王様と愛人と父王と
「……侵攻……、あのスランドゥイル王が!?」
エレスサール王の声はほとんど裏返る寸前までに高くなっていた。
それを丁重に無視して、イシリアンの大公は冷然と言い放つ。
「ご子息がおっしゃったのですから、間違いありますまい。3日後にはローハン領内に入られるとか。さすがエルフの進軍は速やかにして優雅なものです」
王はしばらく茫然としていたが、我に返ってがばりと玉座から立ち上がった。
「あの放蕩王子、今度は何をやらかした!」
「放蕩王子とやらがどなたのことかは存じませんが、レゴラス殿なら、逃亡しようと――」
「追え!」
「――との仰せだろうと思いましたので、イシリアンのエルフ総動員で捕縛し、王のご意向下るまではと、窓のない石造りの一室にミスリル鎖つきで幽閉いたしてございます」
「……そ、そうか」
発狂する前に出してやれよ、と、やや閉所恐怖症のきらいがある愛しい友のために、念を押してから王はしばし考え込み、玉座からファラミア公を手招いた。
一礼してから近づくファラミア公を、玉座のすぐ傍に呼んで小声で問う。
「で、ばれたのか」
「何がでしょう、我が君」
「早く言ってはくれぬか、心の準備はできている」
「具体的におっしゃっていただけませんと、何ともお答えしかねますな」
「……つまりだな、その……」
王は軽い咳払いの後に、言いにくそうにファラミアをちらりと見た。
「……その、レゴラスの『地位』のことだ」
「レゴラス殿はイシリアンのエルフの長です。もっとも、かのつむじ風の君の毎日の生活を見れば判明するとおり、これはかなり有名無実の地位ではありますが」
「……ファラミア、」
渋い表情の王を、ファラミアは片眉を上げて観察する。王とレゴラスの奇妙な関係を、対外的にどう言い繕うか、常に頭を痛めているファラミアにとっては、これぐらいの仕返しは当然あってしかるべき権利のうちに入る。
「いっそ思い切って、『第二夫人』とか『愛人』とかいう地位を作ってみたらどうだろうな?」などと能天気に言っていられるローハン王エオメルとは、ファラミアは責務の重さが違うのだ。
「王よ、お悩みのところ追い討ちをかけるようで誠に申し訳ないのですが、レゴラス殿のおっしゃることには、」
「……なんだろう、ファラミア」
かなり聞きたくなさそうに王は目元をゆがめる。ファラミアはさらりと言葉を続けた。
「きっととっくにばれているだろうから、今更心配するには及ばないよ、とのことでした」
「…………………ありがとう」
玉座に沈み、苦い顔で王は壮麗な彫刻の施された天井を見上げる。
「要するに、此方にはとうにばれているぞ、なめるなよ、という示威行動か……」
「今まで、ばれていないと王がお考えでおられたのが不思議なほどですな」
生真面目に指摘して、ファラミアは、どうなさいますか、と目線で王に問うた。
エレスサールは短く刈り込んだ己の顎鬚を、ざらざらとなでながらため息をつく。
「さて……あちらの王のご要望は、レゴラスを森へ返せと?」
「何も。ただ速やかにして静かに進軍しておいでです」
「相変わらず、宝石が絡まないと読みにくいお方だ」
「王か、かの君か、どちらかをお望みなのは明白かと思われますが」
「そうでもない、ファラミア」
苦く笑って王は軽く己の顔を撫で、その手をじっと見つめて考え込む。
ファラミアは、エレスサール王ほどにエルフを知っているわけではない。特に闇の森の王スランドゥイルとは、一面識もない。それゆえに彼は黙って、己の王を見守った。
「……つまり……愛人扱いが許せん、という理由で進軍をするというほど愚かな方ではなく、かといって、深慮遠謀を巡らせた結果、万全を期して進軍をするというほど計画的な方でもない。
わたしは試されているのだ。エルロンド卿の秘蔵っ子が、スランドゥイル王の秘蔵っ子をどう扱うか。おそらくそれを、かの王は狩でも楽しむかのように楽しんでおられるのではなかろうか」
「面倒なお方ですな」
ファラミアは一言で片づけてから、しみじみと言葉をつけたした。
「その面倒なお方から、あの王子が生まれたというのも奇跡の類に入ります」
「そのレゴラスだが、」
「森にお返しになりますか」
「あれはわたしが死ぬまではわたしのものなんだぞ」
「子供のようなことをおっしゃらないでください」
「……エルロンド卿を交わせたと思いきや、次はスランドゥイル王のおでましとは! どうしてわたしとレゴラスの恋路には、こう障害がつきまとったものか……」
「うるわしい恋愛譚を捏造するのは陛下のご勝手ですが、このままでは血気盛んなエオメル王がスランドゥイル王を迎え撃ってしまいますぞ」
かみ合わない会話は慣れている。そしてファラミアは、呑気に慨嘆するこの王が、その裏で深刻に現状を打破しようと思考を研ぎ澄ませていることを知っていた。くだらない会話はそのスパイスでしかない。
「レゴラスは、あの戦いの直後以来、森へは帰っておらぬ。たまには里帰りさせるべきであったか」
「森を避けておられるようです。王はそれを無理強いはなさいますまい。わたしが里帰りとやらを進言しても、喜んでお手元にお留めおいたでしょう」
それはたしかに、と言いかけて、おや、とエレスサールは眼をまたたき、ファラミアの実直にして沈着な顔を見上げた。
「レゴラスは森へ帰りたがらないのか?」
