4――新米パパと仮病の児
ソファの周辺で、ころころ、りんりん、と愛らしい音をたてているのは、車輪が回るたびに鈴が鳴る、小さな車のおもちゃだ。そして真面目くさってそれを動かして遊んでいるのは、今日は上半身を裸にされ、ピンクのおむつの重いお尻にも一分の隙もない、おなじみヘヴィ級のサイボーグベビーだった。
遊んでいるというより、俺は今この車のメカニズムを解明しようとしているのだ、とでも言いたげに、哲学的な顔つきで車を動かしているベベ・トレス。それを横目に確認しながら、ユーグは師匠に言われるがままに、眼前の機械に手早くケーブルを接続していく。今日は、ベベ・トレスの「健康診断」……つまり定期メンテナンスの日なのであった。
先程まで、「うぅ?」とやや不安げに、遊んでくれないユーグや、その手の中のケーブルの束を眺めていたサイボーグベビーは、新しいおむつと新しいおもちゃを与えられると途端に機嫌を直したようだった。今ではもう、ユーグそっちのけで車ところころりんりん語らっている。それはそれでちょっと寂しい、と身勝手なことを考えながらユーグは、ケーブルの束を選り分けて師匠に手渡そうと腕を伸ばした。
だがその長く繊細な指が、不意に動きを止める。
「どうしたね、ユーグ? 早くケーブルを寄越したまえ」
くわえたままの、火のついていないパイプを教授が上下させる。
「あ……いえ」
ややためらってから、「すみません、師匠」とユーグは立ち上がって一礼し、サイボーグベビーの方を視線で指してからそちらに歩き始めた。
「ふむ?」
そういえば、「ころころりんりん」が止んでいる。火のついていないパイプを置いて、同じく身軽に立ち上がった師匠は、早くも弟子の膝の上に乗せられて、丸くなっている彼の小さな作品を、そこに見出した。
「神父トレス?」
これが死神と恐れられる剣鬼か、と疑うような――既に疑うどころか否定しきられるような声をかけながら、ユーグは診断のために裸にされた、小さな背中を優しく撫でている。
にぅ、ともぷぅ、とも言わず、ベベ・トレスはソファの上の、更に剣士の膝の上で、じっと、自分のおなかの辺りを押さえて動かない。
「はて、何か飲み込んだのかね……おいでユーグ」
子供でもあり孫でもあり、何より大切な作品でもある赤ん坊を、これ幸いとばかりに速やかに抱き取る。「師匠、その抱き方はちょっとバランスが」などと生意気に諫言しながら追いかけてくる弟子を尻目に、教授は実験室の奥に突撃した。
診察台の上に座らされて、ベベ・トレスはやっぱり、おなかを押さえたままぴくりとも動かない。畳んだ毛布を、埃をたてぬようそっとその傍らに置き、タオルケットで小さな体をくるんでやりながら、ユーグはうなだれた赤ん坊の前にゆっくり跪いた。
「……」
うぅ、とすら言わず、だが、ぴく、と丸々した手が動く。おなかの上に置かれたその手に重ねて、自分の両手を伸ばし、壊れ物を扱うようにそっと握って、ユーグは診察台の上の赤ん坊の顔を覗き込んだ。
ベベ・トレスの機体には何の異常もない。異物を飲み込んだ形跡すらなかった。そもそも、過度の痛みは感じないようにできている。「おなかが痛い」という感覚そのものが、この小さな機体には搭載されていないのだ。
『このトレス君は、人間の大人の真似をよくしたがるからねぇ……』
「おなかいたいごっこ」をしているだけなのかもしれない。断定は避けて、だが、教授は彼にしては煮え切らない口調で、そう言った。
いかにもありえそうなその結論を、教授が断定しない理由がユーグにはよくわかった。目の前にうずくまっている赤ん坊は、いかに外見が縮まり、行動が赤ん坊そのものに近づけられていたとしても、それはやはり、トレス・イクスなのだ。そしてそのトレス・イクスの「人となり」――俺は人ではない、と彼が言い張るにしても――をよく知る彼らには、何となく、「仮病を演じて大人を困らせるトレス」というものがそぐわなく思えてならないのだった。
「まだ痛い?」
握られたままのサイボーグベビーの小さな手を、そっと開かせて掌を指先でこすってやる。長い沈黙ののち、どこか諦めたように小さな口が小さな声で答えた。
「……にぅ」
幼い思考がどのような道を辿って、その小さな答えに辿り着いたのか。それを思ってユーグの胸は痛む。
「どのあたりが痛いんだろう?」
「にぅ」
問題ない。そう切り捨てる、あの無機的な冷たい声が聞こえたような気がした。そんな答えをされる方が、我侭一杯に泣き喚かれるよりどんなにつらいことなのか、思い知ってユーグは即座に小さな身体を抱き寄せ、抱きしめた。
「……うぅ?」
「大丈夫、大丈夫……すぐ良くなるよ」
腕の中に抱え込んで、ユーグの手が覆い隠してしまえるほどに小さい、そのおなかをユーグは何度もさすってやった。丸くくるまれたタオルケットの中、どこか固く力を入れて縮こまったままの身体から、ほっと力が抜ける。
そして小さな、だが、「彼」と同じく力強い手は、伸ばされてぎゅっと、ユーグの僧衣の胸を掴んで顔をくっつけた。
撫でさする手は止めず、苦しさに思わずつぶやく。
「……俺が代わってやれたらいいのに」
『ああ、わたしが代わってあげられたら』
震えるメゾソプラノが、ユーグの鼓膜を思い出の向こうから震わせる。
