3――新米パパと支援義務



カーペットが汗臭くなると困るんだが、と苦情を言う教授のために――その割に教授はベベ・トレスが粗相をしてもちっとも怒らない――、ユーグはカーペットにさらにバスタオルを敷き、その上に手をついて今日も倒立腕立てを実行していた。
ふわん、と綺麗に宙へ上がった両足を、ぽかんと口を開けてサイボーグベビーは見上げている。大きな毬を抱えたまま、下手をすれば後ろにごろりと転がってしまいそうな赤ん坊を、横目で見てユーグは咽喉の奥で笑った。今日は邪魔もせずに大人しくしていてくれそうだ。
「1…2…」
数えながらゆっくり腕立てをはじめる。ユーグの行動を不思議そうに見守っていた赤ん坊はやがて、不意にそのやんちゃな手でぽーん、と毬を放り出した。
「13、14……?」
毬との格闘に飽きたのか――これは不穏な兆候だ、と、ユーグは腕立てを休むことなく、だが、横目でサイボーグベビーを見守りつづける。
規則正しく上下し、揺れもしないユーグの足を、おっきな眼でじっと睨んでいたベベ・トレスは、やがて何事か固く決意した眼差しで、不意にべたりとはいはいの体勢になった。
「……」
28回を数えたところで、ミニ機械化歩兵のあまりの迫力に、思わず腕を曲げたまま動きを止めたユーグの傍ら、しばらく、はいはいの体勢で力んでいた、ふわふわの茶色の髪が不意にいっせいに逆立つ。
「!?」
思わずよろけかけてふんばったユーグの、その隣。
ベベ・トレスはえいっ! とばかりに、大きなおむつのお尻を振り上げ、ユーグの真似をして倒立に挑戦し――当然の帰結として、勢い良くひっくり返ってしたたかに頭と背中をぶつけたのだった。


「トッ……トレスっ!?」
ごちん、という鈍い音がしたきり、仰向けにひっくり返ったままのサイボーグベビーに仰天して、ユーグは足を下ろし、慌ててトレスを抱き上げる。
ぶつけた頭を両手で押さえることも忘れ、倒立に挑戦した格好のままでかちこちに固まっている赤ん坊は、何だかわなわな震えるような仰天の眼差しで、ひたすら訴えるようにユーグを見た。
その驚きっぷりが可笑しくも可哀想で、ユーグはまるまるとした頬や額に忙しくキスをする。
「そうか、びっくりしたんだな……大丈夫だからほら、ばたばたしてご覧」
頭を撫でてやったり、「たかいたかい」をしてやったりと、ひたすらご機嫌取りに努めれば、「……うぅ?」とようやく一声出して、ベベ・トレスは不安げにユーグの腕を掴んだ。
「我慢強くていい子だな、神父トレスは……でもあまり危険なことはするものじゃないよ」
「にぅ」
力なく意地を張って、ユーグの膝の上からよろよろ降りたベベ・トレスは、毬を追いかけてはいはいする。
カーペットの端で毬を抱いたまましょんぼり揺れている、最愛の人の子供姿を眺めているうち、ユーグは早くも、己のたった一言の――それも至極真っ当な――説教を、後悔しはじめていた。
「神父トレス、その……」
「……にぅ」
赤ん坊に倒立腕立てができるはずもない。だがどうもこの赤ん坊は、ユーグの真似がしてみたいらしい。その理由は把握できずとも、落胆した心情はひしひしと伝わってきて、ユーグは毬ごとトレスを捕まえ、もう一度膝に据えてやった。
「……ええと……神父トレス」
毬にかじりついたベベ・トレスはもはや返事もしない。その丸くうなだれた背中を撫でながら、慰めの言葉も見つからないユーグは苦し紛れに言ってみた。
「よかったらその……俺の訓練を手伝ってくれないか?」
「……うぅ?」
毬から少し顔が離れ、おっきな眼がチカチカ瞬きながらユーグを見上げる。その眼がユーグに、過去のいくつかの光景を思い起こさせた。
黙々とトレーニングに励むユーグを、少し離れた所からじっと、観察するように、……見守るように向けられていた、微細な筋肉の動きまで見通してしまいそうな機械の眼差し。
もしかしたら、この小さなトレスだけでなく、体重200キロを数えるあの機械化歩兵も、ユーグの訓練風景を見ながら、密かに真似をしてみたがっていたのだろうか。そう思うと、ますます愛しさが募ってしまい、ユーグは毬ごと、小さな重たい身体を抱きしめた。




<……ユーグさん……何されてるんですの?>
トレーニングルームの板張りの床の上、両手を突き、だが、掌ではなく五本の指だけで己の身体を支えたユーグは、先ほどから規則正しい上下運動に余念がない。
「見てのとおり……指立て伏せだが。シスター・ケイト」
<それは、わかりますけど……>
トレーニングルームには、立体映像の投影設備がない。“アイアンメイデン”の声は、ユーグのピアスから聞こえてくる。室内に取り付けられたカメラから、シスター・ケイトはユーグの姿を見て取ったのだろう。
そして、
「ぷぅっ」
どん! と誇らしげに、ユーグの背中の上でサイボーグベビーが重たいお尻を跳ねさせる。
<……ちびとれさん?>
「手伝ってくれているんだ。俺の訓練を」
20キロ弱に跳ねられたぐらいではびくともせずに、指立て伏せを続行しながら、ユーグは当たり前のことのように尼僧へ告げた。
ミラノ公に買い揃えられた、枢機卿カラーの真っ赤なベビーウェアに身を包んだサイボーグベビーが座っているのは、彼を振り落とさぬよう慎重に身体を動かすユーグの、その、背中の上だったのだ。
<ま、まぁ、そうですの……それはお偉いことですわ、ちびとれさん>
気圧されたシスター・ケイトも、ベベ・トレスの自慢げな様子には気づいたらしい。慌てて、背中の上での立派な勤務態度を褒め称える。
「そうだろう? 助かっているんだ」
<そ、そうですわね>
どこまで本気かわからないが、とにかくさらりとユーグは惚気る。それきり、自慢げな20キロの重りを背中に載せたまま、再び黙々と訓練に没頭しはじめたユーグから、ケイトはミラノ公の執務室へと視野を切り替えながら、ふと、ぽつりと呟いた。
「さすがトレスさんですわね……あんなにちぃちゃくても、やっぱりお仕事の虫だなんて」


そんな感想を抱かれているなどとは夢にも思わず、ユーグの小さな派遣執行官は、今度は背筋をはじめたユーグの背中にしがみつき、実に楽しげに、がっくんがっくん揺れながら支援義務の遂行に努めているのだった。



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