1――新米パパと哺乳瓶




ブルーのベビーウェアの胸の部分に、くまさんのアップリケがにこにこ笑っている。おむつのお尻をユーグの膝にどんと据え、20キロ弱のヘヴィ級ベビーはたくましく、両手で哺乳瓶をしっかと掴んで懸命にミルクを飲んでいた。
ユーグは「力持ちだなぁ」などと感心しつつ、どう支えたらよいのかもわからず、手持ち無沙汰にそれを眺めている。ダメ父親に頼ることなどハナから考えていない赤ん坊は、靴下に包まれた脚でばたばたとバランスを取りながら、器用に哺乳瓶の角度を変えて補給にいそしんでいた。
いくらなんでもこれじゃ父親失格だろう、と今更ながらに思い至って、ユーグは「俺が持とうか」と、片手でふにゃふにゃした背を支えてやる。
「にぅ」
ぽんっ、と口から哺乳瓶の乳首を雄雄しく引っこ抜いて、ベベ・トレスはユーグを、いかにも「褒めろ」とばかりに見上げた。
あの謎のうめき声は、どうもポジティヴ、ネガティヴと言っているつもりのようだ。「ぷぅ」がポジティヴ、「にぅ」がネガティヴだろうか。「神父トレスは賢いな」と大真面目に褒めているユーグはとりあえず、目の前の愛らしい赤ん坊を、「神父トレス」と呼ぶことに抵抗はないらしい。
「……俺が力持ちで良かった」
膝の上に載せているだけで脚がしびれてくる、サイボーグ・ベビーをユーグは抱き上げ、哺乳瓶を抱いたままの、その口元をガーゼのハンカチで拭ってやった。少なくとも、このAxにいたならば、重いからなどといって誰も抱き上げてくれない、ということはないだろう。可愛がってくれる大人たちも沢山いる。俺もいつでも抱っこしてあげるよ、と、ユーグは愛しい赤ん坊の頬を軽くつねってやった。
「ぷぅ」
ご満悦の「肯定」を放つと、お腹が重くなったベベ・トレスは身体をよじって、ユーグの膝からよたよた絨毯の上に降りる。ちなみに、ユーグはどこでもはいはいするこのサイボーグ・ベビーのために、教授宅から借り受けてきたカーペットを自室の床に敷いている。今日からユーグの自室は土足禁止であった。
ベベ・トレスが目指すのは、カーペットの中央に投げ出されたクッションのようだ。それにしても力強いはいはいだな、と見当違いのことに感心しているユーグは、自分がとんでもない過ちを犯していることには気づいていない。
そしてその過ちの代償はすぐに訪れた。
「うぅっ?」
クッションにとりつこうとして、ぽてん、と丸っこい身体がその場に潰れてうつぶせる。
「あ、神父トレス――」
呼びかけたユーグの語尾に、けぽっ、と小さな音がした。




小さなトレスが彼の実験室でころころ転がっている間、強いられていた禁煙を、今、思う存分破って教授は煙に包まれている。己の城にひとり篭もり、知に淫しパイプをふかす。この至上の快楽は、だが、残念なことに長続きはしなかった。
「師匠! マスタァーー!」
「…………」
口の中で「馬鹿弟子め…」と力なく師匠が呟いたのと、扉を蹴り開けんばかりの勢いで弟子が飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。
「…………何があったのかね、ユーグ」
己の寛大さに感動しながら、教授はパイプを口から離す。肩で息をするユーグの左腕には、さすがに驚いたのだろう、ぱっちりと眼を見開いたままフリーズしている気の毒な赤ん坊の姿があった。
「神父トレスが……」
おそらくその「神父トレス」とは、「小さい方の神父トレス」のことだろう。そう心中に補足しながら、教授は曖昧な表情になって、ユーグの言葉の続きを待つ。灰色の脳細胞を少し操れば、固まっているトレスのベビーウェアの汚れを見るに、おおよその事情は明らかだった。
「……神父トレスが……トレスがミルクを」
「吐き戻したんだね?」
憂鬱そうな声で、師匠は弟子の言葉を先回りした。
「はっ……はい! 師匠、彼は何か……消化器官の病気なのでしょうか? 飲んだ分をほとんど吐いてしまって……それとも俺が何か誤りを……」
「……ユーグ」
ほとんど泣き出さんばかりの馬鹿弟子を手招き、師匠はそれきり黙って、デスクの上に一冊の本を放り出す。
『新米パパの子育て日記』
「……師匠?」
「巻末索引の、『げっぷ』辺りで調べてみたまえ。ああトレス君、心配はいらないよ。君の機体はまったくもって正常だ――赤ん坊としてね」
「……ぷぅ」
小さい丸々したサイボーグベビーの手に、心配するな、とでも言いたげにぽふぽふ髪を叩かれて、ユーグはとりあえず、『新米パパの子育て日記』を教授の実験室から借り受けたのだった。