熱を出した幼い我が子の傍ら、そう言ってハンカチを口元に押し当て、嗚咽を堪えたユーグの母。幼いユーグにとっては世界一うつくしい人であり……ユーグの世界のほぼすべてを占める人だった。
我が子が起きているとは思わなかったのだろう。彼が熱に喘ぎ、母や父や妹の名を呼んでいる間は、優しい笑みをたたえたまま決して揺るがなかった母。その母の、こらえかねたような悲泣――……
――俺の母は、強い人だったな……
今更ながらそれに気づいて、ユーグはひとり苦笑する。こうしている間も、今にもこの赤ん坊が壊れてしまうのではないかと思えば、不安で胸が潰れそうだ。きっとこの頑張り屋のサイボーグベビーは、ユーグのその不安を汲み取っているのだろう。「にぅ」と先刻よりはずっと元気な声で、ぽんぽん、と、小さな手がユーグの胸を叩いた。
「――……ス君……トレス君!!」
必死の声に呼び覚まされて、トレスは唐突に再起動した。歪む視界に、泣き出しそうにさざなみをたてた蒼の瞳が映っていた。
「な、イと……ローど……?」
「私がわかりますね、トレス君! しっかりして――そう、損害評価報告! 損害評価報告を出すんです!」
この優しい男からは滅多に迸らない、叩きつけるような尖った声だった。その声が全身を打ち、トレスの意識は今度こそ覚醒した。一度真闇に落ち込んだ視界が再びクリアになり、はっきりと、端正な銀と蒼と白の顔を映し出す。
「腹部内部機構にダメージ……イエロー2」
押し寄せるエラーの波を、回路に行き渡る電流すべてを振り絞るようにしてかき分け、トレスは眼前の同僚を睨むようにしてそう報告する。
すると不意に、薄氷のような蒼がほどけ、やんわりと溶けて笑いかけてきた。
「あぁ……よかった……いえ決して良くはないんですけど。もう喋らなくていいですからね、すぐ迎えも来てくれます」
「……なぜ……」
「はい?」
トレスは周辺区域を索敵した。室内は“クルースニク”を除けば動体反応、生命反応ともに陰性。小さな礼拝堂の一角に、彼は運び込まれているらしかった。
同僚に――アベルに視線を戻し、無機的な声で問う。
「なぜ、卿がここにいる? ナイトロード神父」
「……はあぁ!?」
半泣きの声になってアベルはその場に崩れ落ちた。
「何ですか、君が何とか生きてることを確認して喜んでる私への第一声がそれですか? 人目を忍んでそりゃもう必死で手押し車に君を乗せてがたごとがたごとここまで載せてきた私への第一声が? えぇ!?」
「――……卿が運んできた? 否定、それは――」
珍しく、トレスは断ち切られたように途中で発言を中断させた。確かに、ここまでトレスを運んできたのはアベル・ナイトロードに違いなかった。体内時計が正しければ、彼ら二人は62時間前にローマの「剣の館」で命令を受領し、ここマッシリアで吸血鬼の氏族と交戦。トレスは1428秒前に、大口径の銃による狙撃を受けて腹部に重大なダメージを受け、内部機構のエラーに耐え切れずに回路を遮断したのだ。
記憶回路に異常はない。すべて鮮明に覚えている。
……ならばなぜ、「ここにいるはずなのはアベル・ナイトロードではない」とトレスは思ったのか……?
黙ったまま5秒以上も固まっているトレスがいよいよ心配になったのだろう。「トレス君、怒っちゃったんですか? とりあえず何だかよくわかんないですけど私、コメツキバッタのように謝りますから許してくださいよ」と、アベルは涙声で訴える。
トレスはアベルの顔を見、ついで、わき腹の部分が千切れてごっそりえぐれた己の腹を、見下ろした。意外なことだが、アベルは機械全般に強い。手際よく断線され、補助回路に繋ぎ直され、その上には漆黒のケープがかけられている。皮下循環剤に濡れ、包帯代わりに引き裂かれて、もう使い物にはならないであろう、ケープの飾り金具の色は銀ではなく金だった。
負傷の度に感じる、機械の枷をぎしぎし押し上げるような、容量の足りなさ――トレスにはそれを「焦燥」「不安」「苦痛」と認識する機能がない――。だが、これだけ重大な損害を蒙ったにも関わらず、今、トレスのシステムはひどく安定していた。
「――否定。認識に混乱があった。卿に迷惑をかけた……謝罪する」
「へ、」
意外なほど穏やかに、あっさりと謝罪されてアベルは拍子抜けしたように口を開ける。
「あ、えーと、その……」
お人好しの異形は困ったように首を傾げて、それからえへ、とほんわり笑った。
「いいんですよ。トレス君が無事でよかったです」
アベルの手がそっと伸び、傷を隠すように被せられたケープの上に、静かに下りる。
「だから、ちゃんと大事にして下さいね?」
その手が不意に、トレスには存在していないはずの何かを脳の片隅でかきたてる。
人の好意を頑なに撥ねつけるはずの機械は、手の持ち主を見上げた。
「……肯定」
素直に吐かれたその言葉に、アベルの眼は見開かれ、そして優しく伏せられる。
「……いい子だ」
低く低く呟かれた言葉は、まるで千年を経た精霊のような――人ならぬ、凪いで枯れきった穏やかさに満ちており。幼い子供を愛するようにかけられたその言葉は、反発すべきものなのだろうが、なぜか、トレスはそれを看過した。
傷口の上に置かれた「二人」の手の心地良さを――逃がしてしまうのが怖いとでも、思っているかのように。
NEXT → 5.お義母さまと膝枕