「この10年、何度かイシリアンの民が、レゴラスをふるさとの森へ返すようわたしに頼み込んで来ました。その度に話を切り出してはみたのですが、『いつかね』の一点張りで」
「……ふむ?」
眉を寄せてしばし考え込んだ王は、しかし、やがて吐息をついて軽く首を振り、「考えても仕方がない」と顔を上げた。
「悪いがゴンドールの平和のために、レゴラスには一時犠牲になってもらおう。本来なら、北のエルフの王に敬意を表してわたしが国境まで出向くべきかもしれないが……」
「ハラドの残党が、お気にかかられている」
「怪しい動きを見せていると、君から報告を受けたばかりだ。ゴンドールに例の残党が攻め入るなら、まず最初に攻撃を受けるのは君のイシリアンだろう。今、ミナス・ティリスをわたしが離れるわけにはいかぬよ。……正直レゴラスが抜けるのは痛いな」
「仕方がございません。南の備えを重視して北の愁いを放置するのも、おかしな話です」
明らかに、この手の騒ぎに慣れきっている……というか神経がすでに摩滅しているファラミアが、淡々と言って立ち上がる。
「レゴラス殿には、かのエルフ王の元に帰っていただくよう、わたしから要請いたします。何か王にご伝言は」
「ファラミア」
口元にわずかに笑みをはき、エレスサール王は立ち上がる。
「レゴラスは帰すのではない。
……赴かせるのだ」
その口元の笑みを見て、ファラミアは、北の火種がすでに、エルフの王と人の子の王を戦わせていることに気がついた。
「ねぇ、ファラミア」
「無理です」
「……まだ何も聞いていないのだけれども、わたし」
「何をおっしゃるか想像はついています。
『一生のお願いなんで、どうか黙って逃がしてもらえないかなぁ』
といったところですか。あなたは随分と長い一生をお持ちの割りに、『一生のお願い』が多すぎますね」
「…………こんな子供にまで見抜かれるわたしって、いったい……」
「それがあなたのあなたたるゆえんなのでしょうな。さ、コートをどうぞ、夕星王妃が旅を祝してお手づから織られた最高級品です。スランドゥイル王のめぐし子レゴラス殿」
「アルウェンの喜びに満ちた顔が目に浮かぶよ……ありがとう、イシリアンに住まうすべての民の父ファラミア大公殿下」
はたで聞いているエルフたちがうんざりするような、儀礼的な会話を交わしているのは、周囲をがっちりとエルフの勇士に囲まれて身支度を整えさせられているレゴラスと、傍らに抜き身の剣を横たえたままそれを見守るファラミアである。
イシリアンはじまって以来の厳戒体制をとって、見張られているのはたったひとり、不承不承コートの袖に腕を通し、凛々しく美しく飾られている緑葉の森の緑葉、レゴラス・グリーンリーフただひとりなのだった。
「随分と美々しく飾ってくれて嬉しいのだけれど、要するにこれはわたしが生きた献上品だという、たしかな証なのだよねぇ!」
大げさに慨嘆してみせるレゴラスを、キレイさっぱり無視してファラミアは、「出立の準備を」と周囲に声をかける。
「レゴラス様、差し入れ何がいいですか」
「とりあえずギムリ殿から伝言です。『緑葉の森の出口までは、自力で戻って来い』だそうで」
「ああ、あと夕星王妃が、『陛下のことはどうぞご心配なく』と直筆のお手紙を。これ、もらっていいですか?」
「あ、ずるいぞおまえ、抜け駆けだ!」
「……皆、少しはわたしに同情してもらえないものかなぁ……」
この上なく美しく飾られ、へろへろとさえない顔で、緑葉の王子は左右を護衛という名のお目付け役に囲まれ、ファラミアの前にしょんぼりと立った。
「わたしのことをかわいそうだと思ってくれているかい、ファラミア?」
「いえ、実はあまり……」
「……率直なご意見ありがとう、大公殿下……」
「実際、そう悲観したものでもないと思いますが」
そう言って、ファラミアは、光沢を含んだレゴラスのコートの左胸に手を伸ばした。
「なぁに?」
レゴラスが首を捻じ曲げて胸元を見る。そして小さく眼を見開いた。
レゴラスのコートの胸には、ゴンドールの輝ける王冠が刺繍されていた。
言葉を失ってファラミアを見る。
ファラミアは目元だけでちらりと笑った。
「つまり、あなたは王と王妃が、ゴンドールのものだと宣言しているいうことですよ」
「でも、」
「あなたはゴンドールの使者として、あなたの父の元に赴くのです。帰るのではなくてね。
あまり長く戻らぬようなら、折りを見て迎えに参りますので。ああ、もちろん、エルフ時間ではなく、人の子の時間での『長く』です」
「……待っているね?」
ファラミアの腕を一瞬きつく握ったレゴラスの、そのあまりの真摯さにファラミアは、冷静沈着たるその仮面の下で舌打ちをする。
どうやら彼は、北の果てのエルフ王という存在を、過小評価していたようだ。
この王子が、かなり真剣に、「自分はもう、エレスサール王の治世の間に戻ることはできないかもしれない」と考えていることを、ファラミアは悟ったのである。
「……ご安心めされよ」
そう言って袖から手を離させながら、ファラミアはすでに、彼を連れ戻す方策に想いを巡らせ、その眉間に皺を寄せていたのだった。
こうして、緑葉の森の緑葉は、スランドゥイル王がローハンの国境守備隊と睨み合う、かの浅瀬の近くの森まで大事に、大事に護送されたのである。