もうひとりの父親
|
|
「レゴラス様」 「喋ると体力を使うよ」 「真剣に痛いんですが」 「そんなことわかってる」 「……マンドスの館に――」 「だめだ!」 「なぜですか。もういい加減、我慢できませんよ」 「だってわたしはまだまだ皆と一緒にいたいんだもの!」 「……困った王子ですな。いいですよ、もう少し耐え忍びましょう…… 裂け谷は……まだですか?」 エルロンドの足取りは、かろうじて走ってはいなかったが、それでも、並みの人間なら走っても追いつけないとは思われた。衣擦れの音が激しく空気を震わせ、その後ろを、治療の道具を抱えた双子がぴったりと控えて同じように廊下を急いでいた。 陽気なエルフたちも、心なしか殺気立って館の中を走りまわり、使者とそれに従う者を迎える準備を整えている。 「エルロンド様、闇の森の使者が参られました!」 「通せ! 怪我人は大広間だ!」 言い捨てるが早いか、エルロンドの歩調はさらに速さを増した。とうとう背後の双子たちも、ついていくのに小走りになった。 ばん! と使者を通す謁見の間に飛び込み、エルロンドは使者の姿を見て立ち尽くす。 「……レゴラス、」 「エルロンド卿!」 跪いて待っていた、黒い血に塗装された軽騎士が顔を上げ、そして……一瞬、くっ、と口元をへの字に曲げた。泣くことを耐える子供のように。 とっさに駆け寄ろうとする衝動を抑え、「立ちなさい」とおだやかな声をかけて正面の椅子に座る。双子が両脇に立ち、エルロンドの合図で従者が腰掛けを持ってきた。 エルロンドはそれを己のすぐ傍らに置かせ、立ち上がるとレゴラスの傍らに歩み寄る。 砕けた肩当てを押さえて立ち上がったレゴラスは、畏れるように一歩下がって言った。 「怪我人がとても多いのです、エルロンド卿、どうか、彼らを、」 「レゴラス、スランドゥイル王の勇敢な子よ、落ち着きなさい。今このふたりを行かせるから、そなたはわたしに事の次第を説明しては貰えまいか」 「あ、血が、」 レゴラスが避ける前に、エルロンドは闇の者の血に汚れたエルフを抱えるように捕らえ、手を引いて腰掛へと従えた。 有無を言わせず座らせ、背後を振り返り頷くと、彼の双子は頷き返す暇も惜しんで飛び出していく。 砕けた肩当てをそっとその肩から取り外し、その下の傷が浅いことを確認して、エルロンドははじめて、ふ、と息をついてからだの力を抜いた。 「さて……レゴラス、まずは、そなたの無事を喜ばせてもらえるか? そして、そなたが無事だということは、そなたが近しく護ったお父上もきっと、ご無事なのだろう」 エルロンドは、先行した裂け谷の者や、鷲の一族の者によって、スランドゥイル王の無事をすでに知っていた。そうでなかったら、このような物言いはしない。 レゴラスは少し口元をほころばせて、「父も無事、森へと」とやわらかく言葉を返した。 「でも、掃討戦に移る余力がなく、かなりの数のゴブリンを逃しました。力足らず、申し訳ありません」 「五軍入り交じっての戦いだったとか。人の子やドワーフの子を護って戦ったのだろう。気に病むことはない、闇の森の軍勢の強さは、わたしもよく知っている」 少し黙ってからエルロンドは、傍らに腰掛けているレゴラスの、半ばごわついた髪を厭わず撫でた。 「……多く死者の出た戦いだったとか」 「激しい戦でしたから……」 撫でられながらレゴラスはそれだけをぽつりと言った。 はなれ山に竜の溜め込んだ財宝を巡って、ドワーフとエルフ・人間が今にも戦に陥らんとしている――その報せを、この王子よりひそかに受けたのは、つい数日前のことだった。それがあれよあれよという間に、ゴブリンと闇の獣の大軍と、ドワーフ・エルフ・人間の連合軍との戦いに発展し、グワイヒアの一族によって劣勢を救われて勝利を得た……エルフの王子はその報せを携え、怪我人を伴って力を借りに、この裂け谷までやって来たのである。 「闇の森にも癒しの力に優れた者を派遣しよう。ロリアンにも先ほど使者を走らせた」 「ああ、それは助かります、エルロンド卿」 心底ほっとしたような声のレゴラスは、蒼ざめた顔のまま、両手でエルロンドの手を押し戴き、手の甲にくちづけて彼を見上げた。 その瞳にうかがえる尊崇に、エルロンドは嬉しさとものさびしさの入り交じる微笑を返す。 この瑞々しいエルフと、同じ年代に生まれていたら。そんな一瞬浮かんだ仮定を振り払い、彼が口に出して言ったのはこの言葉だけであった。 「……そなたの一族の者を、わたしが疎遠に扱うはずがなかろう」 たとえスランドゥイル王が今一つわたしを気に入っていなかろうとも、とエルロンドは己の心にのみつぶやいた。 「それよりそなた、……」 言いかけてエルロンドは、荒く開かれた扉に視線を向けながら、そっと手を引っ込めた。扉の向こうには荒い息のエルラダンが立ち尽くしており、 「父上、どうか、」 その一言だけでエルロンドは立ち上がり、だが、一瞬ためらった。 彼は、はじめての大戦に明らかに動転している――周囲も本人も気づいてはいないけれども――この闇の森の王子に、言葉をかけていてやりたかったのだ。だが、 「エルラダン、皆は? 助かるのかい?」 すでにレゴラスは幼なじみの元へと駆けてしまっており、エルラダンは「大丈夫だから」と答えながらも救いを求めるように父の顔を見る。思ったより、運ばれた兵たちの怪我の具合はひどいらしい。 「レゴラス、わたしも手伝うから安心しなさい。そなたはまず、鎧を脱いで、湯浴みをして、客室へ赴いて、怪我人たちが一段落するまで、わたしの元に滞在するという手紙を父上にしたためるのだ」 「けど、わたしも何か手伝い――」 「邪魔」 エルラダンがあっさりと言う。言ってから、固まるレゴラスににこりと笑ってみせた。 「わたしたちが、怪我人の手当で疲れきって倒れたら、今度はそれを看病してくれる人がいないとだめじゃないか。その時に、レゴラスには充分働いてもらうよ」 エルラダンはぽん、とレゴラスの頭を叩き、それから侍女たちに向けて突き飛ばすと再び、大広間の方に駆けていった。 侍女たちに引きずって湯屋に連れて行かれながら、レゴラスは何度もエルロンドを振り返る。エルロンドはそれを見送ってやってから、邪魔なローブを脱ぎ捨て、動きやすい服装になって大広間へと歩き出した。 |