7――新米パパと徒競走/前編
「突然だがユーグ」
「片づけてからではいけませんか?」
片手にたたんだ布オムツの山を、片手に師匠の学術書の山を、積み上げてバランスを取りながら歩くユーグは、振り返りもせずにそう尋ね返した。
「ひどい言い草じゃないかねトレス君……師匠と呼ぶ相手に向かって言い捨てたよ。師匠と言えば別称は師父、師父と言えば父も同然だ。その父親に向かって……ねぇ?」
「うぅ?」
ユーグが積み残した布オムツと、ころころ格闘していた重量級のベビーは、仰向けに転がった状態で教授を見上げる。
「……師匠……俺は『貴方の』言いつけで今、『貴方の』部屋の片づけに取り掛かっているんですが……」
「ほら聞いたかねトレス君? 彼は君の能力測定に関する一大事でも、家事を優先させるつもりらしいよ」
「にぅ」
とりあえず、教授の心外げな言葉につられたか、小さな機械化歩兵は、仰向けのままもぞもぞとむずかった。
いくら清潔とはいえ、小さなトレスが噛みしめたり引っ張ったりしているのは布おむつである。ユーグは仕方なく、両手の荷物をソファに下ろし、よいしょ、と小さな手の中の白布を引っ張った。「ねがてぃぶ、これはおれのしぶつだ」と言いたげに、にぅにぅおむつに顔を埋めているトレスと、辛抱強く引っ張りっこをしながらユーグはついでに、敬愛する師匠のこともちゃんと相手をしてやった。
「どういうことですか? 神父トレスの能力測定とは……」
「そう頑迷に引っ張るのはどうかと思うねぇ、ユーグ。その小さなトレス君は、別に下から汚物を出しているというわけじゃないよ。そもそも、洗浄滅菌済の襁褓が不潔なはずもない」
「師匠……」
孫を甘やかす舅に手を焼く、若き嫁の気分を無駄に味わされながら、ユーグは「どういうことですか」と辛抱強く問いを繰り返した。
「うん、実は彼の移動速度を測ってみようかと思ってね。10メートル走なんてどうだろう?」
「……はいはいで、ですか?」
「勿論だよ。彼には二足歩行の能力がないのだから」
自分のことが話題に上がっているとは知らず、無邪気なサイボーグ・ベビーはユーグの手から無事におむつを取り返し、満足したのか顔を埋めたまま「ふにゅ」と寝息を立てている。
赤ん坊らしく、ひたすら自分の欲求を追及するように作られたその機体に手を伸ばし、くるまったおむつを剥がして抱き上げてやりながら、ユーグは首を傾げた。
「しかしこの神父トレスに、10メートルの直線距離を飽きずにまっすぐ移動することができるでしょうか?」
「ま……その辺りは僕に思案がないわけじゃない。というわけで、」
その何気ない接続詞を聞いた瞬間、ユーグは自分が「俺には貴方の言いつけた仕事が…」と言い出すタイミングを逸したことに気がついた。ユーグの表情の変化に気づいたのだろう、片眉を上げてみせると教授はさらり、と言葉を継ぐ。
「勿論、君も手伝ってくれるんだろうね? ユーグ」
忠実なる弟子に、選択の余地などあるはずもなかった。
「あれぇ、ユーグさんどうしたんですか?」
貰い物らしい菓子パンの袋を抱え、とろけた顔でほくほくと廊下を歩くアベルが、そんな素っ頓狂な声をあげる。教授の実験室に続く、その廊下の中間地点辺りに佇んで、所在なげに腕の中のものをいじっていたユーグは、顔を上げてなんとも困ったように笑った。
「師匠のいつもの気まぐれでな」
「ああ、ユーグさんったらまた貧乏くじ引いてるんですね? 進歩しないなぁ」
自分のことを棚に上げて、アベルはひょろりとしたその長身で威張ってみせる。「君に言われたくはない」と即座に返して、ユーグは腕の中のもの――ぬいぐるみのくま「ゆーぐ」を軽く撫でた。
「ちびとれさん、いないんですか?」
