『月』



『すべての川が海へと到るのなら。
 裂け谷のさやけき滝も、我が闇の森の眠れる水も、ロスロリアンのニムロデルの流れも。
 いずれは皆、同じ源へと辿りついてひとつになるのだね』


『すべてのエルフが同じ源へとたどりつくように』






「――……、」
瞳を開くと酒場の喧燥が、いっせいに野伏の耳にと甦って飛び込んだ。
いつのまにか眠っていたらしい。旅の疲れが出たのだろう。
なつかしい夢を見た。闇の森の友の夢であったような気もするが、起きてみれば夢の記憶はひどく曖昧であった。
立ち上がり、誰にも声をかけぬままに外へ出る。酒と、いくつかの必需品と、そして情報を買い入れれば、酒場にはもう用はない。
陰気にやつれたその姿に、酒場の男たちは胡散くさげに視線を向ける。
彼はその視線をフードとコートで跳ね返し、ふと、口の中で苦く笑った。
思い出せない。
深き森を気ままにさまよい、やさしい歌とよろこびの囀りに囲まれ、エルフの殿と間違われすらした、あの遠い過去が思い出せない。
いまやここに在るはただの野伏。
喧騒と雑踏を縫う、得体の知れぬ一個の薄き影。


外へ出ると、真紅に燃えながら落ちていく入日が眼を射る。
赤光に染まりながら、潮の香をかすかに鼻腔で捕らえた。
夕方の喧燥、一日の勤めを終えて帰り行く人々の、疲れと喜びは、この野伏を受け入れはしない。
彼は街の雰囲気から弾き出され、まばらな家々の狭間を縫い、続く波音の方角に踏み出す。
喧燥から逃れるように。
街から追われていくように。
薄汚れた黒衣の野伏に、注意を留める者はいなかった。


幼き頃は故郷と信じて疑わなかった、最後の憩いと呼ばれるあの館を背にして、もう幾歳がたったことだろう。
歩きながら、知らず立ち止まり、北東の方角をはるか眺める。
町の外れにたたずむ孤独な黒影を、怯えたようにちらりと見てひとりの婦人が通り過ぎた。
それに気づきつつ声をかけることはなく、野伏はただ、入日のかなしい赤に背を向けて北東を見つめ続ける。
あれは裂け谷のある方角。
闇の森のある方角。
ロスロリアンのある方角。
彼を育み、彼を愛し、彼を「希望」と呼ぶ美しい人たちの、遠い、遠い……遠い故郷。
思い出す。
星宿す瞳の夕星の姫を――そっと彼の手に手を添えてただ、夢見るように彼を見つめるあの微笑を、思い出す。
『とこしえに待ちます、エステル』
囁かれたエルフの言葉。
『わたくしは知っています、あなたは闇を払い、この中つ国に、そしてわたくしとあなたの運命の上に光をもたらすお方なのだということを。ですから、わたくしも何も畏れることなく、待ち続けることができるのです』
共に歩いた庭園の光、さらりと鳴る絹糸の黒髪、音楽のように鈴振る声、見つめ交わしてそっと伏せられる長い睫毛。
『わたしは知っているよ、アラゴルン』
脳裏に滑り込む別の声。
『あなたがあなたである限り、何の心配もいらないのだということを。
 どこにあってもあなたであり続ければいい、どこにあっても、何があろうとも、そうすればあなたはすべてを達成するに違いないのだから!』
揺るぎなく笑う友のかろやかな肢体、樹を駆け渡る闊達な笑声、振り返った時に揺れた金の髪。
彼を迎えてくれる優しい人たち。
彼が誰よりもいとしむ人たち。
遠い、遠い、遠い……そして、彼が何十年後に戻ろうとも、その瞳の端に皺一つ増えぬ、美しい、永遠の、
……それは、彼とはあまりにも違う生物。


鳥が天を、切り裂くように啼いて飛んでいく。
はっと視線を入日へ向けると、燃え立つ真紅の中に飛び込むかに見える、白の一点。
群れからはぐれたか、ひとり、きしきしと哭いて、高く低く真っ直ぐに、入日へ消える白の一点。
行かなければ、と思い出す。
港へと赴き、ベルファラスの民の動向を探るのが彼の目的だった。
ふらり、と疲れたその足を踏み出した時、
「だめ!」
甲高い少女の声がぴしりと彼を打ち据えて、思わず彼は、びくり、と踏み出した一歩を引いた。
「だめよう、お花をふんじゃ!」
今にも転げそうに駆け寄ってくる、まだ5歳になったかどうかという年の頃の、幼い少女。言われて足下に視線を向ける。
一輪の白い、可憐な花が、葉を彼に踏まれて折れそうにたわんでいた。
「ああ……すまないね」
少女に生真面目に、謝罪の意を込めて深く一礼をし、それから片膝をついてかがみ、踏んでしまった花を調べる。
彼の知らない花だった。
ここは遠い異国。北の森とは花さえ違う。
土をそっと据え直す手の中で、揺れる可憐な花に、ふと、残してきた女性のことを想う。
彼が愛してしまった女性。
彼を愛してしまった女性。
そのあまりに過酷な運命を想えば、彼女はまさしく、こうして人の足にたやすく踏まれるはかなさにありながら、凛とこうべをあげて空を見上げる、この一輪の可憐な花そのものだ。
そっと手の中につつんで癒しの想いを送り込む。
瞳を閉じると頬にやわらかい物が触れた。
瞳を開いても、視界がぼやけて判然としない。
「ないてるの? あたしがおこったからないちゃった?」
心配そうに、その白い、苦労知らずのやわらかい手で、汚れた野伏の頬に触れている幼い少女。
「……ちがうよ」
ゆっくりとまたたくと、涙が顎をつたって花弁へ落ちる。
「どこかいたいの?」
指で少女は懸命に、こぼれおちる涙を拭い続ける。
「そうだね……」
人は悲歎では死なぬのに。
どうしてこれほど胸が痛いのか。
「あたし、かあさまよんでくるね!」
あわてて立ち上がった少女をぼんやりと見送り、だが、野伏もまた立ち上がる。
「そこにいてね!」
「ありがとう、そうするよ」
転げ行く少女の背中を見守って、だが、その小さな姿が消えるとひとり、野伏は河口の方角へ歩きはじめた。
得体の知れぬ男とかかわりなどすればきっと、あの子の母はひどくあの子を叱るだろう。
花の見せた幻とでも、思われてしまえるならそれが良い。
野伏はフードを深くおろし、ゆらゆらと川のほとりを歩く。東より昇る満月に背を向け、長いひとりきりの影を見つめながら。
その瞳から、ぱたり、ぱたりと時折、止まらぬ涙を落としながら。