ヌーベル・アール・ヌーヴォー様式の優美な執務卓の上に、一通の封書が乗せられていた。NON BOMBA――NOT BONBのスタンプが押されたそれは、薄さをきわめる手漉き紙を使い、銀の縁かがりを施した贅沢なものだ。
しかし、机の上に肘をついて、その面を見つめているモノクル越しの瞳には、賛美の色はカケラもなかった。なぜなら、卓の主―――カテリーナ・スフォルツァ枢機卿に届けられたそれは、四都市同盟からの、ユーグ・ド・ヴァトーに対する招還要請の嘆願書だったからだ。
「つまりこうですな――ファン・メーレン家の没落以後、混乱状況にある秩序の回復と治安維持のため、再びヴァトー家に出張っていただこうと」
語尾に、アルビオン貴族として最大限可能な嘲弄の響きをにじませながら、“教授”が要約した。彼は今、執務卓の前に肘かけ椅子を寄せている。当然、彼の視界にも、件の手紙が入っていた。
末尾に四都市同盟評議会の署名が添えられ、ごていねいにもブリュージュの都市認証付き指輪によって封蝋された。
「……吸血鬼の跳梁を許し、金権で腐敗した組織には、治安を回復することはむずかしかったのでしょうね」
カテリーナは組んだ手の上に華奢な頤を乗せたまま言った。
「かと言って、独立商人都市国家としては教皇庁の権益が増大するのは好ましくない。介入は、それがたとえ教会軍一時駐留と言う形であっても避けたいのが本音。その点、ヴァトー家ならば問題はない…もともと警視総監を歴任してきた家柄、主家筋は滅んだとは言えまだまだ血族も多く、人材も残っている。その名声はじゅうぶん人心を収攬できるだろうと――そういう目論見なのでしょう」
「最後の騒動が彼の生家で、それもよりによって祭りのさなかだったのが仇になりましたな」
“教授”こと、ドクター・ワーズワースは火もついていないパイプの端を噛んだ。
四都同盟市で、その行政機能にまで食いこんでいた吸血鬼たちが一掃されたのは、今から二年ほど前のことだ。この作戦にはヴァチカンが積極的にかかわった。
それに先立つ十年ほどの間に――正確には、かつて四都市を夜の版図から忠実に護りつづけていた傭兵貴族・ヴァトー家が滅んでから――欧州経済の一の雄として栄えてきた同盟の経済力がとみに落ち、治安も悪化の一途をたどっていたことで、この都市群が陥っている事態は明白だったからだ。
とは言え、独立独歩の気風の強い商人たちの政経に嘴を容れるのは、ヴァチカンといえども慎重にならざるをえない。そこへ一石を投じたのが、派遣執行官“ソードダンサー”こと、ユーグ・ド・ヴァトーだった。
当初彼の行動は軽挙妄動に等しく、カテリーナを大いに困惑させた。が、その独断専行が都市に巣喰った吸血鬼たちの間に内紛を誘発していることをつかむと、後の判断は早かった。
彼をフォローし、時にあおって、双方望む結果へと導いたのは、聡明な彼女ならではの手腕と言えた。
しかし今になって誤算が生じた。
最後の舞台となったのはユーグの故郷であるブリュージュ。しかも、生まれ育った城館で立ち回りを演じた結果、大勢の者が彼を目撃し――そしてその中には、もと警視総監の嫡男を見識る者が何人もいたのだ。
祭りの夜の宴もたけなわの席には、同市の名士が多く集っていた。十数年の年月を越えて、彼を記憶に留めていたものは少なくなかったらしい。
おそらくはヴァトー家の遺伝形質として受け継がれてきたにちがいない、淡い金髪、翠の瞳。そしてたぐいまれなる、かの美貌を。
「それにしても勝手な言いぐさですな」
ワーズワースは言った。
「ヴァトー家壊滅の折には、後難を恐れて身を竦めていた保身主義の商人たちが、掌を返したような変わり身だ」それは、寄る辺を失ったユーグの、困難な放浪時代を知る者の非難だった。カテリーナは一度だけゆっくりとまばたき、おもむろに指をほどいて机の上の手紙を取り上げた。
