5――お義母さまと膝枕



「……申し訳ありません」
剣鬼死神の名をほしいままにするこの派遣執行官に、このように、心底困惑した声を出させることができる相手などそうそういるものではない。
「貴方のせいではないでしょう、“ソードダンサー”」
その台詞とは裏腹に、至極冷淡な声でカテリーナは、眼前の青年を一瞥した。
女主人の落胆と苛立ちが伝わるのか、ますます恐縮の態を強めてユーグは、稀有なる翠瞳を下方へ向ける。
「神父トレス……ミラノ公の御前だぞ?」
やんわりたしなめられた“ガンスリンガー”――……の、下位端末たるサイボーグ・ベビーは、実に心地良げに休眠態勢を保持したまま、「ふにゅ」とユーグの腕の中で身じろいだ。


「どうも遊び疲れてしまったようで……」
「わかっています。随分とたくさん遊んであげたのね、神父ユーグ?」
「……は、その……ええ」
美貌の女枢機卿にやんわり微笑まれ、美貌の派遣執行官はどもりがちに視線をそらす。
普段、トレス・イクス本体を付き従えているがゆえに、カテリーナはなかなかこのベベ・トレスに会うことができない。やっと執務室まで呼びつけることができたかと思えば、ユーグ相手にさんざん遊んだ機械仕掛の赤ん坊は、満足しきってすやすやご就寝――となれば、カテリーナでなくとも腹を立てるだろう。大人気ないことだと自覚はしつつも。
しかもカテリーナの腕力では、この20キロのヘヴィ級ベビーを抱き上げることなど不可能である。結局カテリーナは、仮のパパに抱かれてしあわせそうな赤ん坊を、傍から覗き込むぐらいのことしかできないのだった。
「……特に機体に異常はないのですね?」
とってつけたように事務的なことを問いながら、カテリーナは教授から提出された、小難しい幾多の報告書に目を通す。執務机に腰掛けたままだったから、気軽に立ち上がって、赤ん坊の顔を覗き込みに行くタイミングを逸してしまった。それがまた一段と腹立たしい。
「はい。元気すぎて困るほどです」
言わなければ良いものを、ユーグはそんな表現で無意識にのろけてみせた。どこが困っている顔なのやら! と心中穏やかならぬ相槌を打ちながら、「そうですか」と優雅にカテリーナは頷き返す。
カテリーナの胸中には気づくことなく、だがその端正な面差しに気遣わしげな色を加えて、ユーグは腕の中の熟睡ベビーを抱き直しながら言葉を継いだ。
「ただ、少し頭が重いらしく――」
<お話中すみません、カテリーナ様、神父ユーグ>
ピピ、という小さな警告音の後に、遠慮がちなシスターの声が割って入る。
「シスター・ケイト、どうしました?」
<たった今、ヒスパニアの教授から連絡がありまして……実験中の薬品をひとつ、実験室に置き忘れてしまったそうなんですの>
「実験中」「薬品」そして「教授」という嫌な取り合わせに、ユーグの目元がかすかにひきつる。カテリーナも眉を寄せた。
「それは危険な薬品なのですか?」
<放っておくと増殖…? するそうですので、早めに神父ユーグに始末して欲しいそうですわ>
一体何がどのように「増殖」するのかはわからないが、すでに諦めの表情も色濃いユーグはひとつ、物悲しげに嘆息してミラノ公に向かって一礼した。
「15分たっても俺から連絡がないようでしたら、実験室を封鎖して教授へ連絡をお願いします」
「……気をつけて行ってらっしゃい」
心の底からそう声をかけ、すぐにミラノ公は「神父ユーグ」とものやわらかく、だが断固とした声で彼女の猟犬を呼び止めた。
「は、何か?」
「それは置いて行きなさい」
「……あ、」
ユーグは腕の中の、抱きごこちのよさからつい手になじむ赤ん坊と、呆れた表情を隠そうと努力してくれているミラノ公を見比べた。


