もうひとりの父親





「わたしひとりだけ先に綺麗になってしまって、すまないねぇ」
「そんな、ただでさえ王の子とはとても思えない根性してるんですから、せめて外見だけでも王子らしく綺麗にしてないと、どっかの悪戯小僧と間違えられて追い出されますよ、レゴラス様じゃ」
「……否定できないのが何ともつらいよ」
「わたしらも、否定してさしあげられず残念です」
「どう、痛みは少しは消えたかい?」
「おかげさまで。レゴラス様のお顔を拝見したら痛みも吹っ飛びます」
「またふらふら勝手に遊びに行かないよう、一刻も早く治って監視しなければ、って?」
「おや、よくわかりましたな」
「だと思ったよ。早く治らないと、今度はモルドールまで物見遊山に行ってしまうからね、わたしは!」
「善処しましょう。モルドールにまで迷惑をかけてはたまらない」


大広間に寝かされた部下たちの間を歩きながら、レゴラスはひとりひとりに声をかけてまわっている。エルロンド卿は戸口に寄りかかって立ち、じっとそれを見つめていた。
「レゴラス、戻っておいで、そろそろゆっくり話を聞きたい」
やわらかく声をかけると、レゴラスは驚いたようにエルロンドの方を振り向いた。やはり、気づいていなかったらしい。
(部下のことで気が張っているな)
このエルフはリラックスしている方が、人の気配に敏感なのだ。
「あ、今行きます、エルロンド卿!」
ごろごろ大広間に転がった部下たちの間を、レゴラスはひょいひょいと飛びぬけてエルロンドの元にやってくる。
この王子が、ゴブリンの毒や傷に苦しむエルフたちを、王から兵を強引に借りてこの裂け谷まで連れてきたのだと、怪我人たちはエルロンドに語った。
宝石数個鷲掴みにし、許可も得ずに「一番たくさんゴブリンを殺したのはわたしなのだから、これをください」と言うが早いか王の下を飛び出し、人間にそれを押しつけて大量の馬と人を借り、裂け谷の近くまで輸送させ、そして、本人も三人の怪我人を一気に担ぎ上げて山脈を越え、峠をくだり、この地まで辿り着いたのだという。
相変わらずわけのわからない行動力に満ちた王子だと、だが、エルフたちは嬉しそうに、親しみを込めて彼のことを語っていた。彼の王子の言葉なくば、彼らはとっくの昔に、痛みに耐えかねてマンドスの館へと逃げ込んでいただろう、と。
(王にはなれんな、末の子では)
だがもしかしたら、このような変わり者の王子こそが、闇の森より広く飛び出し、人の口に長く謳われて中つ国の伝説となるのかもしれない。
「おいで、レゴラス。少し外の空気を吸おう」
手をいとも自然にとって引き、エルロンドは庭園へとゆっくりと踏み出した。
外は半月もはや西に傾く真夜中。今はかろやかなベージュのチュニックと緑のパンツに身を包まれたレゴラスは、エルロンドの手を軽く握って後をついてくる。
館から死角になったベンチに腰掛け、隣にレゴラスを座らせてエルロンドはその顔を覗き込んだ。
「何からお話したら良いでしょう、とてもたくさんのことがいっぺんに起こったもので!」
薄い色の瞳を瞬き、レゴラスはそう言って首を傾げる。その頬を両手で包み込み、エルロンドは軽く撫でた。
「……エルロンド卿?」
「あのように大きな戦は、はじめてだったのだろう、レゴラス?」
「え? ……ええ、それは、」
「あのように多くの死者を見たのも」
何か言いかけてレゴラスは視線をさまよわせた。
いたわるようにその髪を撫で、頬を撫で、肩を撫で、エルロンドはうつむいたレゴラスに声をかけつづける。
「目を見張るような働きだったとか。闇の森一の勇士の名にふさわしいような。
 ……だがレゴラス、わたしがそなたとそなたの一族を褒めたいのは別のことだ」
おずおずと顔が上がり、エルロンドを緑葉の瞳が見つめる。
「人の子に助けを求められてためらわず力を貸し、ゴブリンの大軍にあたって撤退もできように、馴染みでもないドワーフを護って勇敢に戦い、多くの死者を出したことに恨みの言葉を吐きもせず、すみやかに森へと退いた。わたしにはそれが誇らしかった」
緑葉の瞳に見る見るうちに涙がたまり、ふたたび顔は伏せられる。
「そしてそなたは、こうして怪我人をひとりでも助けようと、闇の返り血を落しもせずに、この裂け谷までわたしを頼って落ち延びてくれた。わたしにはそれが、とても……嬉しかったのだ。
 わたしの名を忘れずいてくれたということが」


