あなたの歌
黄金の葉のはたりはたりと落ちゆく森の中を、ボロミアはひとりさまよっていた。
武装を解いたのは失敗だった。服を剥がれたようで、彼は不安だった。少し小奇麗な身なりになれたところで、それがいかほどの役に立つものか。彼は、人の間では美丈夫と騒がれるべき容姿の持ち主であったが、この森においてそんなものは意味を為さない。
この森は何もかもが美しすぎる。
ボロミアの脳裏から、蒼く発光するあの貴婦人の瞳が灼きついて離れない。欲望に手を伸ばせと囁くあの声。わかっている。あれが試練だということは。だが、あの冷たい蒼に、脳天から爪先まで貫き通された不快感と恐怖は、未だ、拭いきれるものではなかった。
エルフ語の弔歌は続いている。
――悲しみが増すから。
そう言って、歌の訳を拒んだエルフのことを、ボロミアはふと思い出した。あの線の細い、だが恐るべき弓の腕を持つエルフは、ガラズリムたちの歌うこの歌を聴き、意味を理解し、ひとり溜め込んで表面上は飄々と、今日も森をさまよっているだろう。彼は森のエルフだ。この地は、彼にとっては安らぎの地であるらしかった。
眠らない、食べない、休まない、雪に沈まない、泣かない……
(不可解だ)
実際には眠りもし、食べもし、休みもしているのだが、2・3日せずとも平気だと言いきられると、
(化物か)
その想いだけが強くなって嫌悪感さえ募ってきた。
「クソッ」
声に出してつぶやき、落ちてきた葉をぱしりと捕らえて握りしめると、
「お見事」
頭上から明るい声がかかって思わず身構えた。
見上げれば、樹と樹の狭間にかけられた梯子に腰掛けて、数人のエルフがこちらを見下ろしている。その中にすっかり溶け込んだ、馴染みのある顔を見つけてボロミアは目礼した。
「どうにも落ち着かないようですね、ボロミア! 森は好きではないのですか」
エルフは己の身長の2倍以上の高さを持つその梯子から、いともたやすく飛び降りてやんわりと着地した。金の髪が揺れ、一瞬視界を奪う。
「……レゴラス殿。ずっと見ておられましたのか」
ボロミアがわずかに眉を寄せると、レゴラスは無邪気なほど簡単に頷いた。
「いつ気づいてくれるかと待っていたのだけれどもね。あなたは眉間に皺を寄せてちっとも気づいてくれやしない。
人間は寝る時間なのに、どうして我ら森のエルフのように、樹下をさすらったりなさってるんです?」
「わたくしとて、ひとりになりたい時はあるものです」
暗にボロミアは、放っておいてくれと言ったつもりだった。だがレゴラスはそれに気づく様子もない。
「そうですね、たしかにひとりになりたい時はわたしにもある。だが悲しいかな、この歌がわたしの胸を締めつけて離さない!」
「……何を歌っているかは、教えていただけないんでしたな?」
ボロミアは顔を上げた。夜通し続くこの弔歌。視線を追うように仲間を見上げたレゴラスは、彼にはわからぬ言葉でふたことみこと、樹上へと呼びかけた。見下ろすエルフたちが同情するように首を振ったり、眉を寄せたりしたのがボロミアには見えた。そして、それを見上げる闇の森の王子の顔にうっすらと悲嘆の翳が浮かびかけて消える。
「ですが……」
レゴラスは首を振って笑った。
「エルフにとって歌は呼吸であり食物。歌うなと、この森の人たちに言うわけにもいきませんしね。あなたは歌は好きですか、ボロミア?」
数人のエルフが、レゴラスと同じようにスタッ、スタッと地上に飛び降りてくる。ボロミアはたちまち、こわいほどに美しい生物に半ば包囲されてしまった。
「……嫌いではありませぬが……」
何となく、眼前の屈託ないエルフのペースに巻き込まれて口篭もる。
「が?」
覗き込んでくるエルフから視線を逸らし、