哺乳瓶を持たされると、通常の赤ん坊よりはるかに記憶回路の優れているベベ・トレスは「いやいや」とそれを放り出した。すると、傷一つない白い手が伸びて優しく抱き上げ、しかも、なだめるような声で「今度は大丈夫だから」と背中を撫でながら囁いてくれた。
何となく満足感を覚えて、なら挑戦してやろう、と、眼前の頼りない大人の頬をぺしぺし叩く。笑ってその手を取り上げて、大人――ユーグはその小さな手に哺乳瓶を持たせることなく、自分が片手に持って、ちゅっ、と赤ん坊の口にそれを吸わせた。
懸命に、自分でもしっかり哺乳瓶を掴んで、ベベ・トレスはこくこく飲み干す。全部飲み終わると、またユーグは律儀にその健啖っぷりを褒め称え、それから、よいしょ、と重い赤ん坊を向かい合わせに抱き上げた。
カーペットの上に放り出した『新米パパの子育て日記』を、実に深刻な、愁い覗く美貌で睨みつけながら、とんとん、と臆病なほど慎重に、抱っこしたその背を叩いてみる。
「――? にぅ」
じたばた暴れようとして、不意に、小さな身体がぴたりと固まった。
けぷっ!
ミルクの匂いの息が、ユーグの耳の辺りをくすぐる。
「……あぁ、よかった。ちゃんと出た」
心底安堵した声でユーグは嘆息し、すっきりした顔できょとんと自分を見上げる、「彼」の子供としか思えぬ赤ん坊を抱きしめた。
「病気じゃなかったんだな、神父トレス」
「? ぷぅっ」
よくわからなさげに、だが、とりあえず、この頼りない大人を元気づけてやるべきだろう、とサイボーグベビーは良い子のお返事をしてやった。
「何をしたらいいのかな、君は何をしたら喜ぶんだろう? 大人の君とは、一緒にいられればそれで良かったんだ。……でも考えたら、それは傲慢なことなんだったんだろうな」
抱っこしたまま、とん、とん、と背中を続いて叩かれる。もうげっぷは出たのでそんなことをしなくても良いはずなのだが、賢い赤ん坊にとっても、それはとても正しい行動のように思われた。……「望ましい」行動なのだった。
「俺の天使くん、君が喜ぶことだったら何でもしよう。……大人の君が言えない我侭を、たくさん俺に言ってくれ」
休眠を誘う声と、ゆっくり背を叩く手。抱っこされたまま、ゆらゆら揺れているうちに、かくん、かくん、とサイボーグベビーのまぶたは重くなる。
「……眠いのか?」
「にぅ」
もっとお話をして欲しい。だから「眠くない」と主張をすれば、声を立てて笑ったその低い振動が、チタンのフレームをそっとふるわせた。
「じゃあ、眠くなるようにしてやろう」
「にぅっ」
暴れようとして、
「『西のお空に、おひさま沈む……』」
優しい声で紡がれる歌に、ぴたっ、と我侭は消え去った。
「『東のお空に、おつきさま昇る……』」
しっかりしがみついて大人しく抱っこされ、ゆらゆら揺らしてもらいながら、子守唄に包まれる。
絶対ずっと聞いていよう、と機体に力を入れた3秒後には、ベベ・トレスはことんと首を傾け、ユーグの腕の中でおとなしく休眠状態に入っていた。


同時刻。
「――……どうしました、“ガンスリンガー”?」
絶対の女主人にやんわり問いかけられて、殺戮人形は、左耳の通信機に当てていた手を速やかに離した。
「否定――」
珍しく、「ネガティヴ」の「ヴ」のあたりが歯切れ悪い。
「何か聞こえたの? 私には何も聞こえませんでしたよ?」
優しく畳み掛ければもう一度、振り切るように「否定」と答えて、主の大事な会議中の時間を、これ以上自分との会話に費やさずすむようにと、トレスは再び、直立不動の姿勢に戻る。
視線を外していたパネルに再び向き合いながら、カテリーナは小さく、クス、と笑った。おそらく今、彼女が製作許可を与えたあのちぃちゃな愛らしいベビーに、ユーグはきっと、全身全霊愛情を込めて懸命に語りかけているのだろう。もしかしたら、本でも読んでやっているのかもしれない。
それをこの人形は、一瞬のさらに何分の一もの短い時間――幻聴のように感じ取ったに違いないのだ。
――19時37分。おねむの時間ね。
カテリーナは、時計にちらりと視線を走らせる。
今、この時刻を覚えておいて、帰館後必ず、“ソードダンサー”にその時間帯の行動報告を提出させよう。まだ20代半ばにして、お母さんどころか、下手をすればお婆ちゃまになってしまった絶世の美女は、結構、その現実を楽しんでいるらしかった。



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