは右手を左腰にさまよわせた。左手が携えている、義手以上に身の一部と化した刃形の死。あの夜も彼に向けて放たれた、その、ぎらつく暴力――
「く――来るな」
もう一度……もう一度彼を殺さなければならないのか。冷や汗の出るような強迫観念がユーグの身体をかたかたと震わせる。
「ユーグ・ド・ヴァトー」
夜の闇を切り裂いて、トレスの眼差しが夜間視野の禍禍しく赤い光を放ったその瞬間――
耳をつんざく雷鳴に魂を引き裂かれた剣士は、悲鳴のような気合と共に、力任せに一歩を踏み出して眼前の人形に刃を振り下ろした。


「――卿の精神状態は極めて不安定だ」
肩で息をする剣士の、半身たる剣の切っ先は、人形の額の中心に振り下ろされたものの、その髪一筋手前でぴたりと止まって動かない。
「ガ……“ガンスリンガー”……」
すがるように声を絞り出し、だが、ユーグはそれ以上、剣を引くことも、振り下ろすこともできずに小刻みに震えて動かない。
「自室に戻り就寝することを推奨する」
剣を向けられたという事実など存在しないかのように、平板な声でそれだけを言って、だが、トレスもまた、その右手に掲げたジェリコM13の、瞳と同じ赤光をユーグの額から外そうとはしなかった。
獣の唸りのような遠雷が、ユーグの身体をすくませる。その一瞬の隙をついて、トレスは銃を持たぬ左手を挙げ、刃の背を握り込んだ。
かすれたうめきと共に、剣を引こうとするユーグを許さず、泥濘と化した芝の上に、己の牙を放り出して右手でユーグの左肩を捕らえる。
「“ガンスリンガー”……」
助けてくれ。確かにユーグはそう言おうとした。助けを請えば何が許されるのか、それも理解できぬまま、震える子供のように。
それでも剣を下ろすことはなく。
「……ガンスリンガァ……」
すすり泣くように搾り出した声、だが、それは不意に断ち切られる。
限界まで見開かれた翠の瞳が、焦点の合わぬままに映しているのは、禍禍しい赤光を落としてその向こうのちらつく演算光を透けさせた――つくりものの瞳。
そして冷え切ったユーグの唇に触れる、同じほどに冷たい……人にありえぬなめらかさ。


片手でユーグの刀を、片手でユーグの肩を捕らえたまま。
トレスはユーグの唇に、触れるだけのくちづけを施していた。


ユーグが呆然としている間に、触れてくれていた唇は、また唐突にひょいと消えてしまう。そこで初めて、ユーグはトレスがわざわざ背伸びまでして、腰を屈めもせぬ相手に唇を与えてくれたことに気づいた。
「ト……」
名を呼ぶのも恐ろしく、鼓膜を裂きそうな雷鳴さえすっかり忘れ、ただわなわなとトレスを見下ろせば、人形は生真面目にじっとユーグを見返す。
「ナイトロード神父よりの助言を受領した」
「ナイトロー、ド? …………あ、ああ、神父アベルか、そうだな」
頭が麻痺したユーグを、土砂降りの雨に打たれてなお涼しげに、平然と見上げているトレスは「肯定」と、親切にも首肯した。
「ナイトロード神父は、卿が雷雨に対し精神的外傷を負っていると推測。その為、『素敵な思い出』を上書きすることが望ましいと助言された」
「すてきなおもいで」
頭がついていかず、ただ、壊れたレコードのように繰り返せば、
「肯定」
やはり生真面目に首肯して、それから、しばらくトレスは黙り込んだ。
何でこの人形は黙っているのだろう。頭の片隅でそうぼんやりと考えて、ユーグがよろよろした視線をトレスに向ければ、トレスはユーグを見上げて見据えたまま詰問する。
「この行為は卿にとって『素敵な思い出』ではなかったのか? 俺の演算結果では、卿に『くちづけ』をすることは俺にとって、あえて情動的な表現をするならば『素敵な思い出』にカテゴライズされることが判明した。
 卿の場合もそうではなかったのか?」


「もう一回」
「何?」
「もう一回したら、わかる、ような」
「室内に戻ってからでは不都合なのか? ヴァトー? ヴァ……――」


こともあろうに司祭寮の中庭――土砂降りの、雷とどろく雨の夜に。
トレスの身体はユーグにきつく抱きこまれ、人間なら確実に息が止まっていたであろう、熱烈なキスに繰り返し襲われて沈黙したのだった。