赤面してユーグがソファに赤ん坊を寝かせ、執務室から出て行くと、室内には一人と一体が残された。
ソファにべったりうつぶせにされたまま、片手にしっかり「くまユーグ」を鷲掴みにして離さないベベ・トレスに、カテリーナは足音を忍ばせて歩み寄る。
そしてやや及び腰になりながら、そうっ、とその顔を覗き込んだ。
大人の本体と同じように、やたらと生真面目な顔でサイボーグ・ベビーは眠っている。頬がふっくらしているせいか、少し口を尖らせているように見えた。それがいかにも「眠ることに熱中しています」といった様子でつい、カテリーナは口元をほころばせる。
「……どんな夢を見ているの、『ちびとれさん』」
そっと囁けば、力強く握られたその小さな拳が、ピクン! と震える。
何事かと思わず身を引けば、彼女の小さな騎士は、ぱちりと勢い良く目を開けた。
「あ、」
起こしてしまった。そう思いつつも、とっさにどう対処すればよいのかわからず、さらに怖気づいたように彼女が後ずされば、サイボーグ・ベビーは元気良く、だがどうにもあやふやな様子で、とりあえず「ぷぅっ」と一声宣言する。
そしてよいしょ、とソファに両手をついて力むと、誰かを――おそらくはユーグを探してその眼が、きょろきょろと辺りを見渡した。
「ええと、トレス、起きた…のね?」
いかに赤ん坊とはいえ、“ガンスリンガー”相手に「いいこでちゅねー」と猫なで声を出すのも恥ずかしく、曖昧にカテリーナは笑いかけてみる。
すると、はいはいの格好のままの赤ん坊は、首が折れるのではないかというほどにめいっぱいに顔を上げて、彼の大好きなご主人様の姿を確認した。
「ぷぅっ」
「くりあ、みらのこーをかくほした」とでも言いたげに、張り切ってよい子のお返事をしたベベ・トレスは、そのまま、明らかに何も考えていない様子でくまのぬいぐるみを振り回し、カテリーナに向けてはいはいをする。
「え?」
確認するまでもなく、このサイボーグ・ベビーはソファの上に寝かされており、カテリーナはそこから一歩離れた床の上に佇んでいる。そして両者の間には数十センチの段差があった。
目が覚めてみれば目の前に、世界で一番大事な人が立っていたのだから、ベベ・トレスが張り切る気持ちは実に理解できるのだが、
「トレス、ちょっと待っ――きゃああっ!」
止める暇もあらばこそ。
カテリーナの目の前で、ベベ・トレスはまっさかさまに、ソファの上から転がり落ちたのだった。