シスター・ケイトの真似をして、あの勇敢な赤ん坊をそう呼んだアベルは、ぬいぐるみを覗き込み、指先でつんつん、とつついてみる。
「今から出てくるんだ。10メートル走のタイムを計る為に」
「……誰の、何のタイムですって?」
「小さな神父トレスの、10メートル走のタイムだ」
どんなに馬鹿馬鹿しい企画であっても、小さな神父トレス絡みのこととなればとりあえず、ユーグは真剣に臨むことにしている。アベルは首を捻って考え込み、やがて「10メートル走っていうか、10メートルはいはいですよね」と大真面目に感想を述べた。
「問題は、彼が10メートルもまっすぐはいはいをしてくれるかどうかなんだ。師匠が仰るには、俺とこのぬいぐるみが……」
廊下の奥の扉が開き、ユーグは話を中断してそちらに顔を向けた。
「あ、教授! こんにちは、ユーグさんのお茶飲みに来ました」
ただで飲める茶を当て込んで来たのだろう。紙袋片手にアベルがぶんぶんと手を振る。
「やぁアベル。ちょうどいい、君もそこにいてくれると助かるんだが」
「へ? あ、ちびとれさ〜ん」
「ぷぅ」
教授の腕の中で、元気良く良い子のお返事をしたベベ・トレスは、さらにユーグとゆーぐを発見するに至って「ゆー、ゆー」とゆさゆさ跳ねだした。
「え、ええと……神父トレス、おはよう?」
「ぷぅ」
やけに緊張している不審者にも、律儀に「おはようの肯定」をしてやったサイバー・ベビーは、「いどうをすいしょうする、ぷろふぇさあ」と言いたげに教授を見上げる。
「待ちたまえ、今下ろすからね」
教授はその場から移動せず、代わりに「よいしょ」と腕の中の20キロを下ろしてやった。
「うぅ?」
ちょっと「おかしいな?」とは思った様子だが、10メートル先のユーグとゆーぐへ突撃することが、現在の最重要課題と判断したのだろう。ベベ・トレスは喜び勇んで、ばたんばたんと重々しくはいはいを始める。
小さな機械化歩兵の堂々たる進軍と、ストップウォッチ――わざわざ首から提げて装備している――を覗き込む教授、その二人を見比べて、「ああ、なるほど」とアベルは手を打った。
「ここがゴール地点なんですね、ユーグさん」
「そうなんだ。うまくいくかな」
初めての授業参観で、いきなり我が子が指名されてしまった親のような眼差しを、ユーグはハラハラと突撃ベビーへ向けている。
その言葉を耳にしたわけでもないだろうが、おいちょ、おいちょ、といった具合で懸命に機体を動かしていたベベ・トレスは、ふと、ぱっちりと眼を見張ってユーグを改めて見上げる。
「……神父トレス?」
ぬいぐるみの手を振ってみせてやりながら、あやぶむように呼びかけた新米パパ(仮)に「うぅ?」と、なぜか自信なさげに小さく唸ると、ヘヴィ級のサイボーグ・ベビーは、ちょこんとその場に座り込んだ。
「あれれ? とれすくーん、あとちょっとですよ?」
「……」
返事はない。小さな同僚は廊下の真中に座り込んだまま、後ろを振り返って教授を見、そして、前に向き直って、心なしか意気消沈した様子でユーグを見上げた。
「……うぅ……?」
「ぐ!」
咽喉に詰まったような一声を漏らすと同時に、ふら、とユーグの身体が前に出る。
「ちょ、ちょっとユーグさんダメですよ!」
僧衣の袖を引かれてやっと踏みとどまるも、ユーグの眼は既に赤ん坊以外見えていない。
「にぅ」と少しぐずって、おむつのお尻を不安げにゆさゆささせたベベ・トレスの、その丸っこい後姿を眺めやって教授は溜息をついた。
「やれやれ……『新米パパの育児日記』に、抱き癖について書いていなかったかね、ユーグ? このトレス君は、生後1年弱の乳児の外見に設定していたと思ったが」
「は、申し訳ありません……ですがその……」
