『月』




『つらいのかい、アラゴルン?』


覗き込んでくる瞳は、どこまでも明るくて深い緑葉の色。
その腕をすがるように捕らえて引き寄せたのは、ただ、何かに助けて欲しかったからだけだったのだろうか。
『つらいのかい……?』
なだめるようにさすられる背。そのあたたかさを思い出す。
何かの重さに耐えられなくなった時に、闇の森を訪れたなら必ず、瑞々しいかの緑葉が彼を笑って迎えてくれた。
いつまでもそこにいたかった。そこで朽ち果ててしまいたかった。黒い川の底に埋もれるように、彼の肩によりかかって眠ったまま、死ねてしまえたらどんなに楽だろう。
だが中つ国のすべての人の子の民への愛が、かつて己の祖の犯した過ちが、そして、エルフの宝たる女性と、その父と交わした約束が、彼が眠りに就くことを決して許さない。
『エルロンド卿はあなたが好きなのだね、アラゴルン』
まるで人肌のぬくもりであれば何でも良いかのように、ただ、きつく己を抱きしめるやせこけた野伏を、あやすように撫でてレゴラスは笑う。
『だって、少なくとも、約束を果たせばアルウェンと結婚させてくれると言ってくれたのだし、その約束だって、もともと、あなたがいつかは果たさなければいけないことだ。
 がんばって、と言ってくれているようなものじゃないか、ねえ!』
どうしてこうもこのエルフは前向きなのだろう、と胸に何かがこみあげて言葉を喪い、野伏は王子を抱きしめて森の香に溺れる。
エルフにとってはまたたくまに成長して青年となった、この野伏を抱いて傍らに寄り伏し、レゴラスはやさしく額にくちづけた。
『いいよ、いいよ、忘れていきなさい、この森の水を飲んだと思って、葡萄酒の香に酔ったのだと思って、月の光にあてられたのだと思って。
 わたしだって、あなたがあれこれと思い悩むより、わたしのことだけ考えるか、月に照らされて寝てしまうか、どちらかの方が嬉しいのだもの!』


樹上に作られた小さな小さな隠れ家で。
一度、ただ一度だけ、吐いてしまった弱音を、聞いて共に寝てくれた彼の終生の友。
人の子の王国が興り、そして亡びても。
森のすべての樹が、代替わりを果たしても。
ただゆるやかに、おだやかに、その姿瑞々しき緑葉は。
不変に、不枯に、エルフたちの間で生きていくのだろう。
けれどもこの、みすぼらしきこの野伏は、……


いつのまにか、波の音がはっきりと聞こえていることに、彼は気づいた。
家々の狭間の裏路地をすり抜けた次の瞬間、
野伏の目の前には、


波涛。


立ち尽くす。
背を冷たく撫でる月の光。
耳を打ちつける波の音。
そして見渡す限りの、墨を流したような漆黒の、月光の金糸を振りまいた、それが、海。


野伏はとりつかれたように走った。
周囲に人の姿はない。あったとしても彼は気づかなかっただろう。
防砂林を駆け下り、固い地面とは違う砂原の感触に足をもつれさせ、ぶざまに倒れ込む。
砂にまみれた顔を上げ、茫然と、ただ、海を見た。
これが海。
すべてのエルフをこよない憧憬へ駆り立てる、
これが海……


『すべてのエルフが同じ源へとたどりつくように』


「……ぁ、」
新たな涙が頬を伝って砂を押し流す。
「あ、あ……」
哭泣の声は高くなり、手はぎりぎりと砂を握りしめた。
そして爆発した
「ああああああぁぁっ!」
波涛の音に、号泣の声はかき消される。


すべてのエルフが同じ源へ。
美しき人たちは西方の永遠へ。
では、
わたしは、


……わたしは、どこへ?


いとしい、いとしい、美しい人たち。
傷つきやすく、もろくやさしく、そして強く気高く、神に愛された上古の種族。
彼が愛し、
彼を愛し、
共に在りたかった、
いつまでも傍にいたかった、
大切なひとたち。


ああどうして、
わたしはエルフではないのだろう……?
ああどうして、
わたしはあの人たちと共に行くことができないのだろう……?


……ついていっては、いけないのだろう……?


その時、
アラソルンの子アラゴルンは確信した。
かつて天罰を受けしヌメノールの民は、決して、エルフの不死を妬むばかりに、アマンの地を侵そうとしたのではないということを。
なぜなら、
この悲しみに裂かれる己の身の中にも、ヌメノールの血は確かに流れているのだから。
アラゴルン自身と共に、ヌメノールの血もまた……
エルフと共に永劫を在ることのできぬ己を悲み、軋み、こうして哭泣しているのだから。


悲泣の声に喉を裂き続けるその痩せた背を、
天空の月だけがただ、冷たき光を投げかけて見守っていた……