「……あのねぇ、ユーグさん……」


うっとりと眼を閉じてトレスの首に両腕を投げかけ、ソファに並んで腰掛けたまま、眼もくらむような甘いキスを仕掛けているユーグを、目の当たりにして今度こそアベルはその場に崩れ落ちた。
舌を突っ込むような真似はせず、ただ、ついばむように何度も相手の唇を食んでいたユーグは、アベルが声をかけてからも完全無視で三度ほど、キスを繰り返してからようやっと顔を上げる。
「やぁ、おはようアベル」
何事もなかったかのような顔をして、ふわん、と笑った顔の、その無駄に晧々とさっぱり輝いた美貌、そのくせ濃密にかもし出された色気という名の翳り。
「うわー……」
語ってる、語ってるよ全身で「ゆうべヤッちゃいました♪」って! ――と、畏怖の念すら込めてアベルはひくひく苦く笑う。
「ユーグさん、ここ、多分一応『談話室』なんですけど……」
「神父トレスがここが良いって言ったんだ」
「否定。俺は哨戒任務を控えているため『司祭寮に帰る必要を認めない』と――」
んー、ともう一回キスをしてトレスの反論を封じたユーグに、わなわな肩を震わせてアベルは指を突きつける。
「ユーグさぁん……そろそろ私、貴方のことクルースニクの餌食にしちゃいそうな勢いです……」
「おかしなことを言う」
トレスの右肩に手を回し、左肩に頬を押し当てて幸福に溺れているらしい剣士は、心の底から不思議げな声と、やけに色っぽい無意識の流し目でアベルを見返した。
「何がおかしいんですか大体貴方ねぇ――」
「君だってしたじゃないか」
「……へ?」
「キス」
銃の手入れをはじめてしまったトレスの、その引き結ばれたままの唇に手を伸ばし、人差し指でそっと触れてみせながら、ユーグは繰り返す。
「キスだよ、キス。神父トレスにしたんだろう」


「……ト、トレス君……トレス君まさか、」
「『まさか』――続く語彙が不明のため回答不能だ、ナイトロード神父」
「まさかユーグさんに言っちゃったんですか!? わ、わた私がその、君に」
「肯定。54438秒前、卿は俺に接吻あるいはそれに類する行為を施した。その際の会話も含め、ヴァトー神父にはすべて申告済だ」


あの時にそっと触れ合った、笑みの形の整った唇と、引き結ばれた作り物の唇。
笑みを浮かべたままの唇が、いつくしみを込めて優しく囁く。
『怖いことや、嫌なことは、素敵なことで埋め合わせして、忘れさせてあげるのがいいんですよ。
 ……私が今、君からとっても素敵な思い出を貰ったように』


その台詞から唇の感触から、何から何まですべてトレスがユーグに「申告」したのかと思えば、自然、アベルの脚はわなわな震えて泣き崩れる。
「……おお、主よ、私の命もとうとう刀の錆になりそうです」
「何か勘違いをしているんじゃないか、神父アベル?」
トレスの首筋に鼻をすり寄せながら、ユーグは眠たげにのんびりと、アベルの嘆きを遮る。
「へ? かんちがい?」
「俺は別に、君と神父トレスが多少密着した程度で妬いたりはしないぞ? キスしたくなる気持ちは実に理解できるし、今回のことなんて嬉しいぐらいだ。おかげで俺は一生ものの『素敵な思い出』を頂戴したからな」
トレスは我関せずの態で、黙々と銃を弄りつづけている。もしかしたら、照れているという可能性もあるのかもしれない。……ユーグが暴行を受けた少女を見捨てる可能性と、同じぐらいの確率で。
だがこの二人ほど、恋愛に対してマイペースに――「マイペース」の方角は180度違うのだが――なれないアベルは、ユーグの言葉に素直に赤くなって鼻の下を伸ばした。
「いやいや、それはまぁ、ええ、Axの兄貴分としては若い二人を何とかうまくくっつけてやろうとか、思っちゃいますからねぇ? ふっふっふ――」
「何より、」
今にも蕩けんかという勢いでトレスに抱きついたまま、得意がるアベルをじっと見つめ、ユーグは実にたのしげに、眼を細めて言葉を継いだ。