恐らく厳格なイギリス貴族の家庭に生まれ育ったのだろう、ここぞとばかりに舅風を吹かせる教授の、ベベ・トレスの頭上を越えての叱責にユーグはうなだれる。
しかし、
「にぅ、にぅ」
本格的にゆさゆさしはじめた、小さな同僚を見てしまうとその叱責さえ吹っ飛ぶらしく、再びユーグはふらふらゴールラインを超え始めた。
「ユーグさんってば! ナニ操られてるんですか!」
「し、しかしアベル、彼が……」
「ゆーぅ…?」
「!!! 離せ! 離せアベル! 俺は行かなければ!」
「ちょっと教授、もうこの人麻酔銃か何か撃ちこんで下さいよ!」
「ふむ、麻酔銃『か何か』ということは実弾もありかね?」
「変なとこ拘ってないではやくーーー!」
羽交い絞めにされてもがいているユーグと、それにずるずる引きずりまわされているアベルを、物悲しげに――多分ちょっと呆れてもいるかもしれないが――そのおっきな瞳で見上げていたベベ・トレスはもう一度、「にぅ」としょんぼり丸くなった。
だがそのかしこげな眼差しの奥に、ちかちか、と何やら考え込むような光が走る。
「ぷぅっ」
ぴかーん! と頭の上に電球でもつきかねない勢いで、何かを思いついたらしいサイバー・ベビーは顔を上げた。
その勢いに、もみ合うアベルとユーグも思わず固まって、5メートル先の物体を見返す。
どこかで見た記憶を、簡単なつくりではあっても十二分に有能な演算装置で懸命に、検索して引っ張り出してきたのだろう。
もう一度、「ぷぅ」とユーグに向けて一声元気に宣言すると共に、賢い赤ん坊は両手を一杯に伸ばして、「だっこ」とせがむポーズをしてみせたのだ。
刹那、ズズン! と重い音が廊下を震わせる。
「うぅ?」
びっくりしたように固まった赤ん坊が、伸ばした手を引っ込めかけた時には既に、そのふにゃふにゃずっしりした機体は勢い良く持ち上げられ、そして金髪と黒衣の中に埋もれていた。
「すまない……すまない神父トレス!」
何だか感極まった声が、頭上から赤ん坊に向けて降ってくる。
「うーぅ?」
「君をこんな不安な目に遭わせてしまって……大丈夫だよ俺の天使君、もう一人になどするものか!」
頬擦りされまくり、キスされまくり、抱っこされまくり、あやされまくりの赤ん坊は珍しく、目を白黒させながら固まったまま動かない。
だがやがて、とりあえず一件落着したらしいと知ると、改めてぎゅう、と目の前の金髪を掴み、不実な大人にしっかりと抱きついた。
「スタートから62秒38か。……まぁ、よくもった方かね」
「…………教授〜……」
ゴール地点で大の字に伸びているアベルの顔を、片手にストップウォッチを持ったまま、傍らに佇んで教授は覗き込む。
あの「だっこ」を見た瞬間、理性を吹っ飛ばしたユーグは即座に、背中のアベルの襟を取って一本背負いをキメたのだ。
骨の髄まで殺人術を叩き込まれているサムライに、手加減してもらえたのは幸運としても、さすがのアベルもこの扱いは納得が行かず、寝転んだまま口を尖らせる。
その顔を見て、片眉を上げてみせた教授は、親子の絆をぎゅうぎゅう再確認している5メートル先の一人と一体に視線を振った。
「君が拗ねたくなる気持ちはわかるが、いくらユーグでも正気に戻ればそれなりに反省のひとつもすると思うよ。さぞかし、美味しいお茶とお菓子をたっぷり奢ってもらえることだろう」
「……おお、主よ、それならちょっといいかもとか思っちゃう自分が心底恨めしいです……」
背中から廊下にたたきつけられても、菓子パンの袋だけはしっかり死守したまま、きゅう、とアベルはその場に力尽き、楽しいティータイムの夢へと逃避したのだった。
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