うつむいたままのレゴラスをそっと抱き寄せ、抱きしめてエルロンドはその背を叩く。
「怖かっただろう、悲しかっただろう……悔しかっただろう。
 レゴラス、そなたの一族は我らエルフの誇りだ。西はるかの光を見ようと見まいと。そなたの一族を語る時、わたしは誇りに満ちて語るだろう」


「……でも、」
手探りに、すがるように背に手を回して涙声のレゴラスは答える。
「でも、父は、……父は、最初は、やっぱり宝石めあてで、……もしかしたら、ゴブリンと戦ったのも、……やっぱり……」
「レゴラス」
「何とかこの阿呆くさい戦いを止めては貰えませんか」と、ひそかに使者を裂け谷に寄越したレゴラスの苦悩を、エルロンドは垣間見た様な気がした。
「そなたはわたしの誇りであり、スランドゥイル王は、そんなそなたの父親なのだ。
 彼がそんなお人ではないということは、そなたを見ればわかるのだよ」
傍に在ると偉大さが伝わらないものだ。スランドゥイルは、どれほど宝石に目がないとはいってもやはり、エルフの一国を束ねる王にふさわしい者ではある。
エルロンドは、その末の王子の背を撫で続けて言った。


「一握りの石ころなどのために、そなたの部下たちは、そなたの父の民たちは亡くなったのではない。
 やさしくけだかいとのエルフへの評を、オークを宿敵とするエルフの決意を、護るために亡くなったのだ。
 ……いつかマンドスの館にて再会した時に、そう言って、誇る日が来るかと思えば、何と楽しみなことではないか?」


レゴラスの肩が大きく震え、エルロンドのローブの肩は濡れる。
声を殺してむせび泣くレゴラスを、あくまでゆるやかに、だがしっかりと抱き留めてエルロンドは瞳を閉じた。
まるで父親のようなことをやっている、そう思って少し苦笑する。
この王子の父親であるスランドゥイル王は、この王子を愛してはいたが、父親のように振舞うことはなかった。スランドゥイルは時に、戯れにこの王子に暴君の如く振る舞い、時に、年の離れた友であり、また時に、年下の従者を寵愛する恋人のようでもあった。
レゴラスはむしろ「父」の姿をエルロンドに見ていたと言える。
(……そう求められるのならば、そう振舞ってやるのが、わたしの務めではないか?)
それはこの王子の成人前より、彼をいつくしんできたエルロンドなりの妥協であった。


「母上」
ひとりの少年が館の廊下を駆けて母の部屋へと飛び込む。
「どうしたのですエステル」
「泣いている人がいました」
年のころは10歳前後か。腰掛けて、灯りの元で書物を開いていた母の、その傍らに膝をついて座る。
母ギルラインは本を閉じ、やさしくエステルの顔を覗き込んだ。
「それであなたはどうしてさしあげたのです」
「エルロンド卿がご一緒だったので、そのまま戻ってきました。わたしまで泣きたくなるような、悲しいお声で泣いてらっしゃいました」
「エルロンド卿は強き癒し手です。きっとその方のお心も癒してくださることでしょう。
 その方はきっと、五軍の戦いに出ていらしたエルフです」
「五軍?」
「先日、小さい人とミスランディアに率いられたドワーフの一団が、訪ねてらっしゃいましたね?
 その方たちや、人間や、エルフと、ゴブリンの間に戦いが起こったのです。
 たくさん死者を出した戦いだとわたくしはお聞きしました」
「エルフは死にませんね?」
不思議そうに少年は首をかしげる。
「いいえ、エルフの戦士もその御身は死を迎えるのです。ただエルフは遠い時の果てに、マンドスの館で再会することができるのですよ。だからと言って、同胞の苦痛はその方の悲嘆をやわらげるものではなかったのでしょう」
「おかわいそうです」
「そうですね、おかわいそう」
「明日お逢いしたら、わたしもその方をお慰めします」
「エステル、優しい子」
未だ幼い息子への誇りに胸をつまらせ、そっとギルラインは子を抱きしめる。
「あなたがその名の通り、その方にとっての希望となりますように」
少年は母の腕の中で心地よさそうに瞳を閉じ、明日の朝は、悲嘆に沈む美しいエルフに捧げるための、花を摘むために早起きをしよう、そう心に決めてひとりそっと微笑した。


むせび泣く緑葉の王子も、微笑む少年エステル――アラゴルンも、互いがこの先、200歳を数える友誼をはぐくむことになろうとは、未だ夢にも思わぬことなのであった。