ざわつく人垣の向こうに、舞台上に転がった一台のライトと、破片で怪我をしたのか、着衣の上から脚をおさえた男がうずくまっているのが見える。
 未だその瞬間の恐怖から立ち直れていないのだろう、蒼白な顔の男に駆け寄った別のスタッフが、同じく蒼褪めながらもてきぱきと捲り上げたズボンの下の血がにじむ傷口に応急処置を施していく。
「すまない、通してくれ」
「ごめんなさい。通して」
 ライトが、と口々に言い交わす人々をかき分けるようにして、ユーグと、ユーグに続いてリエラが現場へとようやくのことで近寄った。
 まず怪我人への気遣いの言葉をかけた後、注意深く破片を避けながら落ちたライトに近寄り、その状態を調べる。切れた固定ロープのささくれた断面と、上を見上げれば天井近くで揺れる残りのロープの端がユーグの目に映った。
 この落下事故は故意にか、それとも単なる偶然なのか……派遣執行官としての青年神父の思考の中で疑問が渦を巻く。
「ちょっと! 何の騒ぎなの!?」
 ひとまず警官を呼ぶように、と手近に居たスタッフに伝えかけた青年神父の声を遮るように、舞台の主であるデザイナー氏が部屋へ飛び込んでくる。
「フリュイ! なんてこと!」
「パレオ、警察を……」
 怪我人の傍らに跪いていたリエラが硬い表情で彼を見上げる。
 パレオは惨状を見て取るや、一瞬サッと青褪めたが、すぐに、
「何ぼーっとしてるの! すぐに片付けて作業を続行して頂戴!」と、意志を奮い立たせるように声を張り上げた。
「パレオ……」
「フリュイ、大丈夫? 動けるわね? すぐに病院に行って手当てをしてもらってらっしゃい。皆も、事故には気をつけて! 忙しいからって手元が狂ったりしないでよ。さあ、動いて! 早く!」
 追い立てる拍手の音も高らかに人垣を散らしたパレオは、くるりとユーグたちに向き直って念押しする。
「これは事故よ。不注意が招いたちょっとした事故。警察なんて呼んで大事にしないで頂戴」
「しかし、ムッシュー……」と、ユーグ。
「事故か事件かを調べずに判断するのもどうかと思うのですが」
「事故よ」とむべもない専制君主デザイナー氏
「でも、パレオ! あの脅迫状はどうなの?!」
 リエラが食い下がると、パレオの目が鋭くなった。意識的に低めた通らない声で、彼は奇妙な確信を持った言葉を続ける。
「その話を持ち出さないで。……あの件と今回の事故は関係ないわ。襲うなら、直接アタシを襲ってくるはずよ。それに――そのために貴方達が来たんでしょう?」
 最後の台詞は、教皇庁から護衛として派遣されたうちの一人、ユーグに向けたものだ。
「とにかく、今回の件は事故よ。いいわね」
 専制君主の傲慢さをもってきっぱりと言い渡し、パレオはユーグたちに背を向ける。頑ななその背中は、しかし同時にある種の饒舌さでユーグの目に語りかけた。