「客観的に見れば、これはヴァトー家再興の絶好の機会です。彼らはユーグ・ド・ヴァトーの――ここでカテリーナが“ソードダンサー”のコードネームをあえて使用しなかったことに、“教授”は眉を上げた――簒奪された身分と名誉を回復させると確約しています。彼にとっても、ヴァチカンにとっても、魅力的な申し出ではない、とは言えないでしょう」
ワーズワースはパイプを噛んだ。
「―――確かに、そうですな」
ユーグ個人の利害はさておき、ここで恩を売る形で四都市同盟と親密に結ぶ。と言うのは。
例えば、同盟とは大西洋をはさんで存在するアルビオン。教皇庁の権威を容易に認めない、あの強大な王国に対し、ブリュージュに近接するダンケルク港などは、足がかりとして絶好の拠点だ。
何より、北は北海から南は地中海、アドリア海も含めた主貿易港、ならびに河川を中心とした大陸の陸路――教皇庁領-中欧-大西洋-北欧に至る――の、主要貿易ルートに強い影響力を持つ四都市の大商人たちとの間に誼を通じることは、ヴァチカンに多大な利益をもたらすだろう。
国務聖省長官スフォルツァ枢機卿とすれば、派遣執行官“ソードダンサー”一人と、四都市同盟の警視総監とでは、どちらに価値を認めるべきかなど考えてみるまでもなかった。
それでも彼女が迷ったのは、パイプの端をくわえては噛み、また離してはくわえてみる。と言った、およそ貴族らしからぬ仕草を無意識にくりかえしているアルビオン紳士のせいかも知れなかったし、彼女の椅子のやや斜め後ろに控える、寡黙な神父のためなのかも知れなかった。
諸事そうあるように、彼女の忠実な護衛は事の始まりから同席し、そして一切発言しなかった。
許可なくしては口も開けぬ愚鈍な自動人形ではない。時に主にさえ鋭い疑問を投げかけるその演算は、今日はどこに優先順位をつけているのだろう。ふとカテリーナは思い――かすかに苦笑した。
「ですが―――」
とうとうカテリーナは言った。
「私たちの思惑はどうあれ、問題は“ソードダンサー”の意志にあるでしょう。それを確認しないことには動けません。場合によっては、彼の希望を尊重する方が得策でしょう」
彼にはすでに、カテリーナが受け取ったのと同様の懇請の手紙が、彼女経由で――正確に言うと、今彼女が開いている手紙と同じ封筒の中に入っていたのだが――手渡されている。
もっともそちらは、華麗な装飾も高価な漉き紙も使われてはいなかった。ごく地味なものでしかも封緘もなく、おおらかに封入された剥き出しの手紙は、自由に検閲をと声高に申告していた。
剣呑な要請に対し、ユーグの所属機関がどんな反応を示すか、重々理解しているのがわかる態度だった。それだけで、差出人の人間性がうかがえる。ユーグの言によれば、ブリュージュの聖血教会付属施療院の司祭らしいが。
その司祭とユーグの間にいささかならぬ因縁があるらしいことは、この剣士が手紙にあった署名を見た瞬間の表情でそうと知れた。
師であるワーズワースでさえ数えるほどにしか目にしたことのない、無防備なものだった。
「……まあ、それが妥当ですかな」
思い出したのか、ワーズワースの眉間に皺が寄った。それを、パイプの腹でこすってのばしながら立ち上がる。
「不肖の弟子がどのような答えに至ろうとも、二度と愚昧な振る舞いには及ばないことを祈るばかりです。それでは僕はこれで」
結論に達した枢機卿顧問が主の前を辞去しようとした時、控えめなノックの音がした。
「カテリーナさま、お話はおすみでしょうか?お届け物があるのですが、入ってよろしいですか?」
人払いと取次の謝絶を命じていた秘書の請うような声に、カテリーナはやや表情をゆるめた。
「お入りなさい」
「はい。失礼いたします」
深々と一礼しながら扉を開いたのは、シスター・ロレッタだった。その胸には、やや大きめの箱がひとつ抱かれている。
「こちらのお荷物がたった今届きました。差し出し元がその…お手紙と同じでしたから、ご所望かと思いまして」
彼女は彼女なりに、Axの重鎮と上司を悩ませている案件に類するものと察して、気を回したらしい。
