7――新米パパと徒競走/後編
女主人が戻ってきたので、教授は彼の小さな傑作を伴って、そのご機嫌伺いにと出かけてしまった。取り残された不幸神父二人は来客用のソファに腰掛け、紅茶と三種類ほどのサンドイッチ、スコーンにジャムやクリームで、それなりに豪勢なアフタヌーンティを――ユーグの奢りで――楽しんだ。
「はぁ、これなら私、もう一回ぐらい投げ飛ばされたっていいです」
今月の食費をどれだけ切り詰めることができるか、ぎりぎりの計算を1ディナール単位で繰り返していたユーグは眉を寄せ、「これ以上奢らされるのはごめんだ」と言い返す。
3つめのスコーンに手を伸ばし、「うわぁ、くるみ入りですよこれ!」と無駄に大喜びしながらアベルは、気勢のあがらぬ同僚の顔を覗き込んだ。
「心配要りませんよユーグさん、人間、滅多なことじゃ餓死なんてしないもんです」
彼に言われるとリアリティが嫌な感じだ、と思いながらもユーグは「違うんだ、アベル」と苦笑する。
「師匠の実験を台無しにしてしまったのが、申し訳なくてな」
「……多分、教授もあの実験が成功するとはあんまり思ってなかったと思うんですけど」
ストップウォッチ片手に覗き込んできた、飄々たるアルビオン貴族の顔を、アベルは思い出す。それどころか、あの食えない紳士はきっと、ユーグが心を鬼にしてベベ・トレスを放置しつづけたら、それはそれで機嫌を損ねたのではないだろうか。
アベルがそう指摘すれば、ユーグは「そうかな」と伏し目がちに笑い、その笑顔の続きのようにさらりと言った。
「妹がいた。知っているだろう」
「……はい」
のんびりとした表情を、途端に翳らせた同僚へ、心配するな、と眼で告げる。
「妹はとても可愛かった。はじめて立った日は、厳しかった父さえ手放しで喜んだものだ」
優しく眼を伏せて笑ったままの顔で、ユーグは囁いた。
「だがあの小さな神父トレスが、自分の力で立つことはない」
「ユーグさん……」
「彼は成長しないんだ。あの脚が、重い頭部を支えるまでに強くなる日は永遠に来ない」
公園に、小さな同僚を抱いて連れて行った日のことを、ユーグは思い出す。
可愛らしい赤ん坊が、捕まり立ちし、手を離しては転び、大泣きして周囲を慌てさせるその光景。
ユーグの膝の上で、一部始終を見ていたユーグの可愛い赤ん坊は、「おれもちょうせんする」と言いたげに、張り切って練習を始めようとしたのだ。
それを逃げるように抱きかかえて、連れて戻ってきてしまったのはユーグだった。
「大きくても、小さくても、神父トレスは頑張り屋だ。たとえ、その努力がまったくの無駄に終わったとしても、彼は、……彼らは、本当にいつも一生懸命なんだ。俺はそれがいたたまれなくて、いつもそこから逃げてしまう」
ユーグは手を伸ばし、テーブルに落ちていたスコーンの欠片をつまんで、几帳面に皿の端に置いた。『二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひ来るみちに、いと小さき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへ』――小さなトレスもよく、そうしてあの丸々とした小さな手に、埃など握りしめては「ぷぅ」と、生真面目な顔でユーグに報告してくるものだ。そのたびにユーグもやっぱり生真面目に、「ありがとう、掃除が行き届いていなかったんだな」と感謝しつつ、拳を開かせて丁寧に洗ってやるのだった。
「間違っているのはわかっているが、時折、あまりにもいたたまれなくて、こう言ってしまいたくなる、『君は何もしなくていいんだよ』と……
俺はダメな親だな。可愛くて甘やかしているんじゃないんだ。自分自身が苦しいから、甘やかしているだけなんだから」