 十五分後。
「いやあね、トイレの中までついてくるつもりなの?」と、妙な流し目を受け、危険がないことだけ確かめると、「入り口で待っています」とあえなく敗退したユーグは、慌しく針を使う女性達のいる部屋へパレオと共に戻ってきた途端、更なる衝撃に見舞われ、またもや床につっぷしそうになった。
 ――待ってくれ、イクス神父。何故君はそんなところで僧衣カソックを脱がされたり寸法を取られたり果ては仮縫いのドレスを着せられたりしているんだ?
 きゃあきゃあと楽しげな小さな悲鳴混じりにかしましくお喋りを続けながら、手を動かしているスタッフ達に取り囲まれて、デザイナー氏に焼き菓子と形容された見知った茶色の短い髪が、いっそ清清しいまでの涼しい無表情で立っている。あちこちをピンで留められたトレス用のドレスは、いくつものダーツやシャーリングを使ったドレープの効果で、男性型メール・タイプのボディを誤魔化すようにラインを取られた、明らかに女性物の衣装だ。
「あ……いや………その、……イクス神父?」
 開いた顎を閉じ、またぎこちなくこじ開けてを繰り返しながら、半ば彫像と化しつつある金髪青年神父の傍を、
「まあああ、やっぱり素敵! 是非にとお願いしてよかったわ!」
 諸手を挙げてすり抜けた諸悪の根源たるデザイナーが、感極まったような悲鳴を発し機械化歩兵トレスの元へ突進する。ドレス細部へのこだわに走り始めたデザイナーを放置して、
「ショーの最後に護衛対象が舞台に出て行くことが決定している。客席内部からの襲撃も予想される以上、その間も極至近に付いて護衛ガードすることが望ましいと判断し、提案を受諾した」
 ユーグの顔色にその必要を見て取ったのか、女装中……もとい、衣装仮縫い中の機械化歩兵が、平坦な機械音声で事の次第を説明する。
 一体全体いつの間に、口説き落とされたんだトレス! いや、それよりも、あれだけくっついて回っていた護衛オレに気づかれないで、どうやってトレスにちょっかいをかけたんだ、このちょび髭親爺は!
 ――侮りがたし、パレオ・ロッソ。
 俺はもしかしなくても、物凄くとんでもないところに来てしまっているのではないでしょうか、師匠。すみません、少しばかり貴方を恨んでいいですか、そう、休日の朝のコーヒーに鷹の爪を仕込む程度には!
 カルチャーショックを軽く越えた衝撃の連続に、もはや明後日の方向に視線をさ迷わせたまま、戻ってこれなくなりそうなユーグだ。
「でも、護衛役ボディーガードが一人ってのも心もとないのよねえ……」
 ちらり、妙な流し目がユーグに向けて放たれる。
否定ネガティヴ、警護の人員は俺一人で充分だ」
 機械化歩兵の否定を受けて、
「あら、そんなことないわよぉ〜」と、パレオの語尾が奇妙に延びた。
「警護対象の不安を取り去るのも仕事のうちじゃない? ね、やっぱり舞台よ。ドレスを着てアタシと一緒に舞台を歩いてこその護衛ボディーガードよ。貴方ならきっと舞台で栄えるに違いないわ!」
 こうなるともはや論理もへったくれもない、勢いだけのめちゃくちゃな話だ。
「ね。どう? ほら、もうデザインもできて準備も万全なのよ」
 一体全体いつの間に……以下略! 目の前に差し出されたスケッチにユーグの顎は落ちっぱなしだ。
「ヴィッヴィ! イザベッラ! マリエッティ! 仮縫いの準備はできていて?!」
 わらわらわらと取り付くように、針と布を持った女性スタッフ達が、アルプスの万年雪もかくやとばかり固まった、青年神父の周りを取り囲む。
「こっち、留めていくわよ」
「大丈夫! サイズはばっちり合ってますわ」
「流石天才パレオね! 触っただけでサイズを当てちゃうなんて彼にしかできない技だわ」
「ここからは時間との勝負ね。うふふっ、素材がいいから余計に腕が鳴るわぁ」
 目の前で今にも踊り出さんばかりに満面の笑みを浮かべている、自称天才デザイナーにしてやられたと悟った時は既に遅しというもので、
 ご婦人相手に手荒なまねをするわけにはいかない――。
 叩き込まれた紳士としての心得と、融通の利かないサムライ気質がこのときは完全にユーグ自身に仇なした。


 ショーの幕が上がる。偽りと忍び寄る暴力の影を纏いながら、デザイナーのプライドをかけて――約一名の不幸を道連れに。


 官能的な香の香りに似た東方の弦楽器の音色が、会場に座る男女の間をたゆたい、やわやわと絡め取っていく。それぞれに着飾った紳士淑女が席を占める会場は、期待に満ちた静かな熱気とざわめきに包まれていた。
 お聞きでして? このショー、中止せよとの脅迫文が届いたとか。
 ひそりと扇の陰で噂話が回る。
 昨夜も事故が起きて、怪我人が出たということですわ。
 紅真珠の光沢を放つ唇が、振り返った櫻貝の耳たぶに好奇を煽る言葉を流し入れる。
 まあ、怖いこと。時間が遅れているのはそのせいでして?
 あたくしたちは大丈夫かしら。
 ほっそりとした眉を優美に顰める女性の隣から、櫛目も綺麗に髪を撫で付けた若紳士が口を挟む。
 なに、平気ですよ。無粋ではありますが……表の衛士の数をご覧になられましたか。出資者の一人の……公もいらっしゃるとか。警備事情も万全でしょう。
 別の女性がぱたぱたと扇で顔を扇ぐ。
 恐ろしいお話ばかり、およしになって。それより、ねえ、皆様、ショーが始まりそうですわよ。
 まあ、本当。幕が上がるようですわ。
 会場の明かりが消え、ひときわ高まる弦楽器の音色と共に、細いピンライトが舞台中央を照らし出した。

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