すでに日が落ちようとしているにもかかわらず、午後一番に呼ばれた“教授”は入室したまま出てこないし、カテリーナはお茶すら運ばせようとしない。虚弱な体質でもある上司を案じて、さぞやきもきしていたのだろう。三人の注視を浴び、ロレッタは真っ赤になった。
「…それはありがとう、シスター・ロレッタ」
年若い秘書の気配りに対し、カテリーナは鷹揚な笑みで報いる。
「よく気がついてくれましたね。…神父トレス、」
主に皆まで言わせず、すでに動いていた“ガンスリンガー”は、彼女の手から箱を受け取った。
「確かに受領した。シスター・ロレッタ」
ロレッタははにかみながら軽く腰をかがめ、上司がやさしくうなずくのを確認して退出していった。
トレスは執務卓に歩みより、主の前に箱を置こうとしたが、途中でその手がぎりりと止まった。ゼンマイ仕掛けのぎこちなさだった。
「……どうしましたか? 神父トレス」
「受け取り人が特に指定されている。“ソードダンサー”だ」
枢機卿の、この世で五指に入るだろう美貌がわずかに色めいた。『本人以外開封厳禁』の書きこみがあったらしい。らしい、と言うのは、ロレッタがそれに気づかないほどインクが薄くかすれていたからだ。運の悪いことに、宛て先を記入した小包用タグの末尾の文字もにじんでしまっている。機械化歩兵の視力でなければ見落としていただろう。
どこかで雨に打たれたのかもしれない。
「そう……。それでは、ここで勝手に開けるわけにはいきませんね」
一瞬で表情をつくろったカテリーナは、その部下の顧問ほどにはあからさまな好奇の目をくれたりはせず、代わりに、最も彼女の意に添う機械人形に命じた。「その箱をユーグ・ド・ヴァトー神父に届けて。それがすんだら、今日はもう退がりなさい。私も少々疲れました。部屋に引き取ることにします」
「賢明なご判断ですな」
軽く背筋をのばしながら、ワーズワースが評した。カテリーナの言葉の前半の命令に対してなのか、それとも後半の判断についてなのかは、わからなかったが。
「命令を受諾した」
いつにもまして冷然と主命を請けたトレスは、そのまま踵を返して部屋を出ていった。
―――彼が必要以上にそっけなくあたる時。それは彼の、ありうべからざる情動に属する反応が、極端に抑制されて起こるものだと言うこと。そしてその事実を、主人と保守管理者という、おそらく彼自身よりも彼についてよく知る人間たちに見抜かれていようとは、そのロジックには思い浮かびもせぬままに。主の卓の上に乗っていた手紙同様、箱にも『NON BOMBA』のスタンプが押されていた。片手には余るものの、両手で持つには軽すぎる。人間にとっても、トレスにはなおさら。
剣の館の廊下を司祭寮に向かって歩いていたトレスは、箱の底の染みをセンサーに捉えた。
先には見逃していたが、汚れか、水濡れのようにも見える。タグのにじみと消えかかった文字が記憶野に再生され、トレスははたと歩みを止めた。中が何かはわからないが、破損もしくは汚損している可能性がある。
開封厳禁の制約がトレスに行動抑制を促した。
が、数秒後、彼は茶色の粗紙の包装を解いていた。
主を悩ませていた手紙とその内容、ユーグ・ド・ヴァトーの不可解な表情、そして彼の演算をやや遅滞させている思考セルの奇妙な乱れ。その全てが、機械化歩兵に常ならぬ選択を迫ったようだ。
蓋を開けると、中から現れたのは、一体の人形だった。
二度焼きした陶器で頭部をかたどったビスクドール。絹のドレスをまとい、金の巻毛とエメラルドの瞳の。幼な子のあどけなさが強調されてはいるものの、その顔立ちは、ユーグ・ド・ヴァトーの容貌に酷似していた。
この一瞬、トレスはただ、人形を持っていた。
まるで生きているもののように真に迫った翠の瞳。宝石をえりぬいたような。けれどガラスの。
トレスはすばやく人形を箱に戻すと、ぴったりと蓋を閉めた。
眼裏に映像データが再生され、人形の髪や服など、特に底面に接していた部分がクローズアップされる。汚れや破損箇所はなかった。
再び箱を梱包しなおして目を上げた時。トレスは、記憶選別処理にバグが生じたのを視認した。