「……少なくとも、意味もわからぬ歌はあまり好みはいたしませぬ」
ゴンドールの言葉を知る者がいるのだろう。レゴラスの後ろに立つエルフが眉をひそめる。
だが、
「なるほど、それはそうかもしれない」
あっさりとレゴラスは頷いて、背後のエルフたちを振り返った。
歌のように美しい言語がそこから流れ出し、最後にエルフ一の弓士は尋ねるように彼らに首を傾げる。
クスクスと笑いが起こり、ひとりが早口に何かを言って手近な樹へと駆け去っていった。
「彼らは何と?」
次々に駆け去っていくエルフたちを、黙って見送っているレゴラスに、ボロミアは尋ねる。
レゴラスが答える前に、最後まで残ったひとりのエルフが、やや癖のある共通語でものやわらかに答えた。
「緑葉の王子は、誰かゴンドールの歌を知らないか、と我らに問われた。
我らは、未熟な人の子の、意味もわからぬ歌は知らぬ、と答えた」
カッと赤くなったボロミアを置いて笑いながら最後のひとりも去り、後にはレゴラスとボロミアだけが残された。
(これがエルフか)
怒りと恥辱に目眩を感じる。
(ゴンドールの執政の子が。こんな目に遭って黙っていて良いのか)
確かに、彼らエルフに比べれば、人の子など未熟な獣同然に見えて仕方がないかもしれない。イシルドゥアの禍のこともあるだろう。
だが、
(――どいつも、こいつも馬鹿にしおって!)
己でも不思議なほどたぎる負の感情を目の前のエルフに叩きつけようと、向き直ったボロミアはあっけにとられた。
「わたしも知らないなぁ」
至極真面目に悩んでいる様子のレゴラスは、いつのまにか、己の短弓を携えて何やら熱心に、立ったまま弦を器用に張り替えている。
「……レゴラス、殿。一体何を? 戦でもされるおつもりか?」
尋ねてみても聞き入れもせず、ビン、と弓を弾いてみてひとり頷いている。
「わたしのように長く生きた者でも、エルフの言葉が聞こえない地にずっといると淋しく感じるのだもの。
あなたはわたしよりずっと、今、淋しい想いをしているのでしょうね」
腰のポーチから何か、馬の毛の束のようなものを引き抜いて、レゴラスは足下から、一本の湾曲した小枝を拾い上げた。
馬の毛の束をそれに張って、結果的に大小の弓を作り上げ、ボロミアを見てにっこりと笑う。
「一度聴けばきっと覚えるとおもうんですよ。
ちょっと歌ってください、わたしが伴奏をしてあげるから」
「……はぁぁぁぁ!?」
後ずさるボロミアに、心外げにつめよってレゴラスは大小の弓を掲げてみせる。
「闇の森のエルフはみな宴会好きでね、戦いの時にだって、楽器や酒をこっそり持ち込む術に長けているんです。
自慢じゃないけど、わたしはそういうのはうまいんだから」
「そ……そうでしょうな、たしかに」
ボロミアはようやく、この凄腕の弓士にかなり、世の中をなめた――ある意味、一本ネジの飛んだ――部分があることに気づきはじめていた。
「だから、歌ってください、次からはわたしが覚えて歌ってあげるから。
ゴンドールの歌を覚えられるなんて、素敵だ」
「ステキ!?」
馬鹿にしているのかと顔を見直すが、彼は真剣そのものである。
「素敵ですよ?」
馬の毛の弓で、本物の弓をツィン、と軽くこするとひどくやわらかい音がした。
その音そのままのようなやわらかい声で、笑いながら闇の森の王子は言う。
「だってあなたとアラゴルンの故郷なんでしょう?」
「……は、」
気が抜けてその場に座り込みそうになるのを、こらえて顔に片手を当てる。
何もかも優れたエルフの国へ、ゴンドールを代表して赴いたまでは良かったけれども。
(こんな台詞ひとつ…)
こんな台詞ひとつを。
誰かに言ってほしかったのだと、思い知る。