「これで君も『談話室で神父トレスにキスをした共犯者』だ。
 今後、俺がここで神父トレスに何をしようが、君に咎める資格はないぞ、アベル・ナイトロード」


……泣きながら走り去ったアベルを見送り、銃を腰のホルスターに収納してから、トレスはじろりと、前を向いたまま横目でユーグの顔を眺めた。
「ヴァトー神父。ナイトロード神父は、卿から何らかの精神的損害を蒙ったように見受けられるが」
「どうしてだろう。俺だったら、君におおっぴらにキスできることになったら素直に喜ぶのに」
しれっととぼけてみせてから、ユーグはトレスに寄りかかったまま、それでもやや真っ直ぐにソファの上へ座り直す。あの優しい悪魔の思惑通りに動いてしまったことが、少しだけ悔しかったがゆえの、小さな意趣返しで行った「キス攻勢」だ。アベルが出て行ってより後までしつこく続け、上司に密告されて問答無用の長期出張を食らうなどという事態は、いくらユーグでも回避したいところだった。
「……眠い」
憎らしいほど幸せそうに囁いて、ユーグはトレスの肩に額をもたせかける。外では、昨夜から身を凍らせる雨が降り続いているが、談話室の中は平穏だった。
「睡眠障害は発症していないのか?」
「今は、しない」
眼を閉じて、手探りに右手でトレスの左手を握りしめ、ユーグはひとつあくびをした。
「……それは俺が提供した『思い出』によるものか?」
トレスはぴしりと背を伸ばしたまま、前を向いて動かない。ただ、その作り物の眼がぎろり、と動いてユーグを見た。
「そうだな……でも、『思い出』はいつも作られている。今もだ」
繋ぐことを拒まれなかった手を、ゆっくり指先で撫でて辿りながら、ユーグは緩慢に囁く。
「俺は欲深いんだ、神父トレス。『思い出』をいくら喰らっても足りない。もっと欲しい。……雨の日も晴れの日も、星を見ても、花を見ても……いつも君を思い出すぐらい、君との『素敵な思い出』に生涯の全てを塗りつぶされたい……」
助けられなかった人質の少女を抱いて、天を呪った、「うららかな春の午後」。吸血鬼に後れを取って脚を折られ、泥濘を這って逃げた「静かな冬の朝」。警護対象の貴族に、嘲りを交えた好色の手を伸ばされて拒むことを許されなかった「寝苦しい夏の夜」。
……彼を殺し、彼に殺されて楽になるのだと全身で刺突を求めた「春雷の宵」。
「すべてだ。……すべて、君に埋めて欲しいんだよ、神父トレス」
実際には、悪夢を塗りつぶすことなどできないのだろう。優しい人たちや人形と、どれほど「素敵な思い出」を重ねても、過去は絶え間なくユーグを襲い、そして苦しめるに違いない。
だが……「素敵な思い出」になる「素敵な現在」が存在することが、どれほどユーグの救いになることか。
甘く口説くように見えて、どこか必死にトレスの確かさにすがりつくユーグの、その心根を理解しているのかしていないのか。ただ黙って、手入れを終えた銃を膝の上に置き、それを見つめていたトレスは、やがて不意に顔を上げると、ほとんど機械のような唐突な正確さで、ぐっ、と左方面に首を捻じ曲げた。
「……?」
その勢いに驚いたユーグが、思わずトレスの左肩から顔を離す。
するとトレスはがつん、と音のしそうな勢いで、無機的にユーグに唇をぶつけた。
「…たッ…」
下唇に走る鈍い痛みに、思わずユーグがのけぞれば、勢いを誤った機械化歩兵はやや反省の態で顔を引く。
「ト、……トレス?」
乙女のように両手で口を押さえたまま――理由は単純に痛みと驚きの為であるが――、説明を求めるように、うろたえた眼差しをユーグはトレスに向ける。自分は好き放題相手に口づけを仕掛けるくせに、相手から与えられると途端にうろたえる辺りが、教授が「彼も可愛いところはあるんだけどねぇ」と評する理由だろう。
対してトレスは当たり前のように答える。
「卿は『素敵な思い出』を多数要求した」
「それは、」
困ったように顔を赤らめて、ユーグは思考の固い人形に説明する。
「……それは、神父トレス、君と共にいることができれば、それだけで『素敵な思い出』になるんだよ」
「…………」
しばらく黙ってユーグを睨んでいた――彼に「睨んでいる」という意識はなくとも――トレスは、やがて詰問と言ってもよい口調で問いつめる。
「この行為は卿にとって『素敵な思い出』ではなかったのか?」
「ああ……」
肯定の意ではなく慨嘆の意で呻き、今度は幸福な既視感に酔いながら、ユーグは溜息交じりに答える。
「……勿論、驚くほど素敵な思い出だが」
「なら問題はないと判断すべきだ」
珍しく強硬に主張するトレスに、ある可能性を思いついたユーグは尋ねる。頑是無い子供をあやすように、からかいを込めて無駄に優しく。
「なるほど。つまり君は、俺にキスしたくなったんだな? “ガンスリンガー”」


「否定。ただ俺は『素敵な思い出』として確認済でない未確定の行動を起こすよりは『素敵な思い出』として確認済の――」
何もそんなに、というほどよどみなくなめらかに早口で否定の言葉を並べ立てるトレスの、その言葉の開始の前に、詰まったような0.6秒間の空白があったことを、ユーグは当然見逃さなかった。
まだ喋りたてるトレスを力いっぱい、抱き寄せて抱きしめて頬擦りする。
「ヴァトー神父。聞いているのか。卿は――」
「ほら、『素敵な思い出』だ」
幸福の海に溺死しそうな気分で呟けば、
「……『素敵な思い出』の具体的内容が把握できない。説明を要求する」
どこか憮然と、抱きしめられて押しつけさせられた肩を凝視し、トレスは呟く。
「わからない時はいつでも俺にキスをしてくれよ。それは『素敵な思い出』として確認済なんだろう?」


「――――――――肯定」
長い長い葛藤のような沈黙の後に、ぼそり、とそれでもトレスは答える。
ありがとう、の言葉どころか下唇の痛みも――いや、自分がどこにいるのかさえもすでに忘れて、ユーグは眼前の硬い髪に、冷たい耳朶に、そして引き結ばれたままの唇に、何度も繰り返しキスをした。


そしてユーグの暴走は、アベルの告げ口によってイヤイヤ駆けつけたレオンに、「ところ構わずサカるんじゃねえ」と襟首掴んで引き離された挙句、拳骨まじりに説教されるまで続いたという。