「トレス、貴方!」
床にひっくり返ったままのベベ・トレスに仰天して、カテリーナは執務室の絨毯の上に崩れ落ちる。
するとかちこちにフリーズしていた赤ん坊は、「にぅっ」とうろたえたような一声とともに、じたばた床の上で暴れだした。
「ど、どうしたの、トレス、どこか痛いのね?」
「にぅっ、にぅっ」
おろおろするカテリーナにますますうろたえた勇敢なミニサイボーグは、ようやく寝返りのタイミングを掴んだらしく、がばっ! と勢い良くうつ伏せると、よろめきながらはいはいの姿勢を取ってみせた。
ユーグが相手だと、抱き上げてくれるまでひっくり返ったまま動かないくせに、ご主人様には格好良いところを見せたいのか、「のーぷろぶれむ」とでも言いたげに、よたよたはいはいしてミラノ公の膝に進撃する。
「まぁ……」
その強がりがトレス・イクス本体にそっくりで、胸がいっぱいになったカテリーナは、伸ばされた小さな手が膝をつかむままに、優しく、小さな茶色の頭を撫でてやった。
「貴方は本当に強い子ね、小さなトレス……頼りになるわ」
「ぷぅっ」
もっと褒めてほしいのか、それとももっと撫でてほしいのか、大きな眼を見張ってベベ・トレスはカテリーナを見上げる。
花咲くように微笑みかけて、小さな背中を包むように両手で支えてやれば、大喜びで彼女のミニ・ガンメタル・ハウンドは、よじよじとその膝にとりついて覆い被さった。
当然の結果として、のしっ! と音でもしそうな重量感が、カテリーナのほっそりした膝、その法衣にのしかかった。
「……うぅ?」
不思議そうに、ヘヴィ級のサイボーグベビーは、笑顔をひきつらせたカテリーナの顔を見上げる。普段、男性の派遣執行官たちに、好き放題抱っこされたり投げ上げられたり、時には振り回されたりしているベベ・トレスが、己の機体の重量に思い至るはずもない。
「な……何でもないのよ」
思わず声も震えながら、それでもカテリーナは気丈に、小さな騎士に微笑を与える。
「ぷぅ」
安心したのか、ベベ・トレスは遠慮なくカテリーナの膝にとりつくと、足場の悪さもものともせず、そのまま膝の上で丸くなり、くまのぬいぐるみにかじりついて眼を閉じてしまった。
それはちょっと……! と今更異議を唱えることもできず、拷問のような重さによろめきながら、大好きなママの膝の上で至福に浸る赤ん坊を、カテリーナはただ、見下ろす。
緋色の法衣、朱の絨毯、その中でじっと眼を閉じて動かない、彼女の子供。
「……あの時と、一緒ね、小さなトレス」
重さに耐えながら、カテリーナは手の中の、ぷくぷくした頬をそっとつついた。
「私がこうして膝をついて、お前は赤い水溜りの中で、眼を閉じて動かなかったわ」
この小さくも重たい赤ん坊――の、もっと重たい本体が、腹を裂かれ、壊れて転がっていたその光景を、カテリーナは思い出す。
あの時、彼女が拾わなければ、「この子」はあのまま眼を閉じて、静かに、その哀れな生涯を全うしていたに違いない。
壊れても砕けても、懸命に強がって、彼女の元に這っても戻る、彼女の子供。
「……ごめんね」
揺るぎなきあの機械化歩兵の前では、揺るぎなき主君でいることこそが、彼女の務めと思えばこそ、もらすことのできなかった一言がぽつりと、赤ん坊に降る。
ごめんね、ごめんねと何度も繰り返し、その言葉を囁けば、物知らぬ幸福なサイボーグベビーは、やっぱり「ふにゅ」と小さくむずかって、20キロのボディで満足そうに身じろいだ。


僧衣のあちこちに焼け焦げを作ったユーグが、「薬品」との格闘を終えて執務室に戻ってみれば、執務卓の向こうにミラノ公の姿はなかった。
おや、と通信機に手を当てるもすぐに、客用のソファの陰に座り込み、こちらに横顔を向けている主君の姿が目に入る。
「……ミラノ公?」
低い声で呼びかけながら歩み寄り、その傍らに片膝をついて、ユーグは繊弱な膝の上の、傍若無人な物体に気づいた。
「ソファから落ちたのだけど……大した障害ではないようね」
落ち着きはらって、眠る赤ん坊を撫でているミラノ公に、さすが母性本能を所持する生き物とは大したものだと、素直にユーグは感心する。まさか、つい先刻まで、カテリーナが半泣きでうろたえていたとは夢にも思わない。
「重かったでしょう、受け取ります」
その膝の上からそっと、くまのぬいぐるみごとベベ・トレスを取り上げて、しっかり抱き直したところでユーグは、ふと、膝をついたままのミラノ公の顔を覗き込んだ。
「……何です?」
「いえ……」
美形二人が膝をつき合わせ、片方は熟睡ベビーを抱えたまま、しばし、気まずげに黙りこむ。
やがて意を決したようにユーグは、傍らのソファにその熟睡ベビーを横たえると、ミラノ公へと片手を差し伸べた。
まるでダンスに誘うかのごとく、丁重に、かつ優雅に提案する。
「よろしければ、椅子までお運びしますが」
「……そうね、お願いするわ」
すらりと姿勢を伸ばしたまま、その気高さを何一つ損なうことなくカテリーナは、彼女の騎士の提案に頷き、差し伸べられた掌にふわりと手を置いてみせる。
かつて騎士道花開いた国の言語を操る者として、実にうやうやしく、生真面目にユーグはその手を取ると、そっとカテリーナの腿の下にもう片手を差し入れて、軽やかに彼女を抱き上げたのだった。


明らかに痺れているであろう、そのほっそりした脚にはあたうる限り、触れないようにと気を遣いつつ。



→ 6.新米パパとテディベア