苦悩する父デネソールを知り。戦いに疲弊する民を知り。背に盾は背負い、胸に角笛はかけ、誇らしげに立ってみても、……エルフの姿はあまりに気高くて。
己の国を、いつのまにか、己で誇れなくなっていたのかもしれない、そんな時に。
「……ははは、」
随分と久しぶりに、ボロミアは笑った。笑って、ひどく自然にレゴラスへと手を伸ばした。
不思議そうに見返すその頬に手を触れ、するりと撫でる。
「わたくしは歌は苦手でしてな、エルフの王子。ゴンドールの歌は、あなたがわたくしと共にミナス・ティリスの輝く塔を見た時に、わたくしの弟に教えてもらえば良い。
あなたの口から出る歌なら、エルフの物でもさほど淋しくもなく聴けるでしょう、今は、あなたの歌を聴かせてはもらえませぬか」
……歌でなくても、とにかく聴きたい。
当たり前の一言で、当たり前のことを思い出させてくれたこの声を。
「私はボロミアの歌が聴きたいんだが」
「!!??」
背後に不意に声をかけられ、ボロミアはとっさにレゴラスの肩を引き寄せながら振り返った。
何となく、面白くなさそうな顔のアラゴルンが、ボロミアの目の前に立っている。
「……アラゴルン、いつから聞いて――」
「「かなり前から」」
レゴラスとアラゴルンの答えは同時だった。
さぁ、とボロミアの顔面から血の気が引いていく。
アラゴルンは微妙にいかがわしげな笑みをニヤリと浮かべた。
「さぁ、ゴンドールの子よ、デネソールの秘蔵っ子よ、聴かせてもらおうじゃないか。故郷懐かしいゴンドールの歌を、存分に――いや、その前に、」
アラゴルンは、レゴラスを引き寄せたままのボロミアに近づきその耳元に、ひどく低い声で囁きかける。
「そのエルフは私のだぞ」
パッ、と反射的にレゴラスから手を離したボロミアに愛想よくにっこりと笑いかけ、アラゴルンは不思議そうにふたりを見比べるレゴラスの手を引いて、その場に座り込む。
「さぁ、聞き耳も覗き目も気にせずにやろうじゃないか。闇の森の宴会上手がせっかくこうしているんだから。悲しみを振り払う歌を、ひとつ歌ってもらえるかね、ボロミア君」
「できれば少しゆっくり、しっかりと歌ってもらえると嬉しいなぁ、わたしが一回で覚えられるように!」
本当に歌が好きなのだろう。キュンキュンと弓を鳴らしながら、レゴラスもまた、おとなしくアラゴルンの隣に座る。だがボロミアは、その瞬間のアラゴルンの顔を見てしまった。
確信する。
彼がとっさに、レゴラスを己の膝の上に座らせようとしかけて思いとどまったことを。
「アラゴルン……世が世なら王たるお方が、それはどうかとわたくしは思いまするが」
座りながらこそりと耳打ちをすると、しれっとした返答が戻ってきた。
「綺麗なものを、できるだけ近くで見たいと思うのは自然の理だ」
そしてニヤニヤ笑いのまま、ボロミアの肩をどんと押す。
「さぁ、次期執政どの! その咽喉を是非披露していただこうか!」
しばらくもめにもめた一行の中から、ややあって調子っ外れの歌声らしきものが細々と聞こえてきた。エルフたちはクスクスと笑い合ったが、大喜びでレゴラスとアラゴルンが、同じ調子で歌いはじめると驚きに顔を見合わせた。樹から転がり落ちたものさえいたほどである。
やがてボロミアは吹っ切れた様子で、アラゴルンの持ってきた酒を呑み、多いに歌い、騒ぎ、そして笑い合った。騒ぎを聞きつけたホビットたちとドワーフが、どこから探し出してきたものやら、無数の食料を抱えて駆けつけた。
お世辞にも上品とは言えない、だが心からの宴は、エルフひとり、人間ふたり、ドワーフひとり、ホビット4人という、誠に奇妙な取り合わせで、エルフの森の中で続けられた。