廊下の先に、“ソードダンサー”が立っていた。
黒い僧衣はズタズタに裂け、いつもその手に添っているはずの、仕込みの長刀は携えられていない。疲れ果てたようなすさんだ笑みと、不用意であからさまな敵意の視線。そしてしなやかな腰回りには、ゴツゴツとした爆薬が巻かれていた。泥と埃にまみれてすっかりくすんでしまった金髪がひるがえり、彼はトレスに背を向ける。
廊下の壁に溶けるように薄れていくその姿が消えるまで、トレスは微動だにできなかった。銃を抜き放つことさえも。
「―――情報処理ルーチンチェック開始。視覚野・記憶野・色彩認識各アルゴリズムチェック。――完了。異常なし。今の映像はなんだ? なぜ再生された?」
決まりきった手順で自己診断を終えたトレスは、次にメモリーに最優先のコードを送った。取り出されたのは、最も最近のユーグ・ド・ヴァトーの映像。正確には、昼食時、司祭寮の食堂で見かけた時のものだ。午後の便で郵便物が配送されたばかりで、彼はカテリーナの執務室に呼び出される直前だった。
ユーグは、ワーズワース博士と同じテーブルについていた。そこへアベルがやってきて、三人で卓を囲むうちに、アベルがワーズワースになにやら訴え始めた。訴えられた方は、いつものようにいなす仕草で軽くアベルをやりこめている。
んな談笑の合間に、ふと“ソードダンサー”の目が上がって、トレスを見つけた。
トレスはと言えば哨戒中だった。たまたまその時間、そこを通りすがったのだ。
食堂の外の回廊をガンマ線さながら行き過ぎるだけで、誰の注意も引かないはずの機械化歩兵を、彼の瞳はやわらかにとらえて促した。
“ここへこないか?”
唇が音もなく言葉をつづるのを、トレスは視た。彼の視覚センサーになら捉えられると見こしての、無言のいざない。側で盛り上がっている二人は気づかない。
あるいは、その二人の邪魔をしないよう配慮しての無音声だったのか。
すきとおるような無邪気な笑みは、このところよく見かけられるようになったものだった。ものやわらかくなった風貌は、あの頃のものとは似つかない。否。それは彼に対してよく向けられるようになった―――
トレスは顔を正面に戻した。
“必要ない”
と、イヤホンごしに伝えようとして―――ユーグの回線が優先上位にある通信で遮断されているのがわかった。首をめぐらせると、ユーグは詫び言をつぶやきながら椅子から立ち上がったところだった。間を置かず、今度はワーズワースが腰を浮かせる。彼の聴覚センサーに通信が入ったのは、その直後だ。
《“ガンスリンガー”。至急執務室まで戻って下さいませんこと?カテリーナさまの御召しですわ》
「…了解した。“アイアンメイデン”」
コードネームを呼称されたことで、トレスの戦術思考は切り替わった。踵を返したその踵の下、床面の化粧タイルが悲鳴を上げる。が、大股に歩きだした“ガンスリンガー”は顧みなかった。食堂さえも。
“ソードダンサー”と“プロフェッサー”がやってきたのは、彼が執務室についてすぐだった。
そうして、長い午後が始まったのだ。
今もって、終わってはいない。
トレスは手の上の箱を見つめた。ユーグ・ド・ヴァトーに似せて作られ、いかにも奢侈な被造物の語るところは、ただ一つだ。
これが彼の故郷に――さらに言えばその生家に由来するものだと言うこと。この人形を見た時の彼の反応は、容易に想像がつく。
『私たちの思惑はどうあれ、問題は――』
機械人形の現実認識ルーチンが、再び記憶データと錯綜する。その中で、彼の女主の声が唐突に再生された。
『問題は“ソードダンサー”の意志にあるでしょう』
はたしてそれはどちらに傾くのか。一族の復讐のために、曲がりなりにも積み上げてきた地位、恩義、友情、一切をかなぐり捨てて行った、あの男の。
『場合によっては、彼の希望を尊重する方が得策でしょう』
カテリーナの下した決断が、トレスの中枢機構の中で、不意に仮定の領域を越えて認識された。-NEXT-