何より罪深いことは、そうして自己満足で甘やかした結果、あの無邪気な天使に癒されて、自分ばかりが幸福を甘受しつづけていることだろう。口には出さずとも、ユーグがその忸怩たる想いに顔をゆがめれば、
「でも、ユーグさんは間違ってないですよ。そりゃダメ親じゃないとは言いませんけど」
やけにあっさりと、ユーグの行動を肯定し、アベルはクロテッドクリームを、山のようにこんもりスコーンに盛り上げる。
「……間違っていない?」
「ええ、間違ってません。だって、あのちっちゃなトレス君は、甘やかされる為に生まれたんですから」
やっぱり当たり前のようにそう言って、あーん、とアベルは至福の表情でスコーンを頬張った。
「ああ、主よ、生きてる実感が今ふつふつと!」
感激のあまり目に涙を溜めてひとしきり神への感謝を捧げると、アベルはクリームのやわらかさが伝染したような笑顔を、ほやほやとユーグに向けた。
「誰の満足の為でもいいんです、それでトレス君が幸せな気持ちになれるんなら、どーんと甘やしちゃえばいいんです。
甘やかしてもらうのが、ちっちゃなトレス君のお仕事なんですよ」
「アベル……」
「はい?」
「クリームついてる」
「ややっ、このキメ台詞の後にこれはちょっとNGですね」
手を伸ばし、手袋をはめぬ繊細な指先で、口の端のクリームを拭ってやるとユーグは、己の指先のそれを舐めとった。
「たはは、すみません」とひとしきり照れ笑いをしてみせながらも、アベルの胸にはかすかな痛みがチリリと差し込む。
ユーグの苦悩は正しい。それはユーグが父親として合格か失格かというレベルの問題だけではなく、もっと根本的な――現状の、滑稽なまでの不毛さによるものだ。
「ぷぅ」「にぅ」と何事にも全力投球な、懸命なあの小さな赤ん坊は、実際にはひとかけらとて人間の脳は使われておらず、神父トレスという機械化歩兵の一端末、一個の機械に過ぎないのだから。
上手にこくこくミルクを飲んでみせても、ふやふやあくびをしてみせても、バンザイの格好ですやすや寝てみせても、それはすべて、機械に必要な循環剤やエネルギーの充填を「赤ん坊らしく見せかけて」いるに過ぎない。
その機械を取り囲んで、大の大人がよってたかって、まばたきひとつにこぞって一喜一憂する。
「家族」を喪った者たちが、その埋め合わせをするかのように、機械の子供を作り上げ、それに何か――生涯与えられまいと諦めていたはずの「救い」めいたものさえ、そこに求めようと必死にすがりついているのだ。
甘やかす為に造られた、乳児型のたった一個の機械人形に。
でもそれを断ずる資格が、いったい誰にあるというのだろう……?
――汝らのうち罪なき者、この女を石もて打て。
そう口の中で囁いて、アベルは子供にするように、ユーグの淡い金の髪を撫でた。
「アベル?」
「こんなに素敵でへんてこりんな家族に囲まれて、おっきいほうも、ちっちゃいほうも、トレス君は幸せ者です」
「そのへんてこりんの中に君自身は含まれているんだろうな?」
「私ですか? 私は――」
否定しようとしたのは、「へんてこりん」か、それとも「家族」か。アベル自身にも判然とせぬままに、ユーグは言葉を押し被せた。
「君だって家族だろ。素敵で、へんてこりんな」
「……あー……その、私、おかわりいただきます!」
咎人にあるまじき幸福に、ほとんど泣きそうになりながら、だが、泣きそうな己を許すことができず、アベルは鷲掴みの勢いで新たなスコーンに手を伸ばす。
「アベル、勢いづいたところに悪いがそれは俺のスコーンだ」
「赤ちゃんにべろべろ甘えてもらってるお父さんに、スコーン食べる資格なんてナッシングです」
「いいんだ、俺は失格パパンだから。食べる資格がある」
「なんですかその破綻論理は!」
照れ隠しから始まったはずの、不幸神父の醜い争いは、部屋の主が帰還して、「で、僕の分はどこにあるのかね」と冷ややかに指摘するまで、性懲りもなく続いたと言う。
教授が出て行ってしまうと、そう狭くもない分室にはミラノ公と、そして小さな機械化歩兵とその親友のくまゆーぐだけが取り残された。
出て行ったといっても、ベベ・トレスの「皮下循環剤注入器」――つまり哺乳瓶――を、実験室に取りに戻るだけだ。せいぜいが十分程度の不在だろう。だがたった十分程度のことであれ、赤ん坊を扱い慣れぬミラノ公はどっしり構えると言うわけにも行かず、ソファにやたら背筋を伸ばして腰かけたまま、床の絨毯の上でくまとたわむれる赤ん坊を懸命に見張っていた。
仲良しのくまを引っ張ったり叩いたり、時にはボディプレスしてみたりと忙しいベベ・トレスの様子に、教授が飄々と話して聞かせた、実験の報告内容をミラノ公は思い出す。
「……随分と、甘えん坊さんになってしまったわね? ちびとれさん」
囁いてみたが、くまを押し潰す――もしかしたら愛情こもった抱擁なのかもしれないが――のに夢中の赤ん坊は、主の小声を珍しくも聞き逃したらしかった。勿論、聞こえるように囁いたつもりはなかったから、ミラノ公も特に注意を引こうとはせず、くまを押し潰したままうつぶせにぺちゃりと自分も潰れているスーパー・ベビーを、ただほほえましく見守っていた。
だが、
――そういえば。
ふと、この知性豊かな枢機卿の頭脳にひとつの策謀が浮かび上がる。
そして真紅の法衣の裾を上品に持ち上げると、麗人はソファからそろそろと立ち上がった。
くまを抱きしめたまま、なにやら哲学的な表情で考え込んでいるベベ・トレスは、敬愛してやまない女主人の抜き足差し足にも気づかない。
そのままミラノ公はそろそろと、部屋の隅まで後ずさると隣室に続くドアを開いた。
そこでようやく、「うぅ?」と小さな騎士は主君の姿をきょろきょろと探す。
「こっちよ、小さなトレス」
開け放したドアの向こうから、世界一大事な声がやわらかくかけられた。
「ぷぅ」
りょうかいした。と元気に一声お返事をして、くまをひきずるベベ・トレスは、声の方角をよたよた探す。
そして隣室、合計約10メートルほども離れたところに椅子を置いて、黄金と真紅の大好きな人が上品に腰かけている姿を発見した。
「ぷぅっ」
がぜん張り切って、重々しくも勢い盛んなあのはいはいがスタートする。
そのまま5メートルほども、ばたんばたんと忙しく、丸々した手足を振り回して突進したベベ・トレスは、
残りの5メートルも、わき目もふらず突進し続け、一度もストップすることなくミラノ公の足許に、たどり着いてぎゅう、とくっついた。
「まぁ、トレス……」
褒めてもらえると信じて疑わない、おっきな眼差しできらきらと見上げられて、ミラノ公は吹き出したくなるのを必死でこらえる。
「……いい子ね」
震える声でやっとそう褒め、持ち上げられない分ひたすら髪や背を撫でまくってやれば、彼女の猟犬は満足げに、またくすぐったげにふにゅふにゅ身体をゆすってみせた。
やはりどんなに小さな下位端末でも、ガンスリンガーはその根底からガンスリンガーに違いないのだ――そう確信して、手袋や法衣にじゃれつかれながら、彼女はひとりこっそり含み笑った。
ミラノ公独自の実験結果は当然、教授に詳しく報告されるだろう。
この小さな、勇敢な猟犬の、女神に対しいかに惜しみなく、忠誠と献身を捧げているのかということを。
そしてこの小さな、無邪気な赤ん坊が――本体に許されぬ幾多の甘えを、いかに存分に、同僚たちにだけ行使しているのかと言うことを。
Soon... → 8.お義姉さまと末っ子君